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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・序章:「熾火と前兆」
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第21話「黄金の獅子の帰還」

 ザァァァァッ……


 水平線は無限の絵画のように広がり、空と海が完璧な抱擁を交わしている。視界を支配するのは巨大な潟湖。その水面は深く、催眠的なまでの紺碧を湛えていた。それは現実離れした透明度で、陽光の下でトロリと溶けたガラスのように澄み渡っている。


 バサッ!バサバサッ!


 その静寂を切り裂くように、五隻の巨大な軍艦が威風堂々と波を掻き分けて進んでいた。白い帆は風を孕んでパンパンに膨らみ、遥か彼方に描かれ始めた緑の陸地へと船体を押し進める。


 ゆっくりと、陸の輪郭が形を成していく。最初に樹冠と山頂が水平線を突き破り、次いで文明がその姿を現した。


 キラキラと輝く緋色の瓦屋根。上質な木材と強固なコンクリートで築かれた建物が、誇らしげに聳え立っている。


「若様!到着でございます!」


 メインマストの頂上から、見張り番の男が叫んだ。その声は歓喜に満ち、甲板へと降り注ぐ。


 ワァァァァァッ!


 その報せは、枯れ草に火がついたように瞬く間に広がった。海と戦いに鍛え上げられた乗組員たちが、歓声を上げて沸き立つ。ガシッと抱擁が交わされ、疲弊した顔を安堵の色が洗い流していく。数ヶ月に及ぶ重圧が、潮風の中に溶けて消えていった。


 艦隊を率いる中央船の船首に、一人の人物が微動だにせず佇んでいた。


 それは、一人の少年だった。純白のマントがバタバタと激しく風に舞い、背中に刺繍された『立ち上がる獅子』の紋章――鮮やかな赤に染められたそれ――を誇らしげに晒している。


 彼が纏う黄金の鎧は、太陽そのもののようにギラリと輝き、瞳と髪の色に合わせた深紅の装飾が施されていた。緋色に近い強烈な赤みを帯びた短髪が、風にサラサラと揺れる。その瞳は近づく水平線を見据えていた。そこには、多くの責務を背負う者特有の、静かな郷愁が宿っていた。


 ザパァァァン!


 錨が下ろされ、船は偉大なる王都の港へと接岸した。出迎えは圧倒的だった。桟橋には市民の群れが押し寄せ、艦隊の帰還を国家的祝祭へと変えていた。それは単なる帰還ではなく、勝利の象徴だった。


 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……


 軍隊が上陸し、熱狂する人々の前を隊列を組んで行進する。総隊長と同じ白いマントを羽織った銀の騎士たちが、鋼鉄の前衛を形成する。その後ろを、赤いローブの裾をズルズルと引きずりながら、魔道士たちが厳粛に歩く。弓兵、そして竜の頭を模した兜を被る重装の槍兵たちが続く。彼らの黄金の鎧は芸術品のようで、古の伝説を想起させた。


 だが、最も熱狂的な歓声は、ただ一人に向けられていた。黄金の鎧の少年。


 彼は大通りを、王者のごとき威厳を持って歩いていた。子供たちは目をキラキラさせ、女性たちは慈愛の眼差しを向け、男たちは胸を張って敬意を表す。彼は控えめに、しかし心からの感謝を込めて手を振った。戦士の姿でありながら、その表情は柔らかい。優しい微笑みが、決してその唇から離れることはなかった。


 彼の目的地は王都の心臓部。王国の最終防衛線となる城塞だ。


 ゴゴゴゴゴゴ……


 黒鉄の巨大な門が、低い雷鳴のような音を立てて開き始めた。少年は一人、跳ね橋を渡る。カツン、カツンと、金属のブーツが石畳を叩く音が規則正しく響く。彼が通ると、近衛騎士たちがザッと一斉に跪き、拳を胸に当てて最上級の敬意を示した。


 彼は止まらない。城内、大会議室。そこには重苦しい緊張感がジワリと漂っていた。中央に穴の開いた巨大な円卓を囲むのは、王国の重鎮たち。歴戦の将軍、政治家、賢者たち。そして、全てを見下ろす玉座には、国王が座していた。


 ギィィィィ……


 巨大な扉が押し開かれる。少年が入室した。その厳粛な歩みは、年齢を感じさせない。白いマントが彗星の尾のように流れる。室内がシーンと静まり返り、全ての視線が彼に集中した。


 彼は円卓の中央まで進み出ると、流れるような動作で胸に手を当て、ガシャンと膝をついた。


 国王が彼を見下ろす。その目に厳しさはなく、あるのは静かで深い誇りだけだった。


「ルツェルン帝国は、ヴォルフガルド帝国との紛争において、我々への支援を承諾しました。王よ」


 少年の声は澄んでおり、叫ばずとも広間全体に響き渡った。ザワザワと、円卓にさざめきが走る。


「我々とルツェルンは常に良好な通商協定を結んでおります」口を開いたのは、上質な絹を纏った中年の女性だった。彼女は抜け目のない政治家であり商人だ。「商品の流れは安定的かつ有益です。わたくしとしては、彼らがこの土壇場で我々を敵と見なすとは考えにくいのですが」


「ですが、ヴォルフガルドとの通商関係も同様に生命線です」答えたのは、磨き上げられた黄金の鎧を着た屈強な男だ。「私たちの経済は両者の均衡の上に成り立っています。経済的理由だけでルツェルンに組するのは、早計かと……」


「両帝国は戦争状態にあるのだぞ、元帥」老人のしゃがれた声が議論を断ち切った。王の筆頭顧問官だ。彼は杖で床をコツンと叩いた。そして「私たちは、まさにその中間に位置している。好むと好まざるとにかかわらず、ファラームは地理的な戦場なのだ。中立などという贅沢は、地図が許してはくれん。標的にされる前に、陣営を選ばねばならんのだ」


「敵対行動を開始したのはヴォルフガルドです」エキゾチックな美貌を持つ女性が発言した。紫のローブと帽子、そして赤いレンズの眼鏡がキラリと光る。「わたくしたちもルツェルンも、現状維持を望んでいるに過ぎません。侵略されている側に味方するのが、唯一論理的かつ道徳的な選択ですわ」


「しかし、ヴォルフガルドはその国境沿いの小国を組織的に併合し続けています」穏やかな顔立ちの黒髪の男――彼もまた高位の黄金の鎧を纏っている――が言った。「彼らの軍事力は季節ごとに増大しています。自領の平和維持のために力を維持する私たちやルツェルンとは違い、ヴォルフガルド皇帝はただ一つの目的のために力を維持しているのです。征服のために」


 眼鏡の魔女が眉をひそめた。「恐怖からヴォルフガルドに味方すべきだと仰るのですか、司令官?」


「まさか!」男の穏やかな顔がグッと引き締まる。「私が言いたいのは、どんな犠牲を払ってでも戦争は回避すべきだということです!その代償は高すぎます」


「残念ながら、その選択肢はもはや存在しません」長年国に仕えてきた老婦人がフゥーッとため息をついた。「両帝国の因縁は古く、我々は常に緩衝地帯として衝突を防いできました。ですが、新皇帝は過激派の夢――ライバルの完全なる殲滅を実行に移そうとしています」


 彼女はバシッと卓上の地図を示した。「地理的に、我々は盾であり槍です。巨大な山脈に隔てられた彼らにとって、唯一の例外が『クーガーの潟湖』……古き女神に与えられた恵みです。大規模な地上侵攻を行う唯一のルートは、このファラームを通過すること。彼らは来ます。そして我々は、どちらかのために血を流さねばならないのです」


 沈黙が戻った。以前よりも重く、息苦しい沈黙が。戦争は目前に迫り、巨大帝国との対決は国家的自殺に等しい。悲観論が部屋を支配していた。


 二人を除いて。


 老王は部下たちの苦悩に満ちた顔を眺め、ゆっくりと視線を下ろした。黄金の彫像のように跪く少年へと。


「して、そちは……」王の重厚な声が響いた。「そちはどう考える、若き聖騎士よ?」


「王よ、失礼ながら」別の若い女性騎士が口を挟んだ。「彼が祝福された天才であり、民の英雄であることは存じております。ですが、セヴァー家の若君はまだ一五歳です!高度な地政学の話題はさすがに……」


「お許しください、王よ」


 少年は礼儀正しく、しかしピシャリと遮った。彼は立ち上がらなかったが、その存在感が部屋を圧した。


「僕は、この王国の強さを知っています。一本の剣、一つの魔法に至るまで。そして航海の間、親善試合とはいえ、ルツェルンの大英雄たちと剣を交える機会を得ました。僕の命と名誉にかけて保証します。彼らは戦争への備えができている。この同盟は揺るぎないものです」


「それだけか?」王は身を乗り出し、少年の瞳の奥を探った。


「ですが……」少年は一瞬だけ言葉を濁した。「僕には、ヴォルフガルドにも友人がいます。ルツェルンと同じように。王がルツェルンとの同盟を選んだのは、あちらの皇帝と血縁にあるからだということも理解しています。それは忠義の選択です」


 少年は顔を上げた。その緋色の瞳が王の瞳をギラリと射抜く。そこには歴戦の勇士さえもたじろがせるほどの決意が燃えていた。


「でも、僕は……僕は、こんな戦争が起きることを望みません。一人の男の野望のために、両陣営の罪なき人々の血が代償として支払われるべきではない。お願いします、王よ。僕に、ヴォルフガルドへ行く許可をください。和平協定の対話を試みる許可を!」


 その眼差しには炎があった。一五歳の少年は、世界をあるがままに見るのではなく、あるべき姿として見ていた。そして現実をその理想へと捻じ曲げようとする意志の強さを持っていた。


 王は長い間その視線を受け止め、やがて、フッと老いた顔に哀愁を帯びた笑みを浮かべた。


「誠に、そちは父親に瓜二つじゃな……」王は懐かしむように呟いた。「もっとも、今のそちの顔には、母親譲りの優しい頑固さが色濃く出ておるがな」


 王は玉座に深く背を預けた。決断は下された。


「よかろう。言葉による道を、今一度試みるとしよう。ファラームでの戦争は、戦わずして許容してよい悲劇ではない。行け、若き聖騎士よ」

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