壊れない男と永遠の貝
昔昔、辺鄙な田舎に3人の善良な兄妹が住んでいました。
ある日ボロを纏った漆黒の肌の旅人が訪ねて来たので、彼らは出来る限りもてなすことにした。
すると旅人は彼らの誠実さにうたれて、何か願いを叶えようと言い出した。
権力はどうだ?
金はどうだ?
その夢の様な申し出に、3人の兄妹は笑うばかりだ。
王になったところで治世は面倒であろう。
絶世の美貌を手に入れたとて老いていくのは止められまい。
旅人は、あの手この手で彼らの欲望を引き出そうとしたが、結局は今の暮らしで満足していると、申し出すべてを断られてしまった。
納得のいかない旅人は、彼らにひとり一度ずつ使える「壊れない」魔法を無理やり押し付けて消えてしまった。
3人の兄妹は「壊れない魔法」を手に入れた。
半信半疑であったが、とりあえず話し合う事にした。
壊れない服を作ろうか?
壊れない寝具はどうだろう?
そんな事を言ったら、買い換える楽しみが無くなってしまう。
流行だってあるのだし、技術だって新しくなる。
「壊れない」のは素晴らしいけれど、何に使えばいいだろうか?
あまり考えるのが得意でない長兄は、話し合いに飽きて目の前にあった皿に戯れに魔法を使った。
そうして壁にぶつけたりして本当に割れない事を確認すると、満足そうに皿を洗って戸棚に戻した。
皿なんて、そんなつまらないものにせっかくの魔法を使うなんて。
それを笑った弟は、家の裏手の井戸に魔法を使った。
これで我らの子々孫々、水に困る事はないだろう。
やあ、俺は賢いだろうと自慢したし、兄も妹もその思慮深さに感心した。
壊れない皿と壊れない井戸は評判を呼び、近隣から人が訪れその見物料で3人の兄妹は前より少しだけいい暮らしが出来るようになり、漆黒の肌の旅人は神様だったに違いないと感謝をした。
妹は使い道を思いつかなかったので、魔法を使う機会がないまま過ごしていた。
ある時、魔法の噂を聞きつけて、ひとりの男が現れた。
試しに皿を投げ踏んずけても欠けもしない。
井戸に斧を突き立てても、びくともしなかった。
そうしてしきりに感心すると、妹を街の遊びに誘い出した。
男は毎日花を送り、歌を聞かせ妹はすっかり男の虜となった。
ある日、男は魔法を使ってくれという。
戦に出るのに死んでしまっては、もう2度と妹御に会う事は叶わない。
愛しい貴女の下に無事戻れるよう、「壊れない」魔法を自分に使ってくれと懇願された。
恋しい男に妹は疑うことなく魔法をかける。
男は戦場で活躍し、剣弓は彼の体を突き刺す事なく、幾多の攻撃も命を奪う事はなく手柄を立てた。
その神の如き活躍が美貌の姫の目に止まり、戦場の英雄と姫は時を置かずに結婚する。
辺鄙な田舎に噂が届いた時には男は王になっていて、兄妹の妹はその時になって騙された事を知り泣いて暮らした。
剣をもってしても毒をもってしても死なない壊れない王は、思うままその権力を振るった。
欲しい物は女も土地も思うまま。
しかしその傲慢が災いし、貴族達は反旗を翻し同時に他国から攻め込まれてしまう。
幾ら壊れない男でも、数千の敵をひとりでは相手に出来ず壊れない男の国は壊れてしまった。
3人兄妹の生活にも多少影響は出たが、辺鄙な田舎では国の王がすげ代わっても特に大きく変わる事はなかった。
壊れない男は捕縛され、あらゆる責め苦を受ける事になるが壊れないのでまったく苦にもならないどころか、拷問官が音を上げてしまった。
男は拷問官から王妃がその美貌で新しい王を籠絡した事を聞くと、激高しありとあらゆる罵詈雑言を叫びその不貞を罵り続けた。
結局扱いに困り果て、悪態をつく男を筏にくくって海に流すことにした。
暑さも乾きも男を苦しめたが、壊すには至らない。
海の上の筏は、川を流れる笹の葉よりも頼りなく波に翻弄されていく。
嵐がやって来て、結局は筏は壊れてしまった。
男は壊れないので、筏の切れ端に捕まり海を漂っていた。
魚達につつかれても、鮫に噛まれても男は壊れなかった。
雨で喉を少々潤し、生の魚をかじり飢えを凌いだところでその場しのぎ。
大海原は途方もなく広く、体は人の営みを忘れずそして腹は減り喉は乾く。
いっそ狂ってしまえば簡単なのだが、男の精神は気が弱くなる事はあっても壊れる事はなかった。
ああ、自分は馬鹿だった。
純朴な娘は今も自分の帰りを待って、涙で枕を濡らしている事であろう。
真に愛してくれたのは、あの娘だけだったのだ。
申し訳ない事をした。
この時になってようやく男は後悔したが、せんなきことであった。
彼を海面で支えていた木っ端は時と共に崩れ、とうとう男の体は海の底へと沈んでいく。
ああ、やっとこれで眠れると男は目を閉じたが、男は壊れないので体中の空気をあぶくとして口から吐き出すだけ出すと、壊れないまま昏い暗い水底へと落ちていく。
ああ、息ができないだけで死ぬ生き物のなんと儚く尊いことか。
壊れない男は何万何億回も訪れる刹那の意識の回復の合間に、死に焦がれ、死に憧れ、死を愛した。
時に幻覚か水底の暗闇と同じくらい漆黒の肌の男がこちらをにやにやと笑って見ているのを目にすることもあったが、それが何かももう男にはどうでも良かった。
一向に死は彼を訪れなかった。
そうして、本人も生きているかも死んでいるかも分からないまま無為に海底を漂う時間を過ごしていると、イルカが引く貝殻で出来た戦車に乗った白髪灰髭の老人が現れた。
彼を気の毒に思った神々のひとりが、慈悲を与えに来たのである。
壊れない男はすぐさま死を希ったが、それは聞き届けられなかった。
他の神に与えられた壊れない奇跡を、どうこうする事は出来ないという。
彼は、ならば魔法を騙し取ったあの兄妹の妹御に謝罪をしたいと申し出たが、とうの昔に彼女は失恋を慰めた男と結婚し子を成し老いて幸せにその生涯を終えたといわれた。
海の底で漂ううちに、地上はもはや男の知るものではなくなっていたのだ。
絶望と孤独のまま男は神の乗る貝殻の戦車を見て、自分を貝にしてくれと頼んだ。
人の身のままより、まだしも生きていきやすい気がしたのだ。
何も見たくない時はピタリと殻を閉じてしまえば、そこには自分だけの闇があり、居心地も良さそうだ。
今更、地上に用がある訳でなし、何より海の底でも苦しく無いだろう。
灰髭の神はそれを聞き入れると、男を大きな大シャコガイへと変えた。
すると男は楽に呼吸が出来るようになり、海水を吸い込み細かな虫を取り入れて腹もくちくなった。
そうして苦しくないのを喜んだのも束の間、彼は貝になったので人の世も記憶も陰謀も何もかも感情も失ってしまった。
男はひとつの壊れない貝になった。
灰髭の神は頑丈そうなのでそれを拾ってしばし眺めてから、長い間大シャコガイを戦車の前飾りにしていたが、ある日外れて何処かに行ってしまった。
そうして海流に翻弄されながら大シャコガイは、海の底に眠る奇妙で奇怪な非ユークリッド幾何学で作られた都市に流れついた。
全てが濡れ湿気ってどんよりと瘴気が漂う沈んだ都市。
そこには大いなる神が微睡んでおり、時々眠りが浅くなるとその漏れ出た精神が船人や地上の人々に悪さをしたが、男は貝なので特に何も思わなかった。
そうして壊れない貝は、その名状し難い不思議で奇異な海底都市の道端に転がる飾りのひとつとなった。
さて、壊れない井戸は長い間、人々の生活に寄り添ったが先に水源が枯れて使い道が無くなってしまった。
壊れないので分解する事も出来ず、他の使い道もなく無用の長物になってしまったが、その時代の庶民的な井戸として後世、遺跡として残りたまに見物人が訪れ歴史を物言わず物語っていた。
だがそれもある日、漆黒の肌の旅人がやってきておもむろに手に触れると、それは塵となって消えてしまったそうだ。
そうして壊れない皿はというと、欠ける事もないまま毎日の食卓で様々な料理を盛られて、今もおいしい食べ物と人の笑顔と共に過ごしている。
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普段は長編小説「黒山羊様の導きで異世界で令嬢になりました」を執筆しております
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