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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 「鋼鉄と月光の奔流」
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第35話「緋色の記憶」

 黄金色の(ちり)を纏った陽光の槍が、ブラインドの隙間から忍び足で侵入してくる。縞模様を描く光は毛布の上を滑り、一見すると無垢で整えられたベッドの表面を温めていた。ただ一点、布団の奥深くに隠された小さな隆起だけが、ピンと張られた布地の完璧な対称性を拒んでいる。


 その小さな山は、催眠術のようなリズムで動いていた。重く、遅く、深い眠りに落ちた呼吸に合わせて、スー、スー、と上下している。


 不意に、部屋を征服しようと奮闘していた光が飲み込まれた。ベッドの上に影が落ち、光を貪り食う。肩まで流れる長い髪のシルエットが、隠された膨らみの上に覆いかさり、太陽の熱を遮断したのだ。


 使い古された白い包帯が堅く巻かれた手が、ふかふかの掛け布団の端を掴む。バサッ!乾いた音と共に布地が剥ぎ取られ、占拠者は朝の冷気に晒された。


 そこにいたのは、人間ではない。黒曜石色の毛並みを持つ、小さな毛玉だった。マットレスに丸まった一匹の黒猫。


 突然の熱の喪失を感じ、その黒い生き物はビクリと身震いした。ふわぁ……と、猫はあくびをし、小さな牙とザラザラした舌を覗かせると、二本の前足を目のところに持っていき、不気味なほど人間臭い仕草で目をこすった。そして、背骨の一本一本をしなやかなアーチ状に伸ばして身を乗り出す。


「ま……まだ早かろう……」


 子猫が文句を言った。その声は間違いなくグンダーのものだが、深い眠気と甘ったるさを含んで歪んでいる。


 毛布がなくなっても、影はまだそこにあり、彼の頭上で身じろぎもせず、圧迫感を与え続けている。グンダーは一日と向き合うことを拒絶し、固く目を閉じたままだったが、鼻先すぐ上で聞こえる荒い鼻息は、もはや無視できるものではなかった。


「……猫になってる」


 少女の声が部屋に響いた。その口調には信じられないという響きと、子供じみた興奮が入り混じっている。


「驚くことか?」


 彼はそう答え、シーツに毛むくじゃらの頭を押し付け、暗闇の残滓(ざんし)を探した。 「ミッカ港を出て以来、この姿にはなっていなかったが……」


「ねえ、グンダー……」イングリッドが震える声で呟く。


「この姿になって、ミッカ港の話が出たとなると……」彼は呼びかけを無視し、ベッドの上でゴロンと仰向けになった。足を空に向けて伸ばし、爪を出したり引っ込めたりする。それは快感による無意識の動作だった。眠気に酔いしれ、思考が彷徨(さまよ)っている。「ふむ……何やら懐かしさがこみ上げてくるな……」


「グンダー……」彼女は再び、より強い調子で呼びかけた。


「あれから四ヶ月も経ったとは思えぬ……」彼は再び寝返りを打ち、今度はうつ伏せになった。前足を胸の下に折りたたみ、耳を頭蓋骨にぴったりとつけて音を遮断する、猫の休息のポーズ、香箱座こうばこずわりに落ち着く。


 一瞬、外の街の喧騒だけが沈黙を破り、部屋に重たい空気が流れた。


「……お主も、余をグンダーと呼ぶのに随分と慣れたものだ……最近は一度も言い間違えておらぬようだが……」


「ねえってば……」


「んん?」彼の三角形の耳の片方が、アンテナのようにピクリと立ち上がり、彼女の声に含まれる切迫感を捉えた。


「見てよ、お願い……」


「ええい、何なのだ、忌々(いまいま)しい……」彼は重力に逆らうように重たい(まぶた)を持ち上げ、紫色の片目を開いた。日光が敏感な網膜を刺す。「もう少し待てぬのか、イングリ……ッ、な、なんだそれは!?」


 残っていた眠気が、瞬時に蒸発した。


 猫の視界を埋め尽くしたのは、ベッドに膝立ちになった少女の姿だった。見開かれた瞳には、恐怖と魅了がカオスのように混ざり合っている。だが、グンダーの毛を尻尾から首筋まで逆立たせたのは、彼女の顔ではなかった。


 髪だ。


 長く、艶やかで、否定しようのないその髪。それは彼女の顔の周りに、まるで生き血のカーテンのように垂れ下がっていた。


「白くないッ!」


 イングリッドの叫びが、朝の惰眠(だみん)を引き裂いた。彼女の両手は自分の髪へと飛び、痛みが現実を証明するかのように強く引っ張り、目の前へと持ってくる。震える指の間に残ったのは、鮮烈な緋色(ひいろ)だった。


「そのようだな!これは一体どういうことだ?!」グンダーが叫び返す。この突然の事態に背中の毛を逆立てて後ずさりしながら、その猫の喉からは甲高い声が飛び出した。



 ベッドの端に腰掛けたイングリッドは、(かかと)で空を蹴るように、気ままなリズムで足をブラブラさせていた。両腕を真っ直ぐに伸ばしてマットレスを押し、上体を支えながら体を左右に揺らしている。その顔には、純粋な満足感に満ちた、だらしなくも大きな笑みが恥ずかしげもなく広がっていた。それはまさに、甘やかされた少女の完璧な姿――もっとも今の彼女にとって、その非難は的を射ているとも言えたが。


 彼女は喉を震わせて即興のメロディを口ずさんでいる。その肩に止まった黒猫は、科学的な好奇心をもって緋色の髪を見つめていた。


「伸びておるな……」グンダーは前足を伸ばし、赤い一房(ひとふさ)を捕らえた。手触りを確かめながら、物理的なもの以上の何かを探っている。「それに、お主から微かな魔力の残滓を感じるぞ……」


「♪しーろくない。しーろくないー♪」少女は彼の分析などお構いなしに、自分だけのオペラを続けている。


「夜の間に『(はん)』がお主の上を流れたのだ。エネルギーは循環したが、いつものように体が溢れ出すことはなかった。内部の圧力が勝手に霧散したか……」猫は目を細めて集中し、仮説を立てる。


 突然、ギュッ!と小さな猫の肺から空気が押し出された。二つの手が彼をしっかりと掴み、空中へと持ち上げたのだ。


「僕、今日は変身しなかった!」イングリッドは勝ち取ったトロフィーのように、猫を顔の前に掲げて誇らしげに宣言した。


 猫の紫色の瞳が細まり、神秘的な雰囲気は消え失せ、不機嫌で現実的な光が宿る。


「今のところは、な」彼は言い返した。「今夜には元に戻る可能性が高い。魔力は循環するものだ」


「そんなの、わかるわけないじゃない!」彼女は抗議した。その声には、再び子供じみた癇癪(かんしゃく)の色が戻っていた。


「わからぬとも……」流れるような動きで体をよじり、彼は彼女の手から逃れると、音もなく横のマットレスに着地した。後ろ足で座り込み、尻尾を前足に巻き付けると、じっと彼女を見上げた。「だからこそ、実験をする」


「実験?」彼女は小首を傾げ、きょとんとした。


「そうだ。この変化が、あの戦闘による消耗の反動だけだとは思えん。お主の現在の心理状態も、エネルギーの抑制に影響していると余は睨んでいる」


「僕がもっと『男』らしく振る舞うってこと?」彼女の笑顔が揺らぎ、心配そうな表情に変わる。


「必ずしもそうではない……」猫は前足を顎に当て、人間のような思索のポーズをとった。「余が拾って以来、お主はずっと『斑』に対して生理的な嫌悪感を示していた。人生のあらゆる不幸を、それのせいにしていたからな」


 イングリッドは視線を逸らした。その表情からあどけなさが消え、深刻な色が浮かぶ。湖での忌まわしい記憶、水面に映る自分の姿、そして去っていく兄の背中――それらが亡霊のように視界の隅に蘇る。


「お主は常に、『自分を連れ戻してくれる』何かを外に求めていた」グンダーの言葉は容赦がなかった。「五年前、シンクレアが現れ、お主を鍛え、『治療』への希望を与えた時……それ以来、お主は強迫観念に取り憑かれていた。生きていたのではない。今日この場所にたどり着くことだけを目的に、ただ存在していただけだ」


「でも、セレストの王冠が実在するって言ったのはキミじゃないか!」彼女は感情を爆発させた。不満と苛立ちで声が詰まる。 「キミが見た『幻影』だって、僕に見せたじゃないか!」彼女は顔を背け、彼を直視しようとしない。まるで彼の言葉が裏切りであるかのように。「それに……男装すれば、この『モノ』を抑えられるって言ったのもキミだ……」


「わかっておる」彼は低く呟いた。


 ユラリ……猫の周囲の空気が陽炎(かげろう)のように揺らめいた。小さなシルエットが膨張し、影が伸び、質量を持って凝固していく。黒い毛並みがあった場所に、金糸の刺繍が施された重厚な紫色のコートが物質化する。変身は数秒で完了し、そこには人間の姿をしたグンダーが立っていた。


「余は確かに、遥か昔に王冠を見た……」人間の声帯から発せられるその声は、重低音を響かせる。「だが、今それが何処にあるかは知らぬ」


 彼は包帯の巻かれた手を伸ばすと、素早い動きで彼女の額を狙った。ペシンッ!乾いた音が響く、見事なデコピンだった。


「いったぁ!」


「男装するのは、『斑』の認識を欺くためだ。余が毎晩、力の流出を防ぐために張らねばならぬ結界の助けとしてな」


 彼女は両手で額を押さえ、赤くなった場所をさすりながら、嘘泣きと怒りが入り混じった涙目で彼を睨みつけた。


 グンダーは呆れたように目を回し、溜息をつく。


「もっとも、偽名を使う件に関しては、完全にお主のアイデアだったがな……」


「その説明はいらないよ!それに、本名を言いふらさない方がいいって言ったのはシンクレアさんだ!」


「彼女の言う通りだ」


「だけど!オードリーさんやブリックス隊長に話させたのはキミじゃないか!」


「お主がその軽い口を開くより前に、余が手を打っておいたのだ……」


 フンッ!イングリッドは強く腕を組み、これ見よがしに鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「甘えん坊め……」グンダーは小声で呟いたが、その細められた瞳には珍しく柔らかな光が宿っていた。


(シンクレアが我々を見つけて以来、こやつがこんな風に振る舞うのは久しぶりだな……)口元に微かな笑みを浮かべ、彼は思う。あの泣き虫な少女は、まだこの中に生きているのだ、と。


 記憶が波のように精霊を打つ。巨大な湖の岸辺、孤独な小屋の湿った木の匂い。夕食のための魚を殺すのを拒んで泣きじゃくる、長く赤い髪の子供の姿。泳げないのにボートが湖の真ん中にあり、恐怖で泣き叫ぶ姿。暗い森に怯えて震える姿。


「あの頃のお主は小さくて、可愛げがあったのだがな……」声に郷愁(ノスタルジー)が滲み出る。


「どこが懐かしむような話なのさ……」彼女はボソボソと文句を言った。


 グンダーの笑みがゆっくりと消えた。紫色の瞳が見開かれ、思い出の温かさが失われる。代わりに、イングリッドを硬直させるような、分析的で冷徹な光が宿った。


「月の『斑』は不安定な魔力だ。お主の体は単なる器に過ぎぬ……それが発現して以来、最悪の事態を避けるため、余は毎晩その存在を隠蔽してきた」


 彼は上体を前に傾け、捕食者のような鋭い視線で彼女の瞳を射抜いた。


「お主は……それを受け入れつつあるな」


 イングリッドの目が大きく見開かれた。部屋の中の沈黙が、絶対的なものとなる。


「カオスな状態に戻ろうとするのは時間の問題だ。だが、今のところ、お主は無意識のうちにそれを『制御』している……」


 バサッグンダーは流れるような動作でベッドから立ち上がった。包帯を巻いた手で紫のコートを撫で、存在しない埃を払い、皺を伸ばす。それはこの物理的な現実に自己を繋ぎ止めるための、彼が固執する人間臭い癖だった。


「エネルギーがお主の生体組織内でどう振る舞うか、観察する絶好の機会だ」彼は横目で彼女を見ながら言った。イングリッドは腕を解き、防御的な姿勢から、分析的な好奇心へと表情を変える。「我々が『先触れ』となって四ヶ月。お主が全魔力を使い果たすほどの敵と対峙したのは、これが初めてだった」


「キミがいつも、僕が戦う前に敵を片付けちゃうからだろ……」彼女は頬を膨らませて抗議した。そこには、血生臭い戦果ではなく、まるで子供がお菓子を奪われたかのような幼い恨みがあった。


 グンダーは傲慢な笑みを浮かべ、口角を吊り上げる。否定はしない。むしろ、意図的に見せ場を奪っていたことを誇っているようだ。


「エネルギー的に底をついたのは今回が初だ。それに……」


 彼の表情が一変する。嘲笑が消え、深淵を覗き込むような探る目つきになった。彼は彼女の、今は無防備で鮮やかな栗色の瞳を見つめる。


「シンクレアが扉を叩いて以来、お主が夢見てきた『旅』についに出たからなのか……あるいは、あの酔っ払いの小僧の影響か」


 ヴェルンの名が出た瞬間、イングリッドの肩がビクリと跳ね、驚きに瞬きをした。


「重要なのは……」彼女の反応を無視し、グンダーは続ける。「お主が『斑』を受け入れているという事実だ。昨日、男の皮を被ることを自然に受け入れたようにな」


 静寂が部屋を満たす。イングリッドはうつむき、緋色の髪がベールのように顔にかかった。彼女は包帯の巻かれた掌をじっと見つめ、皮膚に刻まれた答えを探すように視線を落とす。


「僕はただ……文句を言ったり泣いたりしても、現実は変わらないって思っただけだよ」


 グンダーは笑みを崩さなかったが、そこには無言の承認があった。


「この呪われた力が大嫌いでも……」彼女の声は低いが、確固たる響きがあった。「自分じゃない誰かにならなきゃいけないのが、死ぬほど嫌でも……」


 彼女は顔を上げた。そこにあった迷いは消え、強烈な決意が燃えている。小さく、しかし危険な笑みがその唇に浮かんだ。


「結局、僕には選択肢なんてない。この力は僕のものだ。望もうが望むまいが、僕の一部なんだ」


 精霊は満足げに目を閉じた。それは彼が何年も待ち望んでいた眼差しだった。彼は(きびす)を返し、迷いのない足取りで出口へと向かう。


「休んでおれ。余は宮殿への案内人を探してくる。その話の続きは、お主が震えずに立っていられるようになってからだ」


「待って!」彼女の抗議の声に、ドアノブにかけた彼の手が止まる。


「何だ?」グンダーは肩越しに顔だけを向けた。その表情は苛立たしげだ。


「キミ……髪を切ってくれないの?変身魔法は?さっき言ってた実験はどうするのさ?!」 彼女は長い髪に触れ、正体が露見することへの恐怖で声を上ずらせた。


 グンダーは天井を仰ぎ、高次元の叡智に助言を求めるかのような仕草をしてから、絶対的な無関心を装って彼女を見返した。


「ああ、そうだったな」彼は乾いた声で言った。「やらぬ。髪も切らぬ。それが実験だ」


「はぁ?」


「それに、昨日お主が医務室で目覚めて以来、余は髪を切るつもりも、変装に魔力を割くつもりも毛頭なかったのだ」


「な、なんで……?」彼女の声が裏返る。


 彼は体を完全に反転させ、腕を組み、わざとらしいほど長く、深い、呆れ果てた溜息をついた。


「なぜなら……!」彼はビシッ!と人差し指を彼女の鼻先に突きつけた。


「今トムの変装を施せば、余が背中を向けた瞬間、お主は窓から脱走するに決まっておるからだ!この疫病神め!」


 バタンッ!!グンダーは再び背を向け、壁が震えるほどの勢いでドアを叩きつけて出て行った。


 イングリッドはベッドの上で石のように固まっていた。目は点になり、口は信じられないというようにポカンと開いている。弁解の言葉は喉の奥で死に絶えた。彼の推理があまりにも図星すぎて、ぐうの音も出なかったのだ。

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