第30話「紫色の瞳の二面性」
その場の闇は、物理的な質量を伴っていた。光を貪り、濡れた布のように肌にまとわりつく、窒息しそうな圧迫感。澱んだ空気は、太古の塵の味と、それよりも遥かに忌まわしい――強大な力の残響を孕んでいた。
グンダーにとって、それは鼓膜を叩く轟音にも似ていた。静寂の中で、二つの異なる周波数がせめぎ合っている。一方は、清冽にして権威ある神聖魔法の残り香。もう一方は、召喚士とその忌まわしき怪物が残した、粘着質な腐臭――『聖痕』の跡だ。その不協和音はグンダーの内側を振動させ、骨が強力な磁石に引かれるような、不快な疼きをもたらしていた。
彼は破壊の爪痕を見渡した。巨大な亀裂が風景を引き裂いている。地面から始まり、地下宮殿の階段を無惨に駆け上がり、岩肌に傷を刻んで天井の闇へと消えていく裂傷。彼は目を細めた。その一撃を直接見る必要はない。大気に残留する魔力の署名が、そして粉砕された石の破片の一つ一つが、その衝撃の凄まじさを雄弁に物語っていたからだ。
「貴様らの種族は、いわゆる『聖域』という場所を冒涜するのがよほど好きと見える。趣味の一環か?」
彼の声が沈黙を切り裂いた。低く、侮蔑を帯びた響き。その瞳がゆっくりと左へと滑る。
カツ、カツ、カツ……
最初に答えたのは、石畳を叩く装甲ブーツの音だった。軍隊のリズム。鋼鉄で鍛え上げられた規律。前衛部隊の指揮官が、影の中から姿を現した。灰色の鎧がわずかな光を鈍く反射する。長く黒い髪が、氷のような青い瞳を持つ厳格な顔立ちを縁取っていた。それは世界の優しさを切り捨てた者だけが持つ、孤独で揺るぎない眼差しだった。
「ここはいったい何なのです、グンダー殿?」
オードリーは問いかけた。計算された距離を保ちつつ彼の横に立ち、横目で彼を分析する。グンダーは、まるで命を得た彫像のように、ゆっくりと顔を彼女に向けた。
「なぜ余がそのような情報を持ち合わせていると断ずる?」
オードリーは革の手袋をはめた手を顔の前に掲げ、掌を開いた。一瞬、使い古された革の質感を見つめて思考を整理すると、再び視線を上げ、グンダーの顔を真っ向から射抜いた。
「私の勘は、滅多に外れません」彼女は手を下ろした。「そしてその勘が叫んでいるのです。貴方は、ただの精霊以上の存在だと」
グンダーの唇に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。そこには確かな挑発と、そして純粋な興味が混ざり合っていた。彼は定命の者が、機能する脳細胞を見せた時を好ましく思う性質だった。
「余は自分の本質を隠す努力などしておらぬよ。それでも、大半の者は盲目すぎて表面しか見えんがな」
彼は踵を返し、破壊された階段の方へと歩き出した。トム――いや、イングリッドがヴェロニアを投げ飛ばした、戦いのクライマックスの地点へと意識を集中させる。
「……魔力の才能を持たぬ者にしては、殊勝なことだ」彼は低い声で付け加えた。それは、しぶしぶ認めた称賛のようでもあった。
グンダーは石段にできた小さなクレーターの縁にしゃがみ込んだ。オードリーもそれに続き、数メートル離れた場所で立ち止まる。静電気を帯びた塵と、金属の焦げた臭いが漂う瓦礫を弄る彼の長い指先を、彼女は油断なく観察していた。
「あるいは、この場所こそが貴様らの眠る街の礎かもしれん」
オードリーの目がわずかに見開かれた。軍人としての冷静さが、ミリ秒だけ揺らぐ。
「まさか……『失墜の叙事詩』のことを?」
「今や、伝説など怯えた子供を寝かしつけるための御伽噺に過ぎん」グンダーは瓦礫から目を離さず、顔だけを向けて彼女を見た。薄暗がりの中で、その瞳が捕食者のごとき知性で輝く。「だが、人の不信を他所に、真実は在り続けるものだ。少なくとも、その大半はな」
オードリーは腕を組んだ。論理と懐疑心が、再び彼女の顔に盾として張り付く。
「では……」彼女は神話と現実を照らし合わせるように、宮殿の廃墟を見上げた。「ここは、戦神が『セレストの王冠』を鍛え上げた場所だとでも?」
声には疑念が溢れていた。『叙事詩』は神々の魔法の神学的基盤であり、歴史的事実とされつつも、数千年の時を経て希薄になっていた。当時の記録など存在しない。実質的には、美化されたおとぎ話だ。
「可能性はいくらでもある」グンダーは呟いた。不意に、その猫のような瞳孔が開く。「おや……」彼は砕けた岩の間に何かを見つけたようだった。
「本気で我々が伝説の土地を踏んでいるとお考えで、グンダー殿?」好奇心が警戒に勝り、彼女は一歩踏み出した。グンダーはその物体を拾い上げ、掌の中に隠すと、彼女を見上げた。
「己の眼が目撃したものを信じるがよい、小娘。現実は得てして、存在の許可など求めはせぬ」
「目に見えるもの……ですか」オードリーは反芻し、朽ち果てた宮殿の威容へと視線を逸らした。そして再び、眼下のグンダーへと視線を戻す。
目の前にしゃがむその姿は、若い男のように見える。だが、数多の戦場で研ぎ澄まされた彼女の本能は、その逆を叫んでいた。これは人間ではない。では何だ?古の精霊か?それとも悪魔か?彼は謎だ。シンクレア嬢が直々に承認した先触れ。彼女なら彼の正体を知っているはずだ。ならば信用に足るはずだ。はずなのだ。
だが、彼から放たれる、この感覚は……
ゾクリ。冷たい戦慄がオードリーの背骨を駆け抜け、鎧の下で全身が強張った。数分前の記憶が、暴力的な鮮明さで脳裏に蘇る。
彼女はトムを抱えていた。グンダーの偽装魔法が砕け散り、幻影の下に隠された真実が露呈した時だ。少年はいなかった。彼女の腕の中には、意識を失った無防備な少女が横たわっていた。その啓示に混乱していた矢先、彼が到着したのだ。
その男は、『黒鋼の刃』騎士団よりも先に、その場に現れた。走ったわけでも、音を立てたわけでもない。ただ唐突に、圧倒的な存在感と共に実体化したのだ。その瞬間のグンダーの表情は、畏怖そのものだった。人間性を欠いた眼差しには、絶対的な殲滅の約束だけが溢れていた。オードリーは胃の腑が凍るような確信と共に悟った。彼は指を鳴らすだけで、自分を殺せたと。
彼は止まった。その視線が彼女の軍服を、マントの帝国章を、前衛部隊の記章を舐めるように確認した。嵐を押し留めたのは、ただそれだけだった。慈悲などではない、彼女の持つ権限への認識のみが、彼女を生かしたのだ。
今、瓦礫を漁り、穏やかに古代の伝説を語る彼を見て、オードリーは外見と実体の間の深い溝を感じていた。「誤解」だという説明を受けた後でも、この古風で礼儀正しい態度を前にしても……表情一つ変えずに私の命を奪えるものを目にしながら、その目を信じろと言うのか?
「貴様の勘は、確かに鋭いようだ」グンダーが言った。フッ……いつの間にか、彼は彼女の目の前に立っていた。人間の動体視力では捉えきれない移動。唇には洗練された笑みを浮かべているが、その猫のような瞳は彼女を貫き、魂を裸にし、骨に刻まれた意図まで読み取っていた。オードリーには分かった。彼は本当に、すべてお見通しなのだと。
「私はただ……」オードリーは口を開いたが、いつもの毅然とした調子が消えていた。グンダーは無造作に彼女の横を通り過ぎた。静まり返った空間に、衣擦れの音が柔らかく響く。彼は最近の戦闘の痕跡である、煙を上げる別のクレーターへと歩み寄った。
「貴方は……いったい何者なのですか」彼女は淀んだ空気に向かって囁いた。
「理解の及ばぬ存在に直面した時、混乱するのは定命の者の自然な反応だ」彼は振り返りもせず、瓦礫の上にしゃがんだまま答えた。ギチリ。オードリーは拳を握りしめ、革手袋を軋ませた。主導権を取り戻さなければならない。自分は前衛部隊の指揮官なのだ。
「ですが」彼女の声に、権威の重みが戻り、石壁に反響した。「疑問は残ります。貴方のような強大な存在が、なぜあのような子供の側に?なぜそこまでして、あの子の正体を隠すのです?」
あの『誤解』の記憶がまだ燻っている。『黒鋼の刃』が洞窟に降りてきた時、グンダーはすでに少女の上に幻影の網を張り直していた。彼は正体の露見などなかったかのように振る舞い、部下たちの不審な視線を王のような無関心さで無視した。オードリーは純粋な生存本能から、部下の前で彼を問い詰めることを避けた。
だが、今は二人きりだ。
「それは貴様の管轄外であり、知る必要もないことだ」グンダーは言い放った。本を閉じるかのように、無感情に話を打ち切る。
「異議ありです。もし脅威が存在するなら、あるいはこの街に隠された重要な鍵であるなら……」オードリーは一歩踏み出し、本能的に手を挙げた。掌の周囲で大気が震え始める。「私には知る義務がある」
空気が、変質した。
徐々にではない。一瞬にしてだ。ズズンッ――洞窟内の大気が不意に凝固し、溶けた鉛のような重圧へと変わった。グンダーを中心に、重力が十倍になったかのような錯覚。オードリーは凍りついた。脳が危機を処理するよりも早く、身体が原初的な恐怖に反応し、膝が数センチ沈む。鼻孔を突くのは、電気を帯びた灰と、古い血の臭い。
グンダーが、ゆっくりと首を巡らせた。その瞳はもはや紫ではなく、薄闇の中で輝く深淵の裂け目だった。彼から放たれるプレッシャーが、周囲の岩を振動させ、ピキピキと亀裂を走らせる。
「貴様は、自分の地位と本当の『力』を混同しているようだな」
彼の声は耳だけでなく、頭蓋骨の内側に直接響いた。
「あの子の髪の毛一本にでも触れてみろ……余自ら、この街ごと奈落へ沈めてやる」
オードリーは息をすることさえ困難だった。風の剣を抜こうとした本能は瞬時に死滅し、絶対的な死の予感に塗り替えられる。これはただの精霊ではない。人の形をした、天変地異だ。
「な、ぜ……」彼女は肺を押し潰す見えざる重圧と戦いながら、喘いだ。「なぜ、そこまで……気にかけるのです?」
フッ……潮が引くように、圧力が彼の中へと収束していった。だが、脅威の予感は潜在的に残っている。
「貴様のような輩には、理解する能力が欠落しておろうよ」グンダーは立ち上がり、過剰なほど落ち着いた動作で手の埃を払った。「ここで貴様を殺すのは造作もない。だが、そうすればあの子が悲しむ」彼は読めない表情で彼女を見つめた。「そして、あの子の悲しみこそが、この世界で余が避けたいと願う唯一のものだ」
彼は小首を傾げ、臨床的な好奇心で彼女を観察した。
「もし完全な真実を知れば、貴様はどうする?あの子が背負うものを知れば?」
ゴクリ。オードリーは唾を飲み込み、呼吸を整えた。鎧の下、背中を冷や汗が伝う。
「分かりません」彼女は認めた。正直さだけが、唯一の防御だった。「今はまだ。ですが、真実は今、重要ではありません」彼女は顎を上げ、眼前の嵐を見据えた。「先ほど感じたものを思えば……貴方を敵に回すより、味方につける方が賢明です」
グンダーは瞬きをした。抑圧的なオーラが完全に霧散し、心底不思議そうな表情に変わる。
「ほう?」彼は乾いた短い笑い声を漏らした。「頑迷さか、あるいは名誉ある特攻でも見せるかと思ったが。人間の自己保存本能も、少しは進化したらしい」
彼は彼女に近づいた。足取りは軽く、数秒前の殺気は、奇妙で危険な親愛の情へと変わっていた。
「ならば、取引と行こうか。トムの正体については口を閉ざせ。見たことも、聞いたことも……すべて墓まで持っていけ」
「承知しました」オードリーは頷いた。思考を高速で回転させる。「条件が一つ。グンダー殿、貴方の利害をこの街の『番人』と一致させていただきたい。我々の同盟者となってください」
グンダーは片眉を上げ、皮肉な笑みを唇に遊ばせた。
「大胆な交渉をするな、指揮官殿。だが皮肉なことに、余がこの錆と金属の街を見捨てようと願ったところで、あの子が決して許しはせんよ。あの子にはまだ、この場所でやるべきことがあるゆえな」彼は手を差し出した。「よかろう。手を組んだと見なすがよい……今のところはな」
彼の手のひらには、焦げた布切れが載っていた。ヴェロニアが纏っていた青いマントの破片だ。だがオードリーの目を釘付けにしたのは色ではない。月の魔法の灼熱と戦闘に耐え抜いた、銀色の刺繍だった。
オードリーは布を受け取った。震える指先が素材に触れる。そのシンボルを認識した瞬間、彼女の目が見開かれた。それは複雑な紋章だった。塔に巻き付く様式化されたドラゴン。だが、そのドラゴンの首は落とされていた。
「これは……」オードリーの声が震えた。
「驚いたか?」グンダーは楽しげに問いかけた。洞窟の薄闇の中で、その瞳が古の危険な叡智を帯びて輝く。オードリーは手の中の布を握りしめ、眼前の存在を見上げた。次に彼が何をするつもりなのか、問い質そうとしたその時――。
パツンッ!
洞窟の闇が砕け散った。墓のような静寂と焼けた石の臭いが蒸発し、瞬時に会議室の暖かく黄色い光へと置換される。魔力の唸りは消え、代わりに罵倒の不協和音が鼓膜を叩いた。オードリーは瞬きをした。あまりに唐突な場面転換に、脳が揺れる。
目の前では、部屋の中央を占拠する使い古された革のソファの上で、「魔法的実体」と「酔っ払いの騎士」が、まるで校庭のガキのように言い争っていた。
「聞きやがれ、この砂箱野郎!テメェが息もしねぇ化け物だからって、俺が命令に従うと思ってんなら大間違いだぞ!」ヴェルンが唸っていた。顔を真っ赤にし、タコのできた指をグンダーの鼻先に突きつけている。
「貴様の不遜さは無知と同レベルだな、このアル中の敗北者め」グンダーは即座に応戦した。傲慢な態度は崩していないが、その目は子供じみた苛立ちで火花を散らしている。「余は文明が興り、滅ぶのを見てきたのだぞ。貴様なんぞ、自分のケツの拭き方も知らん赤子だった頃にな!」
二人の間で、トムは消え入りそうになっていた。少女の顔は真っ赤だ。他人の恥ずかしさとフラストレーションがない交ぜになっている。彼女は必死に両手を振り回し、二人の男の間に物理的な障壁を作ろうとしていた。
「やめて!二人とも、もう――もういい加減にして!」彼女は叫んだが、その声は二人の怒号に完全にかき消された。
「腐る前にホルマリンに戻りやがれ、この猫砂野郎!」
「黙れ!貴様のその安酒、貴様の血を使って発酵させてやろうか!」
ハァ……オードリーは止めていたことにすら気づかなかった息を吐き出し、光景を眺める肘掛け椅子に深く身を沈めた。仲裁を諦め、顔を覆ってしまったトム。そして、未だに独創的かつ馬鹿げた罵倒を応酬し続けるグンダーとヴェルン。
(同じ体に宿っているとは、信じ難いな……)オードリーは肩の緊張がわずかに緩むのを感じながら、そう思った。街を奈落に沈めると脅した厄災が、今は酔っ払いと口喧嘩をしている。
だが、彼女は真実を知っている。あの若々しい傲慢さの仮面の下に眠るものを、見てしまったのだ。
(彼らは真の同盟者ではない)オードリーは結論づけた。この哀れな喜劇を新たな理解を持って眺めながら、微かな笑みが唇に浮かぶ。(これは、脆い一時休戦に過ぎない)
彼女は、この不条理の嵐の中心にいるトムを見た。
(だが、少なくとも、あの子が無事である限り……ソファの上の怪物は、我々の脅威ではない)




