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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 「鋼鉄と月光の奔流」
32/41

第32話「元帥の憂鬱」

「絶望、か……」


 ヴェルンの声は引きずられるように重く、湿った皮肉と古びた憂鬱を纏っていた。無骨でタコだらけの指が、輸入ビールの瓶の首をくるくると弄んでいる。冷えたガラスが掌の熱で汗をかき、ぬらりと滑った。彼の視線は前方の都市の輪郭に釘付けになっている。そこではガス灯とアルカンエンジンの人工的な輝きが、上層都市を窒息させる分厚い汚染の層を貫こうと、無駄な抵抗を続けていた。


 彼は重たい瞼を半眼に閉じていた。それは物理的な疲労というより、ブリックスという男の存在が今にも決壊させようとしている記憶の濁流を、必死にせき止めようとする意図的な拒絶だった。


「ああ。絶望だ」


 ブリックスの返答は乾いており、軍人としての誇りは欠片もなかった。将校は再び、元騎士の隣のベンチにその身を沈めた。


  ギシッ……


 座面の革が、式典用鎧の重量と、そして男の抱える疲弊に悲鳴を上げる。製鉄所の鋼のように冷たい灰色の瞳が、頭上を見上げた。煤煙から隔絶されたエリートたちが住まう上層都市――その階層を支える、空を覆い隠すような巨大な金属の基盤を睨みつける。


「そもそも、貴様が今の貴様になったのも、その『絶望』ゆえだろう」


 ヴェルンは横目で彼を睨んだ。アルコールと睡眠不足で充血した白目が、不快感を露わにしている。彼は沈黙を保ち、その論理の終着点が振り下ろされるのを待った。


「教えてくれ……」


 ブリックスは巨大な梁を見上げたまま、低い声で呟いた。


「かつての偉大なる王立近衛騎士団の元帥げんすい殿が、こんな世界の吹き溜まりで、鉄のドブ川に浸かりながら酒を飲んで何をしている?」


 ドォン――。


 その言葉は、戦鎚ウォーハンマーの一撃のような重さで酔っ払いを打ち据えた。  脳内に常に漂っていた霧のような鬱屈が、瞬時に凝固し、彼の魂を凍てつく深淵へと引きずり込んでいく。


 反応は無意識だった。ヴェルンの空いた手が、握りしめていた引き裂かれた布切れの上で痙攣したように閉じた。乾いた血に汚れた紋章の刺繍が、掌の皮膚を削る。


 ギリ、ギリギリ……ッ


 布を自身の肉と融合させようとするかのような暴力的な握力。記憶の痛みを物理的な痛みで上書きするように、爪が肉に食い込んだ。


「俺は……確かなことは言えん……」


 ヴェルンは囁いた。その声は掠れ、震えていた。


「安心しろ。貴様を説得して、再び奴らを狩らせようなどというつもりはない」


「なら、なぜこれを見せた?」


 ヴェルンは唸った。防衛本能としての攻撃性が鎌首をもたげる。


「なぜ、この血を俺の顔に擦り付けるような真似をした?」


 二人は睨み合った。その間の沈黙を埋めるのは、どこかの配管から漏れ出る蒸気のプシューという音と、迷宮のような路地を吹き抜ける冷たい風の音だけ。風は錆と、間近に迫った酸性雨の金属臭を運んできた。


「あの夜の悲劇が、ここで繰り返されるのを防ぐためだ」


 ヒュッ。


 ヴェルンの呼吸が止まった。目が見開かれ、瞳孔が内臓を鷲掴みにされたような衝撃で収縮する。まるで路地の煙の中から、亡霊が実体化して現れたかのように。


 ブリックスは視線を逸らし、都市の瞬く光に焦点を戻した。その目は鋭く細められ、厳格で致死的な真剣さを帯びていた。


「ここ数ヶ月、私が何と戦っているのか……その認識すら失いつつある。あるいは、数年か……」


 将校の声が微かに震え、堰き止められた苛立ちが漏れ出した。


「奴らはオードリー司令官と正面から渡り合い、そして生き延びた。それが意味するのは、奴らに弱点など存在しないということだ。我々は、本物の怪物を相手にしている」


 彼は言葉を切り、事態の重圧に肩を落とした。


「それに加えて、歩く『兵站上の問題』――先触れまで抱えている。帝国が飲み込んだばかりの王国出身、聖騎士の名家の娘だ。そして彼女には、貴様やオードリー嬢を最大級の警戒状態に陥らせるほどの精霊が憑いている……」


 ハァァァ……


 ブリックスは深く溜息をついた。それが生命力の最後の蓄えであるかのように、肺から空気が抜け出ていく。彼はこめかみに指を当て、絶え間ない偏頭痛を散らそうと無益なマッサージをした。


「正直に言おう、ヴェルン……。私は暗闇の中を歩いている気分だ」


「俺は、その精霊が脅威だとは思わんがな……」


 ブリックスは乱暴に顔を向け、横目で彼を見た。その表情は、信じられないという疑念と、刺すような皮肉が入り混じっていた。


「本気で言っているのか?我々が話しているのは『高位精霊』だぞ!その規模の存在は、純粋なエゴと気まぐれだけで動いている。セヴァー嬢自身、奴のそばにいるだけで命の危険に晒されているかもしれんのだぞ!」


 ヴェルンは疲れた溜息を吐いた。瓶を口に運び、高価なビールを長く煽る。液体は今や、苦く、鉄のような味がした。彼は手の甲で口元を拭った。


「あの小娘には、この街でやるべきことがある。血筋と、先触れとしての役割から受け継いだ義務感が、彼女をここに縛り付けているんだ。逃げ出した他の連中とは違って、彼女はあんたたちを見捨てることなんてできんよ」


 ヴェルンは空になった瓶の底を覗き込み、暗いガラスに歪んで映る自分自身の顔を見つめた。


「そして彼女がアンタの側にいる限り、精霊もそこに留まる。単純な計算式だ」


「……どうして貴様たちは、アレを前にしてそれほど平然としていられるのだ……」


 ブリックスは長く、消耗しきった息を吐いた。白い呼気が、通りに漂う油っぽい霧と混ざり合う。彼は首を振り、区画一つを更地に変える力を持つ存在への無関心を理解できずにいた。


 ギシッ。


 ヴェルンが立ち上がると、ベンチの革が鳴いた。その動きは緩慢だった。年齢のせいではない。一瞬ごとに肩にのしかかる、目に見えない重りのせいだ。彼は空瓶を将校の隣に置いた。


 カチャン。


 ガラスが冷たい金属の座席に触れ、乾いた音を立てた。


「酒、ありがとよ……」


 元騎士は擦り切れたコートの襟を立て、硫黄と降り始めた酸性雨の臭いを運ぶ切り裂くような風から身を守った。彼は背を向け、濡れた石畳にブーツの音を響かせながら、決然と距離を取り始めた。だが、将校の声が夜の静寂を引き裂いた。それは、懇願するような権威を帯びていた。


「私の言葉を考えてくれ、元帥」


 ピタリ。


 その称号は、物理的な打撃となってヴェルンを襲った。彼の足が即座に止まる。完全に振り返ることはなかった。首だけを回し、遠くのガス灯の黄色く揺らぐ光に横顔が切り取られる程度に。眼帯に覆われていない片方の瞳が、陰鬱な激しさでブリックスを射抜いた。


「俺にはまだ、これらすべてに対してどう動くべきか、明確な答えがない……」


 その告白は低く、街の歯車が軋む遠い騒音にかき消されそうだった。ヴェルンは再び歩き出した。その広いシルエットが、マンホールから噴き出す蒸気と影に飲み込まれていく。路地裏の闇に完全に消え去る前、ブリックスが呼び起こそうとした亡霊を拒絶するように、彼の声が最後にもう一度だけ響いた。


「その称号は忘れろ、ブリックス。アンタが言っているその男は――もうとっくの昔に死んだんだ」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ヴェルンが求めていた孤独は、正確に十分間しか続かなかった。


 ゴソ、ゴソ……


 ズボンの深いポケットに手を突っ込み、擦り切れた裏地を探る。だが、指先が触れたのは糸くずと虚無だけ。あるはずの「重み」がない。その事実は、苛立ちという名の冷たい戦慄を背筋に走らせた。下層都市の湿気たカビ臭い穴倉――彼が意地でも「家」と呼んでいる場所の鍵が、ない。


「忌々しい……」


 チッ。


 胸の奥で唸るような舌打ち。彼は踵を返した。つい先ほど後にしたばかりの番人の詰所――石と規律でできた要塞が、再び目の前に立ちはだかる。


 コツ、コツ、コツ……


 戻る道のりは無限に感じられた。冷たい石畳を踏み鳴らし、彼を窒息させるような軍の厳格さに囲まれながら歩く。歩哨たちの横目は意識的に無視した。彼らにとって、酒と皮肉の臭いをプンプンさせたこの薄汚い民間人は、聖なる施設における「異物」でしかなかったからだ。


 オードリーの命令は明確だった。いや、絶対的だった。「会議が終わるまで、この区画を出ることはまかりならん」。あてがわれた「客室」は、あらゆる快適さと――そして逃れられない「豪華な牢獄」の感覚を備えていた。


 バン。


 重厚な木製のドアを押し開ける。ヴェルンは急いで部屋に入り、サイドテーブルへ目を走らせた。あった。手つかずの水差しの横で、ランプの微弱な光を反射している。


 ジャラ……


 鍵束を掴むと、掌に冷たい金属の感触が伝わる。それをポケットにねじ込み、太ももに当たる安堵の重みを確認した。この抑圧的な空気から一刻も早く逃げ出そうと、彼は再びドアを開け、廊下へと大股で踏み出した。


 ガチャリ。


 背後で錠が鳴る。出口へ向かおうと体を捻った、その瞬間――。


 ピタリ。


 動きが止まった。反射的に筋肉が硬直する。


 隣の部屋のドアの前。その酔っ払いは、奇妙な人影と鉢合わせた。極端に短い髪の少年。華奢な体には大きすぎる軽装を纏っている。その生地の下には、傷ついた肌を覆う清潔な白い包帯が何重にも巻かれていた。


 イングリッド。いや、彼女が必死に維持しようとしている人格、トムだ。


 あの猫の精霊を説得して――あるいは、うんざりさせて――わずか三十分でも外に出る許可をもぎ取った苦労が見て取れた。彼女は目を丸くし、驚いた様子で彼を見ていた。台所でつまみ食いを見つかった子供のように体が強張っている。対するヴェルンは、退屈と疲労がヘドロのように混ざり合った視線を返した。


「こ、こんばんは……」


 トムの声は震え、誰もいない廊下に虚しく響いた。


「おう」


 ヴェルンの返事は乾いており、社交辞令の欠片もなかった。


「あ、あの……僕……」


「じゃあな」


 フイッ。


 迷わずヴェルンは視線を逸らし、顔を背けて歩き出した。彼女の存在などなかったことにして。


「待ってよ!!」


 ダッ!


 トムの叫びと共に、急激な気配の移動。負傷者とは思えない驚くべき速さで、彼女は駆け出し、彼の前に立ちはだかった。両手を広げ、通せんぼをする。


「なんだよ、今度は」


 ヴェルンは顔をしかめた。苦悶の表情。一番近い窓から飛び降りて、ここから全力疾走で逃げ出したい衝動が、もう少しで足を支配するところだった。


「僕……」


 トムの声のトーンが落ち、弱々しくなる。彼女は石の床に視線を落とした。


「……お礼、言ってなかったから」


 ヴェルンは手を挙げ、二人の間に見えない壁を作った。


「その心配は無用だ。息の無駄だぞ」


 彼が彼女を避けて歩き出そうとすると、少女の声が再び彼を引き止めた。彼女は顔を上げ、元騎士の疲弊した、何も映さない瞳を探した。


「一緒に行くんだろ?僕たちと」


 ハァァァ……


 ヴェルンは長く、重い溜息を肺から吐き出した。


「なんで俺が、そんなことしなきゃならん」


「だって――」


「俺はそういうのには関わらん」彼は冷たく遮った。「お前を助けたのは純粋な気まぐれだ。一瞬の衝動、それだけだ。貴族の娘を救った見返りも、かつての軍での名声も欲しくない。そんなもの、俺には何の価値もない……どうでもいいんだよ」


「嘘だ。貴方は気にしてる」


 トムは言い返した。その眼差しが変わる。真剣で、挑戦的な光を帯びる。


「適当なことを言うな。俺の何を知ってる」


「そうだよ。貴方が誰かなんて知らない。でも、気にしてるのはわかる」


 ヴェルンは正面から彼女に向き直った。少女の視線は鋭く、魂を貫き、彼が消し去ろうとしている行間を読み取っていた。その時、彼の目が見開かれた。無関心の仮面に、ほんのわずかな驚愕の亀裂が入る。


 ジリ……


 ポケットの底で、血に染まった布切れが熱を帯びた気がした。まるで生きた残り火のように、太ももの皮膚を焼く。一瞬、幻覚が現実に重なる。包帯姿のトムの背後――薄暗い廊下に、長い黒髪の少年の幽霊が揺らめいた。罪悪感と記憶が生み出した幻影。


「感じるんだ」


 トムは、揺るぎない確信を込めてそう言った。


 クルッ。


 ヴェルンは乱暴に顔を背けた。その澄み切った瞳の重さに耐えられず、壁の影に視線の逃げ場を求める。再び背を向けた。


「どうしたの?」


 トムの声から決意が消え、心配の色が滲む。


「なんでもねえ……」


 彼は唸り、無理やり足を動かした。


「あんまり使いファミリアをイラつかせるような真似はするなよ」


「使い魔じゃないってば!」


 彼女は抗議した。子供っぽい憤慨が戻ってくる。


 タタタッ。


 駆け足の音が響き、彼女は彼の横に並んで歩調を合わせた。


「とにかく、馬鹿な真似はするな。まだ安静が必要だろうが」


「父親みたいなこと言わないでよ!」


 ウグッ。


 ヴェルンは唸った。苛立ちと居心地の悪さが、胃の中で混ざり合う。


「……さっさとやりたいことやって来たらどうだ」


「僕、街に行きたいんだ」


 トムは即答した。まるで任務報告書でも読み上げるような実務的な口調で。ヴェルンは信じられないものを見る目で、横から彼女を見下ろした。(あの過保護な精霊が、本気でこんな状態での外出を許したのか?)包帯まみれのひょろりとした少年――その変装の下にある繊細な少女の面影。それは痛々しくも、同時に称賛に値する姿として彼の脳裏に焼き付いた。


「俺の知ったことか……」


 彼は廊下の突き当たりを見据え、言い捨てた。


「待ってってば!」


「ついて来るな!!」


 ドォン――!


 ヴェルンの怒号が石壁に反響し、近づこうとする唯一の存在を必死に拒絶するように轟いた。

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