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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 「鋼鉄と月光の奔流」
34/41

第34話「斑の休息」

 チカ、チカ……と。瞬くネオンの光とホログラムの看板が、惨めな酔っ払いの老体を照らし出していた。それはまるで、彼の悲惨さを強調するかのような残酷なスポットライトだった。ヴェルンは路地に転がっていた。疲れ切った手足の塊と、アルコール臭い溜息。そんな彼を、眼前の少年が苛立ちを露わにして睨みつけている。――いや、正確には「少年」ではない。魔術が強引に少年として投影しているだけで、その皮の下には少女が隠されているのだ。


「僕を信じろって!あんな場所、おじさんだって気に入らないはずさ……」ヴェルンはこめかみを揉みながら、視界の端で彼女を捉えた。泥酔した視界が、焦点を結ぼうと必死に抵抗している。


「お前には分からないだろ!」彼女は言い返した。拳を胸の前で握りしめ、ショーウィンドウの高い玩具をねだる子供そのもののポーズだ。「僕なら大金を稼げるかもしれない!僕の運は無敵なんだから!」


「ああ、そうかい。稼げるだろうな、もちろん……宇宙ってのはいつだって、素人が大好きだからな」


「チャンスをくれよ!」


 ヴェルンは顔を上げた。その表情は苛立ちと疲労の仮面そのものだ。少年の幻影が現実に重なっているが、その仕草、声、そして癇癪は紛れもなく「女」のそれだった。その認知の不協和が、不意に彼の記憶を刺激した。二人が出会ったあの日。トムの偽装が解け、『はん』が現実世界へと漏れ出した、あの瞬間の記憶だ。


(……アルコールに脳みそを食われてなけりゃ、あれは黄昏時だったか……)彼は思考を巡らせ、少女から視線を外した。


 酔っ払いは夜空を見上げた――あるいは、夜空の残骸を。本来あるべき闇は、『上層街』の無慈悲なシルエットによって切り取られ、窒息させられていた。鋼鉄とコンクリートが、星々を遮断している。


「話を聞けってば!無視するなよ!」


 彼は無視した。目は都市の天井という名の人工的な闇に釘付けだ。(何でまた、あんな……)


「いっ!」ヴェルンが唸り、歯の間から悲鳴が漏れた。


 ガンッ!ガンッ!鋭い痛みが足に走る。トムが彼の踵を執拗に蹴りつけているのだ。ブーツの底が骨を叩く不快なリズム。それは即座の関心を要求していた。


「何しやがる、この疫病神!」


「返事をしないほうが悪いんだ、マナー違反だぞ!」


 トムは攻撃を止めた。男は横に倒れ込み、ズキズキと脈打つ足首を押さえる。顔は肉体的な苦痛と、押し殺した怒りで歪んでいた。対する彼女は、「フンッ」と舌打ちをして顔を背け、軽蔑を露わにする。


「本気かよ、こいつ……」


「ふん!」


 ヴェルンの目が細められた。足の痛みが逆に意識を研ぎ澄まし、酔いの霧を一瞬だけ散らしたのだ。冷徹な推論が、雷のように彼を打つ。あの日、彼女が少年の演技を止め、本来の女性的な性質を表に出した瞬間、魔術は激しく崩壊した。幻影は解けたのだ。


 彼は目の前で繰り広げられる少女のドラマを観察した。(こいつは今、まさにそれをやってやがる。癇癪、駄々……一晩中これだ……)


 だが、幻影は岩のように堅固だった。少年の像には、ノイズ一つ走らない。


「おい……」ヴェルンが声をかけた。その響きは、ただの愚痴っぽい酔っ払いから、危険なほど醒めた何者かへと変貌していた。


「なによ!もう頼まないよ!」


「なんで『はん』がお前を侵食しねぇんだ?」


 ピタリ、とトムが凍りついた。幻影の顔に混乱を貼り付けたまま、彼女はゆっくりと首を巡らせる。「ど、どうして……『斑』のことを知ってるの?!」


 ヴェルンは目を細めたまま、珍しい獲物を分析する捕食者のような視線を彼女に向けた。「他人が『斑』を知ってることが意外だ、とでも言いたげだな……」


 トムは言い返そうと口を開いたが、まともな音にならなかった。手は空中で意味のない形を描き、身体は魔法の変装の下で微かに震えている。焦燥が溢れ出し、彼女が演じようとしていた「少年」の冷静さを破壊していく。「ぼ、僕……いや、違うんだ……問題はそこじゃなくて……」声が裏返り、緊張に詰まる。


「俺の記憶が確かなら……」ヴェルンが彼女の言葉を遮った。低く重い声が、彼女の吃音を踏み潰す。彼は無精髭の生えた顎を掻きながら、埃をかぶった記憶のアーカイブを遠い目で検索していた。「お前の親父も、母親も……『セレナイト人(月人)』の末裔じゃなかったはずだがな」


 トムが硬直した。身振り手振りの途中で手が止まり、力なく体側に落ちる。重苦しい沈黙が降りた。そこには、純粋な混乱があった。


「待って」彼女は瞬きをした。変装の髪の下で眉をひそめる。「おじさん……僕の両親を知ってるの?」


 ハァァ……ヴェルンは長い溜息をついた。アルコールの臭いが、湿った路地の金属的な空気と混ざり合う。「知ってるとも。ずいぶん昔の話だ。前世みてぇなもんだがな」バキッ。首を回し、乾いた音を鳴らす。「お前の親父……あのクソ野郎は、雷みたいに速かった。何度かやり合ったことがある。ラバみたいに頑固な男だったよ」


 突然、ヴェルンが動きを止めた。カッ!と目が見開かれる。突然の天啓が、一瞬にして彼の酔いを消し飛ばしたかのようだった。彼は震える指を突き出し、トムの顔を弾劾するように指差した。


「お前か!」まるで宇宙の真理を発見したかのように、彼は叫んだ。「あの時、母親の腹の中にいたのはお前だったのか!だからあの決闘の最中、あの女は吐き気を催してやがったんだ!」


 ドゴォォッ!トムのブーツが再びヴェルンのすねに炸裂した。今度は路地に反響するほどの威力だった。


「わけのわからないこと言わないでよ!馬鹿じゃないの?!」彼女は叫んだ。顔が恥辱と憤慨で赤く染まっている。


「ぐぅっ……!」ヴェルンは打たれた足をさすりながら呻いたが、頭脳は回転を続けていた。痛みがかき消そうとする点を、線で繋ぎ合わせていく。


「わけがわからなくなんかない。これは遺伝学と歴史の話だ」汚れた地面に座り込んだまま、彼は姿勢を正し、低い声で唸った。「お前の母親は『聖騎士』のエリートだった。清廉潔白、堅苦しい血統だ。そして親父は……『ファラームの炎の法務官』の大物の一人だ。朝飯前に街一つ焼き払うような戦闘魔導師どもさ」


 トムは口を半開きにして彼を見つめていた。顔に浮かんでいた混乱が、警戒心へと変わっていく。「なんで僕に、僕の家族の歴史を説明するわけ?そんなの知ってるよ!」彼女は腕を組み、防御的な姿勢をとった。「僕が馬鹿だとでも思ってるの?」


「お前は甘ちゃんだと言ってるんだ」ヴェルンは言い放った。浮浪者のような外見とは裏腹に、その口調は鋭い。「そういう有名な軍事血統ってのはな……近隣諸国すべてに記録され、カタログ化され、研究され尽くしてるんだよ。奴らは生ける兵器だ。潜在的な脅威だ。戦争が始まる前に、敵がどんな手札を持ってるか知っておくのが優れた戦略家ってものだ。俺はその報告書を読んでる」


 彼は言葉を切った。その眼差しは分析的になり、少女の表面的なアイデンティティを剥ぎ取り、その血管を流れる謎だけに焦点を合わせていた。


「そして、俺が何年も前に暗記した記録によれば……二人の家系図は明白だった」彼は首を傾げ、半眼で彼女を見据える。「人間の血、戦闘魔術、鋼鉄と炎。……だが、セレナイト人の血なんて一滴も混じっちゃいねぇ。『月』の遺産なんて、どこにもな」


 ゾクリ。トムの背筋を冷たいものが走り抜けた。酔っ払いの仮面の下に隠された外科医のような正確さ。その口調があまりにも不気味だったからだ。


「気味が悪いな……」彼女は鼻にシワを寄せ、一歩後ずさる。「気持ち悪いよ。よく知りもしない他人のことを、そこまで見透かすなんてさ」


 ジョリ、ジョリ……ヴェルンが無精髭を掻く音が、路地の静寂に低く響いた。アルコールで充血した目は、そのだらしない姿勢を裏切るような冷徹な分析眼で細められている。何かが噛み合わない。


「だとしても……お前、安定しすぎだ」彼はトムの方へ適当に手を振って見せた。「魔法を使ってようがいまいが、お前のオーラはいつも垂れ流しだ。シルクのシーツで火事を隠そうとしてるみたいにな。だが今は、静電気の火花ひとつ散っちゃいねぇ。なんで『斑』は今、お前を食い殺そうとしてないんだ?」


 トムは腕組みを解いた。防御的な表情が少し和らぎ、子供っぽい真剣さが顔を出す。彼女は胃のあたりに手を当て、空中に見えない形を描いた。


「逃げる前に、ガンダーが説明してくれたんだ」彼女は声を落とし、保護者のしかめっ面を真似てみせた。「僕は『うつわ』みたいなものなんだって」


「器?」


「そう。で、『斑』は……壊れて錆びついた蛇口全開の水道みたいなもの。僕の中に際限なく力を注ぎ込んでる」


 その光景を想像してヴェルンは眉をひそめたが、黙って先を促した。トムが語るうちに、彼女の瞳はとある建物の磨かれた金色の金属に反射する光を捉え――そして、冷たい路地の現実は溶け出し、数時間前の記憶へと飲み込まれていった。


◇ ◇ ◇


 客室は生ぬるい薄闇と静寂に包まれていた。聞こえるのは壁時計の単調なチクタク音と、イングリッドの芝居がかった溜息だけ。ガンダーはベッドを占領し、猫のように丸まって、必死に世界の存在を無視して昼寝を決め込もうとしていた。対照的にイングリッドはうつ伏せになり、足をバタつかせて天井を睨んでいる。顔には実存的な拷問を受けているかのような苦悶が浮かんでいた。


「退屈ぅ……」枕に顔を埋めたまま、彼女が呻く。「死んじゃう。脳みそが溶けて耳から垂れてきそう。暇、暇、暇っ!」


「寝ろ、イングリッド……」ガンダーは目も開けずに唸った。その声は深く眠たげなゴロゴロ音だ。「静寂は、余への貢ぎ物だぞ」


「寝るなんて時間の無駄!なんか変な感じなの。体が軽すぎるっていうか」ガバッ!彼女はベッドの上で跳ねるように起き上がり、スプリングを軋ませた。「何かが足りないの。いつもなら肌がチリチリしたり、空気が重かったりするのに、今日は……何もない。ただの退屈な空っぽ」


 ガンダーが片目を開けた。縦に割れた瞳孔が薄闇の中で開き、忍耐と諦めがないまぜになった視線を彼女に向ける。ボキ、ボキボキ。彼はゆっくりと体を伸ばし、枯れ枝が折れるような音を立てて関節を鳴らした。


「それは退屈ではない、イングリッド。魔力枯渇(ガス欠)だ」彼は上半身を起こし、首の後ろを掻いた。「いいか、お前が『コップ』だと想像してみろ」


「コップ?ワインの?」イングリッドは足を止めて眉をひそめる。


「なんでもよい。で、『斑』というのは……お前の中に常に液体を注ぎ込み続ける、尽きることのない水源だ」ガンダーは空中に見えない流れを描いてみせる。「お前はいつも満タンだ。溢れ返っておる。だから戦ったり感情が高ぶったりすると、好むと好まざるとにかかわらず『月の魔力』が縁からこぼれ落ちるのだ。お前の体が抑えきれない過剰分、それが夜になると変装が解ける理由であり、余たちが毎晩黄昏時に隠れねばならぬ理由だ」


 ふあぁぁ……と、鋭い牙を見せつけて大あくびをしてから、彼は続けた。


「だが、あの女との戦闘は激しかった。お前は持てる全てを使い果たした。初めて、器が空になったのだ」彼はイングリッドを指差した。「体が軽いのは、決壊寸前の海の重さを背負っておらぬからだ。また蛇口がお前を満たすまでには、少し時間がかかるであろうよ」


 パチクリ。イングリッドは瞬きをして情報を処理した。退屈そうな顔が徐々に崩れ、天啓を得たような理解へと変わる。凶悪で満面の笑みが、その唇に浮かび上がった。


「ちょっと待って……」彼女は自分自身に秘密を打ち明けるように囁いた。「器が空っぽで……何も溢れてないなら……」


 ダンッ!彼女はベッドから飛び降り、ガンダーの目の前に着地した。


「じゃあ、変装は解けないってことじゃん!今夜は隠れる必要ない!」


 説明の仕方を間違えた、と悟ったガンダーが溜息をつく。「イングリッド……」


「外に出られる!街が見れる!人が寒気を感じたり、変な白い光を見たりせずに、普通に人混みを歩けるんだ!」彼女は腕を振り回し、全身で興奮を表現した。「ガンダー、行こう!今すぐ!チャンスなんだって!」


「断る。絶対にだ」精霊は再び目を閉じ、睡眠という名の権威を召喚しようとした。 「お前が空っぽなのは限界が来ておるからだ。必要なのは絶対安静であって、観光ではない」


「えーっ、なんでよ!お願い、ガンダー!ちょっとだけ!」ドスッ!彼女は精霊の背中に飛び乗り、その体の上で跳ね回った。「ここに来てから一度も『上層街』を見せてくれないじゃない!トラブルは起こさないって約束するから!僕の運は最強なんだよ!おーねーがーいー!」


「余は――寝る――と――言ったのだ」


「ガンダー!ガンダー!ガンダー!」


 バッ!彼はとてつもない速度で跳ね起き、イングリッドを空中に放り投げた。「ああもう、神々にかけて!出かけさせてやれば黙るのか?!」


◇ ◇ ◇


 記憶が霧散する。薄汚い路地裏に戻り、トムは肩をすくめた。その仕草には、罪悪感と勝利感が入り混じっていた。


「……で、今ここにいるってわけ」


 ハッ、とヴェルンは短く乾いた笑い声を漏らした。それは信じられないというような咳払いに近かった。彼は呆れて首を振る。「つまりこういうことか。お前はあの大精霊様を根負けさせたんだな」


「正当な交渉だよ!」彼女は地面を踏み鳴らして抗議した。


 古参兵は顔を撫で、二日酔いの冷や汗を拭った。論理は通っている、歪んだ形ではあるが。だが、このパズルのピースが一つだけ、どうにも彼を苛立たせていた。


「あの猫砂野郎……」ヴェルンはガンダーを指す蔑称を口にした。「あいつは言ったな。お前は月の魔力を『意図せず』使っていると。器から溢れ出しているんだとな」


「そうだよ!」トムは激しく身振り手振りを加え、手で爆発を描いてみせた。「僕だってあんまりこの力は使いたくないんだ。いい思い出がないし……それに、止めたくても制御できないんだよ。勝手に出てきて……ドカン!青い爆発さ。戦い始めると、勝手に起きちゃうんだ」


 ヴェルンは彼女をじっと見据えた。その視線は少年の幻影を突き刺すようだ。制御不能という概念は彼も理解できる。彼自身、自分の内なる悪魔と共存しているからだ。だが、その話には根本的な欠落がある。


「溢れるってのは分かった」ヴェルンの声が危険なほど静かになり、彼は上体を前へ傾けた。「だが、そいつは明白な疑問の答えになってねぇぞ」


「疑問って?」


「なんでお前は、月の魔力を『わざと』使わねぇんだ?」


 トムは混乱して瞬きをした。「今言ったじゃん!制御できないんだって!器がいっぱいの時に漏れ出して……」


「違うだろ、このクソガキ」ヴェルンは苛立ちを露わに遮った。「受動的な『漏れ』の話なんかしてねぇ。勝手に溢れるのがどうとか聞いてないんだよ。俺が聞いてるのはな、なんで必要な時に、器の中にある水を自分ですくって誰かにぶっかけねぇんだ?なんでそのエネルギーを形成しない?なんで偶然の過剰分だけに頼ってやがる?」


 その問いは、重く、告発するようにその場に漂った。トムは答えようと口を開いたが、すぐに閉じた。カァァッ……と、「少年」の顔が猛烈に赤くなる。頬から耳まで鮮やかな朱色が駆け上がった。彼女は視線を逸らし、急激な恥ずかしさに襲われたように、足元の小石を蹴飛ばした。


「あー……」ネオンの電気ノイズにかき消されそうなほど、彼女の声が縮こまっていく。


「なんだ?」ヴェルンが追及する。


「その……僕は……つまり……」彼女は後頭部を掻き、神経質に笑った。「あはは」という甲高く引きつったその音は、数分前の傲慢さとは完全に矛盾していた。


「実はさ……僕、魔法の使い方、知らないんだ」


「あの毛玉、一体お前に何を教えてやがるんだ……?」

【活動報告 / あとがき】


今回投稿したエピソードは、年末年始の休暇を利用して書き上げたものです。 自宅で過ごす時間が長かったため、普段以上に執筆に集中することができました。


書き溜めた分をストックとして温存することも考えましたが、少しでも早く皆様にお届けしたいと思い、公開させていただきました。


次回からは、これまで通り週2回の更新ペースに戻る予定です。 引き続き、お楽しみいただければ幸いです。

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