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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・序章:「熾火と前兆」
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第20話「黒鋼の嵐」

 洞窟の空気は、まるで個体のように重く、分厚く淀んでいた。不自然な冷気が遺跡に降り注ぎ、衣服を通り越して骨の髄までゾクリと凍らせていく。


 重苦しい静寂。聞こえるのは、ラグラムがゴクリと唾を飲み込む、湿った神経質な音だけ。小柄な体を弓の弦のようにピンと張り詰め、額からは冷や汗がタラリと伝う。歯の根が合わず、ガチガチと微かな音を立てていた。


 彼は視線を逸らせなかった。目の前に立つ女の姿に、視線が鎖で繋がれたように固定されていた。


 指先がカタカタと震え、必死に保とうとしていた平静を裏切る。靴底を石床にグリグリと押し付け、摩擦を、逃走経路を、何かすがるものを探す。アドレナリンが毒のように血管を駆け巡る。論理が脳内で喚き散らし、勝機など万に一つもないことを告げていた。


 指揮官が歩み寄る。ゆっくりと。意図を持って。金属のブーツが岩を打つコツ、コツという音は、まるで死へのカウントダウンのようだ。


「僕たちも、そっちも……二人ずつ倒れたわけだしさ」


 ラグラムが口を開く。その声は通常より1オクターブ高く、緊張でヒューヒューと掠れていた。


「これ以上やり合うのは、お互いリソースの無駄……だと思わない?」


 オードリーは足を止めた。彼女は、意識を失ったトムの横に立っていた。


 体は向けず、氷のような青い瞳だけをギロリと動かし、倒れた少女を横目で見やる。だが、その意識の主軸は敵対者に固定されたままだ。


「その娘の戦闘能力を鑑みるに、依然として潜在的な脅威であると推測される」


 オードリーの声は、周囲の暴力的な空気とは対照的に、静謐せいひつで洗練されていた。


「一方で、我が方の味方は、確かに戦闘不能だ」


「ラグラム!そのガキをこっちに寄越しなさい!そいつを喰えば……あいつを殺れる!肉をよこせェ!」


 ヴェロニアがゴボゴボと血を吐きながら叫ぶ。その声は惨めに地を這っていた。ラグラムは一瞬姉を無視し、不可能な交渉に集中した。


「そう。気絶したその子を庇いながら戦うなんて、戦術的ハンデは明らかでしょ……」


「だが……」


 その言葉が、ギロチンのようにラグラムの理屈を断ち切った。


 重装備の重さを感じさせない流麗な動きで、『黒鋼の刃』の指揮官はスッと屈み込んだ。彼女はトムの腰に腕を回すと、まるで羽毛でも扱うかのようにヒョイと担ぎ上げる。左腕一本だけで、しっかりと体を固定した。


 彼女は再び背筋を伸ばす。その姿勢は微塵も揺るがない。


「ハンデを背負っているのは……貴様らの方だ」


 姉弟はギリリと歯ぎしりした。その女の傲慢さは頬を張られたような屈辱であり、肉体の傷よりも深く突き刺さった。


「調子に乗ってんじゃないわよ、このアマが!」


 ヴェロニアが痛みを越えた怒りで喚き散らす。だが、ラグラムは凍りついた。


 目がカッと見開かれ、瞳孔が針の穴のように収縮する。彼の視界は、オードリーの右手に――自由な方の手に――吸い寄せられた。


 動いた。


 ゆっくりと、外科手術のような正確さで、オードリーは胸の高さで**スウ……**と虚空に水平線を描いた。指先が何もない空間を滑り、死の軌跡をなぞる。反対側の肩のあたりまで手が届いた時、動きが止まる。


 そして、ガシッと閉じた。


 まるで、現実の織物そのものを掴んだかのように。


 次の瞬間、目にも留まらぬ速さで、オードリーは素手を前方へと**ブンッ!**と振り抜いた。剣も、短剣もない。ただ、手袋に包まれた手が虚空を薙いだだけ。


 キィィィィィン!


 鋭い風切り音が洞窟を引き裂いた。大気が悲鳴を上げ、圧縮され、不可視の刃となって姉弟へと射出された。


 攻撃が着弾する。


 抵抗はなかった。**ズバァッ!**と、バターに熱したナイフを入れるように、強固な岩盤が音もなく両断される。千年の時を経た石床に、深く、完璧な亀裂が刻まれた。


 だが、血飛沫は上がらなかった。


 オードリーは眉一つ動かさない。その淡い青色の瞳はすでに上方へ向けられ、不可視の軌道を追い、起きる前の事象を予見していた。


「ラグ……」


 叫ぼうとしたヴェロニアの声は、弟の手が青いチュニックの襟を**ガッ!**と掴んだことで詰まった。


「悪いね、お姉ちゃん。今のアンタじゃ邪魔なだけだ!」


 パニックを一瞬で冷徹な実利主義に置き換え、ラグラムが叫ぶ。


 ボォォォッ!


 濃密な緑色の煙がヴェロニアの周囲で爆発した。硫黄と古の魔法の臭いが充満する。瞬きの間に煙は晴れ、女の姿は消えていた。死の領域から転移させられたのだ。


 自らの魔法で宙に浮くラグラムは、眼下の破壊痕を見下ろした。(お姉ちゃんの今の状態じゃ、あんなバケモノと正面からやるのは自殺行為だ……)心臓が肋骨をドンドコと叩く。(でも……なんで追撃してこなかった?僕がお姉ちゃんを戦場から離脱させるのを許した。過剰な警戒心?それとも純粋な慢心?)


 それは危険な問いだった。そしてその答えは、致命的かもしれない。


「確かめたくもないけどね!」


 ラグラムは自分に言い聞かせるように叫んだ。宙に浮いたまま、彼は**パンッ!**と乾いた音を立てて掌を合わせた。


 ブォンブォンブォン!


 周囲の空間が振動する。数十もの魔法陣が瞬時に虚空に出現し、病的な緑色の光を放った。刻まれたルーンは複雑怪奇に歪み、見るだけで吐き気を催す視覚言語を描いている。


 遥か下で、オードリーはその不気味な輝きを見上げた。目を細め、術式を解析する。


「どこの神でもないな……」


 重い確信と共に呟く。ルーンの円環の中から、悪夢が具現化した。ズルリ、ズルリとグロテスクな頭部が現実を食い破り、黒く濡れた毛皮に覆われた筋肉質の胴体が続く。ヘルハウンド。その瞳は飢えた赤色に輝き、冷たい石の上にジュッ、ジュッとマグマのよだれを垂らしていた。


 ラグラムの掌が、ミリ単位でジリジリと離れていく。そして、指が離れた。


 バリバリバリッ!


 離れた瞬間に、毒々しいエネルギーのアーク放電が両手の間で炸裂した。彼はただの術者ではない。その体自体が、緑の嵐の伝導体だった。放電の中心で、光そのもので織られた杖のシルエットが形成される。


 オードリーは瞬時に状況を解剖した。(なるほど。あの転移魔法は『聖痕』か)彼女の冷徹な思考は、獣たちの唸り声を無視する。視線は魔法陣から、今まさに光の杖を握ろうとする少年へと滑った。(だが、本職は精霊使い)


 ラグラムは右手で杖をガシッと握りしめた。乱暴な動作で、それを指揮官の胸へと突きつける。


 ギャオオオオッ!


 沈黙の命令に応え、群れが弾けた。赤と黒の残像となり、牙と炎の雪崩となって暗闇を切り裂き、彼女を喰らい尽くさんと殺到する。


 オードリーは一ミリも引かない。肩の上のトムの位置をグッと直し、安全を確保しただけだ。


 空いた右手を、ギュッと握り込む。


 キィィィィィ……!


 手袋の周囲の大気が悲鳴を上げた。気圧が崩壊し、目も眩む速度で回転を始め、光を歪める半透明の長剣――圧縮された竜巻となって可視化する。


 ザンッ!


 無駄のない動きで、腕が水平の弧を描いた。


 グシャアアアッ!


 暴風の刃が悪魔の先兵と衝突した。衝撃はない。あるのは消滅だけ。風圧が肉を、骨を、炎を粉砕し、深紅の霧へと変える。悪魔たちの血がブシャアッと洞窟の壁を染め、消えゆく体の残り火が**シュウウ……**と冷たい床で音を立てた。


「予想はして……」


 ラグラムの言葉は喉の奥で死んだ。唐突な恐怖に窒息する。召喚獣の虐殺を脳が処理する時間さえなかった。


 騎士が、前にいない。


 背後だ。


 氷山のようなプレッシャーが背筋を逆撫でする。彼女の右腕はすでに振り上げられ、死に飢えた風の剣がブォォォンと唸りを上げていた。


 オードリーが腕を振り下ろす。


 今度は、縦一閃。


 ズドォォォォォン!!


 圧縮された空気の刃が、終末的な暴力で解放された。斬撃は洞窟の現実を引き裂き、天井から床まで一直線に破壊の傷跡を刻む。何時代も天井を支えてきた巨大な柱が**バキンッ!**と両断され、ガラガラと轟音を立てて崩れ落ちる。衝撃波はさらに奥へ抜け、古き王宮のファサードに深い傷を穿った。


 一撃の後、重力が指揮官を捉えた。ズシンッ!オードリーは重く着地し、岩盤を陥没させ、土煙を舞い上げる。左腕は強くトムを抱き寄せ、衝撃から守り抜いていた。


 即座に立ち上がり、青い瞳が土煙をギロリと貫く。


 (攻撃を避けたか)苛立ちはない。あるのは冷徹な計算のみ。


 転移の緑煙は暴風で吹き飛ばされていたが、乱れた大気の中に魔力の残滓がユラユラと漂っていた。指揮官の目が細められ、自らが穿った巨大な亀裂を見据える。そこから逃げ出したネズミの痕跡を探して。


 視線が下がる。ブーツの下の地面が、**ビリリ……**と微かに震えた。他の戦士ならば見逃すほどの、極小の振動。


 だが、オードリーは感じた。


 躊躇なく膝を曲げ、**ダンッ!**と跳躍する。足が地面を離れた瞬間――岩盤が爆発した。


 ドゴォッ!


 粉砕された石の柱が噴き上がり、そこから悪夢が現れた。青白く濡れた皮膚から粘液をボタボタと滴らせる、巨大なワーム状の悪魔。白濁した病的な眼球。あぎとがガパッと開き、数百もの回転する歯が工業用ミンチ機のようにギチギチと並んでいた。


 バクンッ!


 一秒前までオードリーがいた空間を、悪魔が噛み砕いた。骨を砕くような音が洞窟に響く。空中のオードリーが迎撃の構えを取るが、敵は一体ではなかった。


 バリバリバリッ!


 亀裂から、壁から、岩が次々と砕ける。さらに三体のデーモンワームが飛び出し、生きた魚雷となって空中の彼女へ殺到する。


 一体目が一直線に、歯の槍となって胴体を狙う。


 オードリーの冷気は揺らがない。空いた右手を握り込み、手袋の周りの空気をギュルルッと圧縮する。ドムッ!虚空を真下に殴りつける。


 炸裂した気圧が推進剤となり、彼女の体を垂直にシュッと押し上げた。ワームはブーツの下を空しく通り過ぎる。


 だが、二体目が死角から迫っていた。丸呑みにせんと大口を開けて。


 上昇の頂点で、オードリーは死のバレリーナのように優雅に身を捻った。右脚が完璧な弧を描く。パァァン!鋼鉄のかかとが怪物の側頭部に直撃した。


 衝撃は絶対的だった。風圧が蹴りに追従し、悪魔の頭蓋が内側から破裂する。肉片と骨と体液がブシャアアッと四方八方に飛び散り、洞窟を汚した。


 降り注ぐ赤い雨の中、残る二体が同時に襲いかかる。


 オードリーは一体に向けて掌底を突き出した。ズボッ!掌から小型の竜巻が水平に射出され、怪物を貫通し、内側からグチャグチャにねじ切る。


 しかし、四体目が速かった。兄弟の死骸の影からヌッと現れ、彼女が腕を引く前に右脚に食らいついた。


 ガブッ!


 鋸状の歯が食い込む。巨体の重みで急降下し、オードリーを引きずり込む。一度上昇して勢いをつけ、目も眩む速度で石床へ向かってダイブした。


 ズドォォォォォン!!


 衝撃は地震のようだった。怪物は自らの体をハンマーにして獲物を叩き潰した。洞窟が揺れ、千年の塵がモワァッと舞い上がり、着地点を覆い隠す。


 だが、その雲の色が変わった。灰色が、鮮やかな深紅に染まる。


 **サァァ……**と霧が晴れる。クレーターの中心、グズグズに潰れた肉の海に、オードリーは静止していた。彼女を掴んでいたワームは、原形を留めぬペーストに変わっていた。


 その肩で、トムは無傷のままだった。髪一本乱れていない。オードリーも無傷だ。超高速の風の障壁が全身を包み、衝突の瞬間に悪魔をミキサーのように粉砕したのだ。


 拳は固く握られ、風の刃は「納刀」された状態で腕の周りをヒュンヒュンと唸っていた。冷たい瞳が、卑劣な召喚者を探して巡る。


 その時、背後の地面が音もなく沈んだ。


 ヌッ……


 最初の一撃を外した最後のワームが、背後から特攻を仕掛けていた。出現と同時に、オードリーとトムを一息にバクッと飲み込む。獣は止まらない。獲物を腹に収めたまま暴走列車のように突進し、古の王宮の石壁に**ドッガァァァン!**と激突した。


 壊れた柱の陰から、ラグラムが姿を現した。**ハァ、ハァ、ハァ……**と肩で息をする。服は冷や汗でぐっしょりと濡れ、瞳は疑念と恐怖で揺れ動いていた。


「これで……足りたか?」


 震える声で囁く。悪魔の膂力りょりくがあのバケモノの技を上回ったことを祈りながら。


 ワームは壁にめり込み、動かない。静寂が戻る。


 その時。怪物の体内から、白い光の束が**ピカァッ!**と漏れ出した。


 ブクブク……と悪魔の体が膨張する。白い皮膚が限界まで張り詰め、黒い血管がドクンドクンと脈打ち、内なる輝きが肋骨の影を透かして見せた。


 肉体は耐えられなかった。バァァァン!!内側から破裂した。臓器、黒い血、皮片が有機的な手榴弾の破片となって洞窟中にバラバラと撒き散らされる。


 降り注ぐ血の雨の中、完全な球形の風が汚れを弾いていた。


 カツン……


 オードリーが死骸の中から歩み出る。手の中の風の刃はキィィィンと耳障りな高音を立てて狂ったように回転していた。肩の上の少女は、竜巻の結界に守られ、依然として無垢なままだ。


 オードリーはラグラムを見上げた。怒りはない。ただの宣告だ。


「ここで終わりだ……」


 低く、しかし雷鳴のような決定的な響き。


 彼女は右手を頭上に掲げた。ゴゴゴゴゴ……!洞窟中の大気が一点に吸い寄せられる。風の刃が加速し、膨張し、天井を突くごとき巨大な竜巻へと成長する。山そのものを崩落させんばかりの破壊の柱。


 ラグラムは圧死しそうなプレッシャーを感じた。生存本能が、忠誠心や計画の全てをかき消して絶叫する。


「うわあああああっ!」


 半狂乱で叫び、両手を突き出す。**ボォォォッ!**と制御不能な緑の煙が爆発的に噴出し、瞬く間に洞窟の隅々まで濃密な毒霧で満たした。


 視界ゼロ。


 ズゴォォォォォッ!


 オードリーの手が振り下ろされ、竜巻が解き放たれた。暴風が煙を薙ぎ払い、岩肌を磨き上げるほどの威力で一瞬にして空気を浄化する。


 だが、塵が落ち、視界が晴れた時――ラグラムがいた空間は空っぽだった。


 オードリーの周りの風がフッと解け、柔らかな微風となって黒髪をサラリと揺らす。


「逃げたか……」


 魔法の煙の酸っぱい臭いがまだ石に染み付いていたが、召喚者の気配は完全に消え失せていた。

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