地獄は異世界にふくまれますか?
部誌のおこぼれ
「ちっ、ほんとおもんねーわ……。なんで俺がこんなこと……」
天空に輝く日光とボロボロのアスファルトが殺人的な熱気を放つ夏休み中のある日、僕、業田深司は悪態をつきながら住宅地を歩いていた。それも両手にスーパーの袋をぶら下げて。
なんで僕がこんな暑い日に外を出歩いているか。それはある事情によるものだった……。
「ねえ深ちゃん、悪いんだけど買い物に行ってきてくれない?」
全ての始まりは母親のこの一言だった。リビングでゲームをしている僕にお使いを頼んできたのである。母は一週間前に階段から落ちて右足を骨折していた。だから誰かが代わりに買い物に行く必要があったのだ。
「この歳でお使いとかありえねーだろ。だいたいいつも婆さんが行ってるんだから婆さんに行かせればいいじゃん」
高校生にもなって親のお使いをするのは嫌だった。メモを持って買い物をすればお使いだということはバレバレだ。誰かに見られて親思いの〇〇と思われるのは気色が悪い。
「婆さんなんておばあちゃんに言っちゃだめでしょ!大体そのおばあちゃんが夏バテでダウンしてるからあんたに頼むんじゃない」
そう言って母は松葉杖で僕の背中を突く。
「やめろよ!まったく……」
そっぽを向いてテレビの画面に集中するが母親は僕の背中を突き続ける。
「あーもう!わかったよ!」
さらに無視してゲームを続けてもツンツンツンツン突くので、そのあまりのうっとおしさに僕は母からメモを引ったくって外へ出ていった。
「後は〇〇○に行って……。今度はあっちかよ……。めんどくさ……」
北のスーパーに行かされたと思ったら今度は東のスーパーと本当に面倒なメモだ。自転車がたまたま壊れているから歩きで2キロほど離れたスーパーに行かなくてはいけないのが非常に腹立たしい。バスも大した本数が出ていない地域だから楽もできない。僕は買い物をほっぽりだして逃げたくなる気持ちを抑え、メモの最後の品物を買うべく南のスーパーに向かった。
南にあるスーパーへ行くには大きい交差点を通る必要があった。この交差点は県内でも事故が多発する危険地帯だ。ただ、それはあくまで交通量の多い夕方の話。平日の昼間となっては車通りもピークの10分の1程度で、危険な運転の車も少ない。
だから僕は油断していた。いつもなら普通に渡れる横断歩道。交通事故の心配なんてない。小学生じゃないし左右なんか確認せずに渡れる。そう思い僕は一歩踏み出した。
だけどそれが全ての間違いだった。渡ろうと一歩踏み出した僕の右側から猛烈な勢いでトラックが走ってきたのだ。信号が赤なのに減速する気がゼロの大馬鹿だ。
バカな車乗りとはありとあらゆる都道府県、いや、それどころかこの地球上ならどの国にも存在しているものである。下手をしたら他の銀河に住う知的生命体の中にもいるはずだ。
そしてその大馬鹿車乗りが自分の目の前に現れた。いすゞのエルフに乗った40代くらいのおっさんだ。突っ込んできてもなんのことはない。さっと後ろに引いてあとでキレればいい。
でもなぜか体が動かなかった。後ろに一歩下がればいいだけなのに。蛇に睨まれたカエルのように自分一人が横断歩道にくくりつけられ、世界がスローモーションになる。一m、五十cm、三十cm、十cm、五cm。どんどんと近づいてくるエルフに僕はなす術もなかった。
僕の記憶はそこで途切れた。
意識を取り戻した時、目は開かないが、体は確かにそこにあった。
トラックにはねられると異世界に転生できる。僕はそういう話を何度も何度もフィクションの中で見てきた。行き着く先は大抵が冒険譚を生むような未開の地や魔法文明だ。
僕の体が異世界に転生したということだ。うちは無宗教だから死後何処かに行ってしまうこともないはずだ。だとすればどこか別の次元に飛ばされたということになる。確かにそれはご都合主義的展開、というか僕の頭がご都合主義的に物事を考えすぎなだけかもしれないけど仕方がない。だって僕の思考力が貧相すぎてそれくらいしか思いつかないんだから。
なんてごちゃごちゃ考えても仕方がない。なんだか体の感覚が戻ってきたし、いざ、目を開けて自分がいる世界を確認してみよう。そう覚悟を決めて僕は目を開いた。
最初の眺めは血のようなグロテスクな空だった。おおよそ現実世界で見ることのない空。夕焼けよりも赤色がはるかに濃い空だ。呆然としてしまい体に力が入らない。
一分ほど空を見つめたあと、僕ははっとして上体を起こした。
続けて辺りを見渡すと、僕が横たわっていたのは空と同じくらい紅い巨大な川の中洲だった。曇りひとつない真っ白な砂利が敷き詰められている。それに反して空も川も真っ赤。このコントラストだけでかなり頭を混乱させる様子だ。
自分の体を見ると、なぜか僕は白装束を着ている。そればかりか手や足も僕のものをしていなかった。僕の手はこんなにシミだらけではない。近くの川に駆け寄って川面に映る顔を見るとあったこともない五十代くらいのおじさんの顔が映る。自分の体じゃないところに自分の意識が存在してるなんて。とても奇妙な気分にめまいがする。
さらに、追い討ちをかけるように不思議な光景は続く。その川をなぜか白装束の人間がヨタヨタと渡っていたのだ。見た感じ年寄りが多いようだが所々中年より年下のものもいる。しかし、どの人も共通して同じ方角に進んでいるようだ。ただ、その目的地はぶ厚い真っ赤な霧で覆われ自分のいる位置から確認はできない。
「あの、ここどこなんですか!?」
「…………」
「ちょっとすいません!ここどこなんですか!」
「…………」
「…………」
「…………」
僕は歩いてくる人に片っ端から声をかけていく。ただ、どの人も僕の声が届いていないかのような様子で同じ方向に歩きつづける。
「くっそ……。どうすりゃいいんだ……。よし……」
このままここでじっとしていても仕方がない。何もかも訳がわからないがとりあえず同じ方向に進んでみよう。僕は意を決して真紅の川に足を踏み入れる。深さはせいぜいくるぶしまでだ。意外と進むのは大変ではない。僕はこの先にあるものがなんなのかわからないまま霧の中を進んでいった。
「……。整理番号千一番から千百番までの人はこちらに四列になってお並びくださーい……順番にご案内しまーす」
「え……」
霧中を進んで真っ赤な川を渡り切り5分ほど経ったころ、衝撃的な声が聞こえてきた。誰かがどこかに人を誘導しているかのような声だ。静かだからかやけにはっきり聞こえる。おおよそこんなところで聞こえるわけのない声に幻聴かと耳を疑ってしまう。
こんなところで聞こえるはずもない声はひどく不気味だが、霧の真ん中で立ち止まるのも反対側へ引き返すのも恐ろしい。僕は歩みを止めず他の白装束と同じ方向へ進む。そうすると、ぼんやりとだが何かの大きなシルエットが見えてきた。山かなにかかもしれないが、声はそっちの方から聞こえるし白装束たちもそっちの方へ向かっていく。近づけば近づくほど声もより鮮明に聞こえるようになってきた。
さらに五分ほど歩くと、ぼんやりとしたシルエットは完全にその形を取り戻し始めた。シルエットの正体はまるで首里城のような見た目をした巨大な御殿だったのである。門はやたらと大きく、10人ほどの人間が大声を上げながら大量の白装束たちを誘導している。
目の前の御殿は明らかに怪しい場所だ。だが、ようやく言葉を話せる人間に出会えたのだ。いきなり殺されるということもないだろうしとりあえず近づいてみよう。そう思い僕は門番らしき人間のもとに駆けていった。
「該当の番号の方はこちらにお集まりくださーい!」
「すいません!あの!ここどこなんですか!」
「非常に申し訳ございません!順番にお呼びしてますので整理番号をご確認になってお待ちください!」
「なんすか整理番号って!そんなん持ってないしここがどこかくらい教えてくれても……」
「申し訳ございません……。こちらにもいろいろ規則がございまして……。一度お並びいただいて、門の向こう側で様々な説明をさせていただきますので……」
「そんなこと言わないでくださいよ!」
僕は駆け寄った先の門番に声をかけた。絵具か何かを塗ったのか真っ赤な肌。童謡でしか聞いたことのない虎柄のいわゆる『鬼のパンツ』を履き、これまた絵本でしか見ないような黒い棍棒を持った門番だ。
しかしこっちの必死さを跳ね返すように、門番はえらく丁寧な態度でこちらを追い返そうとする。それでも僕が食い下がろうとすると他の門番が気づいたのか数人でこちらに近寄ってきた。
「どうしたんだ獄陽。何か問題か?」
「お疲れ様です!獄牙様!それがですね、こちらの亡者様がひどく取り乱しておられるようでしぶふぇぇっっっ……!!」
「馬鹿野郎!!!こちら様は亡者様じゃねえだろう!いつになったらわかるんだバカタレ!」
獄陽と呼ばれる門番は何かを言い終える前に獄牙と呼ばれる男に黒い棍棒のような棒で殴り飛ばされた。あまりに急な出来事に面くらい、僕は横たわる獄陽なる男を見つめたまま動けなくなってしまう。獄陽は五m近く吹き飛び、頭は凹んで何か出てはいけない気のする液体が耳や鼻から出ている。さらに男の額にツノのような突起物が生えているのに気づいた。特殊メイクかもしれないが、砕けた頭蓋骨を見るに最初から生えていたとしか思えない。
「もしもし、そこのお客様!」
僕が呆然として転がる鬼を見つめていると、大地を引き裂くような低音を発しながら先ほど獄牙と呼ばれていた男がこちらに近づいてきた。獄陽と違い黒い肌でツノも大きい。牙も口を閉じていても飛び出るほどの大きさで非常に恐ろしい外見だ。しかも先ほど自身の仲間を殴り飛ばした男である。僕はあまりの恐怖に足の力が抜け、その場にへたりこんでしまう。
「大丈夫ですかお客様!」
その場に座り込む僕に恐ろしい形相をした鬼たちが近寄って来る。そんな状況で正気を保てる人間などいるはずもない。
「お客様!お客様!?どうなさいました……」
僕の意識は再びそこで消えた。
「目が覚めましたか。業田深司さま」
「うん……?」
再び目を覚ました時、僕の目には真っ白い天井が映っていた。ちょうど病院で見るような天井だ。もしかしたら現実世界に戻ってこれたのかもしれない。そう思って視線を声がする方に動かす。
「良かったです。門のところで倒れられたと聞いてびっくりしたんです。お体の具合は大丈夫ですか?」
「へ?門?どういうことですか?僕はトラックにはねられたんじゃ」
「トラックだなんてそんな。違いますよ。うちの獄卒たちがあなたを怖がらせてしまってあなたは気絶してしまったんです。ですから医務室に運んだんですよ」
「どういうことですか!?だってここは病院でしょう!?」
看護師のような女性の言っていることに僕はたまらず上半身を起こし、辺りを見渡す。薬品棚や点滴のための器具、ベッドなどは僕がこれまで見てきた物と同じだ。多少サイズが大きい気がするが別に奇妙というほどでもない。そして自分の手を見ると、気絶する前に見たシミまみれのあの手。やはり僕の肉体ではない。
「違います。ここは医務室ですよ。閻魔様の御殿の中にある医務室です。一般の獄卒も使用するところにお客人を寝かすのは申し訳なかったのですが……」
「は?閻魔様?どういうことですか!?わかるように説明してくださいよ!ここはどこなんですか?日本なんですか!?それとも本当に地獄なんですか!?僕無宗教ですよ!なんでこんなところなんかに!」
僕はひどく取り乱しながら看護師らしき女性に畳み掛ける。地獄なんて非科学的だしあるわけがない、という常識を持って生きてきた僕にはここが地獄なんて信じることができなかった。
だが、よく考えてみたら僕はあの瞬間トラックに衝突したのだ。意識がなくなったから痛みなどはわからなかったが、あの状況下で生きているわけがない。そう考えると、先ほどまでの興奮状態は抜け、逆に背筋が冷えてきた。僕は死んだのだ。たかだか十五、六で。僕は恐る恐る聞く。
「じゃあ僕死んだってことですか?あの時トラックにはねられて」
「それはまたちょっと違いまして。詳しい話は閻魔様が直接なさるそうですよ。四十分ほどしたら迎えのものが来るそうです」
まただ。またはぐらかされた。僕の質問にはひとつも答えずそれだけ言い残し、看護師は医務室を出ていってしまった。
「はぁ…………」
これから僕はどうなってしまうのだろう。いきなり車にはねられて、死んでしまったら自分が信じてもない宗教の地獄に連れてこられて、会ったことのない人間の肩代わりで責め苦を受けながら何百万年も生き続けるのだろうか。そう思うと涙が出てくる。結局母さんには最後まで孝行できなかったな。友人にも別れを告げられていないな。僕の周りの人間のことを考えるとさらに涙が出てくる。
涙自体は三十分もしたら枯れたが、悶々とした想いは涙が枯れてからも続いた。
「遅れて申し訳ございません。お待たせいたしました。閻魔の使いのものです。この度は本当に申し訳ございませんでした。これから閻魔様が酒宴を設けあなた様への謝罪と状況説明、そして歓迎を行う予定です。お体の具合は平気でしょうか」
「平気です……」
「それは良かった。ではご案内しますのでこちらへ」
看護師が去ってから五十分ほどした頃、泣き疲れてぼーっとしていたところに一人の中年の男が現れた。着物の名前はわからないが古代中国の役人とそっくりな格好をしている。おでこを見れば、やはりツノが生えている(タンコブ程度だが)。だが、混乱しすぎて逆に冷静になりはじめている僕はそこに突っ込まなかった。もうどうなってもいいと男についていく。
閻魔大王なる人物のいる部屋は医務室のある棟とは別の棟にあった。おそらく鬼たちが住む棟と閻魔大王や閻魔大王に近い身分のものが住むスペースはわざと距離を置いて作っているのだろう。
さらに閻魔大王の御殿は不思議な建物だった。居住区画らしきところは中国の古い建物のような建築様式が主だったが、一転医務室や調理場、娯楽施設らしきものなどはやたらと現実世界に近かった。過去と現在が奇妙に入り乱れた不気味な空間だ。見るもの全てが特異で、逆に言えばそれは好奇心を煽るものでもあった。ただ、先ほどまでの流れを考えればこの案内人じゃ質問には答えてくれなそうなので特に聞くようなことはしなかったが。
「到着いたしました。ここで閻魔様がお待ちです」
閻魔大王が待つ部屋は居住区画と同じで中華風の作りをしている。この御殿は相当巨大なようで、この部屋に到着するのに徒歩で十分ほどかかった。おかげでかなりヘトヘトになった。この肉体はひどく不摂生をしていたようで、普段の僕の半分の体力もないらしい。
しかしこれほど広い御殿を持つ閻魔は一体どんな人物なのだろうか。それは全てこの扉を開ければわかる。僕は目の前にある朱塗りの 巨大な扉を押し開けた。
「ようこそいらっしゃいました。我々の非礼をどうかお許しになってください。さあ、そちらへおかけください」
扉の向こう側は大した広さでない部屋だった。ただ、内装はかなり豪華で、高級な中華料理の個室を彷彿とさせる。そしてその雰囲気の通り実際にターンテーブルが部屋の中央にあり、その上に中華料理が大量に並んでいる。
しかし、何よりも目を引くのは入ってすぐ目の前に座る男だった。僕は閻魔大王が、豪奢な冠に派手な着物、お前の舌を引き抜くぞと言わんばかりの長いペンチに高級そうな木でできた笏を持った強面の男だと思っていた。だが、目の前に座っているのはワイルドさのかけらもない中年のハゲだったのである。完全にサラリーマンだ。拍子抜けしすぎて緊張が解けてしまった。
「あ、あの、閻魔大王さんでしょうか?」
「あ、はい。そうです。わたくし、この地獄を管理しています閻魔と申します。役職は一応『天』となっております。この度は我々の手違いによりあなた様に非常な迷惑をかけてしまい本当に申し訳ありません。ひとまずあなたも混乱しているでしょうし質問をなんでもいたしてもらって構いません。ここの統括責任者は私ですのでお話には全部答えられると思います。どうぞ料理の方も召し上がってください。あっ、よもつへぐいの方は是非お気になさらず」
よもつへぐいがなんなのかは知らなかったが、そんなことをわざわざ言われると怖いので一応食事には手をつけないでおく。僕はそのまま質問を始めた。
「僕は死んだんですか。そしてこの人は誰なんですか」
まずは僕が一番気になっている質問からだ。目が覚めたら全く知らない別の人になっていたうえ、どう見ても死者が集まる空間に飛ばされていたのだから。これさえ聞ければひとまず安心というものである。
「結論から言います。死んではいないです。そしてその肉体はあなたと別の人のために用意された体です」
死んでない?しかも肉体が用意って?疑問の解消のために質問したらさらに疑問が生まれる。
「この地獄は仏教徒の方が亡くなられないと来ることのできない場所です。地獄の信仰がありますからね。そうした方々はここに肉体のコピーが用意されていて、一般に魂と呼ばれている意識や記憶などのデータのみここにやってくるんです。そして逆に信仰のない人々には死後『無』が訪れます。データをそこで廃棄するんです。友人が『無』の世界の管理責任者をやっているのでよく知ってますよ」
閻魔はしれっととんでもないことを言っている。魂とか意味がわからない。でも、この肉体は明らかに僕のものではないし、もしかしたらまともなことを言っているのかもしれない。僕は一応閻魔のいうことを信じてさらに質問を続ける。
「じゃあどうして僕はここに来たんですか。本当ならその『無』にいくべきですよね」
「何度も言うようですがあなたは死んでないんです。異世界に転生した、と言う感じですね。ちょっと前提が入り組んでまして、難しい話になりますがいいですか?」
「ええ」
「こちらから質問してしまい恐縮ですが、そもそも『マルチバース』という言葉をご存知でしょうか」
「『マルチバース』ですか。犬ですか?」
「それは『マルチーズ』ですかね。冗談をおっしゃることのできる余裕が戻ってきたようで安心しました。話を戻します。『マルチバース』とは日本語で『多元宇宙論』という意味の言葉です。『多世界解釈』とも言います。これは『可能性の世界』が自分のいる世界と並列して無限に存在している、という理論です。『可能性の世界』というのは便宜上使わせていただいている造語ですが、例を出します。あなたがいる世界を世界Aと仮定しましょう。『多元宇宙論』の上では、その世界Aに並行して、あなたが存在しない世界Bが生まれるんですお分かりですか?」
「まあ、なんとなく。僕がいる/いないでそれぞれに世界が生まれるってことですよね」
「簡単に言えばそうです。要するに物理現象から個人や物の実在/非実在までさまざまな現象や概念の存在可能性に基づいて宇宙が無数に存在しているのが現状なのです。それで『可能性の世界』」
「マルチバースとやらはよくわかりましたがそれがどう地獄が絡むんですか」
訳のわからない難しい話をガチャガチャ言われて僕も機嫌が悪くなってきた。全く話の核心に触れていない。
「これからお話しします。実は、この世界もあなた方の宇宙と関連する宇宙なんです。我々の宇宙がどんな宇宙か。それはあなた方一人一人の信仰によって天国や地獄、冥界や天界、神の存在がある宇宙なんです」
「信仰ですか」
「そうです。あなたは無宗教なのでわからないと思いますが、宗教を信じている人にとって神や仏、天国や地獄は『どこかにある』ものなんです。ここまでの話を聞けばなんとなくピンとくると思いますが、ここはあなた方の宇宙での誰かの信仰で生まれた宇宙です。」
信仰によって生まれた世界。にわかには信じがたい。だが確かに、信仰のある人にとってはそんな世界も確かに実在する。だからこそ多くの宗教で冠婚葬祭といった神や他の世界に紐づいた儀式を行うのだ。
「実はそれぞれの宇宙は泡に包まれて隣接しているんです。そして、たまーに世界同士がくっつきすぎると世界同士が繋がってしまうことがあるんですよ。神隠しって聞いたことありませんか?」
「それは映画で見ました。突然全く知らない土地に行っちゃうっていうやつですよね」
「そう、まさにそれです。あの現象の一部は宇宙間移動なんですね。ただ、多くの場合、普通の宇宙同士はくっつきません。関連性が薄いですからね。ただ、この宇宙とあなたの宇宙は違うんですよ。頻繁に接触してしまうんです」
「どういうことですか」
「『死』によってこの世界とあなた方の世界は接触するんです。死後、亡くなられた方たちは魂の形をとってこの宇宙にやってきます。その際、接触した場所、つまり大事故の現場のような死者がたくさん出る場所、または死者にまつわる儀式をする斎場や葬儀場の近くではミスが発生することもあるんです。データが混線する形で」
確かに、僕の行こうとしていたスーパーの近くには葬儀場が三軒ある葬儀激戦区だった。だとすれば、そのうちのどこかが葬儀をしていてこの宇宙とつながってしまったのだ。
「平たく言えば僕は間違えてこの宇宙に来て、この人の体に転生したってことですか?」
「そうです。おそらくあなたの転生なさった肉体の方の葬儀が仏教式だったんでしょう」
なるほど、と納得するが、まだ謎が残っている。それはトラックの件だ。
「でも、僕はトラックにひかれてここに来たんですよ?関係あるんですかトラックは。僕らの宇宙ではトラックにはねられると他の世界に飛ぶというのがフィクションでよくあるんですけど」
「トラックは直接的には関係ないですね。。死の可能性を引き上げるのは必ずしもトラックである必要はないですからね。まあ、ポピュラーな引き金にはなり得ます。そういう理由で転生してしまう、という事例は比較的よくありますから。まあとにかく、あなたがトラックに接近された時、そこには比較的濃い死の可能性が発生し、その際にあなたは輸送プロセス発生の対象になりました。実はこの宇宙全体の取り決めで、無宗教の人は死の可能性が発生した時点でこちらに送るための準備をするんです。魂の抽出作業ですね。死ぬ死なないににかかわらず一応いつでも抜けるようにします。信仰がある人は儀礼によってこの宇宙に送られてきますのである程度余裕を持った輸送プロセスを実行できるのですが、無宗教の人は死んだ瞬間に直接この宇宙の『無』のセクターに送られますので。死の可能性が発生した時点でそういった輸送プロセスの準備をする必要があるんです」
「はあ」
「そしてたまたま近くで仏教式の葬儀という輸送プロセスを行なっていたことでバグが起き、本来死ぬべきでないあなたにも送還プロセスが発生してしまったんです。なぜか危機を回避できなくなりませんでしたか?」
確かに、トラックにはねられる直前僕の体が硬直した。それはそのバグとやらで送られることが確定してしまったからなのだろう。僕は無言でうなずく。
「やはりそうでしたか。それは、輸送プロセスのバグでフリーズしたからですよ。その後あなたは仏教式葬儀という輸送プロセスの方に引っ張られ、死という運命を選ばされる直前で魂がここに飛ばされました。そして本来こちらに来るべきだった方の魂と入れ違いでそのお体に入られたのですよ」
閻魔の話を僕なりに解釈すれば、僕は間違って地獄という異世界に転生をしてきたことになる。トラックにはねられてだ。だが、間違いでもなんでもいいから帰してくれないと話にならない。
「どうでもいいけど間違えたんなら僕のこと帰してくださいよ!それくらいの責任は当然取って下さい」
「ええ、もちろん帰還に向けた手続きは進めさせていただいております。ただ、うかつに亡くなられた方をそちらの世界に帰還させるのは大きな問題ですので、間違えてこちらに連れてこられてしまったお客様だけ、間違いなく帰っていただけるように手続きが非常に煩雑でして。あと半日ほどお時間がかかりますがよろしいでしょうか。」
時間はかかっても帰れるとわかり、ひとまず安心する。
「大丈夫ですよ帰れれば。本当にありがとうございます。こちらも帰していただけて助かります」
「いえいえ。こちらが全面的に悪いのです。お望みなら記憶を消したり復活の場所を指定したりできますがどうなさいますか?」
「記憶はそのままでいいです。面白い話をたくさん聞けたので。ただ復活は自分の家のベッドの上で頼みます。あと間違いなく僕の体で」
「もちろんかまいませんよ」
これにて万事解決だ。後は半日待つだけ。それで全部解決する。そう思って安心すると、閻魔がある提案をしてきた。
「ところで、準備ができるまでの間地獄を案内いたしますがどうしましょう」
「せっかくなんで頼みます」
記憶も残るし僕はグロテスクなものに耐性があるのでその提案を飲む。僕がかつて読んだ地獄の絵本では人の体がバラバラにされたり焼かれたりしていた。おそらくここでもそうなのだろう。
「では向かいましょうか」
そういうと閻魔は部下に耳打ちをし、僕に部屋を出るよう促した。
地獄には僕のような事故で転生してきた人向けのツアーがあった。燃える馬が引く馬車のようなものに乗っていく思いきや、なぜかリムジンに乗って地獄を巡ることになった。なんでも地獄には常に現世の情報が入ってきて、最新技術によって文化が進化していくのだそうだ。最初に耳に入った整理番号のシステムもこのツアーもリムジンもその一環だ。なんでも八大地獄と呼ばれる種々の責め苦すら今ではVRの時代らしい。多数の亡者たちがベッドに横たわってゴーグルをかけさせられている様子をリムジンの窓から眺めるのはかなり奇妙な気分だった。苦痛も脳に直接伝わるそうだ。最近ではグロテスクなものが苦手な獄卒が増えており、こうしたやり方は鬱などの精神疾患を防ぐのにとても役立っているそうだ。鬼に精神疾患なんて訳がわからない。
「近頃は倫理観やものの見方なんかもアップデートされ始めてまして。私なんか上からパワハラやセクハラに気をつけるようにと毎月のように講習会に参加させられてます。私が子供の時にはなかったですから」
閻魔は愚痴を吐くとタバコをくわえ、さらに続ける。よく見ると煙の出ない電子タバコだ。
「深司様は地獄にこんなイメージは持っていなかったでしょう?」
「もっと生々しくて原始的なものだと思ってました」
「やはり。でもね、違うんですよ。あなた方の暮らしが千年で大きく変わったように我々の文化も大きく変わったんです。でも地獄のイメージはいつまで経っても千年前のイメージで固定されたままですよね。なんでだと思いますか?」
「なんでって……。何でですか?」
「それはですね、単純に地獄に来る人が減ったからです。かつてはあなたのように我々の世界に間違えて来てしまうことが多かったんです。皆地獄を信じていて、葬儀の後多くの人の魂が地獄を訪れるので、今回のような事故が起こりやすくなっていたんです。なので中には地獄から記憶をそのままに帰っていく人もいてそれが伝承や絵画に残されたのでしょう。ですが現在は葬儀はしても形だけ、とか葬儀さえしない、とか多いですよね。皆さん信仰が薄くなってきていますから。そうすると、そもそも地獄に来る人が減るんです。地獄を信じてないとここには来られませんから。すると今回のような事故の起こる可能性は低くなるので情報が持ち帰られないんです。しかも帰ってからこのことを話しても誰も信じてくれませんよね?そうすると情報はかつてのままで固まってしまうんです」
「なるほど」
「そういうことです。おっと、そろそろお時間です。このまま転送装置の方へ向かいますが構いませんか?」
「もちろんです。ありがとうございます」
ようやく帰れる。それだけでかなり胸が躍る。だが、ふと見た閻魔の顔は少し寂しそうだった。こうして話ができる人間は本当に訪れないのだろう。
「それでは行きましょうか」
転送装置はSF映画のコールドスリープ用カプセルのような形をしていた。ここに入ると魂が抜かれて元の世界に戻れるらしい。僕は促されるままカプセルの中で横になる
「業田深司様。今回の件、改めてお詫びを申し上げます。後十分ほどで戻れます。最後に私の話を聞いていただけますか? 」
そういうと閻魔はカプセルの横に椅子を持ってきて腰掛け、話を始めた。
「最後に深司様にお話ししたいのはあなた方の宗教など『非科学的』と呼ばれているものに対する認識についてです。科学が発展して皆さん宗教を信じなくなってきていますよね。それはいいんです。個人の自由ですから。ただ、この宇宙はそうした信仰によって成り立っています。地獄も天国も本当に存在するんです。そして、この世界はそういった概念を信じる人たちによって維持できているんです。この間ある宗教の天国と地獄が消失しました。それはその宗教を信仰する人があなた方の宇宙から消失したからです。原因はわかりません。それを信じる最後の一人が死んだのかもしれないし、そんな宗教にもう誰も見向きもしなくなったのかもしれない」
カウントダウンが始まる。後一分で現世に帰れる。そんなところで閻魔は立ち上がり、カプセルに手をついて顔を寄せ、口を開く。
「最後にあなたにお願いがあります。実証していないのに『ある訳ない』と決め付けるのをやめて欲しい。天国や地獄のように伝承や迷信の類から生まれて実在することができている宇宙は他にもたくさんあります。でもすべての人が決めつけでその存在可能性をゼロにしてしまえばそうした『可能性の世界』は消えてしまう。だからどうか、証明できないのに決めつけることをやめて欲しい。単なる決めつけで消えてしまってはそれこそ浮かばれませんから」
最後の言葉とともに体が動かなくなり、最後のお元気で、という言葉はスローモーションになる。トラックにはねられそうになった時と同じだ。
僕は意識を失った。
「目が覚めた?」
僕の目が開く。母の声だ。目に映るのは僕の部屋の天井だ。
「あれ、ここ、どこ?」
「どこって自分の部屋じゃない。あんた道に倒れてたんだって。熱中症で救急車で運ばれたっていうからお母さん友達に車出してもらって迎えに行ったのよ。まあ今日はゆっくりしてなさい。悪かったわね買い物に行かせて」
そういうと母は部屋を出ていく。この疲労感は熱中症のせいか。頭が回らない。僕はなんとなく自分の手を見る。シミひとつないいつもの自分の手だ。
「夢、か。ある訳ないもん地獄なんて」
思わず出た呟きに僕はハッとした。ある訳ない』と決め付けるのをやめて欲しい、と言っていた男の目が思い出される。切実で寂しそうな目だ。
「そういうのが良くないんだよな」
僕はそう独り言を吐き、募る眠気に身を任せて目を閉じた。
Bushi no okoboredesu
今回は異世界転生をテーマに僕なりに地獄と多世界解釈を料理しました(異世界転生か?と言われると立つ瀬がないデス……)
実は今回は青春テーマで書こうと思ったんです。ですがやろうとしていることと時間が釣り合わず、かつて異世界転生をディスるために書こうと思っていた小説から着想を得て今回猛ダッシュで書き上げました。
(今回の教訓は時間をかけないとろくなものは書けない、ということですね)
まあ内容について二、三。
今回取り扱った地獄の解釈についてですが、仏教徒の方ごめんなさい。デジタル墓だか仏壇が存在するようなのでこれもセーフだと思ってこういう内容にしました。よく考えるとあんだけ偉人が死んでるんだから地獄が発展してない訳ないですよね。ジョブズとか部下いじめまくってるから地獄にいない訳ないし。パワハラとかモラハラで自殺してる人もいるしそういう概念も多少は持ち込まれてるでしょう。地獄の鬼もメンヘラになるかもしれないです。ちなみに整理番号の件はなくてもいいかなと思ったんですけど、ライブハウスに通ってる獄卒がいるかもしれないので一応入れました。地獄にはトキオの長瀬にそっくりな鬼がいるらしいし。hのコード弾けるやつね。
続いて多世界解釈についてです。量子物理ガチ勢がいたらごめんなさい。僕はこういう認識でやってるので間違えてる箇所があったらガンガンご指摘ください。
さて、今回多世界解釈について入れた理由ですが、それは僕の癖に起因してます。僕はどんなものにも理由があると思っているたちで、一から十までなんでも説明しないと気が済まないんです。地獄で出てきた閻魔様は僕みたいな感じです。あんなふうになんでも理論立てて喋っちゃう。だから閻魔様の舌を借りて多元宇宙論の説明をさせました。いわば異世界転生の説明です。一応そこで異世界転生のテーマをさらえないかな、と思って無理やりねじ込んだところがあります。急ごしらえは本当に良くない。
最後になりますが、皆さんの中にはある訳ないが口癖の人、いませんか。でも、ある訳ないは科学では禁句です。何回も実験して絶対それがあり得ない、という証拠が見つかるまでは否定できないんです。それが幽霊でも地獄でも、異世界への転生でも。だから気軽にあり得ないと言って伝承を批判するのはやめましょう。本当にあるかもしれませんよ。別の宇宙では。それだけは言いたいことです。ていうかこれだけあればこんなクソみたいな拵えの小説は要りませんね。後書き先に読む人は本文読まなくていいです。では!