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「夜勤」

作者: 山田 あん

 なるほど。


 白いタオルを縦長に細く切ってリースのように編んだその首吊り輪は、この入口からだとそれなりに頑丈そうに見える。

 しかし踏み台にしている丸椅子はがたがた震え、今にもひっくり返りそうだ。輪の中に顎を引っ掛けて首を通す――歩手前というところだろうか。私が彼女の部屋に入ってきたのは。

 閉め切られていない左右のカーテンの間から差し込む月明かりに、彼女の顔半分が青白く照らされる。うごめく黒い眼球は涙で浮かび上がっている。

 私は今すぐ駈け寄り、彼女を床に引きずりおろさなくていけないのだろう。しかし、そうはしない。扉のレールにシューズの先を乗せたまま、黙って様子を見つめる。この身体に流れるのは、目の前で一人の人間を失ってしまうかもしれない恐怖ではなく、高揚と期待と達成感。血液は滾るように泡立つ。

 私は、この瞬間に立ち会うために生きてきた。

 二度目の、この瞬間のために。



「それではこれで申し送りを終わります。夜間対応をよろしくお願いします」

 白い四面の壁に囲まれた部屋で五分程度の申し送りを聞き終え、一礼する。顔を上げ切る前にこのスタッフルームを飛び出し、早足のままフロアカウンター前を横切る。

 この施設は、病院とも介護施設とも言えない。ここに住まう人達も、患者とも入居者とも言えない。そして働く私達も、看護師とも介護福祉士とも言えない。おそらく、役所に提出する書類には便宜上、何らかの言葉が糊で貼り付けてあるのだろう。

 私は未だにぴたりと当てはまる言葉を見つけられない。だからいつまでも、ここに名前が存在する人達のことは「ここに住まう人達」と呼んでいる。だが、呼び方など些細なことに過ぎないだろう。もっと重要な点を述べるとすれば「ここに住まう人達」は、全員自殺願望者であるということだ。病気ではない。ただ死にたい、それだけだ。会社に向かう電車の中で、一人ぼっちの学校帰りに、ふいに目覚める夜に、死の世界を覗こうとした人達。不変の隙間に転がり落ちる寸前に踏みとどまったかもしくは外部に阻まれて、強制的にこの建物に連れて来られた。

 死にたい願望が消えればたちまちいなくなり、日常に帰る。舞い戻ってくることも多いけれど。

 ここで働く私達の仕事は、「ここに住まう人達」の自殺を食い止めること。ただそれだけ。個人の基本情報は相談員から伝達され、現場対応をする私達は周知しておかなくてはならないが必要以上に介入してはいけない。つまり入職したての職員がまず習得すべきことは、必要と不必要の境目の見極めだ。

 見極めが身体に染みつけば、水が流れるように日々は過ぎていく。そのうち上司から夜勤業務を任される。どんな病院や施設でも夜勤が特に重労働で危険だろう。ここではさらに夜勤は注意が必要だ。「ここに住まう人達」は、夜を好む。

 私は施設で唯一の夜勤専門職員だ。何か立派な資格があるわけでも、特別優秀なわけでもない。誰もやりたがらない中で自ら手を挙げて志願した。私もまた、夜を好むから。

 他の職員達からは感謝される反面、奇怪な視線を向けられるようになり、裏では変人呼ばわり。それはまだましな方だったらしく、今では死神と囁かれているようだ。

「あの、大島さん。今日はよろしくお願いします」

 後ろから呼ばれて振り向くと、自分よりも小柄な女性に丁寧に頭を下げられた。入職したばかりの若い女性らしく、頬には赤みが帯びている。正真正銘の新人、佐藤 円さんだ。栗色の髪を黒いゴムでしっかり一つに縛り後ろで揺らしている。距離が近過ぎるせいか肩が薄いせいか両目がどんぐりのように大きく見える。

 申し送り中に彼女は隣に張り付いていたにも関わらず、スタッフルームを出た途端に頭から存在が抜け落ちていた。今夜は新しい職員を指導しながら一晩を過ごさなくてはいけない。

「ごめんなさい。説明もなく動き始めてしまって」

「いえ、私のことは気にしないでください。勝手に大島さんに付きまとって勉強させていただきますから」

 冗談を交えたつもりなのだろう、口元が淡く微笑んでいる。一方私はその一言を聞いて、ああこのタイプかと解釈する。そして、すぐ辞めるのだろうと推測する。

 意外なことだが、新人職員はいつの時期もそれなりにいる。それも若くて、正義感に溢れていて、自分が救ってやろうと躍起になっているような人ばかり。

 けれど、そういう人ほど辞めて去っていく。なぜなら、「ここに住まう人達」が真に求めるものなど、私達には分からないからだ。救い出すための避難通路を見つけようとするのは無駄だ。そもそも救い出そうと考えること自体間違いだ。当然、見返りも期待できない。佐藤さんは恐らく求める人間だ。

「私、頑張ります。できることは何でも言ってください」

「いきなり無理をする必要はないから。夜勤も初めてでしょ」

「構いません。はやく仕事に慣れたいんです」

 これも間違い。この仕事に慣れることはまず不可能だ。ただ日に日に感覚が鈍って麻痺していくだけ。誰もが持つ剝き出しになる感情の刃先が欠けて丸くなるように。決して慣れとは言えない。

「具体的に夜勤業務は何をするんでしょうか」

 メモ帳とペンを持ち真っ直ぐ見つめてくる。小さく息を吐いてから説明を始めた。

「―とにかく、ここに住まう人達は脱獄を試みるように息を殺して動き出すから。個人部屋にカメラは設置されていないけれど、廊下やリビングの映像はこのモニターで常時確認、部屋の中は一時間置きに交代で巡視を行うから」

「その」唇の先を震わせる。「もし、そういう場合に遭遇した時はどう対処すればいいんでしょうか」

 直接言葉にするのはためらわれるのか抽象的な表現を使う。意味は分かるからあえて確認せずにそのまま答える。

「止めるだけ」

「どうやって止めるんですか。声掛けしたり励ますとかですか」

「それは意味がない。全身の力を使って止めるだけ。それから、凶器になり得そうな危ない物はすぐに没収すること」

「後はどうするんですか」

「後って」

「止めた後です」

「何もしない。朝が来るまで見張るだけ」

 彼女の目には不安よりも失望が浮かんだ。さぞかしがっかりしたのだろう。もっと人間的なことを期待していたのだろう。そしてそれを隠すことができず本音が唇から漏れる。「それだけですか」

 とても小さな声だった。だから私は気付かない振りをする。彼女がただ怯えて言葉を失っているのだと解釈してあげる。

「心配しなくても大丈夫。今まで本気でそういうことを試みた人は見たことがないから」

 彼女はそれ以上何も聞かない。私達は夜間最初の業務である夕食の準備に取り掛かるために中央食堂へと繰り出す。

 自室で好きな物を食べたい人は無理に集まる必要はないため、一見不必要に感じるスペースだが、実際は半分以上の人が毎食ここを利用している。そして職員がすべきことは、すでに調理師が作った献立を温め直して提供すること。味や見た目よりも、温かさが重要なのだと指示されているからだ。あとはさり気ない会話、そしてひたすら観察。身体的、医療的に手助けが必要な人達がいるわけではない。私達の主な仕事は観察すること。

 特に問題が起きることもなく時間は着々と過ぎていき、夜は更けていく。布団に入るのが早い人は十九時には部屋の電気を消す。あとは本を読んだり、ゲームをしたり、スマホを眺めたり、それぞれの時間を過ごす。私達は定期的に部屋を尋ねては困りごとはないか話し相手になる必要はないかそれとなく探りを入れる。その他の時間は佐藤さんと二人きり。「ここに住まう人達」のそれぞれの人物の特徴を説明したり、朝までの細かい業務の流れを教えたりする。

「大島さんは勤めてどのくらい経つんですか」

「六年かな」

「一番長いんじゃないですか」

 そうかもしれない。この建物が創設された二年目に入職したが、その時の同僚は皆いなくなった。一ヵ月でも続けられればいい方だ。

「私、大島さんみたいに夜勤専属になりたいんです」

「どうして」

「ここで夜勤をすることはとても勇気のいることだからです。私もそうなりたいんです」

 耳を塞ぎたくなるほど真っ直ぐな言葉だ。ナイフで胸を刺されたような痛みが走る。しかし残念ながらここに信念のある人間はいない。私が思うに人は皆漂流者だ。船もなく、ただ流されて辿り着いた波のうねりの中で浮かぶ。そしてまたどこかに流される。私もいずれ流される。そしていずれ彼女も。

「どうして大島さんは夜勤専属をしているんですか」

 この話の流れなら当然の質問だ。しかし彼女の目が期待に満ちていると分かると大袈裟に目を逸らしてしまう。彼女は私に立派な動機を求めている。自分と同等か、それ以上の。とても困る。私にそんなものはない。自分の目的を果たすためにいるだけだ。他人の人生など考えたことはない、エゴの塊。自覚はあるけれど、知られたくはない。だから今まで通り、適当に答えることにする。

「特別手当てが出るから」

 佐藤さんは口をへの字に曲げてあからさまに不満を表した。何も言わない。ただ黙ってこちらを見ている。私の胸の中にも不快な霧が立ち込める。彼女は「見ていない」から、そんな軽蔑の目で私を見つめる。彼女は「知らない」から、この仕事に希望を見出そうとしている。彼女は何から何まで間違っている。「佐藤さん」と、椅子を回して彼女の方に身体を向ける。

「あなたに一つだけ大事なアドバイスをするなら、それは期待しないことよ。ここに住まう人達にも、他の同僚や上司にも。そして自分にも」

 むきになったわけじゃない。そんな大人げないことはしない。間違いを正すだけだ。彼女の目は信じていない。人間が自分で自分を死に追い込める勇気があることを信じていない。そんな目で「どうしたの」と話を聞いたところでここに住まう人達には何の励ましにもならない。むしろ絶望しか与えない。

 絶望を与えたことがある私が言うのだから間違いない。私は見たことがある。私は知っている。「期待」が一番単純で恐ろしい感情だと。今日と同じ明日も来るだろうという当たり前でささやかな期待さえ、ごく自然に裏切られる。

 そう。あの晩も、あの朝も、そうだった。



 私の母は、鬱病だった。今でこそ当たり前のように流れている言葉だけれど、当時高校二年生になったばかりの私には、どうしようもなく鬱陶しいものにしか思えなかった。原因は分からない。ただ、数多くの毎日が母を徐々に蝕んでいったのだろう。歯磨きをせずに寝る夜を重ねるといつの間にか虫歯できたように。私や父や兄、その他母を取り巻く周囲の何かが母をぞんざいに扱い、心に黒い煤を溜めさせていった。母はお喋りが好きでよく笑う人だったが、次第に表情は沈んでいき言葉数も少なくなる。何をするのも億劫になり一日中布団の中に籠るようになった。見兼ねた父が病院に連れて行き、ようやく病名が判明した。薬をもらったが症状が良くなる傾向は見られない。家の中はますます暗くなる一方で、父と兄は苛立ちが隠せなくなっていく。私は今までと変わらず平気なふりをしつつ、内心では二人と同じように母に対して煩わしさを覚えるようになっていった。

 そして、あの晩。クラブ活動が長引いたことで帰宅が遅くなった私を、母はキッチンテーブルの椅子に座って待っていた。久しく手作りされた夕食を流し込む私をじっと見つめ、食べ終えるとおもむろに尋ねてきた。

「ねえ、お母さん、どうしたらいいんだろうね」

 母に助けを求められたのは初めてだった。私は素直に嬉しかった。根拠はないが、これが前に進めるきっかけになるような気がした。だから、前々から思っていたことをそのまま言った。

「病は気からって言うじゃん。気持ちで負けちゃだめだよ」

 我ながら、陳腐な台詞。

 でも、その時の私は満足していた。それが正しくて、当たり前だと本気で信じていた。そして何より、この出来事が前に進むきっかけになるという予感はある意味当たっていた。

 翌朝、母は納屋で首を吊ってぶら下がっていた。第一発見者は私だ。

 母はこんなに小さかったのかと思うほど、まるでダンゴムシのように縮こまっていた。映画やドラマのように、ゆらりゆらり揺れてなどいなかった。

 ただ、ぶら下がっていた。足先は真っ直ぐ、下を向いていた。

 私は真っ先に自分を責めた。母は恨んでいるだろう。化けて出てくるかもしれない。しかし、まるで家の空気は変わった。夏の早朝のような涼やかできりりとした空気を吸う。

 母は完全に逝ってしまったのだ。彷徨うことなどなかった。母は楽になれたのだ。いろいろな悩みや不安から解き放たれたのだ。そう思うと、私は母に対して少しからず誇らしさを感じずにはいられなかった。周囲の言葉に揺れず、自分だけを信じて、一人で最善の答えを導き出した。そしてそれはまさしく正解だった。

 しかし周囲は違う。母を憐れむ以上に精神を病むことの脆さや、子供を残していった無責任さを責めた。

 私は母を責めることはない。しかし、自責の念も消えることはない。誇らしさの合間合間に、最後のやり取りが悔やまれる。

 あの時、違う言葉をかけていたら母は死ななかったのだろうか。もしそうだとして、それは母にとって、私にとって、最善な選択になりえたのだろうか。

 確かめたい。私がもし、母が死ぬ間際にいたら必死で止めただろうか。それで母は救われるだろうか。

 何が正しくて、何が間違っているのか。母はもういない。だから、私は母の代わりを捜してこの施設に来た。そして、立ち会うことができなかったあの夜の再現を行うために夜勤専属職員になった。



「巡視に行ってくるわ」

 交代で二人とも仮眠を終えた深夜の二時五十七分。懐中電灯を持ってカウンターを抜け出す。数歩歩いたところで佐藤さんの欠伸の音が聞こえた。一時から三時までが注意深く気を張らなくてはいけない時間帯だが、夜勤が初めての彼女にとっては朝まで両目を開け続けることで精一杯だろう。気付かないふりをして、一人で危険な居住区へと向かう。

 夜の廊下は先の見えないトンネルの中を歩くようなものだ。とても静かで、いつ何が飛び出してくるか分からない。一つ一つ部屋の前で立ち止まり、そっと扉を開ける。全部開けてはいけない。ほんの少しだ。その隙間から身体を滑り込ませて、懐中電灯で中を照らし確認する。確認事項は二つ。部屋にいるか、いないか。息をしているか、していないか。いつも通り順番に部屋を巡る。皆寝息を立ててよく眠っている。その姿を見るたびに心が減る。スライスされるパンみたいに、どんどん薄くなっていくような。確かに脳裏に刻まれているのに、時折母のあの姿を嘘のように感じるのだ。自分が作り出した妄想なのではないかとある種の不安に駆られる。

 私はここで答えを探せる日が来るのだろうか。懐中電灯が照らすか細い道をぼんやり見つめながら歩く。

 音が聞こえたような気がした。何か、固いもの、金属のような物が床に転がり落ちたような音。廊下の奥から聞こえた。シューズのつま先をそちらに向けて駆け出す。

 ある人の部屋の前、冷たい扉に片耳を近付ける。服が擦れる音、床が軋む音、微かな息遣い、静寂な夜には騒がし過ぎする。取っ手を掴むとやはり内側から鍵がかけられていた。ポケットからマスターキーを取り出しすぐに鍵穴に差し込んで回す。

「失礼します」

 左右のカーテンが中途半端に開けられた窓。空から差す月明かりを背景にぽっかり浮かぶ黒い人影。私が部屋に乱入すると同時に、それ―すっかり色褪せた灰色のスウエットを常時身にまとった人物―が振り向く。同時に彼女が踏み台にしている丸椅子は大きく左に傾き両足は居所を失くしてぱたぱたと空中をかく。天井から吊るしている白い輪に両の指をかけて必死にもがくが、結び目の甘い輪はするりと解けてほどなくして彼女も床に落ちた。

 大庭 恵。この部屋の主。歳はまだ若い。佐藤さんよりもずっと。高校生だ。二ヵ月ほど前にここにやって来た。それより一ヵ月前から家に籠りがちになり、タオルを首に巻く行為が度々見られるようになったらしい。そしてそれより以前は、至って普通に学校に通っていたと聞く。

 高校生と聞くだけであの日の自分が重なる。違うのは、彼女は今まさに死のうとしていたということだけ。

 猫のように素早く身体を起こすと、片膝を立てて身を縮こませる。どうやら怪我はしていないらしい。肩につきそうでつかないうねるような茶髪の先を震わせながら、じっとこちらを睨みつける。私の方からも何も声を掛けない。お互いに次の出方を待っている。

 しかし今起きているのは私達だけではない。先程彼女が床に倒れた衝撃音は廊下にも響き、カウンターにも届いたのだろう。佐藤さんらしき人物がこちらに向かってくる足音が聞こえた。

 板一枚を隔てた向こう側で音が止まった。扉下の隙間にシューズ一足分の影がちらちら見える。まず、ノックの音が二回。それから佐藤さんの控えめな声が響いて聞こえた。

「何かありましたか?」

 もしもそういう現場に遭遇したら―一人で対処が困難である場合はすぐに応援を呼ぶことが業務ルールとなっている。振り返ると大庭さんはまだ地べたに張り付いたまま肩を震わせている。対処困難とは程遠い。一人で十分対応できる。しかしこれは今後の勉強のために佐藤さんを招き入れるか。いいや。今この瞬間が私のために用意された舞台だとするならば、佐藤さんほどの邪魔者はいない。

「―いえ。何もないわ。話をしているだけだから大丈夫」

 これ以上静寂を崩したくないのか、そうですかと納得して素直に去っていく。無理やりでも部屋に入ってこようとするのではと考えていたため、すぐさま安堵する。

「何で」

 足音が聞こえなくなってから大庭さんが小さく呟く。

「何で嘘つくの」

 二人がかりでベッドに押さえつけられる想像でもしていたのだろう。一対一の状況に戻ったことで彼女の声にも音符がつく。

 質問に対する回答だが、先程の続きが見たいから、もう一度あの場面に立ち会いたいから―とは言えない。「彼女はまだ新人なので」と適当に話を繋げる。

「あなたならどうにかできるってことですか」

「いいえ。ただ、本気で話を聞く気がない人がいても意味がないので」

「何それ。ていうかあなたの喋り方すごくむかつく」

 苛立ちが溢れ出したのか、今度は頭皮を掻き毟る。

「分かるわけない。誰も。みんな分かるって言うけれど、分かるわけない。分かるわけない……」

 自分に言い聞かせるように同じ言葉をぶつぶつと繰り返す。その様子を呆然と見下ろしながら一歩足を前に出すと、また猫のように背中が飛び跳ねた。

「今のこと、家族に言うの」

「言いません。ここで聞くこと、見ること、起きることは他言無用なので」

「じゃあどうするの」

「どうもしません。私は、止めません。死んで楽になることが正しいと思うなら、止めません。私にはとても真似できることではないから」

「馬鹿にしてるの」

「違います。もし死んで、この世に未練もなくて、彷徨うこともなく逝けるなら、そういう選択肢もあっていいと思います。生きることを選ぶ人が尊敬されるなら、死を選ぶ人だって同じように尊敬されるべきです」

 母は後悔などなかった。私を残して逝くことに、後悔などなかった。それでいい。私は恨んだりなどしない。後悔を残される方がよほど辛い。

「あなたは何でここで働いているの。止めるのが仕事でしょ」

「それはではあなたはなぜここに住んでいるのですか。死にたいからでしょう」

「何それ。あなた一体何を考えているの。私をどうしたいの」

 彼女が両手で頭を抱え悩み出す。正直、私もどうしたいのか分からない。止めるべきか、勧めるべきか。最初にこの部屋に足を踏み入れた時の興奮はすっかり冷めている。むしろ彼女のすすり泣く声に私の方こそ苛立ちを覚え始める。あれだけ死を目の前にしておきながら、なぜ私一人の介入ごときに心を搔き乱されているのだろう。

 私は母を理解したい。ごめんなさいと謝ることもできず、お前のせいだと責められることもない。そんな私がこの問題に踏ん切りをつける唯一の方法は、あの晩の母の行動を理解することだ。たとえもうこの世に存在しなくとも一人にさせない。佐藤さんのように「それは間違いだ」と指をさす人が大勢いても、私だけは味方であり続けたい。それが、あの時そっぽを向いて母を軽蔑してしまった自分に残った贖罪。完璧に遂行するためには、完璧な理解が必要だ。

 それなのに、目の前の彼女のことはまるで理解できない。この子が母じゃないせいだろうか。

「いいわ。止めないのなら出て行って。気が散るから」

 視線だけで私を扉へと促す。反論などしない。「はい」と素直に従い、彼女を一人残して部屋を出る。離れてしばらくすると内側から鍵をかける音がした。空っぽになったタッパーを胸の中に抱え込まされたように、心に空白ができる。

 カウンターに戻るなり、佐藤さんに「大丈夫でしたか」と心配された。何でもないと頭を横に振り、業務日誌の入力を再開する。あっけない。私が待っていた瞬間はとてもあっけないものだった。

 十分、二十分、時計の針が時を刻む音だけがフロアに流れる。何かが落ちる音も、倒れる音も、もう何もしない。とても静かな夜は明けていく。パソコンの入力画面を閉じると、もう一つ開きっぱなしのファイルがあった。何気なく開くと、それは大庭 恵の経歴表だった。閉じようと思う前に、自然と目が左右上下と縦横無尽に走る。

 あることに気付く。彼女の自殺未遂の詳しい状況を読む限り、その場所には他の誰かが居て、その時間は他の誰かが必ず起きている。邪魔されずに実行するにはとても不利な条件下で何度も試みている。

 思い返せば先程も不自然だった。何かが倒れる音がして私は彼女の部屋に入った。しかし入った瞬間は特に床に何も倒れていなかった。あえて音を立てて気付かせたのだとしたら。本当に死にたいのならわざわざそんなことはしないはずだ。母は死を身近に感じさせず、あの夜も眠りの浅い私や父に気付かれずに実行した。

 大庭 恵はむしろ逆で止めてほしいと願っている。

 それが分かった瞬間、血の気が引くという言葉を身体中に感じる。かけた鍵の音が耳の奥で繰り返し響く。心臓が骨を砕いて、皮膚を突き破って、今にも飛び出してきそうだ。今から部屋に行って確かめるべきか。しかし本当に彼女が死んでいたらどうしよう。母のあの姿が脳裏に浮かぶ。

 私が彼女の手を離した。母から顔を背けたように。

「あの、巡視は」

 いつの間にか私の巡視の番になっていた。佐藤さんが眉をひそめながら顔を覗き込んでいる。時刻は明け方の五時。「今行くから」とパソコン横にある懐中電灯を手に取る―つもりが手の中に収まることなく床に落ちる。

 私よりも先に佐藤さんが拾う。

「大丈夫です。壊れてはいないですよ」

「ごめんなさい」

「お疲れの様子ですね。私が行ってきましょうか、巡視」

 願ってもない申し出だ。反面、ためらいもある。自分が犯した罪を彼女になすりつけるような真似はしたくない。

「自分で行けるから大丈夫」

 彼女から懐中電灯を奪い取り、廊下へと繰り出す。いつも見慣れているはずの無機質な道がどんどんと色薄くなっていく。

 予期しない死に駆け付けそれを見た時の恐怖とは全く違う。まるで自分が死刑宣告を受け処刑場に向かうような心持だ。もっとはやく大庭 恵の元に向かわなくてはならないのに足はどんどん重くなる。

 彼女の部屋までもう半分というところで、後ろから肩を叩かれた。

「大島さん、ふらふらですよ」

 佐藤さんだった。予備の懐中電灯を私の胸辺りに向けて首を傾げている。そんなことないと首を横に振ろうとしたが、立ち止まったことで額の縁から噴き出てきた汗を彼女は見逃さない。

「やはり体調が悪いようですね。私が行ってくるので、大島さんは休んでいてください」

 言うが早いか私の横をすっと通り過ぎて奥へと進んでいく。あまりの速さに追いつこうという気力すら削がれてしまい、のこのこと引き返す。カウンターの中をうろつきながら、佐藤さんの悲鳴もしくは忙しない足音が聞こえてくるのを今か今かと待つ。

 しかし数分後に彼女は落ち着いた様子で戻ってきた。血相も変わらない。別段報告することもないようで、懐中電灯を机に伏せて一息つく。たまらず私の方から尋ねる。

「どうだった」

「特に何もありませんでした」

「本当に?」

 つい口から零れた一言に佐藤さんの唇が結ばれた。嘘をついていると思っていると誤解させてしまったらしい。「本当です。私はちゃんと確認しました」一語一語強く反論する。佐藤さんは上手に嘘をつけるような繊細さがないことは一晩で分かった。どうしてもに気になるのなら確かめにいけばいい話だ。しかし行かない。これ以上佐藤さんの気分を害して沈黙を辛くしたくないし、何より確かめることが恐ろしい。

 ベランダが朝焼けに照らされる。太陽が高くなるにつれて胸の奥に隠している恐怖も明るみに映し出される。一方フロア内の廊下には眠っていた人達が起き始めてどことなく賑やかな色がつきはじめる。あちこちで朝の挨拶が交わされる中、外部からの電話の音がカウンター内に鳴り響く。

 私が駆け付ける前に佐藤さんが物怖じすることなく素早く受話器を取った。相手の話に頷きながら私の方もちらちら窺う。私もいつでも代われるようにその場をうろうろする。

「それではそのように伝えておきます。はい。失礼します」

 受話器を置くと真っ直ぐこちらにやって来た。

「大庭さんのご家族からです。遠出するから誘いに今から来るそうで、本人を起こしておいてほしいと言われました」

 途端に体内の血が冷え、胃の中もひっくり返る。

「私、話してきます」

 佐藤さんが動き出すと同時に、彼女の背中に隠れていた時計の針が目に留まる。六時三十五分を過ぎたところ。ああ、母のあの姿を見た時間とよく似ている。

 いつまでも恐怖を隠せるわけでもない。事実から逃げ切れるわけもない。大丈夫。佐藤さんが巡視に行っても問題はなかった。大丈夫。彼女はきっと生きている。

「私が行くから」

 佐藤さんを手の平で制して大庭 恵の部屋へと向かった。



 彼女の部屋の扉の前に立つ。周囲が明るくなったせいで、夜よりも際立って暗く見える。右の拳でノックをしたが返事はない。一度目を閉じて静かに深呼吸をする。取っ手に指を掛けてゆっくりと開ける。

 大庭 恵はぶら下がっていなかった。かといって横になり布団を被っているわけでもない。彼女はベッドの淵に座っていた。顎を引いて俯いているせいで顔は髪に隠れてしまっている。腕はだらりと垂れて、輪郭は白いもやがかかっているようでまるで生気を感じない。

 母だ。母がいる。帰りの遅い私を一人待っていたあの時の母の姿にそっくりだ。瞳の受け皿に不思議と涙が溜まっていく。零さないようにこらえて唇を噛む。それでもまだ漏れそうな嗚咽を抑え込むために口に手を当てる。私が殺した。また同じ罪を犯した。その人の本心に気付くこともできずにただ身勝手に振り回して、突き放した。

 もう立っていることもできず、膝が折れる。その時だった。どうしたの、と大庭 恵が呟いた。

「夜みたいにずけずけ入ってくればいいのに」

 髪の隙間から横目で見つめられる。

「私、幽霊じゃない。死んでないから。昨日のあれ、やめたの」

「どうして」

「あなたに死んでもいいと言われたから」

 はっきりと言った。しかし怒っているようには聞こえない。「そう言ったよね」と念を押すような口調。私は無言で頷く。

「今までは誰からも反対されてきたから、死んでいなくなる方が楽で正しいんだと思ってた。だからずっと考えてた。明日死ねたらいいのに、どうしようって」

 俯いた姿勢はそのままだが、昨晩の取り乱し方とは打って変わって今はとても穏やかだ。次の言葉をじっくり選びながら丁寧に話す。

「死ぬなと言われる反面、とてもうんざりされていることも分かっていた。生き続けることを選んだところで一生期待されないことも。それって、死ぬしかないって言われているような気がして仕方がなかった」

 理解できるような心情に目を伏せる。

「……どちらを選んでも間違いはないですよ」

「夜もそう言ってたね。だからね、死んでもいいって言ってくれたから。死んでも尊敬してくれるって言ったから。どっちかしないじゃなくて、どっちを選んでも正しいなら、まだ死ななくてもいいやって思ったんだ。死ぬしかしないって、私だけが私に言っているだけだって気付いたんだ。これは消去法じゃない、選択なんだって」

 彼女は口元に淡い笑みの色を浮かべる。この時、私の頭の中を巣くっていた蜘蛛の糸がはらりと解けていくような気がした。

 彼女はようやく顔を上げる。頬に張り付いた髪の毛をつまんで払うと、じっと私を見つめる。

「あなた変わってる」

「私が?」

「とても死にたそうには見えないのに、必死に死に近付こうとしている。そこに誰かいるみたい」

 まさか彼女に見透かされるとは。涙を渇かそうと必死で見開いていた右目から、一滴だけ流れ落ちる。すぐに拭って、そうかもしれませんね、とだけ答える。

「それよりご家族からお電話がありました。遠出に誘いたいから、もうすぐここに来ると」

「ああ。外に出て太陽を浴びれば気分も晴れると思っているような人達だから」

 皮肉を言いつつも、ゆらりと立ち上がる。黒いパーカーを羽織って前髪を指ですくって整える。

「ありがとう。私を許してくれて」

 扉の淵に立ち尽くす私の横を通る時、そう呟かれた。そのまま彼女は去っていく。

 これはたった一晩の話だ。数時間前、彼女は死のうとしていた。しかし今は生きている。

 何が正しいのかなど、誰にも分からない。この施設は常に死が同居している。それでも皆生きている。たとえ、ぎりぎりでも。境目を見つけることは誰にもできない。あの夜、私にどうすればいいかと訊いた母はどちらにいたのだろう。

「昨晩はありがとうございました」

 終業定時後、佐藤さんが律儀に礼を言いに来る。その肩には帰宅するためのバックが掛けてある。多少疲れた頬をしているが、瞳はしっかり生きている。初めての夜勤であるにも関わらず、最後まで姿勢を崩さなかった。

「こちらこそ。ありがとう」

 なぜ礼を言われるのだろうと訝し気な顔をする。理解できなくていい。単に私が気付いただけだ。まだ幼いと思い込んでいた彼女の方がよほど私より自立している、と。お先に失礼しますとまた頭を下げて去っていく。境目など、どうでもいいのかもれない。なぜなら「死」とは選択なのだから。

 昔、母に連れて行ってもらった海を思い出す。じっと見つめていると、ずっと向こう側に白い線が見えた。零れた太陽の欠片が繋ぐゴールテープのように煌めいていた。私は訊いた。あの線の向こうには何があるのか、と。母は答えた。何もない、と。

 今なら分かる。私と母は、違う人間なのだ。自分と佐藤さんが違うと感じたように。大庭さんが母のような道を選ぶ人間でなかったように。

 これまでに私も死を考えたことは幾度もあった。無視をされるという一見些細なことだが、確実に自分の心を病ませる日々には特に。いつ死のう、明日死のうか、いや今日にも死んでしまおうか、何度も思い立つ。しかしそれを実行するために踏み出すことはできずにいる。そんな自分が情けなくて、そして母に申し訳なかった。しかしそれは当たり前のこと。目の先に映る景色は誰だっていつだって違うのだ。死を選ぶ人間がいれば、生きることを続ける人間もいる。今までの私は、無理やり母とすりわせようと必死だった。寄り添って歩めれば、母の自尊心も自分の心も守れると思ったから。

 完璧な理解などない。たとえ家族であっても。人と人の溝の中には否定も肯定も存在しない。ただ、「違う」だけなのだ。幾度もある選択の中でどちらかを選ぶだけ。それでいいのだ。

 私は母ではない。理解もしなくていい。答え合わせをしたところで満足する正解など得られない。

 フロア内で通りすがる日勤職員達に「お疲れ様です」と会釈をしながら、この建物を出る。正面玄関から離れた隅の職員専用玄関の自動ドアを抜けると、透き通るような日中の光がアスファルトを照らしている。まだほんのり冷たい風を肩に感じながら広い道の方へと踏み出す。

 海で見たあの白い線の向こうにはきっと、暖かい光があるのだろう。

 私達は漂流者ではない。

 ただ流されてここにいるわけではない。

 船を持ち旗を掲げる者だ。目指すべき方向に光はある。

 そう信じたい。そう信じられる人間で私はありたい。

 重たい瞼の奥でそう願った。


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