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月の斑(はん)  作者: エーテル
第一幕・序章:「熾火と前兆」
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第14話「捨てられし者たちの棲家」

 ギシギシと、体の筋肉という筋肉、骨という骨が抗議の悲鳴を上げる。落下の痛みはズキズキと吐き気を催す波のように脈打っていたが、彼女はそれを無視し、心の奥底にグッと押し込めた。怒り。それこそが、どんな傷よりも熱く、差し迫った白く燃え盛る炎となって彼女をカァァッと焦がしていた。


 彼女は手を差し伸べた。自身の魂の延長であるかのように、二本の棍がその呼び声に応え、瓦礫の中からビュンと飛来し、スチャッと馴染んだ手応えと共にその掌に収まった。


 右の柄を握りしめ、彼女はグルンと体を回転させる。抑え込まれた憤怒の爆発。中央の柄はフッと消え、ほとんど液体のような銀色の金属糸へと姿を変え、ヒュルルと大気を切り裂いた。もう一方の先端が、金属の蛇の頭のように、あの女に向かってシュッと射出された。


 女は、ただニヤリと笑った。純粋な侮辱の笑みだ。


 そして、世界がバキリと割れた。


 音も、閃光もなかった。ほんの一瞬、トムはクラッとめまいを覚えた。胃袋がグルリとひっくり返るほどの、暴力的な空間のズレ。足元の金属の床が消えた。標的である女が消えた。ダクトの淀んだ空気は、氷のように冷たい真空へと取って代わられ、ゴオオオと耳元で唸りを上げ、肺から息をヒュッと吸い出していく。


 彼女は奈落の底へとまっさかさまに落ちていた。


 あまりに突然の出来事に、怒りはスウッと消え失せ、純粋な生存本能のアドレナリンがドクドクと全身を駆け巡る。ビュオオオと風が体を打ち、耳を聾するような轟音を立てる。眼下には、闇がぽっかりと口を開けていた。咄嗟に、彼女は武器を再構成する。鎖が再びカキンと固まり、硬い棒へと戻る。まだギュッと握りしめていた柄を、ダクトの遠いシルエットに向かって突き立てた。


 女に向かって投げつけられた柄は、液状の鎖からプツンと切り離されていた。女はフンと鼻で笑うかのようにヒラリと身をかわし、金属の柄は空しく彼女のそばを通り過ぎていく。女の目は、奈落へと落ちていくそれを追い、勝利の笑みを浮かべていた。だがその時、彼女の笑みがピシリと凍りつき、純粋な驚きの表情へと変わった。


 柄は、まるで目に見えない壁にドンとぶつかったかのように、空中でピタリと静止した。


 一瞬、それは虚空に浮かび、そして、ゴッという暴力的な速さで軌道を反転させ、真下へと射出された。トムがまだ握っていたもう一方の柄に、ガツンッ!という凄ま

 い衝撃音と共に激突し、その音は裂け目にコダマした。彼女の体は投石器の石のようにビュッと後方へ弾き飛ばされ、古い建造物の側面にドガッと叩きつけられた。


 トムは、ゴロゴロと石と腐食した金属の斜面を転げ落ち、ガクン、ガクンと体が跳ねるたびに激痛が走る。最悪の着地だった。ゲホッと咳き込み、視界はチカチカと霞み、口の中には血の味がじわりと広がる。彼女はハァハァと息をしながら立ち上がろうとするが、腕がプルプルと震えて体重を支えられない。ようやく、触れた途端にガラガラと一部が崩れた石柱に寄りかかり、彼女はユラリと立ち上がった。


 そして、彼女は「旧市街」を目の当たりにした。


 それは、単なる廃墟ではなかった。墓場だ。病気のように錆にベットリと侵食された、黒ずんだ石と古い金属の建造物が、まるで骸骨の指のように崖の縁にしがみついていた。そこは壊れた通路、忘れられた広場、そして天井が何世紀も前に崩れ落ちた建物が迷路のように入り組む場所だった。剥き出しになった空には、遥か上方に「天井」――下層都市の底面――がどんよりと広がっていた。


 ここの空気はズシリと重く、湿気と腐朽の匂い、そして奈落の底からツンと立ち上る化学薬品の刺激臭が混じり合っていた。唯一の明かりは、鉄の燭台に固定された松明から発せられ、その炎は病的な緑色の輝きでゆらゆらと燃え、呼吸のたびに喉をヒリヒリと引っ掻く硫黄の匂いを放っていた。そのぼんやりとした光が、長く踊る影を落とし、廃墟を眠れる怪物のように見せていた。


 彼女は、キサナトラのさらに深い、忘れ去られた層にいた。光さえも伝説となった場所に。


 そして、彼女は一人ではなかった。


 影の中を、**ズル…ズル…**と何かが這っていた。労働者でも、下層都市の疑り深い住民でもない。ボロボロの襤褸切れをまとった亡霊たち。キサナトラの隙間から滑り落ちた者たちだ。地獄に地下室があるとすれば、彼女はまさにそこへ叩き落とされたのだ。


 その場所の人々は、がらんどうだった。魂のない肉の抜け殻。彼らはただ廃墟の隅を這い回り、とうの昔に諦めた者の、ノロノロとした緩慢さで動いている。彼らの目はどこにも焦点を結ばず、その手は何ものも求めていない。彼らはまるで虫ケラか、悲惨のオートマトンのようだった。


 トムは、混乱と恐怖にゾクリとしながら彼らを見つめた。一体どんな絶望が、魂の光をこれほどまでにプッツリと消し去ってしまうというのか。


 だが、彼女が周囲の悲劇を処理しきる前に、あの女が目の前にスッと立っていた。


 足音も、空気の揺らぎもない。パチッと瞬きする間に、彼女はそこにいた。数メートル先で、その鮮やかな存在感が、この灰色の世界でギラリと浮き上がっている。


「落ちながら、面白いことしてたわね」 女は言った。そのメロディアスな声が、この場所にはあまりに不釣り合いだった。


 トムは彼女をキッと睨みつけた。怒りが毒のように体を駆け巡る。緑色の炎と、裂け目から差し込む遠い光芒を背景に、女のシルエットがくっきりと浮かび上がる。その顔に浮かぶ狂気の笑みと、彼女が放つヒヤリとした邪悪なオーラが、物理的な圧力となってジワジワとトムを窒息させる。


「この廃墟が何を意味するか、知ってる?」 女は、まるで教授のような口調で尋ねた。


 トムは、ピクリと眉を動したが、答えない。


 女はクスクスと笑った。「ここは街のゴミ捨て場よ。『旧市街』なんて呼ばれてるけど、実態は牢獄、吹きさらしの下水溝ってとこ」


 そして、まるでハエでも払うかのように、彼女はヒュッと腕を振るった。


 目に見えない圧力の刃が、その標的にズバッと命中した。


 石柱の近くでウズくまっていた「がらんどう」の人々が、一瞬にしてグチャリと潰れた。切断されたのではない。解体されたのだ。


 爆発も、閃光もない。ただ、ブチュッという音がした。


 ビシャッ!


 ゴシャッ!


 まるで液体の詰まった革袋が引き裂かれるような、骨が瞬時に粉砕されるような、ゾッとするほど生々しい音。


 さっきまで人の形をしていた場所には、今やドス黒い染みと、赤い霧だけが残っていた。彼らがまとっていた襤褸切れが、中身を失ってヒラヒラとその水たまりの上に落ちた。


「やめろ!」 トムはカッとなって叫んだ。「なぜそんなことをする!?」


 女は、わざとらしく驚いた顔で彼女を見た。「え? なぜって? だって、この人たち、『人』として見られてすらいないのよ?」


 それがブチッと、最後の引き金になった。トムの怒りが白く燃え盛る。彼女は突進した。先ほどと同じ攻撃。棍が鎖と化し、その先端が全力でビュッと射出された。


 だが、女は避けなかった。ニヤリと笑うだけ。そして、再びヒュッと空を切った。今度は、別の無防備な人々の群れに向かって。


 トムの目がカッと見開かれた。(まただ…!)


 不可視の風の刃が空間をズバッと切り裂き、殲滅を約束する。


 しかし、粉塵がフワリと晴れ始めた時、女の笑みはさらに広がった。


「そう来ると思ったわ、先触れ…」


 トムは、元の場所にはいなかった。


 彼女は、攻撃が着弾したまさにその場所に立っていた。ウズくまる亡霊たちを背に、体をグッと低く沈め、まるで盾のように両腕を広げている。彼女は避けなかった。受け止めたのだ。


 その代償は、彼女の肉体にクッキリと刻まれていた。額からはダラダラと血が流れ、その熱い血が片目を伝い、顔に赤い涙の筋を描いている。服は、まるでガラス片の鞭で打たれたかのようにズタズタに切り裂かれ、その無数の小さな傷口という傷口から血がジワリと滲み、布地をベットリと濡らしていた。


 そして彼女の背後では、守りの形見のように、氷のように冷たい青いルーン文字がチラチラと宙を舞っていた。彼女の瞳もまた、同じ月光の力でギラリと輝いている。その冷たく、怒りに満ちた光が、血まみれの顔をぼうっと不気味に照らし出していた。


 彼女は女を睨みつける。ギリギリと歯を食いしばるあまり、歯茎から血が滲み、唇を伝って顎からポタポタと滴り落ちる。ヒュウ、ヒュウと、呼吸のたびに苦痛の音が漏れた。


「…ぜったい…コロしてやる…!」


 その呟きは、廃墟の静寂を引き裂いた。


 女は、侮辱の極みとも言える、無邪気で甘ったるい声色で応じた。真っ赤に塗られた唇に指を当て、悲しげに首を傾げる。


「あらあら…社会のゴミを守るためにボロボロになって。それなのに、私みたいなか弱いレディの命を奪うだなんて。ヒーロー失格よ?」

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