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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 「鋼鉄と月光の奔流」
36/41

第36話「汚泥の中の絹の逃走」

 精霊は去り、それと共に自由もまた失われた。


 絶対的な拒絶を示すように扉が閉ざされ、続いて乾いた金属音が響く。


 バタンッ!ガチャリ。


 その音は計算され尽くしたかのように、静まり返った部屋に木霊した。グンダーに交渉の余地などなかった。彼は散髪を拒否し、変身魔法を断り、抗議すら無視した。彼の優先順位は明確だ――『案内人』を探し出している間、この小娘を確実に隔離しておくこと。ただそれだけだ。


 イングリッドは、唐突な静寂の中に取り残された。


 彼女のような人間にとって、無為とは物理的な拷問に等しい。四方の壁に囲まれ、やることもなく閉じ込められるなど、残酷な刑罰そのものだ。もし夜ならば、眠りに身を委ね、意識を手放すこともできただろう。だが、外の太陽はいまだ空を駆け上がっている最中で、正午にすら達していない。カーテンの隙間から容赦なく侵入する陽光が、彼女の監禁生活を嘲笑っているかのようだった。


 彼女はあらゆることを試した。


 ベッドに身を投げ出し、大げさに身悶えしてみる。ゴロゴロ、ゴロゴロ。目をきつく閉じて無理やり眠ろうとし、火花が散るほど力を込めたが徒労に終わる。冷たい壁に額を押し付け、その温度で不安を冷まそうとし、ついには漆喰の壁に軽く頭を打ち付けた。ゴン、ゴン。微かな痛みで気を紛らわせようとしたのだ。


 結局、彼女の足は部屋の隅にある大きな姿見の前で止まった。


 そこには彼女がいた。「トム」ではなく、「イングリッド」が。


 指先が長い緋色の髪に触れ、肩へと流れ落ちる鮮血のような奔流をなぞる。ずいぶん久しぶりだ……子供の頃以来、自分の姿をまじまじと見ることを許してこなかった。鏡に映るその姿は、まるで他人のようだ。美少女、と言えるかもしれない。だが、ガラス越しに浮かべてみた間の抜けた、どこか子供じみた笑顔が、長い間仮面を被り続けてきた彼女自身にとって、どうしようもない違和感を抱かせた。


 だが、そんな自惚れも長くは続かなかった。退屈という現実が、再び彼女を押し潰しにかかる。


「ああああああああああああ!!外に出たいぃぃぃ!!」


 引き裂くような絶叫が、虚しい部屋に響き渡った。


 イングリッドは再び、檻の中の猛獣のように歩き回り始めた。ウロウロ、ウロウロ。思考が沸騰し、カーペットの上に見えない道筋が刻まれていく。アイデアが必要だ。計画が。グンダーの冷徹な怒りを買うことなく、この牢獄から脱出するための何かが――もっとも、心の奥底では精霊の用心深さが正しいと理解してはいたが。


「うーん……」


 彼女は部屋の中央で立ち止まり、顎に手を当てて深く集中した。脈絡のない思考のノイズが頭の中を埋め尽くす。


(何か使えるものは?僕自身で髪を切る……いや、忘れよう。ハサミの扱いなんて絶望的だ、悲惨なことになる。全部縛って隠すか?不可能だ。あの矯正下着一人で着けるなんて悪夢でしかない……)


 選択肢は尽きかけ、不可能という名の壁に正面衝突した。だがその時――侵入的で、危険で、そして天才的な閃きが舞い降りた。


 カッ!


 彼女の目が突然見開かれ、虚空の一点を凝視した。まるでアイデアという名の電球が、目の前で物質化したかのように。


「これだ!」


 彼女はゆっくりと顔を巡らせた。唇が弧を描き、悪戯な笑みを形作る。その瞳には、獲物を見つけた捕食者だけが宿す、黄金の輝きが灯っていた。キラリ。彼女の視線が、部屋の隅にある一点に固定される。


 ――旅行鞄だ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 カウンターの木材は粗く、冷たく、そして数十年分のエールを吸い込んだような匂いがした。


 ヴェルンは頬に押し付けられたその感触を、肌のきめ一つ一つで感じていた。周囲の世界は耐え難い不協和音だ。爆弾のように炸裂する酔っ払いの哄笑。ガシャーンキンッ!戦場の剣戟のような激しさでぶつかり合うガラスの音。意味不明な怒号。そして、客と同じくらい酒をあおっているらしい吟遊詩人が奏でる、質の疑わしい音楽。


「うぐぅ……」


 ヴェルンの呻き声はテーブルに吸い込まれ、木材を震わせただけだった。逃げ場などない。頭痛は一定のリズムを刻むハンマーのように、無慈悲に打ち付け続けている。ガン、ガン、ガン。


「いつも以上に酷い面構えだな……」


 騒音を切り裂くように声がした。しゃがれて、低く、そして疲れたような親しみが込められた声だ。


 ヴェルンは巨人のような努力で、カウンターから顔を引き剥がした。霞む視界が、カウンターの向こうの人物に焦点を合わせる。隻眼のバーテンダー、ジョシュア。彼は薄汚れた布でグラスを磨いていた。キュッ、キュッ。残された唯一の瞳が、職務的な憐れみと諦めを混ぜ合わせたような色でヴェルンを見つめている。


「お前には分からんさ……」


 ヴェルンは呟いた。その声は石に紙やすりをかけたような音だった。自分の見た目が悲惨なことなど分かっている。浮腫んだ顔、深淵のように深い目の隈、そして安酒の浴槽に浸かったような悪臭。


「ああ、分からんね」


 ジョシュアの返答には、乾いた重みがあった。彼は磨き終えたグラスを棚に戻す。何千回と繰り返してきた、自動的な動作だ。


 コトン。


「この一週間、騒がしくてな……」


 元騎士は震える手を目の前のボトルへと伸ばした。だが、そのガラス瓶が軽い――空っぽだと気づいた瞬間、抑え込まれていた苛立ちが神経を駆け巡った。ダン!彼は鈍い音を立ててボトルをテーブルに叩きつける。


「俺は気が狂いそうだ」


 ジョシュアは背を向けたまま酒を整理していたが、その意識は完全に友人に向けられていた。


「また、お前が『狩って』いた連中のことか?」


 その問いが、重く空気に漂った。ヴェルンの沈黙だけが、唯一の答えだった。


 バーテンダーはゆっくりと体を回転させた。下層都市の掃き溜めと貴族たちを長年観察し続け、鋭さを増したその隻眼が、カウンターに突っ伏した男を射抜く。ヴェルンは虚空を見つめていた。その焦点は、過去と忘却の狭間のどこかに彷徨っている。


「目が全てを語ってるぞ」


 ジョシュアはそう言うと、磨かれた木目の上を滑らせるようにして、新しいボトルを差し出した。スッ。ボトルが優しくヴェルンの手に触れる。


 息の詰まるような、乾いた笑みが元騎士の唇から漏れた。


「よく分かってるじゃないか……」


 遠慮も何もなく、ヴェルンは難破船の救命具にすがりつくようにボトルの首を掴み、中身を喉の奥へと流し込んだ。トクトク、グビッ。安堵は即座に訪れた。長い溜息と共に、彼を苦しめる悪魔の一部が吐き出されたかのようだ。


「さすがは俺の親友、ジョシュアだ!」


 ジョシュアは瞬き一つしなかった。彼は汚れたジョッキを山盛りにした盆を運ぶ、通りがかりの若いウェイトレスに視線を逸らす。


「見たか、嬢ちゃん。ああやって客を飼い慣らす(リピーターにする)んだ」


 少女は足を止め、盆の重さを調整しながら、学者のように真面目に頷いた。


「勉強になります!」


「ぐふっ!?」


 ヴェルンは軽く噎せ、ボトルを下ろした。その顔は滑稽なほどの信じ難さで歪んでいる。


「お、お前……!俺の愚痴を何年も聞いてたのは、この安酒を買い続けさせるためだったのかよ!?」


 ジョシュアは再びカウンターを磨き始めた。その口の端が微かに持ち上がり、隠しきれない愉悦を漏らしている。


「友は友……商売は商売、だ」


 ヴェルンが辛辣な反論を口にするよりも早く、運命は戦鎚ごとき繊細さの欠片もない勢いで介入した。


 バーンッ!!


 酒場の扉が暴力的な勢いで開け放たれる。蝶番が悲鳴を上げ、木板が壁に激突して轟音を立てた。その音は、絶対的な静止命令だった。プツンッ。楽器の弦が一斉に断ち切られたかのように音楽が止む。喉の奥で哄笑が引きつり、あちこちで咳き込む音がした。ガラスや木製のジョッキは宙で静止し、琥珀色の液体が誰にも顧みられることなくテーブルへと滴り落ちる。


 ポタ、ポタ……


 酒場の全員が、一斉に首を回した。信じられないといった空気が澱む。


 その入口(敷居)を跨いだ人物は、この悪党と敗残者の巣窟における常識を完全に無視していた。


 ジョシュアは残った片目で焦点を合わせ、その映像を処理しようと試みる。だが、ヴェルンの反応は劇的だった。そのシルエットを認識した瞬間、眼球が飛び出さんばかりに見開かれる。ギョッ!声は喉で死に絶え、絞め殺されたような滑稽な呻き声だけが漏れ出した。


「ぐふぅ……ぐっ……!」


 通りからの陽光が来訪者を背後から切り取り、一瞬の間、その顔をドラマチックな逆光の中に隠した。彼女は中へと歩みを進める。その足取りはゆっくりと計算されており、貴族の優雅さを無理やり模倣しようとしているのが見て取れた。


 カツ、カツ、カツ。


 ランタンの光が彼女を照らすと、光景はさらにシュールさを増した。


 熱っぽい決意を宿した栗色の瞳。解き放たれた緋色の髪。そして顔には、不運な化粧の痕跡――急いで水で洗い落とそうとして失敗したらしい、黒い影と赤い滲みが残っており、その外見はゴシック趣味と事故の中間のような惨状を呈していた。


 だが、何よりもその服装が場を圧倒していた。


 光を吸い込むような漆黒の夜会服。裾やコルセットには銀糸で星座を描いた刺繍が施されている。繊細なレースの長袖、そして歩くたびにカサカサと音を立てるボリュームのあるスカート。ズルズル……その裾は、不潔でベタつく床の上を危険なほど引き摺っている。貧困の只中で叫ぶような絢爛豪華。それは王家の舞踏会にこそ相応しい衣装だった。


 若き「淑女」は、好色な視線や困惑の眼差しを無視してホールを横切り、カウンターの前で立ち止まった。腐った木材と高貴なシルク。その対比は絶対的だ。


「失礼いたしますわ」


 彼女の声はビロードのように滑らかで、研ぎ澄まされていた。微かな震えが緊張を物語ってはいたが。


 ヴェルンの思考回路が焼き切れた。


 プツンッ。


「なっ、何してんだテメェはぁぁぁぁッ!!クソガキがぁぁッ!!」


 古参兵の絶叫が、静寂の呪縛を打ち砕いた。ジョシュアは友人と奇妙な来訪者を交互に見る。


「お、お前ら知り合いか……?」


「違うッ!!」


 ヴェルンが即答する。その顔は憤慨とパニックで真っ赤だ。


「ええ、左様ですわ!」


 少女もまた即答した。一瞬、優雅さの仮面にヒビが入ったが、失言に気づいた彼女は口元に手を当て、わざとらしい咳払いで姿勢を正した。

 

 コホン。


「わたくしはこの店に、ある傭兵の方を雇いに参りましたの」


 ヴェルンはまるで巨大なハエを追い払うかのように、必死に手を振り回した。


「帰れッ!!さっさと失せろ!」


 イングリッドは目を細めた。丁寧な仮面が剥がれ、苛立ちが滲み出る。彼女は逃げ出し、こんな大層な服を着て、ここまで走ってきたのだ。追い返されるために来たわけではない。


「まあよいでしょう。とにかく……」


 拒絶を無視し、彼女は続けた。演劇的な動作で、ドレスのひだのどこかに隠していた重そうなベルベットの袋を取り出す。


「報酬なら、十分に弾みますわよ……」


 ジャラッ。


 硬貨がぶつかり合う金属音がカウンターに響く。それは本来なら、ヴェルンの強欲さを刺激するはずの音だった。だが、男の顔色は一瞬にして蒼白になった。


 サァァァ……


 今度、ヴェルンは叫ばなかった。口は開いているが、音が出ていない。彼はイングリッドの背後にある『何か』を凝視し、純粋かつ滑稽な恐怖を顔に張り付けていた。隣のジョシュアもまた、皿拭きの手を止めて凍りつき、同じ一点を隻眼で見開いている。


 危険に無自覚なイングリッドは、依頼の重要性についてペラペラと喋り続けていた。だがその時、劇的な空気の変化が彼女を直撃した。周囲の空気が急激に冷え込む。背筋を悪寒が走り、うなじの毛が逆立つ。


 ゾクッ。


 胃の腑で膨れ上がる恐怖と共に、彼女はゆっくりと首を巡らせた。


 ギギギ……


 背後で、入口の光を遮るようにして、黒いシルエットがそびえ立っていた。その姿からは、窒息しそうなほど濃密な怒りのオーラ(覇気)が立ち昇っている。薄暗闇の中で二つの瞳が光り、逃走を試みた獲物を見下ろす捕食者のごとき強度で彼女をロックオンしていた。


「あ、あ、あ……グ、グン……」


 音節が喉で詰まる。


 グンダーの手は無慈悲な正確さで振り下ろされ、夜会服の襟首を掴んだ。


 ガシッ!


 精霊は無言のまま回れ右をし、イングリッドを反抗的なジャガイモ袋のように引き摺って出口へと歩き出した。「淑女」の尊厳は、瞬時に蒸発した。


 ズルズルズル……!


 靴底が木板の上を虚しく滑り、彼女はバーの外へとレッカー移動されていく。腕を滅茶苦茶に振り回し、空を切ったり、掴む場所を探したりしても無駄だった。


「離して!離してよぉぉぉ!!ここに居させて!帰りたくないぃぃぃぃ!!」


 金切り声が通りに木霊し、距離が開くにつれて音量は小さくなっていく。そして、バーの扉が再び閉まる音で、その絶叫は唐突に切断された。


 バタンッ。


 酒場に静寂が戻った。それは先ほどよりも重く、そして困惑に満ちていた。騒ぎで舞い上がった埃が、陽光の中でゆっくりと沈殿していく。


 ジョシュアは瞬きをし、数秒前まで少女がいた虚空を見つめた。


「……あいつらが、お前の頭痛の原因か?」


 ヴェルンは空になった自分のジョッキの底を見つめた。その表情は、たった五分間で十年分老け込んだかのようだった。


「……俺は、その話はしたくねぇ……」

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