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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 「鋼鉄と月光の奔流」
37/42

第37話「噛み合わぬ『歯車』たち」

 その狭い路地裏では、日の光など地面に届く前に息絶えているようだった。下層都市の構造物に押し潰された、暗く湿った金属の峡谷。そこでは太陽など、遠い記憶の彼方に過ぎない。空気は物理的な重みを帯び、頭上で複雑に絡み合うパイプの密林から絶えず滴り落ちる、濡れた鉄錆と工業用潤滑油の臭いに浸食されていた。


 ポタ……ポタ……


 油の滴が催眠的なリズムで落下し、舗装された灰色の岩に衝突する。それらは淀んだ水溜まりを作り、薄暗がりの中で玉虫色の染みが踊っていた。周囲の惨状を映し出す、毒々しく歪んだ虹だ。


 グンダーはこの説教のために、酒場の好奇の目から遠く離れたこの隔離された場所まで少女――イングリッドを引きずってきたのだ。だが、路地裏の閉鎖性は緊張を増幅させるだけだった。イングリッドはすすにまみれた壁に追い詰められていた。上等なドレスは今や皺くちゃで、裾は泥で汚れている。この場所に対する視覚的な冒涜だ。急いで、しかも拙い手つきで施された化粧は涙と脂で崩れ、まるで壊れた磁器人形のような様相を呈していた。


「貴様、一体全体何を考えておるのだッ!?」


 精霊の絶叫が金属の壁に反響し、隅を走っていた数匹のネズミを驚かせた。グンダーは拳を振り上げ、小刻みに震えている。額には青筋が脈打ち、その表情は殺意に満ちた激怒と、喜劇的なほどの信じ難さの間で危うげに揺れ動いていた。今にも自然発火しそうだ。


 イングリッドは身を縮こまらせ、子供じみた不貞腐れ方で視線を逸らした。自分の置かれた状況の現実を直視することを拒否しているのだ。


「ぼ、僕はただ……ガイドを探しに行っただけだよ……」


 彼女――いや、少年はブツブツと呟いた。その声は近くのバルブから漏れる蒸気の音にかき消されそうになる。(なんなんだよ、もう……!)


 グンダーの動きが止まった。まるで鳩尾みぞおちに一発喰らったかのように、肺から空気が漏れる。


「さ、酒場で……」彼は自らの髪をむしり取りたい衝動と戦いながら、喉を詰まらせた。「……だと!?」


「そうだよ!何が悪いのさ?普通、酒場には人がいるものでしょ!」


 イングリッドは言い返した。正当化できないことを正当化しようと、その声は上擦り、防御的な響きを帯びる。


「『ガイドになるような種類の人間』はいないわッ!!」


 精霊は路地の入り口、彼が彼女を引きずり出してきた薄汚い店の方を激しく指差した。彼のフラストレーションはほぼ物理的な質量を持ち、濃密な苛立ちのオーラとなって漂っている。


「関係ないね」


 イングリッドは胸の前で腕を組み、顎を上げ、再び作り物の軽蔑を浮かべて顔を背けた。それは、今にも食われそうな「陸に上がった魚」が見せる、威厳を保とうとする儚い抵抗だった。


「おのれ、この……」


 グンダーが言葉を切った。白熱していた怒りが、深い疲労へと変わる。肩がガクリと落ちた。彼は一瞬目を閉じ、煤の飽和した空気を吸い込むと、長く重い溜息を吐き出した。


「……よい。……よいわ。部屋に連れ戻すぞ。来い」


 反応は即座かつ、本能的だった。


「えっ!?」


 イングリッドは本心からのパニックに目を見開いた。泥濘ぬかるみんだ地面をダンッと踏みつけ、汚水を跳ね飛ばす。


「嫌だよ!僕は戻りたくない!」


 グンダーは、世界の重荷――そして今や、この強情なガキという重荷――を背負う者の疲れた目で彼女を見下ろした。


「誰が貴様に選択権があると言った?」


 その声に宿る権威は冷たく、絶対的だった。


「でも、僕は……だって、僕は……」


 イングリッドの虚勢が崩れ落ちた。滲んだマスカラに縁取られた瞳が潤み始める。下唇が震えた。初めて現実的な「限界」に直面した、甘やかされた子供の姿そのものだ。


「……で、」


 二人の言い争いを、男の声が切り裂いた。砂利と安酒でうがいをしたような、しゃがれて引き摺るような声。


 その音は路地の入り口に響き、二人の『先触れ』を即座に黙らせた。グンダーとイングリッドは示し合わせたように、同時に音のした方へと顔を向ける。


 そこには、表通りのわずかな明かりを背に、一つのシルエットが浮かび上がっていた。出口を塞ぐように立つ、背の高い男。彼が一歩踏み出し、路地の薄暗がりに入ると、そのだらしない姿の詳細が明らかになった。無精髭が皮肉に満ちた顔に影を落とし、長い髪は重力に逆らうかのように無造作に高い位置で団子(お団子)にまとめられている。発酵した酒のツンとする臭いが、その奇妙な男が近づききるよりも早く、彼らの鼻腔を突いた。


「おやおや。淀んだうしおが、何を打ち上げたかと思えば……」


 グンダーが呟いた。その声は、周囲の壁を覆う煤と同じくらい濃密で、粘着質な皮肉に浸っていた。彼は腕を組み、片足に体重を乗せて苛立たしいほどリラックスした様子で、目の前のボサボサ頭の男を観察した。まるでゴミ捨て場で見つけた奇妙な標本を見るような目だ。


 ヴェルンの目が即座に細められた。後悔が、ボディブローのように胃を直撃する。ジョシュアの言うことなど聞くんじゃなかったという苦いフラストレーションの波。さらに最悪なのは、イングリッドを追ってこんな掃き溜めまで這い出してきた自分自身への嫌悪感だ。(俺はなんでこんなところに……)


 一方、少女は小首を傾げ、二人の男の間に火花散る緊張感などお構いなしに、純粋な子供の好奇心で新参者を見つめていた。


「あ、あの酔っ払いのオッサンだ!」


 彼女は貴族的な無作法さで指を差して叫んだ。グンダーはその言葉を無視し、捕食者のような視線を背の高い男に固定したままだ。


「何の用だ?」


 精霊が問う。声の温度が急激に下がり、冷徹で鋭利な刃物と化した。


 ヴェルンは視線を逸らした。その吟味するような目に耐えられなかったのだ。彼は解けかけた団子髪の下、荒れた首筋に手をやり、必死に頭の中の混沌を整理しようとした。アルコールが未だ思考に霧をかけており、馬鹿に見えないようなまともな文章を組み立てるのが困難だった。


「俺はただ……その、俺は……」


 沈黙が伸びる。頭上の配管から滴る水音だけが、その間を埋めていた。


「さっさと吐け」


 グンダーが短く、不機嫌に切り捨てた。ヴェルンは精霊の言葉に含まれる軽蔑が、皮膚の下でヒリヒリと焼けるのを感じた。苛立ちが首を這い上がり、耳を熱くする。彼は一瞬目を閉じ、既に干上がった忍耐の井戸の底を探り、鼻から荒々しく息を吐き出した。


 再び目を開けたとき、その充血した瞳はどこか投げやりで、疲れた諦めを湛えていた。


「……オードリーが、アンタが遠征の責任者だとか言ってたからな。頼まれたことをしに来ただけだ……」


 ヒュウウウウウウ。グンダーは長く、甲高い口笛を吹いた。眉を吊り上げ、侮辱スレスレの純粋な驚きを表現する。


「まさか貴様が、そこまで従順な『飼い犬』だとは知らなかったな」


 その挑発が、最後の一滴だった。ヴェルンの無理矢理な冷静さが、ガシャリと音を立てて砕け散る。


「あぁ、クソ喰らえッ!!」


 ヴェルンが爆発した。しゃがれた怒号が路地の金属壁に跳ね返り、再び齧歯類げっしるいを驚かせ、イングリッド自身を一歩後退させた。


「あ、今のは本当に『酔っ払いのオッサン』みたいだったね」


 イングリッドはまるで三流の芝居を評価するように首を振ってコメントした。


「違いない」


 グンダーが同意し、唇に皮肉な笑みを戻す。


 酔っ払いの元騎士は鼻を鳴らし、額の血管を破裂させそうになる血圧を制御しようと肩で息をした。プライドを飲み込まなければならない。それがどれほど酢のような味がしようとも。


「……本当に説明しなきゃなんねぇのか……?」


 ヴェルンは精霊の目を真っ直ぐに見据えた。今度は、苛立ちは消え失せていた。代わりにあるのは、もっと深く、痛々しい何か。そこには罪悪感があった。言葉では到底表現できない重荷を伝える、無言の懺悔が二人の距離を貫いていた。


 グンダーが目を細める。嘲笑が一瞬、その顔から消えた。彼は無言のメッセージを読み取り、砕け散った元騎士の魂に何が起きているのかを理解した。それは単に命令に従う者の顔ではない。借りを――過去の負債を返そうとしている者の顔だ。


「……なるほどな」


 彼は答えた。その声は低く、ほとんど敬意に近い囁きだった。


 ヴェルンとイングリッドは困惑して彼を見た。この気難しいグンダーが、これほどあっさりと状況を受け入れるとは、二人とも信じられなかったのだ。


 だが、休戦は長くは続かなかった。『先触れ』の瞳に、再び悪意ある輝きが戻る。


「自らの意志で、喜んで余の指揮下に入ろうという殊勝な心がけだ」


 精霊は傲慢な口調を取り戻し、路地を満たすほどの尊大さを漂わせながら、一音一音を味わうように言った。


 酔いどれの男は、魂を腐食させるような後悔と共に彼を睨みつけた。顎が鳴るほど強く歯を食いしばり、その顔は純粋な苦悶の仮面へと変わる。彼は悟っていた。何かろくでもないことが来ると。


「ならば、貴様に最初の任務を与えてやろう……」


 グンダーは芝居がかった動作で距離を取った。「正式」な紹介とばかりに、彼は大げさなジェスチャーで両手を少女の方へと広げる。そこには、泥と油で汚れたドレスを纏い、「トラブル」の定義そのもののような姿で立つイングリッドがいた。グンダーは、望まれていない料理を差し出す執事のように、恭しく体を曲げた。


「セヴァー嬢の守りをせよ」


 時間が凍りついた。


「え、ちょっと!?」


 イングリッドが息を詰まらせる。喉の奥で憤慨が震えた。


「いや、断る」


 ヴェルンの返答は稲妻よりも速かった。彼の手が弾かれたように上がり、掌を前に突き出して世界共通の「拒絶」のサインを作る。それは本能的かつ、内臓からの拒否反応だった。


「だが、これは命令だ」


 グンダーが目を細めて告げる。たった今受け入れたばかりの上下関係を崩せるものなら崩してみろ、と挑発するように。


「で、俺はそれを拒否する。どうも。子守は専門外なんでね」


 拒絶は絶対的だった。ヴェルンは腕を組み、プイと顔を背ける。


 イングリッドは二人を交互に見た。まるで自分が手から手へと渡され、その両方から突き返された不用品のように感じた。彼女の顔が怒りで真っ赤に染まる。


「さっきから聞いてれば……僕を『歩く厄災』みたいに言うのをやめろッ!!」


 ダンッ!!イングリッドは地面を踏み鳴らして怒鳴った。


 彼女は謝罪か、あるいは少なくとも驚く反応を期待していた。だが、返ってきたのは絶対的な静寂だった。二人の男が、ゆっくりと彼女の方へ顔を向ける。


 ギロ……


 グンダーとヴェルンの眼差しは同一だった。疲労、虚無、そして遠い目。それは彼女がどれほどのトラブルメーカーであるかを正確に理解し、それを否定するエネルギーすら残っていない者たちの目だった。その表情にある生々しい真実は、どんな怒号よりも重くイングリッドにのしかかった。


 彼女は二人の圧倒的な無気力さに打ちのめされ、肩をすくめた。


「はいはい、分かりましたよ……」


「拒否権はない。これは命令だ」


 グンダーが再び口を開く。先程までの疲労感は消え失せ、人生で一度も「いいえ」と言われたことのない貴族特有の傲慢さが声に戻っていた。彼は顎を上げ、元騎士を興味深いが不便な昆虫を見るような目で見下ろした。


「ふざけんな!俺は傭兵だぞ!『従う』のは遠征中だけだ!」


 ヴェルンは荒っぽい口調で反論し、泥濘んだ油の中できびすを返した。もう帰る気満々だ。


「俺はただ、オードリーに頼まれた手助けに来たって言いに来ただけだ。それだけだ」


 彼は歩き出した。重いブーツが、路地のゴミを決然と踏み砕いていく。


「教育の行き届いていない子供というのは、常に強情なものだ……」


 グンダーは虚空に向かって独り言ち、芝居がかったポーズで顎に手をやった。精霊の瞳が危険な光を帯びる。(だが、この手の手のかかるガキに対する解決策は常に存在する……)その思考が、彼の唇に鋭い笑みを刻んだ。トラブルを約束する表情だ。


「傭兵、か」


 彼は計算された無関心を装い、その言葉を大声で放った。遠ざかる男の耳に届くように設計された、強制的な演劇のトーンだ。


「ならば、傭兵のサービスを受けるべきかもしれんの……」


「アンタの金なんざ要らねぇよ……」


 距離のせいでくぐもったヴェルンの声が返ってきた。彼は振り返りもせず、歩みを止めない。拒絶は自動的で、防御反射そのものだった。


「たとえ……」


 グンダーは劇的な「間」を作った。その声からは毒と悪戯心が滴り落ち、腐った蜂蜜のように甘く響く。


「金貨が溢れんばかりに入った袋、三つでもか?」


 効果は劇的だった。


 ピタリ。


 酔っ払いの動きが止まった。それは見えない壁に激突したかのような、物理的かつ暴力的な停止だった。弛緩していた背中の筋肉が、汚れた服の下で目に見えて緊張する。


「ふぅぅぅぅん??」


 グンダーは鼻歌交じりに挑発した。魚が針にかかったことを確信している音だ。壁に張り付いていたイングリッドは、目を丸くしてその光景を見守っていた。(なにしてんの、コイツら……?)イングリッドは呆れと混乱の入り混じった顔で二人を見た。


 ヴェルンは永遠にも感じる数秒間、その場に立ち尽くした。路地の静寂を、頭上の都市から響く機械の駆動音が埋める。グンダーは洗練された毒のある笑みを浮かべ、蜘蛛が巣にかかった獲物を待つような忍耐強さで反応を待った。


「返答がないということは、他の傭兵を探すとしよう……」


 グンダーは大げさに落胆した声を出し、背を向ける素振りを見せた。


「待て」


 クルッ。ヴェルンが振り返った。その動きの速さはほとんど喜劇的で、顔には尊厳と強欲の間で敗北した内なる戦いの跡がありありと浮かんでいた。


「おっ!?」


 イングリッドが驚きの声を漏らす。完全に二人の茶番に飲み込まれている。少女の思考が駆け巡った。(あの酔っ払いのオッサン、あの時僕にしたアレをする気だ!!)痛みを伴う鮮明な記憶が蘇る。道を尋ねただけで、ヴェルンに銀貨三枚を巻き上げられた瞬間のことだ。胸の中でパニックが膨れ上がる。(金貨三袋以上をふんだくる気だ……でも、それって僕らの全財産じゃん!!!!!!!)


「興味が湧いたか?」


 グンダーが目を細め、勝利の笑みを浮かべて嘲った。


「……まぁ、そう言っておく」


 ヴェルンは無関心を装おうとしたが、その目は既にその金額でどれだけの酒が買えるかを計算していた。


 チッ。精霊が舌打ちをする。


「だが、貴様は一度断った。ゆえに、今は『金貨半袋』だ」


 その言葉は金床のように落下した。


「あ?」


 ヴェルンの反応が遅れた。脳の歯車が噛み合わなくなったようだ。


「ど、どういうことだ!?」


「聞こえた通りだ」


 グンダーの返答はドライで、最終通告だった。


「いやいやいや!三袋って言っただろ!」


 ヴェルンの声には明白な絶望が滲んでいた。触れる前に指の間から富がこぼれ落ちていくイメージが見えるようだ。


「ああ。『三袋ダッタ』。今は半分だ」


 ギリリッ……ヴェルンは顔の高さまで上げていた拳を握りしめた。歯が擦れる音が聞こえる。彼の顔は苦悶に歪んだ。一度も手にしていない金を失ったことによる、物理的な痛みだ。今にも泣き出すか、誰かを殴りそうな顔をしている。


 グンダーは嗜虐的な喜びをもって他人の苦しみを一瞬観察し、最後に慈悲の一撃を与えた。


「だが、余は機嫌が良い。ゆえに、金貨一袋にしてやろう。どうだ?」


 その提案は、先程の脅迫に比べれば神の救いのように響いた。


「わ、分かった……」


 ついにヴェルンは敗北を認め、肩を落とした。強欲が、巧みな操作に屈したのだ。


 グンダーは懐に手を入れ、ずっしりと重い革袋を取り出した。ジャラッ。硬貨同士がぶつかり合う金属音は、ヴェルンがその日聞いた中で最も美しい音楽だった。精霊はその袋を酔っ払いに向かって放り投げた。


 ドスッ。パシッ。


 ヴェルンは素早い反射神経でそれを空中で掴み取ると、まるで消えてしまうのを恐れるかのように、純粋な苛立ちと共に胸に抱きしめた。


 グンダーはイングリッドを見た。その唇にはプライドに満ちた勝利の笑みがあり、出来の悪い生徒に複雑な定理を証明してみせた教授のような優越感が漂っていた。


「交渉とは、こうやるのだ。イングリッド」


 イングリッドはヴェルンの手にある金貨の袋を見つめ、それからグンダーの自惚れた表情を見た。


「はいはい、分かりましたよ……」


 彼女は目を回しながら言い返した。全財産を失わずに済んだ安堵と、教材として使われたことへの苛立ちの間で揺れ動きながら。

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