第42話「同胞」
契約は成立し、硬貨は数えられ、説明は飲み込まれた。後に残ったのは、交わされた約束の重みだけだ。次の段階として定められたのは、この頭上にそびえる上層都市――そこに拠点を構える『秩序の番人』の本部への出頭だった。
だが、テーブルを包む空気は緩和するどころか、むしろ淀みを増していた。古い油の臭いと、その場にいる者たちから立ち昇る焦燥感が、大気を飽和させているようだった。
「上層の堅苦しい連中と顔を合わせるなんぞ、考えただけで虫唾が走るわい……」
薄汚れた髭の隙間から、老ドワーフがボソボソと呟く。その言葉は引きずるように重く、腹の底からの嫌悪が滲んでいた。彼は鼻を歪めた。まるで、この店の劣悪な環境よりも、都市のエリート層を想像する方がよほど鼻持ちならない悪臭だとでも言うように。
「でも親父、金貨二袋だぜ?俺たちが数ヶ月かけて稼ぐよりずっと多い」
そう口を挟んだのは、若いドワーフのリリムドールだった。彼の瞳は、痛々しいほどの希望で輝いていた。親父の皮肉など意に介さず、ただ眩しそうに父親を見つめている。
「これなら、この街を出られるかもしれないよ、親父」
「ほんで、別の場所でパイでも売るんか?どこへ行こうが、貧乏神は着いてくるんじゃ!」
グリムは即座に吐き捨て、息子の淡い空想を現実という名の錆びた刃で断ち切った。
――フゥ……
ヴェルンは肺に穴の空いたふいごのような音を立てて、深いため息を漏らした。彼が立ち上がると、革の鎧が軋み、椅子がギィと抗議の声を上げる。長年その重みを背負ってきた者特有の手慣れた動作で装備を直すと、彼はさりげない仕草でフェンリエの肩に触れた。
「さて、俺たちはこれで失礼する」
傭兵は話を打ち切るように踵を返し、少女を軽く促してその場を離れようとした。これ以上、この場所にいたくない。この会話からも、そして何より、他人の厄介事からは距離を置きたかったのだ。
「待ちな、お二人さん」
グリムの声が、投げ込まれた錨のように二人を繋ぎ止めた。二人は足を止め、振り返る。その顔には困惑が張り付いていた。老ドワーフは金貨を見るわけでも、出口を見るわけでもなく、ただじっと少女を見据えていた。
「おい、娘」
グリムはテーブルに身を乗り出した。肘の重みで木板がミシリと悲鳴を上げる。彼の声には、先ほどとは違う響きが混じっていた。荒っぽい警戒心と、純粋な好奇心が入り混じった色合いだ。
「なんで『失墜の叙事詩』なんぞに興味を持つ?サピアン(人間)ってのは通常、そいつには懐疑的じゃろうが。ガキを寝かしつけるお伽話扱いが関の山だ」
不意を突かれ、フェンリエは瞬きをした。その鋭い問いは、彼女が保とうとしていた切迫感の殻を容易く突き破った。
「私は……」
言葉が詰まる。脳裏に『月の斑』の記憶、使命、そして断片化した自分自身のアイデンティティが乱舞する。
(僕の、理由は……)
「……私には、私の理由があります」
「ヘッ」
グリムは喉を鳴らして笑った。鉱山の塵のように乾いた、耳障りな音だった。
「喋るのが嫌いか?いかにもって感じじゃな」
再び場の空気が重くなるのを感じ、ヴェルンは割って入ることにした。このドワーフが秘密を掘り返そうとするなら、こちらも掘り返すまでだ。
「個人的な質問ついでだ」
傭兵は腕を組み、そのリラックスした姿勢の下に鋭い観察眼を隠した。
「あんたたちは、なぜまだこの街に住んでいる?かつて採掘が独立して行われていた時代、鉄が名誉よりも価値を持っていた頃ならわかる。だが、今はどうだ?キサナトラは誰に対しても優しくない。ましてや、とっくに去るべき者にとってはな」
グリムはヴェルンを上から下まで値踏みするように見た。その小さな瞳が細められ、まるで使い古された工具を検分するかのようだ。そこにある警戒心は、長い年月をかけて石灰化した古いものだった。
「ワシは一生を、お前さんらサピアンの中で生きてきた。ワシも息子も、他のドワーフたちとは上手くやれんのさ。山じゃ歓迎されん。リリムドールの母親が戦争で死んでから、ずっとそうじゃ」
重苦しい沈黙が落ちた。フェンリエは驚いて、老鍛冶師を見上げた。その突然の率直さと、言葉から溢れ出した生々しい痛みに胸を突かれたのだ。一方、ヴェルンはただ目を細めただけだった。彼の分析的な思考は、地理と訛りの点を線で結んでいく。
「出身は、トゥルガンか?」
「……ご名答じゃな、デュランダル人」
ドワーフは苦々しく頷き、ヴェルンの出自を見抜いて返した。
「どうやら俺たちは皆、帝国に何かを奪われた口らしい」
ヴェルンは低い声で言った。そこには暗い連帯感があった。同じ政治という名の刃によって刻まれた傷跡を、互いに認め合ったのだ。
だが、フェンリエは眉をひそめた。大陸の地政学や歴史など、戦闘に特化した彼女の教育には欠落している部分だ。彼女は“護衛”の方へ身を寄せた。
「トゥルガンって、何ですか?」
彼女はヴェルンに囁いた。その声は、純粋な無知で彩られている。傭兵は信じられないものを見る目で彼女を見下ろした。魂まで蝕むような深い疲労感が、彼の顔に仮面のように張り付く。これほど強大な力を持っていながら、どうしてここまで無知でいられるのか。
「あいつは一体、お前に何を教えてるんだ……?」
彼は苛立ちを込めて、グンダーのことを指して囁き返した。
「歴史の授業なんて受けてません!それを知りたいなら別ですけど!」
彼女はムッとして、さらに声を潜めて言い返した。
問題は、二人の隠密スキルが皆無に等しいことだった。彼らの“ひそひそ話”は、普通の会話と変わらない明瞭さで、狭い空間を満たしていた。ドワーフたちの耳には一言一句漏らさず届いている。
グリムは呆れたように首を振り、ため息をついた。この娘の無知さに哀れみさえ感じているようだ。彼は咳払いを一つすると、硬いタコだらけの手を動かし、教師のような口調になった。
「トゥルガンは北にあるドワーフの王国じゃ。帝国の領土を覆う山脈に食い込むように存在しておる。岩と氷の、過酷な場所じゃよ」
彼は一呼吸置き、彼女が聞いているのを確認した。
「いいか、クーガーの潟湖は古代の化け物、生ける伝説の一体に守られておる。あそこの航行は実質、自殺行為じゃ。正気な奴なら誰もあのルートは通らん」
彼は油と汗に汚れた指で、テーブルの上に架空の線を引いた。
「だから帝国は、ラグナに頼らず海へ出るために、どうしても北の土地――トゥルガンのすぐ先にある領土を必要とした。あそこが理想的だったんじゃ」
ドワーフの眼差しが暗く陰った。軍事戦略の記憶が、口の中に苦い味を蘇らせたのだろう。
「だがな、あの山脈にいたドワーフの国は、一つだけじゃなかったんだよ、娘。他にもあった」
「……何が起きたんですか?」
フェンリエは尋ねた。その声は細く、不吉な予感を含んでいた。聞きたくない答えをあえて聞く時の、病的な好奇心。胃が裏返るような感覚と、苦い予感が喉を這い上がってくる。
ヴェルンはドワーフが答えをまとめる時間を待たなかった。
「奴らは同胞を裏切ったんだ。それが起きたことの全てだ」
傭兵はグリムの代わりに答えた。その言葉は冷え切った金属をハンマーで叩くように、乾いていて、直接的だった。
「フン」
グリムは鼻を鳴らし、ヴェルンに向き直った。分厚い髭の下で、挑発的な笑みが唇を歪める。人間の言葉に含まれた無言の断罪に、真っ向から挑むように。
「ヘッ」
老ドワーフは椅子の背もたれに体重を預け、木材をギシと軋ませた。
「ドワーフの王国が戦争で敵対したのがそんなに奇妙か?まるで忠誠心が他種族の専売特許だとでも言うようじゃな。サピアンの国同士だって、大昔から殺し合っとるじゃろうが!お前さんらはそれをスポーツ感覚で、あるいは土地欲しさにやっとるくせに」
フェンリエの瞳が焦点を失い、薄暗がりの中を彷徨った。その論理の残酷さが胸に突き刺さる。対してヴェルンは、真剣で揺るぎない眼差しをドワーフに向け続けた。
「……違いない」
人間は皮肉の色を見せずに同意した。グリムは鼻を鳴らし、さらに言葉を続けた。その口調は熱を帯び、声量が上がっていく。
「お前らサピアンは卑しい生き物じゃ。増えすぎて、まるで疫病のように広がりたがる。帝国……東のヴォルフガルドに、西のルツェルン。どっちもサピアンが支配し、どっちも死ぬまで戦争をしたがっとる。世界中を道連れにしてな」
彼は大袈裟に身振り手振りを加え、無骨な手で空中に見えない地図を描いてみせた。
「魔法がお前らにとって、神々からの贈り物ではなく、ただの道具に成り下がったのも無理はないわい!支配のための道具じゃ。だが、それでとんでもないもんを作りおった!ここを見ろ!」
ドワーフは天井を指差した。頭上に広がるキサナトラの威容を示すように。
「不毛の砂漠を、商業の首都に変えちまった!砂と骨しかなかった場所に、鋼鉄の塔を建ておった。全ては、魔法と科学を融合させて作り出した機械のおかげじゃ!グワハハハハハ!」
彼のしわがれた、狂気を帯びた笑い声がガンガンと響いた。そこには称賛があったが、それは恐怖と嫌悪に染め抜かれた称賛だった。
ゴクリ……
フェンリエは唾を飲み込み、情報の奔流を処理しようとあがいた。戦争の機械のイメージが脳裏に浮かび上がる。
「じゃあ、トゥルガンは……他の王国を裏切ったの?」
彼女は尋ねた。その残酷な真実を、どうしても確認せずにはいられなかったのだ。
グリムの笑い声は、瞬時にして死に絶えた。皮肉の仮面が剥がれ落ち、そこには酒では決して祓うことのできない亡霊に取り憑かれた、疲れ切った老人の素顔だけが残っていた。
「……そうじゃ、娘」
彼は低く唸るように呟いた。それは地殻の変動のような、重く響く声だった。
「ワシの国は、ワシの民は……他のドワーフの王国を裏切ったのさ。奴らは帝国と手を組み、抵抗する者すべてを打ち破った。従兄弟や兄弟たちを、帝国の軍靴の下で踏み躙ったんじゃ」
彼は油と煤に汚れた自分の両手を見つめた。まるでそこに、同胞の血が見えているかのように。
「ま……名誉なんぞ、テクノロジーの前じゃ脆い盾に過ぎんかったわ。古代の魔法もルーンの槌も役立たずじゃ。空を引き裂いて飛ぶ機械、山そのものを焼き尽くす魔導爆撃……あんなもんに勝てる道理がなかった」
トゥルガンの裏切りという告白の後に続いた沈黙を埋めたのは、空調機が新鮮な空気を吐き出すブォォォンという機械音だけだった。
「ここ数年、帝国はいくつもの国を飲み込んでる。まるで治療法のない病気みたいに広がり続けてるんだ」
リリムドールが呟いた。先ほどの興奮は影を潜め、暗い諦めに変わっていた。その瞳は虚ろで、テーブルの木目をじっと見つめながら、忘れてしまいたい記憶の中を彷徨っているようだった。
「ファラームで起きたことの知らせ……今でも覚えてるよ」
その名は、金床のように重く場に落ちた。
フェンリエとヴェルンの目が同時に見開かれる。傭兵にとっては差し迫った危険の認識であり、少女にとっては扉を叩く亡霊の音だった。フェンリエの肺が凍りついたように息が詰まる。
「あなたたちは……ファラームに詳しかったのですか?」
フェンリエは尋ねた。単なる好奇心を装おうと努めたが、その声は震えていた。肋骨の裏で心臓がドクンドクンと早鐘を打っている。
リリムドールは虚ろな目を彼女に向けた。そこには若者には重すぎる、古い悲しみが宿っていた。父であるグリムは視線を逸らし、急に落ち着きをなくしたように髭を弄った。
「キサナトラに来る前、ワシらはしばらく王都に滞在しておったんじゃ」
「十年前の話だ……」
グリムは郷愁にかすれたしゃがれ声で呟いた。
「『ファラームの伝説的聖騎士』の一人が街を訪れていた時期でな。あの若造のことはよう覚えておる。泥の中に磨き上げられた黄金が落ちているみたいに、あいつだけ輝きが違った」
ドワーフは言葉を切り、悲しげな笑みを口元に浮かべた。
「あいつは優しさそのものだったよ。貴族の政治的義務や官僚主義に縛られていない時は、街を歩いて平民たちを助けて回ってた。ワシらが住む場所を探してると知った時、あいつは貴族じゃ絶対にしねぇようなことをしやがった……ファラームに住まないかと誘ってくれたんじゃ。宿無しのドワーフ二人に、家を提供してくれたんじゃよ」
ヴェルンはゆっくりと首を回し、フェンリエの方を見た。彼の目は見開かれ、胸の内でパニックが膨れ上がっていた。彼はその騎士が誰かを知っていた。彼らが誰の話をしているのかを知っていた。そして、その記憶が、兄の話を聞かされたこの壊れかけた少女の精神に何をもたらすかを恐れた。
「リリムドールはあいつに懐いてな。まだ小さかったから」
若いドワーフは涙で潤んだ目を細め、決して実現することのなかった過去を見つめた。
「何が起きたのか、本当に残念じゃ。あの小僧はとても純粋に見えた。ワシの民と同じ、残酷な運命に流されちまったんじゃよ」
部屋の緊張は触れられるほどに濃密で、ナイフで切り取れそうなほどだった。ヴェルンは背中に冷や汗がつたうのを感じた。
「さて、その話は……」
ヴェルンは低く、切迫した声で切り出した。何としてでも話題を変えなければならない。フェンリエが深淵に落ちる前に。
だが、少女は沈黙で彼を遮った。
フェンリエは、微笑んでいた。
以前のような自信に満ちた笑みでも、トムのような冷笑的な笑みでもない。それは脆く、痛々しいほどにメランコリックな微笑みだった。彼女の視線は遠く、この家の壁を突き抜け、時間を突き抜けて彷徨っていた。
「本当に……悲しいお話ですね」
彼女は囁いた。その言葉には、恐ろしいほどの受容が含まれていた。ドワーフは彼女の抑制された反応に戸惑ったが、その声にある誠実さを感じ取った。
「お話を聞かせてくれて、ありがとうございました。求めていた答えはお返しできませんでしたが……」
彼女はゆっくりと踵を返した。まるで目に見えない重りを背負っているかのように。
「ヘッ。話す時間はまだいくらでもあるさ、娘」
フェンリエは答えなかった。彼女は扉に向かって歩き続けた。
ヴェルンは動かず、彼女を見守った。扉が開くと、外の陽光を背に彼女のシルエットが切り取られた。地上の砂漠の広大さを前にした、孤独な影。彼女は出て行った。蒸し暑い熱気と、失われた兄の記憶をその場に残して。
傭兵は、無意識に止めていた息を吐き出した。
「行きましょう、お父さん…」
フェンリエが呼びかけ、ヴェルンのトランス状態を破った。傭兵は慌てて彼女の後を追った。
◇
外に出ると、陽光は物理的な暴力となって襲いかかってきた。熱が岩と砂から放射され、大気を歪ませ、景色を高熱の蜃気楼のように揺らめかせている。砂の村は午後の重圧の下で息を潜めているようで、背景の山々のシルエットが、地平線を監視する石の亡霊のようにうねっていた。
ヴェルンは、彼女がそこに立ち尽くしているのを見つけた。彼女の目は不毛の広大さに釘付けになり、砂と空が出会うどこかの点に心を奪われていた。彼はゆっくりと近づいた。革のブーツが砂利を踏みしめ、ザッ、ザッとリズムを刻む。
「……この話をしたことは、なかったな」
彼は彼女の隣に立ち、呟いた。彼女が自分の周囲に作った見えない空間を尊重し、直接顔を見ることはしなかった。彼の目もまた、砂漠を探した。
「僕……兄を憎んではいません」
彼女は言った。その声は低く、熱風にさらわれて消えそうだった。彼女は顔を向けなかった。ヴェルンは彼女の横顔を垣間見る程度にだけ視線を動かした。
「あんたをそれで責めたりはしない」
彼女は押し殺したような笑い声を漏らした。それは短く、喜びのない音で、乾いた喉の奥で死に絶えた。
「あなたは帝国の騎士だったんですよね?デュランダルとその崩壊については聞いたことがあります」
「俺は、対帝国の戦争では戦っていない」
ヴェルンは訂正した。その口調には古い罪悪感が滲んでいた。
「自分の国を守る時間すらなかった。砂煙が晴れた時には、俺が知っていたすべては既に帝国に割譲されていたんだ」
フェンリエは頷き、足元の小石をカッと蹴った。
「おかしいですね……皮肉なほどに残酷です、実際。二人とも帝国のせいで全てを失った。家も、家族も、過去も。でも、それなのに、僕たちはその帝国に身を捧げている。あなたは騎士だったし、僕は先触れです」
彼女は彼に向き直り、傭兵の疲れた表情の中に何らかの答えを探した。
「それなのに……僕たちは帝国を憎んでいない……」
ヴェルンは彼女の視線を受け止めた。その沈黙は、身につけている鎧よりも重かった。
「イングリッド……」
「帝国を憎んでいないのと同じように……僕は、兄を憎んではいないんです……」
その言葉は最後の吐息のように、自分自身のためでなければ、風への告白として漏れ出た。彼女は踵を返し、ヴェルンと砂漠に背を向け、村への道を戻り始めた。街の圧倒的な威容を前にした、小さな人影。
ヴェルンは彼女が角を曲がって姿を消すまで、その背中を見送った。
そうして初めて、彼は頭上を見上げることを自分に許した。
彼の目は、村の入り口に堂々とそびえ立つ大アーチを捉えた。砂丘から来る者にとっての真の玄関口となる、石の巨像。
そして、その広大さを見下ろす門の最頂部で、絶え間ない風を受けてバタバタと激しく翻る旗があった。
赤い軍旗。支配の象徴。
真紅の布地の上で、純白の帝国の紋章が傷跡のように際立っている。双頭の鷲。至高にして恐るべき存在が、頑強な盾の上に重なっている。その周囲には、征服の道具――剣、槍、そしてハルバードが、幾何学的な完璧さで交差していた。
十年。
大陸の外交的な宝石であったファラームが、不可能なことに挑んでから十年が経った。血に飢えた二つの巨人、ヴォルフガルドとルツェルンの間に平和の可能性を模索しようとしたのだ。
ファラーム自身が戦場となり、二つの帝国が力を競い合う屠殺場となるのを防ぐための、必死の試み。
純粋な絶望から生まれた決断が、あの日下された。
代償は高かった。聖騎士の家系でありイングリッドの母の家であるセヴァー家。炎の法務官の砦でありイングリッドの父の家であるテラス家。その両家は完全なる不名誉に落ち、その名は歴史の泥の中を引きずり回された。
すべては十年前に起きた。
世界を焼き尽くす戦争を止めるために。
ファラーム国王、アントニダス・コペリウス二世。愛された君主、希望の象徴。
彼は、暗殺された。
彼の死は最終的な対価となり、ファラーム王国はヴォルフガルドの絶対的な支配下に譲渡された。
そして、その命を奪った刃、彼ら全員の運命を決定づけた手は、一人の聖騎士のものだった。
彼女が憎むことのできない兄。
トマス・セヴァー。




