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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 『鋼鉄と月光の奔流』
31/47

第31話「誰にも聞こえない叫び」

 キサナトラの上層都市は、夜の支配権すらも拒絶していた。貴族街から溢れ出す、目が眩むような輝き。それは天空の星々さえも霞ませる暴力的な光だ。数時間前まで太陽がその自然な光で金属を黄金色に染め上げていた場所は今、冷徹で外科手術のような白い光――構造物自体から滲み出し、魔法電力によって供給される白熱光――に支配されている。その人工的な輝きは上層都市全体を浸し、永遠に続く蒼白い真昼を作り出していた。


 ブーーーン……と、低い駆動音が響く。


 キサナトラの工学技術は、砂漠という過酷な自然への挑戦状そのものだ。昼間、都市は魔法と水によって呼吸し、灼熱の金属に人工的な冷気を強制する。だが、その代償として生じる湿気は、土台の影に位置する下層都市へと容赦なく降り注ぐ。岩と金属の壁を伝う結露は、まるで都市が流す涙のように、下層の住処を永遠に濡らし続けていた。


 ヒューーーッ……


 だが、夜はまた別の顔を見せる。砂を焼く太陽が去れば、砂漠の冷気は骨まで砕かんばかりに襲い来る。しかし、魔法と科学の結晶たるこの都市は即座に反応した。合金から放たれる熱は、住民を凍結から守るため、そして名高き『不運の都』に群がる観光客の快適さと利益を守るために。外気が肌を噛みちぎるような寒さであっても、都市内部は温かいゆりかごとなるのだ。


 とはいえ。ある一匹の『猫じみた精霊』にとって、その快適な室温は単なる「惰眠への抗いがたい招待状」でしかなかったのだが。


 スピー……スピー……


 秩序の番人の宿舎、ブリッグス隊長からの無骨な好意で借りた客室。静寂を破るのは、平和そのものの寝息だけ。ベッドの上に築かれた毛布の山に埋もれ、グンダーは飼い猫のような無防備さで眠りこけていた。霊的な存在である彼に生理的な睡眠など不要なはずだが、どうやらうつわとした肉体の本能に完全降伏しているらしい。


 一方、イングリッドは眠れずにいた。いつもの変装を解いた彼女は、呪いの兆候を露わにしている。グンダーの結界が部屋を密閉しているとはいえ、夜の影響は避けられない。短く切り揃えられた髪は月のように白く、瞳は青く輝いていた。――『月のはん』の顕現だ。もっとも、この隔離された避難所ではパニックになる必要もないが。


 少女は退屈しきった目で、熟睡する相棒を見下ろした。思考は兵舎の壁を越えて彷徨う。彼女は上層都市に行きたかった。あの黄金の輝きを、ショーウィンドウを、異国の品々を、そして賭博テーブルを見たかった。『不運の都』という呼び名への好奇心が身を焦がす。だが、今の彼女は囚われの身だ。グンダーがその魔法で隠蔽してくれない限り、一歩も外には出られない。


「うぅ~~~~……」


 純粋な苦悶と欲求不満が混ざった、長い呻き声を漏らす。すると、布の山の奥深くから、こもった眠たげな声が返ってきた。


「……じろじろ見ても無駄であーる。余は貴様を外には出さんぞ。今日は絶対に、な……」


 イングリッドは即座に腕を組み、大げさに顔を背けて「ふん」と鼻を鳴らす。


「誰も外に出たいなんて言ってないけど?僕」


「出たくない、だと?」


 毛布越しでも分かるほどの皮肉な響き。


「これっぽっちも!」


 モソモソ……


 毛布の山が蠢いた。ようやくグンダーが顔だけをひょっこりと出す。寝癖でボサボサの髪、半開きの目が彼女を捉えた。


「で、貴様が見つけたあの宮殿はどうするつもりだ?」


 イングリッドはびくりと肩を跳ねさせた。不意を突かれ、防御の姿勢が崩れる。口が勝手に思考を裏切った。


「あ?え、いや……ぼ、僕は……その……」


 グンダーは目を細め、無言で彼女を裁定する。


「まともに走れもしないくせに、まだあそこへ探検に行きたいだと?」


「だって、そのためにここに来たんじゃないか!」


 苛立ちを爆発させ、彼女は叫んだ。グンダーは「はぁ」と深く、疲れたため息をつくと、再び温かい聖域へと撤退を始めた。


「余らが来たのはシンクレアの依頼をこなすためだ。あと『セレストの王冠』の捜索な」


 彼は毛布を鼻まで引き上げる。


「古代の宮殿なんぞ、余の記憶にある予定リストには載っておらん」


「でも……でも……!」


「オードリーも言っておったろう?偵察任務の指揮権は『余』にあるとな。貴様の調子が戻ったら行ってやる。今は駄々をこねずに寝ろ!」


「でもぉ……」


 バサァッ!


 グンダーが再び飛び出した。今度はその目に、猫特有の純粋な憤慨を見開いて。


「あぁーもう!何なのだ貴様は!?」


 イングリッドはわずかに身を縮こまらせたが、壁の時計を指さした。


「……まだ夜の七時だけど」


 グンダーの怒りが霧散し、絶対的な虚無へと変わる。


「あ……」


 スンッ……


 そして彼は、再び毛布の下へと消滅した。


「無視するなあああっ!」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 同じ夜のとばりが深く垂れ込める中、ヴェルンは兵舎の「内臓」とも呼べる区画を歩いていた。彼が選んだのは正規のルートではない。裏口にある通用口、すなわち精鋭部隊の駐車場へと続く目立たない動線だ。


 そこには、上層都市からの反射光と蒼白い月光を浴びて、整然と並ぶ『アルカノモーター』の姿があった。それは重厚な機械工学と繊細な魔術の、攻撃的な融合体だった。カウルを覆う磨き上げられた真鍮が鈍く光り、銅の排気管が絡み合い、剥き出しのギアが野蛮な出力を示唆している。車輪の位置に埋め込まれた推進結晶はまだ微かに脈動しており、直前の飛行による余熱と、焦げた魔力とオイルの入り混じった刺激臭を漂わせていた。


 チリ……チリ……


 熱を帯びた金属が冷える音が、静寂の中で小さく弾ける。


 ヴェルンは一瞬足を止めた。使い込まれた革のシート、アナログ計器がびっしりと並ぶ計器盤。その流線型のデザインを目で追う。この空飛ぶ鉄の獣たちには、静かな誘惑があった。それは、彼のような男を常に惹きつける「速度」と「逃走」への約束だ。


 ふと、不当な借用(つまりは窃盗)の思考が固まりかけたその時――乾いた音が駐車場の静寂を切り裂いた。


「コホン」


 咳払いだ。意図的で、演劇的な。


 カツン……


 ヴェルンは振り返るまでもなく相手を悟ったが、それでも身体を回した。柱に背を預け、腕を組み、リラックスと警戒が同居した姿勢で立っているのは、ブリッグス隊長だ。その半眼は計算された退屈さを湛え、まるで何時間も前からこの瞬間を待ち構えていたかのようだった。


 元騎士は何も言わなかった。ただ聞こえよがしに「はぁ」と溜息をつき、無礼すれすれの軽蔑を込めて目を回すと、再び出口のゲートへと歩き出した。地元の権力者の存在など、彼の歩みを止める理由にはならない。


「まさかまだ兵舎の敷地内にいるとはな。しかもこんな時間に」


 ブリッグスの声が響き、並んだ二輪車の金属に反響する。ヴェルンは足を止めずに、肩越しに答えた。


「この近くに裏路地があるんでな。俺の家への近道だ」


 すでに出口に手が届きそうな距離だった。だが、ブリッグスの次の一言が、見えないフックのように彼を引き留めた。


「一杯、どうだ?」


 ピタリ


 ヴェルンの足が止まる。この軍事的な環境において、その誘いはあまりに場違いで、ほとんど罠のように響いた。ゆっくりと、危険を嗅ぎつけた獣のような慎重さで、ヴェルンは踵を返した。彼の視線が隊長の顔を射抜き、そこに嘲笑を探す。だが、見つけたのはブリッグスの灰色の瞳にある不可解なほどの静けさと、唇に浮かんだ洗練された――ほとんど友好的ですらある――微笑みだけだった。


 数秒の沈黙。冷えていく魔導二輪の軋む音だけが間を埋める。ヴェルンの警戒心と、永遠の渇きが短く決闘した。


 彼は肩の力を抜き、降伏した。


「……悪くない」



 要塞の外に出ると、空気は劇的に変化した。隔離された小さな庭園にある鉄製のベンチに腰を下ろした二人の男は、影に包まれていた。『秩序の番人』の兵舎は艶消しの黒い金属で鍛造された威圧的な要塞であり、窓からの光をすべて飲み込み、この一角をほぼ恒久的な闇に沈めている。


 そこからの眺めは、逆さまの眩暈めまいそのものだった。


 上層都市は単に存在しているのではない。圧倒的かつ壮麗に、頭上に「浮遊」していた。黄金に輝くビル群が不可能な建築様式で螺旋を描いて上昇し、巨大な空中通りや広場が、鋼鉄と光で作られた巨人のケーキの層のように塔の間を繋いでいる。岩盤と隙間にへばりつく下層都市とは異なり、選ばれし者たちは地表を拒絶し、空を削り取って生きていた。


 遠くの地平線、大都市の光害が途切れる場所には、深い夜の深淵と、砂丘や荒涼とした山々の輪郭だけが残されている。砂漠は「無」であり、都市こそが「全て」だった。


 二人は、自分たちの上にのしかかる金属の巨人を眺めていた。積み上げられた数十の構造物、固形化された光の橋で接続されたプラットフォーム。地を這うことを拒んだ文明。


 カチャン……


 ブリッグスは希少なヴィンテージワインでも味わうかのような優雅さでビールを煽り、数十メートル頭上に浮かぶ広場の天井を見上げていた。


「で?俺に何の用だ」ヴェルンが横目で隊長を見やり、沈黙を破った。「まさか『お友達』になりたいわけじゃあるまい……」


 元騎士はボトルを口に運んだ。液体が喉を流れる。途端、彼の顔が心底不味そうに歪んだ。彼はボトルを遠ざけ、まるで真水で毒殺されかけたかのような混乱と憤慨の眼差しでラベルを睨みつけた。


「輸入品だ。帝国の最大手醸造所から直接取り寄せた」


 ブリッグスは視線を落とし、目の端に抑制された愉悦を浮かべてヴェルンを観察した。


「上質な酒には慣れていないか?」


「たぶんな……」ヴェルンは手の甲で口をぬぐい、あまりに滑らかで、あまりに雑味のない後味を消そうとした。「ジョシュアが売ってくれる安物のビールを長く飲みすぎたせいだ……高い酒を受け付ける味蕾みらいが死滅しちまったらしい」


「興味があるなら、帝国の最高級ブドウ園や、外から輸入したワインも個人的な地下倉庫にストックしてある」


 ブリッグスの声が柔らかく、軽くなり、絹に包まれた刃のように滑り込んできた。


「それこそ……」


 隊長は計算された間を置いた。灰色の瞳が、捕食者の輝きを帯びてヴェルンを固定する。


「『ファラム』の物も、な」


 その名は夜の冷気の中で、兵舎の金属よりも重く漂った。ヴェルンは答えなかった。体は微動だにしなかったが、半眼になった瞳は、致死的なまでの強烈さでブリッグスの横顔に釘付けになっていた。


 餌に食いついたことを悟ったブリッグスは、唐突に口調を変えた。肩をすくめ、表面的な陽気さに戻る。


「だが、年末の祝賀会でボトルが消えたと知ったら、私の部下たちが君に文句を言うだろうな」


「アンタが探してるモンは持ってねぇよ、隊長」


 ヴェルンは吐き捨てた。その声には、ビールへの不満を遥かに超えた嫌悪が滲んでいた。ブリッグスは微笑んだ。その仕草には、恐ろしいほどの愛想の良さがあった。


「ただ不思議に思うだけだ。君のような男が、どうしてこんな世界の果てに流れ着いたのかと」


 ヴェルンは顔を背け、驚きと苛立ちの入り混じった表情で彼を睨んだ。役立たずの酔っ払いという仮面が、一瞬だけひび割れる。


「以前から俺を知っていたような口ぶりだな」


「知っているとも」


「チッ」


 酔っ払いは舌打ちした。乾いた拒絶の音。「あの会議の時は、俺を赤の他人扱いしてやがったくせに。……本当に嫌いなタイプだ、アンタは」


「帝国の、最高位の騎士の一人……」


 ブリッグスはその言葉を呟いた。唇の端に、微かで、ほとんど見えないほどの笑みが浮かぶ。誰に向けたものでもない、許可なく漏れ出し、夜風に溶けていく独り言のように。


 ヴェルンはその暗黙の称賛を無視した。再びボトルを口に運び、洗練されたビールを軽蔑の表情で飲み込む。その上品な味が、彼の荒んだ舌への個人的な侮辱であるかのように。だが、その呟きを聞いた瞬間、彼は酒を下げ、隊長を直視した。その男の声には、秩序の番人の堅苦しい姿勢にはそぐわない「何か」が含まれていたからだ。


「私は、ガリランドの出身だ」


 ヴェルンの動きが止まった。ボトルがベンチへ戻る途中で静止する。彼はブリッグスを見た。無関心の仮面を砕く、純粋な驚き。ガリランド。その名は古い物語と、世界が忘れようとしている戦争の亡霊を呼び起こす。


 ブリッグスは反応を待たなかった。彼の視線は頭上の光り輝く塔に固定されたまま、彼自身のものですらないかもしれない記憶の中に迷い込んでいた。


「帝国領の端にある小さな公国だった。誇り高く、近隣の都市国家や小王国を攻撃する好戦的な習慣を持つ民。彼らは彼らなりのスケールにおける征服者だった」


 ブリッグスは言葉を切り、ボトルの中で黄金色の液体を揺らした。


「帝国が到着したとき、降伏は論理的な選択だった。生存には服従が必要だ。だが、彼らは拒否した。鋼鉄を選んだのだ。……結果は、虐殺だった」


 重い沈黙が続いた。頭上で生き続ける都市の微かな音だけがそこにある。


「……そいつは、御愁傷様だ」


 ヴェルンがコメントした。その声は低く、皮肉は削ぎ落とされていた。彼は虐殺の臭いを知っている。


「私はまだ二歳だった」ブリッグスは機械的に肩をすくめた。「記憶などない。私の家族は運良く、あるいは運命によって、紛争の最悪の事態を免れた。帝国に恨みはない。家を破壊した嵐を憎むようなものだからな」


 彼は深く息を吸い、夜の冷気を肺に満たした。灰色の瞳が上層都市の光を反射し、その人工的な輝きを深い哀愁とともに吸い込んでいく。


「それでも……私は証明したかった。自分がまだガリランドの人間であることを。あの場所の何かが、私の中で生き続けていることを」


 隊長の姿勢が微妙に変化した。郷愁の重みが、義務の硬質さへと道を譲る。


「我々『秩序の番人』は単一の目的を持って創設された。帝国全土に絶対的な管轄権を持つ統一警察組織。だがその根底にある目的は、帝国の拡大によって故郷を飲み込まれた者たちに、居場所と目的を与えることだった。外交交渉であれ、戦争の刃であれ、故郷を追われた者たちはここで新しい旗を見つけたのだ」


 ヴェルンは黙って彼を見ていた。手の中のボトルは忘れ去られている。その瞬間、彼が見ていたのは官僚的な将校ではなく、廃墟の上にアイデンティティを再構築しようとする一人の男だった。元騎士の眼差しが和らぎ、古参兵だけが共有できる理解の色を帯びる。


「私は隊長になった。階級を勝ち取り、自分の基地を指揮する任務を与えられた」ブリッグスは大きく手を広げ、黒い兵舎と周囲の都市を包括した。「この場所に押し込まれたのだ。神々に見放され、不運の悪名に呪われたこの土地で、私は自分の仕事をした。混沌を秩序に変えた。少なくとも人々が、安全の影を感じられるように」


 ブリッグスはうつむき、自分の手袋をした手を見つめた。まるでそこに、システムの全欠陥が宿っているかのように。


「私が着任したとき、キサナトラはただの飾り立てられた発掘現場だった。犯罪と欲望に飲み込まれた膿んだ穴だ。上層都市は嘘だった。空虚な金持ちを引き寄せるための金色の段ボールの書き割り、その下で基地は腐敗していた」


 ギリ……ッ


 彼が指に力を込めると、手袋の革が軋んだ。


「私は通りを掃除した。この場所を変えた。ただ利益のためだけでなく、人々のために歯車が回るようにした。人々に、この砂漠を故郷と呼び、まともな仕事を持ち、希望を持つ機会を与えたんだ」


 彼の声が揺れ、いつもの洗練さを失い、開いた傷口を露わにする。


「だが、ここ数ヶ月……私は失敗し続けている。私の兵士たちが、市民が……私の民が。理性を超えた方法で引き裂かれている」


 隊長は暗い地平線を見た。帝国は宇宙の彼方にあるかのように遠い。


「私は助けを求めて叫んだ。番人に報告書を送り、先触れに嘆願し、帝国議会にさえ訴えた。答えは沈黙だけだ。誰も来ない。オードリー嬢でさえ、公式な支援も命令もなく、自分の意志でここにいるだけだ」


 彼はヴェルンに顔を向けた。元騎士は初めて、その男の灰色の瞳を侵食する「疑念」を見た。


「私は毎晩、自問している。自分にはまだこの階級章を背負う資格があるのか。誰かを守る力があるのかと」


 カツン


 ヴェルンはボトルをベンチに置いた。飲む気は完全に失せていた。彼は陰鬱な真剣さで将校を見つめた。


「なぜ俺にそんな話をする、ブリッグス?なぜアンタが軽蔑している酔っ払いに弱音を吐く?」


 ブリッグスは言葉では答えなかった。代わりに、コートの内ポケットに手を伸ばし、ゆっくりとヴェルンに向けて差し出した。開かれたてのひら。そこには、小さな布切れの残骸があった。グンダーが見つけ、オードリーに渡されたものと同じ断片。


 ヴェルンは身を乗り出した。兵舎の窓から漏れる微かな光の下、彼の目は刺繍のパターンに、そして乾いた血に汚れた不完全な紋章に焦点を合わせた。


 認識は即座に訪れた。そして、破壊的だった。


 ヴェルンの目が見開かれ、瞳孔が内臓を揺さぶる衝撃で収縮する。顔から血の気が引き、何年も感じたことのない恐怖が取って代わった。


「これは……」


 ヴェルンは震える声で囁いた。ブリッグスは再び布を握りしめた。まるで呪いを封じ込めるかのように強く。彼は元騎士の目の奥を覗き込んだ。


「貴公なら、これが意味する絶望の重さを理解できる唯一の人間だからだ」


 ブリッグスは言った。その声は掠れ、いかなる権威も剥ぎ取られ、ただの人間の恐怖だけが残っていた。


「貴公に話したのは、私もまた、貴公と同じように……絶望しているからだ」

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