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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・序章:「熾火と前兆」
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第18話「頂上と底」

 ダクトの中の空気は、腐った霧のようだった。過熱した金属と、かつてそこを流れていた化学物質の悪臭が、血と煙の匂いと混じり合い、呼吸をするたびに喉をガリガリと引っ掻くような瘴気を作り出していた。爆発による灰色の煙は、巨大な裂け目から吹き込む気流によって少しずつ吸い出され、その破壊の爪痕を露わにしていった。


『秩序の番人』たちは訓練された効率の良さで、瓦礫の中を動き回っていた。カエルと生き残った弟は、すでに初期治療を受けていた。


 生き残ったその弟は、この病的な静寂の震源地だった。


 彼は捻じ曲がった金属の上に膝をつき、両手を背中で縛られたまま動かない。白いマントが彼の肩を覆っていた。その瞳は虚ろで、打ちのめされ、彼の目の前にあるもう一つの白いマント――無残に引き裂かれた兄の遺体を覆うそれ――に釘付けになっていた。衝撃が彼の中身をくり抜き、ただの抜け殻だけを残していた。その顔は煤とトラウマの仮面と化し、そこに張り付いた影は消えそうになかった。


 一方、カエルは自身の激痛と戦っていた。血の滲む包帯が胴体と腕に巻かれていたが、その集中力は研ぎ澄まされたままだった。彼は片膝をつき、青ざめた顔で指示を飛ばす。


「『先触れ』が! 彼がまだあそこにいるんだ!」 彼の声は荒々しく、その場の停滞した空気を切り裂いた。「アルカンエンジンを持って来い! 今すぐだ!」


「はっ!」 二人の番人が敬礼し、ブーツの音をダクトの回廊に響かせて駆け出した。


 カエルは痛みに顔を歪めながら、無理やり立ち上がり、破壊されたダクトの不揃いな縁へと足を引きずった。奈落から吹き上げる冷たい風が顔を打つ。彼の視線は暗闇へと沈んでいった。遥か下、旧市街の廃墟が裂け目の壁にしがみつくように存在し、あの不気味な緑色の松明の光に照らされていた。


(あの轟音は何だ? 下で何が起きている?)


 彼の脳裏にカオスが蘇る。爆発。青いマントの女。そして、あの男……ヴェルンが自由落下していく光景がフラッシュバックした。(あいつ……あいつは空を蹴ったのか? 足元に小さな結晶化した炎が見えた。一体何者なんだ?)


「状況は、カエル?」


 ダクトに響いたその声は重く、感情を排し、鋼鉄のように重厚だった。それは、問答無用の威厳を帯びていた。


 カエルはビクリとして振り返り、激痛と驚きで体を強張らせた。その瞬間、戦闘中に保っていた張り詰めた真剣さは煙のように消え失せた。万年疲労困憊の顔をした、番人の前衛部隊長が戻ってきたのだ。


「ブリッグス……た、大尉?!」 彼はどもった。


 彼の前には、嵐のような灰色の瞳と褐色の肌を持つ男が立っていた。いつもの不機嫌そうな表情が、目の下の隈をさらに深く刻んでいる。


 ブリッグスは彼を頭からつま先まで値踏みし、冷徹な視線を向けた。「ボロボロだな」抑揚のない声で彼は言い放った。


「こ、攻撃を受けました! 反乱分子のグループです! あの青いマントの連中です!」


「青いマントの連中か……」 ブリッグスの単調だった声に、わずかな興味の色が混じった。


「は、はい! ですが、『先触れ』が連れ去られました! 敵によって! おそらくまだ下で交戦中だと思われます!」 カエルは動く方の腕で必死に裂け目を指差して叫んだ。


 ブリッグスはカエルのパニックを無視した。彼は負傷した部隊長を通り過ぎ、カエルがいたのと同じ縁まで歩み寄る。そして奈落を見下ろした。裂け目の広大さが、彼を飲み込もうとしているかのようだった。


「『先触れ』、か」 彼は独り言のように呟いた。「黒髪の男か、それとも赤髪の小僧か?」


 彼の灰色の瞳が対岸の壁を、亡霊のような緑の炎に照らされた暗い洞窟の入り口を舐めるように確認した。目が細められ、突然の、そして警戒すべき認識がその顔に浮かぶ。


「赤髪の……」 カエルが答えた。


「あの小僧が……?」


「すぐに部隊を向かわせないと! 彼は援護を必要としています!」 カエルはパニックを滲ませて懇願した。


 ブリッグスはゆっくりと振り返った。その目は冷たい。「可能になり次第、部隊を送れ」


「アルカンエンジンの準備が整う頃には……」 新しい声が空気を切り裂いた。「『先触れ』は既に息絶えているだろう」


 それは女性の声だった。鋼のように冷たく、澄んでいた。ダクトの主通路から、重々しくリズミカルな金属の足音と共に響いてきた。


 カエルとブリッグスが振り返る。


 負傷した部隊長は口をぽかんと開け、言葉を失った。衝撃がその青白い顔を覆い尽くす。


 一方、ブリッグスは再び目を細めただけだった。その表情は、歓迎せざる認識によって固く閉ざされる。彼は近づいてくる人影を長い沈黙の中で見つめ、やがて低い声で言った。


「好きにしろ」


◇ ◇ ◇


 闇はほぼ絶対的で、千年の塵と腐敗の匂いがする冷たい漆黒だった。唯一の明かりは、静かな戦いを繰り広げる二つの光源から来ていた。片や、ひび割れた柱に固定された古い松明で燃える、死人のような緑色の炎。それは浸食された石の上に病的な影を落としていた。片や、裂け目の入り口から差し込む、蒼白く灰色の、たった一筋の陽光。


 戦いの破壊によって生まれた巨大なクレーターの前で、廃墟に住み着く亡霊のような影たちが動いていた。


『虚ろ』たちは、その穴を目指していた。


 彼らは足を引きずり、よろめき、乾いた布擦れの音を立てながら冷たい石の上を這いずっていた。その動きは、あの酔っ払いには理解できない本能に突き動かされているようだった。彼らは不揃いな縁に集まり、肩を寄せ合い、ただ……見ていた。誰にも聞こえない歌に耳を傾けるかのように、底なしの深淵を見つめていた。


 ヴェルンはその光景を眺めていた。その顔は退屈の仮面を被っていたが、その下にある深い嫌悪感を隠しきれていなかった。


(許されざる罪人か……) 彼は口元を歪め、皮肉な笑みを浮かべて思った。(それとも、怒らせてはいけない男爵を怒らせちまったかだな)


 彼はひび割れた構造物、闇に消える壊れたアーチへと視線を巡らせた。ここは……かつてのキサナトラ。いしずえ。今じゃあ、青空天井の牢獄だ。息をする厚かましさだけを持った、人間のゴミ捨て場ときたもんだ。


 彼は『虚ろ』たちから視線を外し、クレーターに焦点を合わせた。


(チッ。あのイカれたクソガキ。まだ生きてるか? 奴から放たれたあの光、間違いなく月光魔法だ……奴と、あのもう一人のイカれた女は、そのまま虚空に消えた)


 彼は長く、疲れたため息をついた。


(クソ。俺も行くべきか……)


「まさか、こんな神に見放された地で……貴公きこうと相見えることになろうとはな」


 声が洞窟に響き、彼の思考を断ち切った。それは女性の声で、裂け目の鋼のように冷たく、洗練された脅威の響きを含んでいた。ヴェルンのうなじの毛が逆立つ――彼が心底嫌う感覚だった。


 ヴェルンは振り返りもしなかった。目を閉じ、純粋な苛立ちの唸り声が喉の奥で低く振動する。今日は厄日だ、どこまでも。


「よりによって、アンタかよ……」 彼は、肉体的なものを遥かに超えた疲労を滲ませ、間延びした声で呟いた。


◇ ◇ ◇


 街の頂上トップでは、祝宴が世界の上空に浮かび、全てに対して無関心を決め込んでいた。オーケストラは壮大で傲慢なワルツを奏で、その旋律は現実の遠い残響すらかき消していた。キサナトラの臓腑で繰り広げられる戦いも、力の暴走も、死の臭いも、このエリートたちにとっては取るに足らない雑音に過ぎなかった。


 だが、グンダーにとって、そのホールは拷問だった。


 空気は煙ではなく、もっと悪いもので澱んでいた。彼の鋭敏な知覚は、否応なしに客一人一人の魂を感じ取ってしまう。そこは、何十年もの人間の汚物で汚染された湖に沈められるよりも酷かった。卑小な感情、汚れた欲望、裏切りの意図……それら全てが悪臭を放つ潮のように彼に押し寄せてくる。偽りの笑顔の一つ一つが刃となり、傲慢な乾杯の一つ一つが吐き気を催させた。冷たく本能的な憎悪が背筋を駆け上がり、この変装をかなぐり捨てて、この場所を浄化したいという圧倒的な衝動に駆られる。


 だが、目の前の男、主催者であるヴィセントこそが、その腐敗の震源地だった。彼は隙を見せず、その蜜のように甘ったるい声と脂ぎった存在感で、グンダーをそこに縛り付けていた。逃げ出したくとも、グンダーには情報が必要だった。たとえそれが、この男自身のように無価値なものであったとしても。


「この街であなたが成し遂げたビジネスは、実に素晴らしいものですな」 「ラモント」はコメントした。礼儀正しい笑顔が、顔に張り付いている。彼はヴィセントが、いかにしてキサナトラを彼個人の「不運の都」に変えたかという空虚な自慢話を、すでに十分間も耐え抜いていた。


「おや、こんなものはほんの始まりに過ぎませんぞ、我が友よ!」 ヴィセントは胸を反らして言った。「私は常々言っているのですが――」


 彼の声が途切れた。


 悪寒がグンダーを貫いた。氷の針が魂に突き刺さるような感覚。それは何キロも下から響いてきた。彼の猫のような瞳が見開かれる。ホールの不協和音も、ヴィセントの不快な存在感も、すべてが遠い残響となった。


 彼は感じた。紛れもない、あの魔力の痕跡シグネチャ。冷たく、銀色で、猛り狂うような。圧倒的な懸念が彼を襲う。


(月光魔法? イングリッド……まさか、あの力を……使っているのか?)


「ラモント殿? 何かありましたかな?」 ヴィセントが尋ねた。その小さな豚のような瞳に浮かぶ困惑は、一瞬だけ本物に見えた。


「失礼。急用を思い出しまして」 グンダーは素っ気なく答え、すでに立ち去ろうと背を向けた。


 重く湿った手が彼の肩に置かれた。その握力は驚くほど強かった。「おや、もうお帰りですか? ファラームでのビジネスについて、まだ話し合ってもいませんぞ!」


(なんてしつこい寄生虫だ!) イングリッドへの心配が、胸の中で嵐のように渦巻く。


「本当に失礼しなければならないのです、ヴィセント殿」 グンダーは再び礼儀正しい笑みを無理やり作り、顔を背けた。


「なぜそんなに急ぐのです?」 ヴィセントの笑みが広がり、貪欲なものへと変わった。困惑は消え、あの冷たい捕食者の色が取って代わる。「パーティーは始まったばかりですぞ」 彼の細い目が、脅迫めいた偽善の光を宿して輝いた。「誰もどこへも行かせませんよ……ラモント君」


 グンダーは足を止めた。ゆっくりと振り返る。「ラモント」の仮面が剥がれ落ち、その下の存在が露わになる。あの凍てつくような悪寒、ヴィセントから発せられる精神的な空白が戻ってきた。純粋な強欲、生命を吸い込むブラックホール。


 グンダーは顔を上げた。礼儀で覆い隠されていた彼の猫のような瞳が、焦点を結ぶ。縦長の瞳孔が開き、深淵のような紫色の闇の井戸となった。彼の口が、ゆっくりと開く。


 周囲の空気が凍りついた。オーケストラの音楽も、ホールの笑い声も歪み、突如として発生した死の圧力によって押し潰されたように感じられた。ヴィセントはそれを感じた。今まで抑え込まれていたグンダーのオーラが、漏れ出したのだ。


(殺すぞ)


 ヴィセントの貪欲な笑みが凍りついた。脂汗が禿げ上がった額に噴き出す。一秒前までビジネスパートナー候補だった目の前の「客」が、今や別世界の捕食者のように見えた。


「お、おや、おや……」 ヴィセントはどもり、一歩後ずさりして、嘘くさい降伏のジェスチャーで両手を上げた。彼は甲高く、引きつった笑い声を上げた。「ほんの冗談ですぞ、我が友よ! ただの冗談!」


 彼は咳払いをし、きつくなったベストを直した。「お時間ができた時にでも、また会いに来てください」 肥満した男は、あまりに素早い動きでくるりと背を向け、他のグループへと紛れ込むように早足で去っていった。「まだまだ議論することは山ほどありますからな、ラモント君!」


「ええ、もちろん……」 グンダーは呟き、肩の力を抜いた。彼は深く息を吸い、肺から冷たい空気を吐き出して、殺意に震える神経を鎮めた。圧力が引き、パーティーの熱気と音が再び彼の感覚に雪崩れ込んでくる。


 彼は一瞬目を閉じ、イングリッドへの懸念が全力で戻ってくるのを感じた。


「すまない、イングリッド……」 彼は虚空に向かって呟いた。「余は、約束を破るところだった」

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