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第2話 はじめて名前を呼ばれた日。旦那様、ただいま絶賛不在中

 リオンがお昼寝に入ったタイミングで、マリネがそっとお茶を運んできてくれた。

 窓辺には柔らかな日差しが差し込んでいて、どこか現実味のない静けさが満ちている。


「坊ちゃまは、よく眠っておられますね。昨日より表情も穏やかでいらっしゃいます」

「そうね。寝るときまでぎゅっと、私の手を握っていたもの」


 ふっと笑いながらカップに口をつけると、ほんのり甘い茶葉の香りが鼻をくすぐる。


(大事なことは、早めに彼女に聞いておかないと……)


「……それで、マリネ」


 私は一呼吸おいてから尋ねた。


「……この家の主人は、今は戦地にいるのね? どこなの?」


 一瞬、マリネの動きが止まる。けれど彼女はすぐに、静かに口を開いた。


「旦那様は、王命により北の戦地にいらっしゃいます。軍の指揮を執っておられるのです」

「そう、戦地に……」


 その言葉が、ひどく遠く感じられた。私が来てから一度も姿を見せないのは、そういうことだったのか。


「……帰ってこられないの? いえ、帰る気がないということ……?」


 自分でも、どうしてそんな風に聞いたのかわからなかった。でも、マリネは答えを否定しない。


「もう随分と長い間……、ほとんど不在でございます。奥様が屋敷においでになる前から」


 マリネの声はいつもと変わらない穏やかさだったのに、その柔らかさがかえって胸に痛かった。


「……前の奥様とのご関係は、あまり良くなかったの?」

「はい……。政略で結ばれたご縁と伺っております。おふたりはお心を通わせる前に、すれ違ってしまわれたようです」


 そこまで言って、マリネははっとしたように口をつぐむ。私は首を横に振って、促すように微笑んだ。


「大丈夫よ、続けて」


 少しだけ肩の力を抜いたマリネは、申し訳なさそうに続ける。


「坊ちゃまのお姿を見ていると……」


 マリネは、そっと手元のカップに指を添えた。


「旦那様には、お辛いこともあったのでしょう。……ですから、少し距離を。いえ、すべてがそうとは申しませんが」


 彼女の言葉は淡々としているのに、なぜか胸がきゅっと痛くなる。

 ふ、とリオンの寝顔に目をやる。


 頬にかかるやわらかい髪。小さな寝息。そしてどこかこの家に似合わない、まっすぐな無垢さ。


 ──この子は、そんなつもりで生まれてきたわけじゃないのに。

 

 けれど何も言わずとも、マリネがすべてをわかっているように、お茶を静かに差し出してくれた。


「この子のこと……。彼にとっては辛かったのかしら?」


 マリネは何も言わなかった。でもその表情に、すべてが滲んでいた。

 肯定でも否定でもない……、でもきっと正直な気持ちだった。


「坊ちゃまの瞳が、亡くなられた先妻様にとてもよく似ておられるのです……」

「……そう」


 この子が生まれたことすら、誰かにとっては『痛み』になる──。そんなの、どうして。


「……でも、そんなことわたしには関係ないわよね?」


 思わず出た言葉に、マリネが小さく目を見開く。けれどすぐに微笑んでくれた。


「はい。坊ちゃまは奥様といらっしゃる時は、本当に幸せそうに見えますから。

……今、とてもよく笑っておられます。奥様がいてくださって、本当に嬉しそうで」


「そう……。なら、良かったわ」


 私はリオンの寝顔を見ながら、そっとその言葉を噛みしめた。

 まだうまくは思い出せないけれど──この子のために、もう少し側にいたい。


 自分でも気づかないほど静かな決意が、胸の奥でじわっと広がっていく。向き合っていける気がした。


 ──けれど私は覚えている、途切れ途切れの記憶の中で。この子の父親が、どんな人だったのかを。


 『エリシア』という名前のこの女性が、どんな風に扱われてきたのかを。

 

 最後にあの人と顔を合わせたのは、まだ寒さの残る春先だった。


 ◆


「これから先もずっと、君を愛することはないだろう。……期待するだけ無駄だと思ってくれ」


 そう言った彼の声は、冷たくもなく熱もなかった。ただ、義務を読み上げるような口調だった。


「問題さえ起こさなければ、好きに過ごして構わない。公爵夫人としての経費も潤沢に用意するよう、執事に言ってある。

お互いに干渉せずにいれば、平穏に過ごせるはずだ」


 そのときの私は──。おそらく『彼女』は、何も言わなかったのだろう。

 ただ俯いて、震えるように頭を下げた。


 「……承知致しました。いってらっしゃいませ」


 小さな声でそう言ったとき、彼は一度も振り返らずに背を向けた。


「……エリシア」


 名前を呼ばれたのは、そのときが初めてだった。


 けれどそれは、愛しさを含んだ声ではなかった。

 ただ、政略で押しつけられた『後妻』を確認するためのような──そんな、音だった。

※感想欄は、一部の読者様との認識の違いによる混乱を避けるため閉じております。

ご理解のうえ、お楽しみいただければ幸いです。

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