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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・隣接する夜: 「鋼鉄と月光の奔流」
28/41

第28話「黄金の都の崩壊」

 グチャッ。グチュッ。


 その音は湿り気を帯びていた。内臓を弄るような、生々しい響き。無慈悲な歯牙の圧力によって靭帯が引き千切られ、骨が砕ける音が、防音された部屋の静寂を埋め尽くす。


ボキボキッ……ズルルッ……


 それは咀嚼と嚥下が奏でる狂気の交響曲シンフォニー。関節から肉が吸い出され、引き剥がされる濡れた音が、豪奢な壁に反響する。かつての私室は、今や個人用の屠殺場へと変貌していた。


 外では、現実が無関心に時を刻んでいる。オーケストラの調べが廊下を流れ、キサナトラの上流階級たちの高笑いが、クリスタルグラスの触れ合う音と共に響いていた。華やかで絢爛な祝宴ガラは、主催者の不在など気にも留めず続いている。結局のところ、影で貪り食う彼らのような存在にとって、ヴィンセントなど単なる「資源」に過ぎなかったのだ。彼は今、役目を終えて捨てられた空っぽの残骸として、死体の山の一部となっていた。


「ごちそうさまでしたぁ!」


 その言葉は、無邪気でありながらグロテスクな歓喜を帯びていた。ヴェロニアが顔を上げる。鮮血で描かれた死化粧メイクが、不気味な笑みを形作っていた。


ペロリ……


 官能的なまでの緩慢さで、彼女の舌が唇を這う。こびりついた血を拭い去り、つい先ほどまで生きていた命の名残を味わい尽くす。その姿からは、死の淵に立っていた女の面影など微塵も感じられない。


 青みがかったドレスはボロボロに裂け、以前の傷から流れた血で生地が焦げ付き、硬化していた。だが、その襤褸ぼろの下にある肉体は別の物語を語っていた。  青白い肌は一点の曇りもなく、超自然的な完璧さで再生されている。月の魔法によって焼かれ、無惨な姿をしていた金髪は、今やサラサラと長く背中を流れ落ち、戦いの炎など知らぬかのように輝いていた。


 ヒンペリアはその光景を、不穏なほどの静けさで見つめていた。彼は「青の淑女」へと歩み寄る。その足音は、無残に汚された絨毯に吸い込まれて消えた。


スッ……


 流れるような動作で、彼は彼女の前にしゃがみ込む。その唇に浮かぶのは、揺るぎない冷笑。ペットが食事を終えるのを見守る飼い主のような表情だ。ゆっくりと、手袋に包まれた手が伸び、彼女の顎を力強く掴んだ。


 ヴェロニアの反応は劇的だった。


スリスリ……


 彼女は目を閉じ、彼の手のひらに頬を擦り寄せる。まるで満足した猫のように喉を鳴らすその顔が、男爵の血でまだ濡れていることなどお構いなしだ。彼女はその接触を渇望し、依存していた。


「私のヴェロニアを、ここまで痛めつけるとは……一体何者でしょうね?」


 ヒンペリアの問いは柔らかかったが、そこには露骨な脅迫よりも遥かに空気を凍らせる、有毒な独占欲が滲んでいた。


「ヒンペリア様ぁ……ヒンペリア様……」


 聖なる真言マントラのように、彼女は彼の名を繰り返す。囁かれる一音一音に、狂気じみた執着が溢れ出す。ゆっくりと開かれた瞼の奥、その瞳は盲目的な崇拝を映し出していた。彼女の眼前に浮かぶ彼の顔は影に覆われ、ただ白く虚ろな瞳だけが、彼女の腐敗した魂を貫くように浮き上がっている。


「あの少年が……あいつが……」


 肉片と赤い粘液にまみれたヴェロニアの手が持ち上がり、自分の顔を掴むヒンペリアの手に重ねられる。ギューッ。彼女は彼の指を握り締め、自分を満たした宴の汚れを主人の潔白な手袋に擦り付ける。それは冒涜的な親愛の情動だった。


「少年、ですか?」


 ヒンペリアが尋ねる。その声には冷徹ながらも、純粋な好奇心の色が混じっていた。


「そう!あの――」


ドォォォォン!!


 言葉は無残に断ち切られた。空気が悲鳴を上げ、突如として空間が歪む。気圧が急激に変動する甲高い音に続き、緑色の煙が爆発的に広がり、硫黄と恐怖の臭いが部屋の中心に充満した。


プシューッ……


 ヒンペリアはゆっくりと、意図的な緩慢さで後ろを振り返る。驚きも警戒もない。対照的に、ヴェロニアは低く唸った。


「グルルッ……」


 彼女は煙に向かって純粋な苛立ちの視線を投げつける。主人からの愛おしい注目を邪魔され、牙を剥く忠犬のように。


 有毒な霧の中から、小柄なシルエットが落下した。


ドサッ。


 鈍く、不格好な音が木の床を叩く。彼らと同じ青いマントが、倒れた人影の周囲に広がった。ラグラムは仰向けに倒れ、胸を激しく上下させていた。


「ハァッ、ハァッ……!」


 まるで溺死寸前で水面から顔を出したかのように空気を貪る。両腕は広げられ、ガクガクと震え、青白い額には冷や汗が膜を作っていた。見開かれた目は天井の一点を見つめ、今にも身体を両断しようとした風の刃の恐怖を映し出したままだ。


 部屋の暗がりから、気怠げで退屈そうな声が響く。


「まるで亡霊でも見たかのような顔ですね……」


 ヴァリスが言い放つ。その口調には嫌悪感が滲み、嘲笑が混じっていた。ラグラムは首の骨が鳴るほどの勢いで顔を向け、残った息を振り絞って言葉を吐き捨てた。


「クソが……」


「それで、ラグラム?」


 ヒンペリアの問いが、淀んだ空気を切り裂く。彼は先ほどの惨状を感じさせない優雅さで立ち上がり、倒れ伏す部下を見下ろした。その傍らで、ヴェロニアは床に這いつくばったまま、弟への苛立ちの視線と、自分もあの絨毯の上の人間のように捨てられるのではないかという粘着質な恐怖の視線を、ヒンペリアへと交互に向けていた。


「それで、って何だよ……」


 ラグラムは愚痴をこぼし、痛む体に鞭打って身を起こす。ヨロヨロ……その動きは無様で、霊圧のショックで手足はまだ震えていた。


「つまり、ボクたちが一方的にボコボコにされたってことだよ!これで満足か!」


 彼は敗北を認め、部屋の暗がりへと視線を逸らす。屈辱的な敗北への怒りと混じり合い、恥辱が蒼白な顔を焼いていた。


「プッ」


 ヴァリスの喉から、短く押し殺したような音が漏れた。背の高い骸骨のような男は壁の方へ顔を背けたが、肩は小刻みに震えている。歪んだ表情に浮かぶ嘲笑を隠しきれていない。それが、ラグラムの傷ついたプライドにとって最後の一撃となった。


「いい加減にしろよ、このスカした野郎がぁ!!」


「あぁ?なんだと?」


 ヴァリスが踵を返す。退屈の仮面は瞬時に剥がれ落ち、鋭利な敵意へと変わる。


「私に、君の尻を蹴り上げた相手の仕事の続きをしてほしいのですか?」


「やってみろよ、この能無し!テメェのその――」


「二人とも、落ち着きなさい」


 ヒンペリアの声が二人の間を流れる。ビロードのように滑らかで、しかし鉛のように重い。その唇には、変わらず不可解で穏やかな笑みが浮かんでいる。その命令は絶対だった。ラグラムとヴァリスは凍りついたように動きを止め、攻撃的な緊張感は主人の存在の前で萎んでいく。二人は一瞬、無言で憎悪の火花を散らし合った後、互いに軽蔑を示すようにフンッと顔を背けた。


 ヒンペリアは子供じみた癇癪かんしゃくを無視し、重要なことだけに焦点を絞った。


「ラグラム、何が起きたのか話しなさい。なぜ姉があそこまで傷を負ったのです?」


「あぁ、ヒンペリア様ぁ……」


 ヴェロニアが甘ったるく、飢えた声で彼の名を歌うように呼ぶ。ズルズル……彼女は這い寄り、主人の手袋を哀れなほどの献身で掴むと、暖を求めるように頬を擦り付けた。


 ラグラムはその光景を、吐き気を催すような表情で見ていた。彼は深く息を吸い、混沌とした戦いの記憶を整理しようとする。


「ボクはかなり強い敵と戦ってたんだけど……お姉ちゃんが戦ったのは、ある少女で――」


「どうして女だって言い張るのよぉ!!」


 ヴェロニアが叫び、言葉を遮る。憤慨で声が裏返っていた。


「あれは少年!忌々しい少年だったのよ!」


 ヒンペリアが片眉を上げる。その白濁した瞳に興味の光が走った。


「ヴィンセントには、パーティー会場を彷徨くあの大精霊を足止めするよう命じておきましたが……それでも、貴方たち二人では対処しきれなかったのですか?」


「えっ、上に大精霊がいたの!?」


 ラグラムが驚愕の声を上げ、一歩踏み出す。彼は頭を振り、その新情報を一旦脇へ追いやった。


「まあいいや、それで辻褄が合う。だって下にいたのは……オードリー・セヴェリアンだったんだ。ボクが戦わなきゃならなかったのは、あの女さ」


 その名は、金床のような重さで部屋に落ちた。ヴァリスさえも無関心を装うのをやめ、ゆっくりと振り返る。


「ラグラム、貴方が撤退したのも無理はありませんね」


 ヒンペリアが評する。その笑みはわずかに広がり、冷ややかな称賛を示していた。


「ヴァンガードの司令官と対峙して生きて戻っただけでも、称賛に値しますよ」


「それに……」


 ラグラムが続ける。その声は一段低くなり、未だ消化しきれない信じ難い事実を帯びていた。


「お姉ちゃんと戦ったあのガキ……『神の血』を持ってた。何者かはわからなかったけど、あのオーラは間違いなかったよ」


 完全なる沈黙が訪れた。ヴァリスは壁から背を離し、リラックスした姿勢を崩す。その顔は本心からの衝撃で歪んでいた。ヴェロニアはヒンペリアの手に顔を擦り付けるのを止め、血走った目を見開いて弟を凝視する。


 だが、ヒンペリアだけは目を細めた。その顔の静けさが、硬質なものへと変わる。


「神、ですか?」


「そう!そうなのよ、ヒンペリア様!」


 ヴェロニアが割って入る。壊れた精神の中でピースが嵌まり、ヒステリーが戻ってきた。


「あいつ、月魔法を使ったわ!!あの青い光……熱かった!あたしのヴォルテックスを無効化したのよ!」


「待ってください、それは正気の話ですか?」


 ヴァリスが言い返す。その声では、疑念と恐怖がせめぎ合っていた。


「なんでそれを先に言わないんだよ、お姉ちゃん!?」


 ラグラムが呆れ果てて叫ぶ。


 三人の部下はヒンペリアを直視し、命令を、反応を、この狂った状況に意味を与えてくれる何かを待った。だが、彼らの主人はただ歩き出した。コツンコツン…… 落ち着いたリズムで部屋のドアへと向かい、金色のノブに手を伸ばす。彼はそこで立ち止まり、暗い木材を背景に背中を向けたまま動かない。


「上位精霊、ヴァンガード最年少の女性司令官、そして月の女神の末裔……」


 彼は障害を列挙する。低い声は、抑え込まれたエネルギーで振動していた。ゴクリ。ヴァリスが唾を飲み込む。ラグラムは再び冷や汗を感じた。ヴェロニアは興奮と恐怖で打ち震える。顔は見えない。だが、部屋の空気が劇的に変化していた。鉄と、屠殺場の臭いが充満する。


ギロリ。


 ヒンペリアが、横顔が見える程度に顔を向けた。それまで白く虚ろな井戸のようだった瞳が、深紅の闇に浸食されていた。今やそれは禍々しく、鮮烈な赤色に輝いている。皮肉な笑みは裂けるように広がり、悪魔的な、飢えた表情へと変貌していた。この部屋には収まりきらないほどの混沌を渇望するかのように。


「これは、面白くなりそうですね」


 ラグラムが息を呑む。その音は、重苦しい静寂の中で明瞭に響いた。彼の声は絞り出すようで、死への恐怖とは無縁の、厳格な父親に悪戯を告白する子供のような情けない怯えを含んでいた。引きつった笑みが、彼の唇に浮かぶ。


「あー……その、あともう一つだけあるんだ、ヒンペリア様……」


 ヒンペリアがピタリと止まる。振り返りもせず、苛立ちも見せない。沈黙の期待を背負った彫像のように静止し、ラグラムに続きを促す圧力をかける。


「……ボクたち、『いしずえの宮殿』を見つけたよ。というか……お姉ちゃんが見つけたんだけど。戦ってる最中に床が抜けてさ……」


 時間がつまずいたようだった。すべての視線がラグラムに集中する。ヴァリスとヴェロニアの表情には滑稽なほどの疑念が浮かび、ヒンペリアの殺気さえも、そのあまりの不条理さに一瞬揺らいだ。


「……その情報を、今ここで共有しようと思ったのですか?」


 ヒンペリアが問う。その声は危険なほど滑らかだった。


「いやぁ、その……」


 ラグラムは後頭部をかき、天井へと視線を逸らす。


「ヒンペリア様が、誰に攻撃されたとかそういうことに凄く興味ありそうだったから、後回しにしちゃって……」


「役立たずが……」


 ヴァリスの囁きは低かったが、猛毒を含んでいた。


「テメェぶっ殺すぞ!!」


 ラグラムが爆発し、男に掴みかかろうとする。ヴァリスは片眉を上げ、迎撃の構えを取った。


 ヒンペリアは背後で繰り広げられる幼児のような混沌を無視した。彼の焦点は、まだ顔の血を拭っているヴェロニアへと戻る。


「その宮殿へ向かいなさい」


 命令は簡潔だった。


「ただし、誰も攻撃してはいけません。ただ監視するのです。誰が入り、誰が出るのかを」


「はい、ヒンペリア様」


 彼女の返答は即座だった。ヴェロニアは立ち上がる。背筋を伸ばした規律ある姿勢。先程までの狂気は、絶対的な忠誠という仮面の下に封じ込められていた。


「貴方たち二人も」


 殴り合いの寸前だったラグラムとヴァリスが凍りつく。ギギギ……ゆっくりと、錆びついたように首を回し、主人を見る。


「ラグラム、デュランダルの元へ行き、ゼルタニアに連絡を取りなさい。『最終段階が始まった』と」


「今すぐに、かい?」


 ラグラムの顔から怒りが消え、衝撃が広がる。


「もうエスパーを探さないの?せっかく宮殿を見つけたのに?」


 ヒンペリアは、わずかな光しか通さない小さな長方形の窓へと歩み寄る。外に広がる都市の黄金色の反射を見つめながら。午後の始まりを告げる微風が、彼の青いマントを揺らした。


「ブリッグスは狡猾な男です。あまりに狡猾すぎる。彼は、上司でさえも巨大な盤上の捨て駒としか見ない、稀有なタイプの手合いですよ」


 彼は手を掲げ、小さな光の束を掴もうとするかのように指を曲げた。


「土台を攻撃するという当初の計画は、番人の目を逸らし、彼らを釘付けにするための陽動に過ぎませんでした。その間に、あの男爵たちの強欲さを利用し、『偶然を装った』発掘作業で宮殿への道を開かせたのです」


「ええ、貴方は何年もの間、そのためにこの街の商業を煽り立ててきました」


 ヴァリスが言い返す。その眉間には困惑の皺が刻まれていた。


「我々はこの採掘場の穴倉を、利益の首都へと変貌させました。単に、宮殿を見つけるためのアクセス権を得るためだけに。それほど近くに迫っているのに、なぜ今すべてを諦めるのです?」


 ヒンペリアが横顔を見せる。瞳の赤い輝きが、楽しげな悪意と共に脈動していた。


「最悪の形で見つけてしまったからですよ。全面対決の最中にね。秘密は露見しました。番人たちが、あの場所にわらわらと群がってくるでしょう。上位精霊とオードリー・セヴェリアンは、日が暮れる前にはあそこに到着しているはずです」


ニヤリ。彼が笑う。その仕草は、破滅の約束を孕んでいた。


「ならば、スズメバチの巣の中でエスパーを探すいたちごっこを続けるよりも……この都市ごと、奈落の底へ突き落とす方がいい」


 彼は両腕を広げた。眼前に広がる煌びやかな大都市を抱擁するかのように。


「彼らが自らのエゴの重みに耐えきれず、生き埋めになる様を見る方が……私は好みですので」

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