第27話「強欲より現れし者」
その豪華なパーティー会場にいた時分から、ヴィセントの周囲の空気は凝固し、呼吸さえままならないほど重苦しい不可視のゼリーへと変貌していた。
「あ、貴方の商才は……並外れている!素晴らしい、いや、壮大と言うべきか!」
ヴィセントは自分の声が裏返り、情けなく震えるのを他人事のように聞いた。唇が引きつるほど無理やり貼り付けた笑顔は、今にも裂けそうだ。笑いたくなどない。称賛などしたくもない。だが、目の前の男――ラモントの放つ威圧感に対し、彼の肉体は生存本能だけで反応していた。喋り続けろ、機嫌を取れ、さもなくば死だ、と。
「それにファラーム!ああ、なんと祝福された土地なのか、貴方のような傑物を輩出するとは!」
「もてなしに感謝しますよ、ヴィセント」
ラモント――いや、グンダーは礼儀正しく微笑んだが、その瞳は絶対零度のように冷たかった。
「さ、最高級のエルフのワインを持ってきます!神に捧げるための秘蔵の品を!」
ヴィセントは逃げるようにその場を離れ、給仕からグラスをひったくった。だが、振り返った瞬間――
……シーン……
そこには誰もいなかった。あの黒いスーツの男は煙のように消え失せていたのだ。安堵よりも先に、心臓が凍りつくような恐怖が襲った。あの怪物が、監視の目も届かぬまま、この屋敷の中を徘徊している?
ガシャンッ!
ヴィセントはグラスを取り落とし、半狂乱で廊下を走った。使用人用の通路へと逃げ込み、最奥にある頑丈な扉の部屋へと滑り込む。
バタンッ!ガチャ、ガチャ、ガチャン!
三つの鍵をかけ、防音と魔法的遮断が施された部屋の中で、ヴィセントは扉に背を預けてズルズルと崩れ落ちた。心臓が早鐘を打つ。誰も入れない。ここは安全だ。
「や、やったぞ……言われた通りにした……」
恐怖で喉が引きつり、乾いた音が漏れる。
「た、頼む……もう放っておいてくれ!!」
その叫びは、静寂に吸い込まれた。だが、その沈黙を破ったのは、何よりも恐ろしい音だった。
……ビクンッ!
背骨に激震が走る。内側から湧き上がる激痛。まるで脊髄を真っ二つにへし折られるような圧力が、彼の身体を襲った。
「ごぼッ……あ、が……ッ!?」
叫び声は血の泡となって喉に詰まる。そして、それは起きた。
メリメリメリッ……!
背中の皮膚が限界まで引き伸ばされ、不快な音を立てて裂けた。
グチャリ……
湿った生々しい音と共に、ヴィセントの肉の裂け目から「何か」が這い出そうとしていた。それはまるで、汚らわしい繭を破るかのように、宿主の肉と脂肪を引き裂きながら。その存在はヴィセントの背骨を梃子にして、強引に頭を反らせた。
ブチブチッ!
筋繊維が断裂し、ヴィセントは床に叩きつけられた。激痛にのたうち回る彼の背中から、タールのような闇を纏った人影が、ぬらりと立ち上がる。長い腕。引き締まった胴体。そして脚。血と影で彫刻されたような悪夢のシルエット。その顔にあるのは、白く虚ろに輝く二つの瞳だけだった。
「ご苦労様でした」
その声は、泥を啜ったかのように歪み、ゴボゴボと濁っていた。怪物は静かにヴィセントに歩み寄り、しゃがみ込む。
「実に……役に立ちましたよ、ヴィセント」
一音ごとに声の歪みが晴れていく。その音色は洗練され、恐ろしいほどのカリスマ性を帯びた人間の声へと変わっていった。
「本当に……この盤上で最高の『歩兵』でした」
スゥゥ……
彼を覆っていた黒い血と粘液が霧散し、衣服が実体化する。革のズボン、黒いシャツ。そして肩には、深い蒼色のロングコートが軍服のような気品を漂わせていた。
「手助けしましょう、ヴィセント……」
男は手袋をはめた手を伸ばし、外科医のような冷静さで、ヴィセントの背中にぽっかりと空いた穴へ手を置いた。
ギチチチチチッ!!
再生ではない。強制的な縫合だ。男の手の下で、裂けた皮膚と肉が暴力的に引き寄せられ、見えない鋼鉄の糸で縫い合わされるかのように閉じられていく。骨が軋む音と、新鮮な血の臭いが部屋に充満した。
ピタリ。
傷が塞がると同時に、ヴィセントは白目を剥いて気絶した。男は立ち上がり、パンパンと手袋の汚れを払う。まるで血ではなく、ただの埃でも払うかのように。その口元には、嗜虐的な皮肉の笑みが浮かんでいた。
「まだ生かしておくのですか?その腐った人間を」
部屋の暗がりから、ねっとりとした嫌悪感に満ちた声が響いた。男が振り返ると、そこには壁に寄りかかった痩身の男がいた。彼もまた同じ蒼のコートを纏っているが、その表情には露骨な不快感が張り付いている。男は鼻を摘まみ、床に転がるヴィセントから顔を背けた。
「貴重な資源は大切にしなければなりませんからね。たとえ傷んでいても……ヴァリス」
「オエッ……ヒンペリア様がそう仰るなら……」
その時、ヴィセントがうめき声を上げ、よろめきながら立ち上がった。汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼は震える手を合わせて懇願した。
「あ、ありがとう……慈悲を、感謝します……っ。お、お願いだ……今度こそ、私を放っておいてくれ……」
ヒンペリアが答えようとした瞬間。
シュゥゥゥーーーーッ!!
空気が軋み、緑色の毒々しい煙が部屋の中央で爆ぜた。
ドサッ……グチャッ!
煙の中から、湿った肉塊のようなものが床に落ちた。ヴェロニアだった。あるいは、かつてヴェロニアだったもの。蒼いコートはボロボロに裂け、全身が焼け爛れている。胸は月の魔力で深く抉られ、片目は眼窩から飛び出し、一本の神経だけでぶら下がっていた。
ヴァリスが一歩後ずさり、顔をしかめる。
「うわぁ……」
だが、ヒンペリアは滑らかに動き、その血塗れの塊のそばに膝をついた。
「ヒン……ペ……リア……さま……」
喉が潰れたような、痛々しい音が漏れる。ヒンペリアは優しく、おぞましいほどの愛おしさを込めて、彼女の崩れた顔に手を添えた。血と膿に濡れることも厭わず、指先でその肉を愛撫する。
「シーッ……可哀想に。随分と酷いことをされたものですね、私の可愛い子」
「ヒンペリアさま……ヒンペリアさま……」
彼女は盲目的な崇拝を込めて、その名を呪文のように繰り返した。壊れた顔を彼の手のひらに擦り付ける。
「肉……あたし……肉ぅ……」
「お腹が空きましたか?」
ヒンペリアはベルベットのように柔らかな声で囁いた。
「心配いりませんよ。貴女のために、特別なものを用意しておきましたから」
彼は振り返ることなく、その白い瞳だけをギョロリと動かし、背後に立つヴィセントを捉えた。その唇には、変わらぬ冷笑が張り付いている。
ヴィセントは見た。床に這いつくばる「それ」の飢餓を。
「ひ、ひぃぃッ……!や、やめろ来るなアアアアッ!!」
その絶叫が合図だった。
ガアアアアアアッ!!
死に体に見えたヴェロニアの筋肉が爆発的に収縮し、獣の咆哮と共に跳躍した。彼女はヴィセントに激突し、その勢いで彼を押し倒す。汚れた爪がヴィセントの胸に深々と突き刺さった。
ブチュッ!バリバリッ!
「ギャアアアアア――ッ!!」
断末魔の悲鳴は、ヴェロニアが彼の喉笛に顔を埋めた瞬間に途絶えた。彼女は貪り食う。肉を引きちぎり、血を啜り、恍惚とした震えと共に嚥下する。
ムシャァ……グチャ、クチャ……ゴクンッ。
ヒンペリアは立ち上がり、頬に飛んだ血の雫を指で拭い取った。そして、興味深そうに嫌悪感を露わにするヴァリスへと視線を向ける。
「ご覧なさい、ヴァリス。やはり資源は取っておくべきでしょう?」
ヴァリスは痙攣するヴィセントの死体と、カーペットを汚す凄惨な食事風景を見下ろし、心底うんざりしたように溜息をついた。
「よく食べられますね……あんな脂身ばかりの肉……もっと赤身になさらなければ、胃がもたれますよ」




