第43話「虚ろなる玉座の罠」
ザアアア……
かつてオードリーが激闘を繰り広げた高台。そこで生き残った篝火から漏れ出る光の筋の中で、塵が舞っていた。
砕かれた古き石の匂い。泥の刺激臭。そして、使い果たされた魔力が残す金属的な残滓。
それらが混然となり、グンダーの鼻腔を侵犯する。彼の紫紺の瞳――猫のように縦に裂けた瞳孔が、眼前の古代宮殿を射抜くように細められた。それは真剣そのものの眼差しであり、慎重に、かつ冷徹に細部を解剖していく視線だった。
「この場所がお気に召したようですね、グンダー殿」
広大な広間に響く、聞き覚えのある洗練された声。グンダーは顔を向けない。ひび割れた階段の先、宮殿の入り口を見据えたままだった。
「……ふん。貴様こそ、よく余がここにいると嗅ぎつけてきたな」
驚きもせず、彼は淡々と返す。
「役を演じずに会話ができる場所は、ここくらいしかありませんから」
カツン、カツン……
オードリーが歩み寄り、グンダーの隣で足を止めた。滝のように流れ落ちる漆黒の長髪が、白いマントの生地と鮮烈な対比を描く。その髪は刺繍の数センチ上で切り揃えられ、背中の『ヴォルフガルド帝国』の紋章を誇示するように露わにしていた。
「この場所の何が、それほどまでに貴方の興味を惹くのですか?」
グンダーは横目で彼女を一瞥した。鮮やかな紫と金の装飾が施された彼の清潔な外套は、オードリーの実用的な灰色の鎧とも、奈落の底に忘れ去られた薄汚い洞窟とも、あまりに不釣り合いなコントラストを生み出している。
「感じるか?貴様の『種』ならば気づくと思ったがな」
彼は再び前を向き、問いを無視して問いで返した。オードリーは目を細め、宮殿の入り口を支える岩の向こう側を見通そうとする。
「……異質な感覚です。グンダー殿から発せられる気配に、どこか似ているような」
「直感、か……ククッ」
グンダーは喉の奥で、微かな嘲笑を含んだ笑い声を漏らした。
「『感じる』とは、どういうことだと思いますか?」
「魔術の才ある者は、魔力の流れ(フロー)を水流のように知覚する。ここにはまだ、貴様とイングリッドが相手取った連中の腐ったエネルギーの残骸が漂っているからな」
彼は肩越しに視線を投げた。ヴェロニアの空間魔法が抉り取ったクレーター、そしてラグラムがオードリーの暴風によって叩きつけられた地点。女騎士もつられて振り返る。
「私の知覚は、その点においては鈍いものです」
「当然だ。貴様には魔術の才がない」
「では、なぜ私が『感じる』はずだと言うのです?私だけでなく、セヴァー嬢やハラー殿も。以前おっしゃっていた『聖刻』とは、一体……」
「そこが核心だ」
グンダーの唇が吊り上がり、鋭い牙が覗く。その笑みは愉悦に満ちていた。
「『聖痕』とは、特異な魔術の発現だ。凡俗な魔術師が数年かけて学ぶ術式を、生まれながらにしてその身に刻んでいる。血の継承か、あるいは単なる気まぐれな偶然か」
「セヴァー家の光の魔術のようなものですか」
「その通り。あれは血統形質、典型的な『聖痕』だ。だがな、イングリッドはその形質を持たずに生まれた」
彼の顔が伏せられ、その瞳に分析的な光が宿る。
「それでも、あの小娘は『聖刻』だ。貴様と同じようにな」
バッ
グンダーは左手を挙げ、人差し指をオードリーの胸元へ突きつけた。まるで罪を告発するかのように。
「『聖痕』は肉体に、血に属するものだ。だが『聖刻』は……この俗世の理ならざる力を扱う。貴様は己の力の源泉をここ『心臓』にあると思っているだろう」
彼は鎧の金属を指先で叩いた。
「間違いだ。その力は貴様に宿ってはいるが、そこで生まれたものではない。何者か――あるいはより高位の何かが、貴様を『相応しい』と断じたがゆえに与えられたものだ」
グンダーは手を下ろすと、後ずさりしながら、この忘れられた場所への入り口である天井の大穴の下へと移動し始めた。
「私が……相応しい、と?」
オードリーは呟き、右の籠手で胸を押さえた。グンダーに指されたその場所を確かめるように。
「その才のおかげでな」
遠ざかりながら、彼の声が反響する。
「貴様は、魔術の才ある者や、イングリッドが好んで引用する『賢者』たちにしか見えぬ機微を捉えることができる」
「それが、この宮殿とどう関係があるのですか」
オードリーが振り返って問う。
「単純な話だ。凡百の魔術師なら、ここに足を踏み入れただけで小便を漏らして逃げ出すだろうよ。貴様も圧力を感じているはずだが、質が違う。魔術師は『流れ』を、エネルギーの動きを理解する。だが貴様は流れを無視する。その代わり……」
彼は足を止め、肩越しに狡猾な光を宿した瞳で彼女を見た。
「その事象が何でできているか――『本質』を理解できるのだ」
(本質……?)
オードリーは息を呑んだ。(彼には理がある。私がずっと『直感』だと思っていたものは、実は内在する才能だったというのか?)彼女は自分の手を、冷たい籠手を見つめた。(そういえば、あの時。セヴァー嬢が変装魔法を使っていた時……私の目は少年を見ていたのに、本能は『少女だ』と叫んでいた。)
(そういうことか……)彼女は再び宮殿を見上げた。表情が硬化する。(この場所……グンダー殿から発せられる重圧と同じものを感じる。もし彼が高位の精霊なのだとしたら、ここは彼と同質の魔力で飽和しているということか。)
「ここに入っても安全だと言い切れますか?」
天井の開口部を見上げるグンダーに、彼女は問いかけた。
「貴方にとって危険が皆無だとしても、他の者たちはどうです」
グンダーは牙を剥き出しにして嗤った。
「ほう。貴様の『直感』は、余が強大であり、ゆえにこの場所が危険だと告げているわけか。……悪くない推論だ」
彼は完全に彼女の方へ向き直った。
「言ったはずだ。余が立ち去りたくとも、それは不可能だと。あの小娘は、この忌々しい場所を調査せずして、この街を出ようとはしないだろうからな」
オードリーも彼のそばへ歩み寄り、頭上から降り注ぐ光を見上げた。
「では、遠征はいつ開始しますか?」
「イングリッドとあの酔っ払いに、余が見つけたガイドを雇いに行かせた。くだらん人間の手続きが済み次第、出発する」
「ブリッグス大尉の件はどうなっていますか?」
オードリーは横目で彼の反応を伺う。
「余の許可はすでに貴様に与えたはずだ」
グンダーの声は空虚で、どこか遠い響きを持っていた。
「……命令の手配は済ませました」
オードリーは答えたが、その瞳にはまだ葛藤の色が滲んでいた。
「ただ、街全体を避難させる必要性が理解できません」
「『聖刻』と余の違いは、危険の尺度にある。貴様らはエネルギーの本質を理解できても、その深刻さを測り損ねる」
オードリーは眉をひそめた。
「どういう意味ですか?」
「余は理由もなく姿を消したりはせぬ」
彼の声色が重く沈む。
「ブリッグスが隠蔽していた情報を含め、調べられる限りは調べた。あの男は狡猾だ。街を救うためならば、自身の地位や名声など、必要な犠牲は何でも払う覚悟がある」
オードリーは沈黙し、言葉を咀嚼する。
「ここ数年、発掘権を独占した男爵どもによって、この街は実質的に乗っ取られていた。そして余が見つけた魔力の痕跡は、あのヴィンセントの中から漂っていた悪臭と同じものだった……」
「殺された男爵、ですか?」
「そうだ。だが、奴や他の男爵たちは単なる操り人形に過ぎん。特定の目的のために権力を握った『何か』、あるいは『誰か』が存在する」
「彼らが探しているのが、この宮殿だと?」
「確信している。攻撃がないことがその証左だ。発掘作業は亀裂の底へ一点集中で行われていた。機械が鉱脈を示した場所を放棄してまで、奴らはただ『下へ』掘り進めていたのだ」
「では、ここが決戦の地になると?」
「違うな。奴らは宮殿の中にあるものを恐れている。余たちが中に入り、汚れ仕事を片付けるのを待ち、その手から獲物を横取りするつもりだろう」
彼はオードリーを直視した。その顔は深刻で、陰鬱な影を落としている。
「そこで、貴様とブリッグスの出番だ。奴らを迎撃しろ。余たちの邪魔をさせるな」
「ならば何故、避難など?戦闘が遺跡で起こるなら、ここにバリケードを築けばいい」
「戦いは遺跡から溢れ出す。街全体を食らい尽くすぞ」
オードリーの眉間に再び深い皺が刻まれる。懸念は明白だった。
「説明を」
「敵はまだここにいる。街全体に染み付いた薄汚い痕跡を感じるのだ。だが、正確な位置が掴めん。奴らはその気になれば完璧に隠れられるはずだが、あえて痕跡を残している。余に見られていることを知らせるためにな。これは明白な挑発だ」
グンダーの表情が、恐ろしいほどの重圧を帯びた。
「余の存在を感じながらも挑発するということは、対抗手段を持っているということだ。そのような状況下で、貴様のような戦士が手加減できると思うか?」
オードリーは目を見開いた。その意味を理解したのだ。
「だから避難を要求した。衝突が始まれば、街は壊滅的な被害を受ける」
彼は再び天井を見上げた。その瞳が、致死的な輝きを放つ。
「宮殿の中の用事を片付け次第、直ちに援護に向かう」
ギロリ
彼の目が刃のように細められた。
「戦火が宮殿に届く前に、余がすべて殲滅してやる」
彼が歩き出すと、周囲の大気が抑え込まれた力で振動し始めた。
「イングリッドはこの戦いには参加させん」
シュンッ!
グンダーの体が紫色の残像となり、純粋な速度となって溶け出した。彼はその場から飛び去り、あとには静寂と、舞い上がる塵だけが残された。
おはようございます、こんにちは、こんばんは、わるー……コホン! エーテルです!
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