第2話 ゆらぎの朝と、沈黙する空 (前編)
朝が訪れた。
窓から差し込む陽光は、いつもと同じように部屋を照らし、カーテンの隙間から漏れる柔らかな光が、白いシーツに優しく影を落としている。
けれど、その朝には微かな違和感があった。
目覚ましの音に反応して目を開けた青年は、ふと息を呑んだ。
心臓が、一瞬だけ不規則に鼓動する感覚。
まるで、見てはいけないものを見た後のような、胸の奥に残るざらつきがあった。
「……なんだ、今の……?」
思わず呟く。
手のひらに触れるシーツの感触、時計の針が刻む規則的な音、鳥たちのさえずり──すべてが日常そのもののはずなのに、その一瞬だけ“何か”が心に引っかかった。
彼はベッドから体を起こし、頭を軽く振る。
「変な夢でも見たか?」
そう自分に問いかけてみたが、具体的な映像や言葉は何一つ思い出せない。
けれど、確かに“何か”が胸の奥でくすぶっている感覚だけが、消えずに残っていた。
⸻
彼は立ち上がり、リビングへと向かう。
家族の声が微かに聞こえる。
母親がキッチンで朝食を準備している音、テレビから流れるニュースのアナウンサーの声。
それは確かにいつもと変わらない日常の音のはずだった。
だが、彼の耳にはどこか“薄い”ように感じられた。
まるで音の輪郭がぼやけているような感覚。
その違和感は、冷蔵庫の開閉音やカップに注がれるコーヒーの音に至るまで、すべてに染みついていた。
彼はキッチンに足を踏み入れ、母親に軽く声をかける。
「おはよう」
「あら、おはよう。今日は早いのね」
母親の声は、いつもと同じように優しかった。
けれど、その声がまるで遠くから聞こえてくるようで、彼は眉をひそめた。
「なんだろう、これ……」
トースターから立ち上るパンの香りも、どこか“薄い”ように感じた。
手に持ったマグカップの温度は確かに熱いはずなのに、その熱ささえもどこか現実味に欠けていた。
⸻
彼はソファに腰を下ろし、テレビのニュースに視線を向けた。
画面には、気象キャスターが週末の天気を伝えている。
「今週末には再び大規模な熱波が予想されており……」
「気象庁は避難準備を呼びかけています……」
その声もまた、背景に溶け込むように聞こえた。
まるで、現実感が少しずつ削り取られているような感覚。
「……昨日、夢を見た気がする」
突然、弟がポツリと呟いた。
その言葉に、彼の心臓が再び不規則に脈打つ。
「夢?」
「うん、でも覚えてない。ただ……誰かと話してたような気がする」
弟の顔には困惑が浮かんでいた。
その表情に、彼はなぜか強い既視感を覚えた。
「俺も……なんか変な感じがするんだよな」
「そうなのか? なんだろうな、この感じ……」
その短いやり取りで、再び家族の間に沈黙が落ちた。
それは日常の“間”ではなく、何かが欠けたような、どこか不安定な沈黙だった。
⸻
彼はリビングの窓から外を見た。
街はいつもと変わらぬ朝の光景を映している。
通勤ラッシュの車列、交差点で足早に歩く人々、遠くに聞こえる救急車のサイレン。
けれど、その景色がどこか“薄膜”を通して見ているような感覚だった。
現実なのに、どこか現実感が薄い。
その理由はわからない。
けれど、その“違和感”は確かに存在していた。
その朝、街全体が微かな“異変”に包まれていた。
交差点の信号が、いつもより少しだけ遅れて変わった。
駅の改札機が、なぜか一瞬だけ停止し、通勤客が足を止めた。
電車のアナウンスがわずかに途切れ、乗客たちは一瞬顔を見合わせた。
だが、それらの異変はあまりにも些細で、ほとんどの人々は気にも留めなかった。
だが、一部の者たちは違った。
彼らはその“違和感”を、明確に感じ取っていた。
⸻
通勤ラッシュに揉まれる中年のサラリーマンが、ふと立ち止まる。
ホームの柱にもたれかかり、頭上の蛍光灯の光が微かに揺れているのに気づく。
そのわずかな揺れが、なぜか胸の奥をざわつかせた。
「……なんだ、これ……」
心臓が不規則に鼓動する。
手に持ったスマートフォンが、指先から滑り落ちそうになるのを必死にこらえた。
周囲の人々は何事もなかったかのように歩き続けている。
けれど彼には、その全員がどこか“影”のように見えた。
顔がぼやけ、輪郭が曖昧で、まるで夢の中でしか見たことのない“存在”のように。
「……まさか、俺だけか?」
その思考が一瞬よぎったとき、頭の奥で何かが弾けたような感覚があった。
だが、その“感覚”の正体はすぐに霧散し、何も掴めずに消えていった。
⸻
一方、オフィスビルのエレベーター内。
疲れた顔のサラリーマンが、閉まりかけたドアの隙間から外の景色を一瞥した。
ガラス張りのビル群が、朝日を受けてキラキラと輝いている。
だが、その光がどこか“冷たい”ように感じた。
彼はエレベーターの壁に映る自分の顔に目を向けた。
そこには、確かに自分が映っているはずだった。
けれど、その目の奥には何かが“揺らいで”いる。
「……俺は、本当にここにいるのか?」
そう呟いた瞬間、エレベーターが微かに揺れた。
だが、その振動は一瞬で消え去り、再び静寂が戻った。
彼はふと手のひらを見つめた。
温度も質感も、確かに“現実”のものだった。
けれど、その実感すら、どこか遠いものに感じられた。
⸻
さらに別の場所。
地下鉄の構内では、若い女性がスマホを手に立ち止まっていた。
画面に映るニュースの見出しが、彼女の目を捉えていた。
「未曽有の熱波、さらに拡大──気候変動の影響か」
「世界各地で異常気象が続発、各国で緊急対策会議」
「都市の騒音が突然消える現象が相次ぐ」
彼女は眉をひそめ、画面をスクロールする。
けれど、どの記事を読んでも、その“違和感”の正体は掴めなかった。
まるで現実そのものが、少しずつ“軋み”始めているような、そんな感覚。
⸻
その感覚は、都市全体に広がっていた。
ある中学校の教室では、放課後の薄暗い教室に一人残っていた少女が、窓の外に広がる夕焼けを見つめていた。
クラスメイトたちはすでに帰路につき、教室は静まり返っている。
彼女の目に映る校庭の風景も、どこか“輪郭”が曖昧だった。
「……変だよね、昨日から」
その声は誰にも届かず、ただ窓ガラスに反射して消えた。
──何かを、忘れている。
その感覚が、胸の奥に引っかかっていた。
まるで、重要なピースが欠けたままパズルを組み立てているような、そんな気持ち。
⸻
夜が深まるとともに、都市はますますその“違和感”に包まれていった。
高層ビルの上層階にあるバー。
カウンターに座る男が、グラスを傾けながらバーテンダーに話しかける。
「なんかさ、最近夢見てる気がするんだよ」
「夢、ですか?」
バーテンダーは氷を静かに混ぜながら答える。
「どんな夢か、覚えてますか?」
男は首をかしげる。
「いや……全然。でも、なんかこう……誰かに話しかけられたような、そんな気がしてさ」
「……奇遇ですね。私も、同じような感覚があります」
「マジかよ」
ふたりは互いに目を見つめ、そして同時に小さく笑った。
だが、その笑みの奥にある微かな不安は、消え去ることはなかった。
⸻
──その夜、世界のあちこちで同じような“ざわめき”が広がっていた。
誰もが同じように、なにかを感じ取っていた。
けれど、その“なにか”の正体は誰にも分からない。
それは恐怖ではなく、むしろ“何かが始まろうとしている”という予感に近かった。
夜は静かに深まりつつあった。
街灯が細い光の帯を路面に伸ばし、窓から漏れる明かりが道端の落ち葉を揺らしている。
けれど、その光景はどこか“重さ”を感じさせた。
誰もが同じ違和感を抱えたまま、それでも“いつもの夜”を過ごしているようだった。
けれど、その夜は確実に“いつもと違う”ものだった。
──それは、魂が揺らぐ前兆。
⸻
一人暮らしの青年は、ベランダに出て夜空を見上げた。
目の前に広がる都会の光景は変わらない。
ビルの窓から漏れる無数の灯、遠くを走る車のヘッドライト。
けれど、その先にある夜空が、どこか“深すぎる暗さ”を帯びているように見えた。
「……何か、変だ」
彼はそう呟く。
声は夜風に流され、すぐにかき消された。
けれど、その小さなつぶやきが、彼の心に微かな波紋を広げた。
──何かを、思い出しそうな気がする。
けれど、その“何か”が何なのかは分からない。
ただ、胸の奥にざらりとした感覚が残っていた。
彼は無意識に手を握りしめた。
掌の温度が、自分が確かに“ここ”に存在していることを教えてくれる。
けれど、その実感すら、どこか遠いものに感じられた。
⸻
同じ夜、別の場所でも。
若い女性が、ベッドに身を沈めながら天井を見つめていた。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、部屋の壁に細い線を描いている。
いつもならすぐに眠りにつけるはずの彼女も、今夜は妙に神経が高ぶっていた。
「……なんで、眠れないんだろう」
彼女はそう呟き、目を閉じる。
けれど、瞼の裏に浮かぶのは、白い空間と誰かの問いかけだった。
──君は、これまで何をしてきた?
──君は、この世界をどう思う?
──君は、これから何を望む?
その問いは、夢の中で聞いたはずなのに、現実の記憶のように鮮明に蘇ってくる。
彼女は胸に手を当て、かすかな鼓動を感じながら、自分自身に問いかける。
「私は……何を望んでるんだろう?」
答えは見つからない。
けれど、その疑問が、心に小さな火種を灯していた。
⸻
さらに別の場所。
ある老人は、夜の散歩に出ていた。
手には古びたステッキ、ゆっくりとした足取りで商店街のシャッター街を歩く。
ふと立ち止まり、頭上の街灯を見上げる。
その光は、かつて見た星空の輝きと似ていた。
けれど、それはあまりにも遠く、儚いものだった。
「……変わってしまったな、この世界も」
彼はふと呟く。
何十年も生きてきた彼には、この夜の空気が確かに“異質”だと感じられた。
──まるで、何かが終わり、何かが始まろうとしているような。
その感覚は、ただの気のせいではなかった。
彼の心が、魂が、それを感じ取っていた。
彼は立ち止まり、深呼吸をする。
冷たい夜風が肺に満ち、古い記憶がふと蘇る。
「……あの頃の星空は、もっと輝いていたな」
呟いたその言葉が、夜の闇に吸い込まれていく。
けれど、そのささやきが、どこかで誰かの心に響いたような気がした。
⸻
──そして、その夜。
世界中のあらゆる場所で、似たような“違和感”が広がっていた。
誰もが同じように感じていた。
けれど、誰もそれを口にすることはなかった。
それは、心の奥にある小さな違和感。
まだ形を持たない、けれど確かに存在する“何か”だった。
⸻
その夜、星空の下、誰もが“何か”を感じ取っていた。
けれど、それが何なのかは分からなかった。
ただ、それは確かに“いつもと違う”ものだった。
その瞬間。
世界の至るところで、小さな変化が起きていた。
ビルの窓がわずかに揺れる。
街灯が一瞬だけ、かすかに瞬く。
自動車のエンジン音が途切れ、犬が遠吠えをする。
猫が鋭く耳を立て、鳥が一斉に羽ばたく。
それは、世界が“目を覚まし始めた”証だった。
⸻
夜明けが近づく。
けれど、その夜はただの夜ではなかった。
それは、“何か”が始まろうとしている夜。
まだ誰も気づいていない。
けれど、確かに世界は揺れ始めていた。
──そして、その先に待つのは、“目覚め”の瞬間。
その夜、都市全体がまるで“目覚め”に向かってざわめいていた。
街灯の明かりは、いつもより少しだけ冷たく感じられ、建物の壁はまるで何かを見張るように静かに立ち尽くしている。
歩道を行き交う人々の足音も、どこかしら硬く、乾いた音を立てていた。
──何かが、変わり始めている。
けれど、それはまだ“誰も知らない”変化だった。
⸻
あるオフィスビルの屋上。
煙草の火が小さく揺れる。
中年のビジネスマンが、遠くに広がる夜景を見つめながら、胸の奥に残るざらつきを感じていた。
「……なんだ、この感じは……」
彼は煙を吐き出しながら、もう一度夜景を見下ろした。
都会のビル群が、光の粒となって規則正しく並んでいる。
けれど、その光がどこか“揺らいで”見えた。
まるで現実の輪郭がぼやけているような──そんな錯覚。
彼はふと、自分の手のひらを見つめた。
指先の感覚が鈍く、肌の質感すら遠くに感じられる。
まるで、自分の肉体が“現実”から切り離されつつあるような感覚。
「……おかしい、何かが」
彼は眉をひそめ、煙草を足元に投げ捨てた。
火のついた灰がコンクリートの上で弾ける。
だが、その音すらも耳に届かないような気がした。
⸻
その一方、夜の公園。
ベンチに座る若いカップルが、小さく震えながら互いに寄り添っていた。
二人の間には確かな温もりがあるはずなのに、その温度がどこか冷たく感じられた。
「ねぇ……なんか、変じゃない?」
「何が?」
「ううん……なんか、空気が……」
彼女はふと空を見上げた。
そこにはいつもと変わらぬ星空が広がっている。
けれど、その星々がどこか“遠すぎる”ように感じられた。
「……ごめん、気のせいかも」
彼女は苦笑し、彼の肩に頭を預ける。
だが、その微笑みの奥には、消えない不安がちらついていた。
⸻
さらに別の場所。
自宅のバルコニーに立つ初老の男性が、夜風に目を細めていた。
彼は夜空を見上げ、かつて自分が子供だった頃の星空を思い出していた。
「……あの頃の空は、もっと近かった」
彼の声は風に流され、夜の闇に吸い込まれていく。
けれど、そのささやきが、どこかで誰かの心に響いたような気がした。
彼は静かに目を閉じ、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。
それは、長年忘れていた“感覚”だった。
「……目覚め、か」