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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・序章:「熾火と前兆」
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第19話「月光の後の静寂」

 最後の激突によって巻き上げられた粉塵は、未だ洞窟の空気を支配していた。それは幾千もの時代を経た灰色の分厚いとばりであり、喉をガリガリと引っ掻くような淀んだ空気を孕んでいた。砕けた石の粉末と、鉱物化したかのような古びたカビの臭いが、トムの鼻腔を侵す。


 だが、彼女はまだ立っていた。


 ズキズキと脈打つ痛みの地図と化したその体は、濡れそぼっていた。汚れた汗が、額や唇から流れる血と混じり合い、埃を巻き込んで深紅の筋となり、顎からポタポタとリズミカルに石畳へと滴り落ちる。呼吸をするたびに、炎症を起こした肺が短剣で刺されるように痛む。彼女は激しく喘いでいたが、その瞳だけは、晴れゆく瓦礫のカーテンを鋭く見据え、釘付けにしていた。


 彼女を支えていたのは、その瞳だった。凍てつくような淡い青色を宿した二つの月。その場にそぐわない力が、そこに宿っていた。小さなエーテルのルーン文字が、天上の火花のように彼女の体の周りを未だに舞っていた。


 だが、戦いは終わった。彼女を支えていた月光のアドレナリンが、潮が引くように退き始める。


 青い火花は一つ、また一つとその輝きを失っていった。冷たい灰のように肌に舞い降り、触れた瞬間にフッと消滅する。その力の最後の残滓ざんしによって、彼女は最も深い裂傷が塞がり、出血がついに止まるのを感じた。顔を伝っていた血流は勢いを失い、やがてゆっくりとした雫となり、止まった。


 そして、その瞬間、反動バックラッシュが訪れた。


 魔法が彼女を見捨てた刹那、暴力的な衝撃が、内側から突き上げる激痛の波となって襲い掛かった。遠ざけていた痛みが、利子をつけて一気に押し寄せたのだ。


「ぐっ……!」


 喉の奥から、絞り出すような呻き声が漏れた。膝から力が抜け、ガクンと崩れ落ちる。トムは冷たい石の上に四つん這いになった。痛みは絶対的で、圧倒的だった。彼女は震える腕で自身の体を抱きしめ、今にもバラバラになりそうな肉体を必死に繋ぎ止めようとした。


 顎が砕けんばかりに歯を食いしばる。叫ぶことすらできず、彼女は頭を床に打ち付けた。ガンッ、ガンッ。石に響く鈍い音だけが、その拷問を表現する唯一の術だった。それは振動する痛みであり、まるで全身の筋繊維、筋肉、神経の一つ一つが内側から鞭打たれているかのようだった。


 ついに、抵抗の糸がプツリと切れた。痛みは、耐えられる限界を超えていた。


 張り詰めていた体がフッと弛緩し、彼女は埃と瓦礫の中にゴロリと横たわった。武器が石に当たるカランという乾いた音が、洞窟に力なく響く。月光の輝きを失った瞳が、白く霞んでいく。視界の端から闇が侵食し、世界の縁がカメラの絞りのように閉じていった。


 忘れられた墓所の静寂の中、意識の最後の欠片と共に、血に汚れた唇から一つの想い、一つの言葉が漏れた。


「お兄……様……」


 そして、闇が彼女を連れ去った。


 静寂を取り戻した広大な洞窟に、足音が響いた。  コツ、コツ、コツ。  柔らかい革のブーツが、意図を持って踏みしめる音。近づいてくる人影の背丈はトムと同じくらいで、威圧感を与えるような巨躯ではない。その顔は、青みがかったマントの深いフードによって完全に隠されていた。


 彼はゆっくりと歩き、意識を失ったトムの横を通り過ぎた。闇に隠されたその視線が、一瞬だけ彼女を値踏みするように捉えたようだった。だが、すぐに興味を失ったかのように彼女を無視し、未だ階段を隠している粉塵のカーテンの方へと歩き続けた。


 その足取りは緩慢で、一定のリズムを刻んでいた。


 彼が煙に触れようとしたその時、地面がゴゴゴと震えた。風圧が粉塵を一瞬にして吹き飛ばし、視界が開ける。


 階段の岩盤に穿たれた、煙を上げるクレーター。そこから、ボコボコという不気味な音と共に、空気を引き裂くような憎悪の絶叫が迸った。急勾配の滝のように胴体から血を噴き出しながら、あの女が現れた。


 胴体は無残に切り裂かれ、以前の攻撃による深い傷口がパックリと開いている。かつて白磁のように美しかった腕と顔は、トムの月光魔法によって赤く焼け爛れ、原型を留めていない。溶解した片方の眼球は、眼窩からデロリと垂れ下がっていた。完璧に整えられていた髪はチリチリに焦げ、無残な虎刈りとなっている。


「あのクソガキを……ブチ殺してやるゥッ!!」


 彼女は叫んだ。その声は喉に詰まった血でゴボゴボと濁り、病的な響きを帯びていた。彼女はクレーターから這い出し、数メートル先に倒れているトムに向かって、焼け爛れた腕を必死に伸ばした。


 彼女の下に、どす黒い血溜まりがみるみる広がっていく。這おうとしてついた腕が力なく滑り、体を支えることさえできず、無様に崩れ落ちた。


「殺す……殺してやる……」


「ヴェロニアお姉ちゃん……どうしてそんな姿に?」


 青いマントの少年がコメントした。その声には微かな懸念が含まれていたが、それ以上に深い疲労感、面倒事に対するうんざりとした響きが支配していた。姉の惨状は、彼にとって何よりも「厄介な不都合」であるようだった。


「ラグラム!」女は血塗れの手で少年のブーツをガシッと掴み、懇願した。「あいつを! あの小僧を連れてきて! 必要なの! アイツが必要なのよ!」その声は血に溺れ、依然としてあのおぞましい音色を保っていた。


(小僧……?)  少年は思った。その虚ろで気怠げな視線が、背後のトムへと向けられる。 (僕には女に見えたが……少なくともオーラは女のものだった……見間違いか?)


「はいはい……分かったよ……」彼は、つまらない雑用を押し付けられたかのような退屈な声で答えた。


 女の焼け爛れた顔に、グニャリと醜悪な笑みが浮かんだ。「うふふ……やっぱり助けてくれるのね、私の可愛い弟」


 少年はゆっくりとトムの方へ歩いていった。彼女のそばに辿り着くと、しゃがみ込み、その顔を覗き込む。意識を失ってなお、トムの表情は苦痛に歪んでいた。


(ああ……やっぱり女だ。男装しているだけか)


 ラグラムの瞳が、淡い薄緑色の光を宿して輝いた。彼は彼女に向かって手を伸ばす。


(体にかかっているカモフラージュの魔法が見える……この魔法、これは……)


 突如、彼の目が見開かれた。トムの顔の数センチ上で、彼の手がピタリと止まる。指先がワナワナと震えていた。


「どうしたの、ラグラム?」喉から血を溢れさせながら、ヴェロニアはわざとらしい無邪気さを装って尋ねた。


「お姉ちゃん……残念だけど、この子はあげられない。ヒンペリア様のところへ連れて行かないと」彼は話し始めた。先ほどまでの退屈な色は消え、先送りできない重要な任務を前にした切迫感がにじみ出ていた。


「この子?」女は困惑した。「どうして?」


「お姉ちゃんに食べさせるわけにはいかないんだ。連れて行くよ」彼は、未だ這いずりながら近づいてくる姉の方へと顔を向けた。


「どうしてダメなのよ?」女の言葉が崩れ、おもちゃを取り上げられた駄々っ子のような癇癪へと変わる。「どうして『あの子、あの子』って言うのよ!? 欲しい! 欲しい! 私が欲しいのッ!」


 少年は、まるでこの光景に痛いほど慣れっこであるかのように、苦悩に満ちた溜息をついた。「お姉ちゃ~ん……だから、手当たり次第にみんな食べるのは無理だって言ってるでしょ! 僕たちには優先すべき――」


 その時、二人の目が同時にカッと見開かれた。  背筋を駆け上がる、冷たく鋭利な感覚。  気配。


 ヒュオッ!  空気を切り裂く甲高い音が鳴り響いた。一閃の風が、淀んだ空気を鋭利に断ち切る。


 不可視の刃が洞窟を奔り、トムの体を素通りして――彼女を無視して――ラグラムへと直撃コースを描いた。少年は間一髪で後方へと跳んだ。彼の体がボワッと緑色の煙となって霧散する。一瞬の後、姉の隣の空間に緑の煙が再結集し、そこから少年がスタッと着地した。


 ザシュッ!  見えない風の刃が、ラグラムがいた場所を襲った。それは単にかすめるだけでなく、古く硬い岩盤に深い亀裂を刻み込んだ。


「チッ……」少年は舌打ちした。「よりによって、ヒンペリア様が『正面からやり合うな』と言っていた相手かよ……」彼の顔は、再びあの退屈と苦痛が入り混じった仮面に戻っていた。


 ガチャン、ガチャン。  金属の足音が響いた。それは規則正しく、洗練され、規律に満ちた音だった。


 亀裂の入り口から、艶消しの灰色の鎧が姿を現した。真紅のマントが、彼女の断固とした歩みに合わせてバサリと翻る。マントの背には、王国の紋章が白く染め抜かれていた。双頭の鷲、そしてその背後で交差する盾、剣、槍、ハルバード。


 現れたのは、長い黒髪を持つ、しなやかな体躯の若き女騎士だった。灰色の装束は、彼女の淡い青色の瞳に宿る陰鬱な気怠さを反映しているようだった。その表情は硬く、厳格で、馴れ合いや軽薄さを一切許さない鉄のような厳しさがあった。細身のシルエットに反して、その体は鮮血と汗の中で鍛え上げられたものであることを雄弁に物語っていた。


「ならば……平穏を乱す不逞の輩は……貴様らか。」


 若き騎士は言った。その声は静謐せいひつでありながら、絶対零度の威圧感を孕んでいた。


「オードリー・セベリアン……」  少年は姿勢を正し、最悪の事態に備えて身構えた。 「『黒鋼の刃』第二前衛部隊長か……」

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