第33話「偽りの夜」
夜の帳が下りると、広大な砂漠は氷の墓標へと姿を変える。外の世界では、肌を切り裂くような風が吹き荒れ、吐く息すら凍りつく。無防備な旅人にとっては死の宣告に等しい寒さだ。だが、巨大な裂け目の上に鎮座するその光の点は、世界の残酷な理を拒絶していた。
キサナトラ。鋼鉄の巨都は、自然のサイクルを嘲笑うかのように脈動している。
日中、太陽が砂を焼き尽くす時間帯は、断崖の影によって湿った冷気を保ち、今は逆に、夜の漆黒の外套の下で人工的な均衡を維持していた。裂け目の底から絶えず吐き出される蒸気機関の排熱と、魔導技術による障壁。それらが作り出す微気候は、少しばかり息苦しい金属と湿気の臭いを孕んでいるものの、砂漠の冬を完全に無視した生温かい安らぎを都市に与えていた。
そんな石畳の上を、トムは歩いていた。いや、歩くというよりは、世界を初めて目にした子供のような、予測不能な軌道で跳ね回っていると言ったほうが正しい。華奢な身体は傷の回復途中だというのに、痛みや疲労とは無縁に見えた。
「うわぁ……!見てよ、すごい!」
上層都市のメイン広場に足を踏み入れた瞬間、空の暗闇は遠い嘘のように掻き消された。暴力的なまでの光量。手の込んだ鉄製の街灯に吊るされたアーク灯と魔導結晶が、永遠の真昼を模倣するかのように、通りを黄金色の輝きで満たしている。
広場は、交錯する人生と物語の坩堝だった。マナの糸で刺繍された絹のチュニックを纏い、扇子や仮面で顔を隠した貴族たちが、平民をあえて無視しながら闊歩する。首が痛くなるほど摩天楼を見上げる観光客、鎧に旅の砂埃を残したままの傭兵、そして稼ぎを散財しに来た下層の商人たち。エルフの商人が傲慢に布地を取引し、分厚い毛皮を持つパンテリアン族が荷物を運ぶ姿もある。
ザワザワ、ガヤガヤ……笑い声、交渉の怒号、硬貨の触れ合う音がカオスな交響曲を奏でている。
そんな喧騒の中、二つの影があった。興奮を抑えきれない子供と、子守りをするくらいなら谷底へ飛び降りたいと本気で考えている、泥酔した元騎士だ。
ペタッ!トムが魔導具店のショーウィンドウに顔と両手を押し付けた。荒い鼻息でガラスが白く曇る。中では予言の水晶球がベルベットの上で浮遊し、熱源もないのにポコポコと沸騰する蛍光色の液体が並んでいた。トムの瞳はそれらのアーティファクトよりも強く輝き、貪欲なまでの好奇心で細部を吸収していく。
「次はあっち!」
「おい、待て……」
ヴェルンが抗議する間もなく、少女は次の店へとダッシュしていた。今度の標的は『鋼鉄』だ。ルーン文字で強化されたマスケット銃、磨き上げられたプレートアーマー、そしてロングソード。トムは刃の切れ味や発射機構の複雑さを、その可憐な容姿とは裏腹な、玄人じみた技術的な視線で解析していた。
さらに先では、インチキ臭い男が路上に絨毯を広げ、ガラス玉を魔法の宝石だと偽ってがなり立てている。通行人の大半は無視するが、トムは足を止めた。その詐欺師の手さばきと演劇じみた口上に、純粋な感嘆を抱いているのだ。
フワァ……キャラメリゼされた砂糖と、揚げた生地の甘い香りが漂ってきた。
そして、ショーが始まる。広場の中央、人だかりの中心で魔術師が杖を振るう。バチバチッ!ドォン!青い炎のドラゴンが火花のライオンを追いかけ、音のない咆哮とともに光の紙吹雪となって弾け飛んだ。子供たちの歓声、大人たちの拍手。
そんな光と音の渦の中で、一つだけ、静止した闇の点があった。
ヴェルンは両手をコートのポケットに深く突っ込み、肉体的なものを超えた疲労で肩を落としていた。彼の視線は死人のように退屈で、周囲の歓喜を、雨を吸い込む石のように無感動に受け流している。
(……なんで俺は、こんなところにいるんだ?)
彼は広場の端、裂け目の奈落へと続く手すりを見やった。一瞬、そこから身を投げる方が、この無意味な散歩を続けるより魅力的に思えたほどだ。誰も頼んでいない。誰も子守りを強要していない。だが、この捕食者のような都市にあのガキを一人で放り出すことへの警報が、脳内で鳴り響いたのだ。トムの無邪気さは、トラブルを引き寄せる灯台のようなものだ。ヴェルンはそれを、苦い経験則として知っていた。誰かが影を見張らなければならない。「公爵」様が光の中で遊んでいる間は。
ドサッ。ヴェルンは公共のベンチに重い身体を投げ出し、肺に溜まった都市の澱んだ空気をすべて吐き出すような溜息をついた。足が痛む。もう二十代ではないという現実の痛みだ。目を閉じ、回転する光と音の眩暈をやり過ごそうとした、その時だった。
「おじさん、いる?」
影が落ち、果実のシロップと油の甘ったるい匂いが鼻を突く。片目を開けると、そこには不安定な「お菓子の山」を抱えたトムが立っていた。砂糖漬けの果物の串、シナモンをまぶした揚げ菓子の脂っこい紙袋、そして微かに魔力光を放つ綿菓子のようなもの。
「食べる?」溶けた砂糖が滴るリンゴ飴を突き出される。
「パスだ」ヴェルンは顔をしかめ、手の甲でそれを払いのけた。「俺は自分の歯を大事にしてるんでな」
トムは肩をすくめると、彼の隣に座り込み、その宝の山を膝の上でバランス良く広げた。そして、あの細い身体のどこに収まるのか不思議なほどの勢いで、最初の菓子に食らいついた。
モグ、モグ、モグ……
ヴェルンは呆れながらそれを横目で見た。尽きることのないエネルギー。燃料など見当たらないのに燃え続ける炉のようだ。(どうなってやがる……ついさっきまで遺跡で血を流して殺し合いをしてたってのに)
「そんなに食ってると、動きが鈍るぞ」彼は乾いた皮肉を投げた。「脂肪ってのはすぐに付くもんだ。走る代わりに転がる羽目になるぜ」
ピタッ。反応は劇的だった。トムの手が口元で凍りついた。彼女の目は大きく見開かれ、自分の腰を見下ろし、菓子を見て、また腰を見た。興奮の輝きが消え、代わりに純粋な恐怖が浮かび上がる。彼女はゆっくりと、まるで呪いのアイテムを扱うかのように、串を紙袋へと戻した。
「……もう、いらない」トムは腕を組み、ぷいと顔を背けた。
ズキッ。ヴェルンの胸に、小さな罪悪感が走る。
「……冗談だ」彼は居心地悪そうに首の後ろをかいた。「お前みたいに四六時中走り回ってエネルギーを浪費してりゃ……太るわけがない。食えよ。今日くらいは問題ない」
トムは疑わしげに彼を見た。それから視線は菓子へと戻る。誘惑と乙女心の葛藤。(へぇ、一応は女としての悩みがあるってわけか)観念して再びリンゴを齧り始めた彼女を見ながら、ヴェルンは内心で苦笑した。ただし、その一口は先ほどよりも慎重で計算されたものになっていたが。
人工灯の下で、彼女の表情が和らぐ。(まだ、ただの子供だ)だが、その姿に、深紅の髪の「少年」が銀色の三節棍を振るい、青の淑女と死闘を繰り広げた記憶が重なる。この世界では、子供時代など早すぎる蒸発をする贅沢品だ。甘い菓子で汚れるべき手は、あまりにも早く血の拭い方を覚える。
「……この世界じゃ、ガキは嫌でも早熟にならざるを得ないか」彼は独りごちた。
「ん?なんか言った?」頬をリスのように膨らませたトムが尋ねる。
「あ?いや、なんでもない。ただの独り言だ」
「あ!あれ見て!」
トムの叫びが彼の思考を断ち切った。空になった串で、彼女が広場の反対側を指差している。
ドォォォォン……他の店を威圧するようにそびえ立つ、巨大な建造物。ファサードは光の滝だ。金、深紅、紫の色彩が催眠術のようなパターンで脈動している。ガラスの壁の中で光が踊り、二重扉からは大音量の音楽とヒステリックな笑い声が漏れ出していた。
「なにあれ?」
ヴェルンは目を細め、軽蔑の色を浮かべた。「カジノだ」彼はその単語を汚物のように吐き捨てた。「ここ数年で街に蔓延した病原菌みたいなもんだ」
「カジノ?」トムはその言葉を反芻した。瞳が建物の照明以上にギラギラと輝きだす。
「愚か者のための罠だよ」ヴェルンは苛立たしげに手を振った。「一攫千金を夢見させて、身ぐるみ剥がすために設計された場所だ。金を持って入り、借金を背負って出る。勝つのは常に胴元だ、お嬢ちゃん。これは人間の愚かさに付け込んだ単純な数がく――」
ふと、言葉が途切れた。隣のベンチが空だった。菓子の山が放置されている。
「……おい?」
ヴェルンは弾かれたように首を巡らせ、群衆をスキャンした。心臓が早鐘を打つ。(あのバカ、なんであんなに速いんだ!?)
視線が、あの輝く建物の入り口に釘付けになった。いた。巨大な扉の前で、今にも飛びかかろうとする猫のような姿勢で中を覗き込んでいる小柄な影。制服を着た警備員二人が、スタンバトンを手に困惑した顔でその「少年」を呼び止めようとしている。
「あぁ、もう……ッ!」
シュンッ!ヴェルンの姿が掻き消えた。
彼が座っていた場所の空気が遅れて弾ける。常人の目には捉えられない速度で、彼は破滅の入り口へと足を踏み出そうとしていたトムの背後に実体化した。
「ちょっ!」
ガシッ!ヴェルンはトムの襟首と腰を掴み、まるで小麦粉の袋でも運ぶかのように軽々と持ち上げた。
「そこに入るのはナシだ」彼は踵を返し、光の誘惑から遠ざかるように歩き出した。
「離せよ!見たいんだって!」バタバタバタ!トムが空中で無意味に足を蹴り上げ、暴れだす。「キラキラしてる!遊びたい!僕にも遊ばせろよぉ!」
「静かにしろ!警備隊を呼ぶ気か!」観光客たちの生温かい視線を無視し、ヴェルンはこの駄々っ子の「公爵」を引きずっていく。「お前はポーカーのチップが何かも知らねぇ年齢だろうが!ましてや俺の金を溶かされてたまるか!」
「僕には運があるんだ!ツイてる気がするんだよ!」
「お前の唯一の運はな、今ここで俺に谷底へ投げ捨てられないことだけだ!」




