3-3.
出会ったのは、水田の近くでだった。
ミズチがその地に流れ着いて日が浅かったため、近辺の民が使う言語はまだ理解できなかった。ニンゲンの生活習慣、表情の機微などに興味もなかったので、何のために捕獲されたのか、当初は見当がつかなかったものだ。
後になって聞いた話、ラムは害獣退治を押し付けられていたらしい。むやみにどうこうするよりは近づかない方が懸命だというのに、兄や姉たちはおそらく末弟をいじめて楽しんでいたのだろう。本人はそう推測していた。
小蛇の姿で昼寝をしていた。
つまみ上げる指の圧力と持ち上げられる感覚に意識が呼び覚まされ、しばらく空中を移動してから再び地面に下ろされた。元居た場所を振り返り、何をされたのだろうと不思議に思っていると、幼体のニンゲンの視線に気が付いた。
ニンゲンは目と鼻から水を流していた。しきりに口から言葉を発していたようだが、何を言っているのかはわからなかった。それから脱兎のごとくニンゲンは走り去った。
それだけだった。それだけの関わりで相手に興味をおぼえ、ついでに体臭もおぼえたので、探し出して観察することにした。
次に接触したのは果物の樹の下でだった。
果物の外皮は赤く分厚く、中の実は白かった。ミズチは自らのストーキングの標的と定めた小さいニンゲンが地面に座って果物の皮をむいていたのをしばらく観察した。あまりに真剣に手元を睨んで、あふれ出た汁をさも美味しそうに舐めとっていたので、自分も食べてみたら美味しいだろうかとふとミズチは考えた。
同じ姿になれば同じようにして食べられる。当時はニンゲンに化けるのがまだ不得手だったが、この個体は既に何日も眺めてきたのだから、概容はわかったつもりでいた。
そこに相手を驚かせようとの意図はなかった。なかったのだが、そういう結果になった。
ニンゲンは悲鳴を上げてやはり走り去ってしまった。声をかけようとしたものの「うあ……か……」という具合に言葉を成すには至らなかった。
仕方なく、皮が半分むかれた果物を拾った。だが指を動かすことをはじめ何もかもが不慣れで、うまく口にすることができなかった。
あのニンゲンにコツを訊かねばなるまい。次に接近する時までにもっと完全な声帯をつくり上げて、ついでに言葉を習得した方がいいだろう――。
*
「のんびりだね」
途中まで聞いた唯美子の感想が布団の中に響く。
他には、相手と同じ姿に化けて出たら驚かれるのも無理ないとも思ったが、これには本人も後に気付いたであろうから指摘しないでいた。
「そうかあ? なにが」
「なんだか思ってたよりゆっくり知り合ったんだねって思って。長命だとそんなペースが普通なのかな。初めての異種間交流だから慎重になっちゃったり?」
比較対象はあくまでナガメと自分との出会いになってしまうが、それに比べると、のんびりとしている。
「慎重とかじゃなくて、まあ、ひまだったし。いそぐ理由なかったし」
「わたしと会った時はそういえば言葉の壁がなかったね」
思い返せば、最初から彼は日本語がペラペラだった。数百年前とでは状況が違ったのだろう――そう考えた時点で、素朴な疑問が沸く。
「ラムさんはもともとどこの国から来たの。村人は南蛮って言ってたと思うけど……タイ? フィリピン?」
「さー。ニンゲンがつくった線引きなんてすぐズレるし……位置的にベトナムだったんじゃね。あいつ、クニでも『いほーじん』だった気もするけど」
「う、うん?」
生まれ故郷でも異邦人というのは、どういうことだろうか。そのうち腑に落ちるものかなと思い、再び唯美子は聞き役に徹した。
*
次に会いに行った時も、またその次に会いに行った時も、同様にニンゲンは泣き喚いて逃げた。ようやく話を聞いてもらえたのが何度目の接触でのことだったか、ミズチ自身おぼえていない。
逃げるものを追いたくなる衝動を我慢したのが最初の数回で、ついには逃げる背中に飛びついた。暴れて逃げようとするニンゲンに、ミズチは感心の声をかけた。
「おまえ、足はやいな」
「うわあああしゃべったあああ」
捕らえた獲物は後頭部を手で守るようにして草の上にうずくまった。
「れんしゅうしたからな」
「うわあああああれんしゅうするなあー! ……?」叫ぶ間の息継ぎで、ニンゲンが我に返ったように頭をもたげる。「れんしゅうしないとしゃべれないの」
何か奇異なものを見つけたような目だった。ミズチは肯定した。
「きみは『 』なの」
「そのことば、しらない。なんて言ったんだ?」
「ぃゆぅぐゎぁい」
「ゆっくり言われたからってわかんねーもんはわかんねーし」
「うーん……きみはぼくをたべるの」
「ニンゲンは、すっげーまずいってきいた。べつにたべたくないな」
「たべないならどうするの?」
「そだな、きこーとおもってて」
ニンゲンの姿を真似たついでに、ミズチは衣類の擬態もしていた。帯の中から、赤い果物を取り出してみせた。
手の平に二個のせて差し出す。それを見やり、ニンゲンは黒い目をぱちくりさせた。
「ライチー?」
「って、いうんだな。これのたべかたを、おまえにきこーとおもって」
「ライチーおいしいよ」
一度的外れな返答があったが、しばらくして、ニンゲンは果物をひとつ指の間に取った。爪を立てて、器用に皮をむきとってみせる。
「ほら」
「おー、はやいな」
「えっへん。とくいなんだ」
褒められて、ニンゲンは嬉しそうに腰に手を当てた。以前までに感じられた警戒心も徐々にとけつつあるようだ。会話ができる相手というのは、それだけで親近感が沸くらしい。
これも後になってわかったことだが、他者を簡単に信じてしまうのは彼の個性の一部でもあったのだ。
「ほかになにがとくいなんだ」
つたない手つきでもう一個のライチをむきながら、ミズチは訊ねた。
「ほかー……ろくじゅうかぞえるまで、いきをとめられるよ。あと、かくれんぼもとくいだよ」
「くわしく」
「ききたいの?」
「おまえにきょーみが、あるからな」
そう答えると何故かニンゲンは頬を少し赤らめて俯いた。
こうして、かくれんぼとは何か、と話題はニンゲンの幼体が取り組むさまざまな遊びに及んだ。
やがて成体のニンゲンの「阿七! 遊んでないで戻れ!」と呼ぶ声によって、この小さなニンゲンとの邂逅は終わった。
次回は、出会い頭に叫ばれずに済んだ。
普段あまり話し相手になってくれる者に恵まれていないのか、それからニンゲンは毎度にこやかに迎えてくれた。自分に興味を持っている相手がいるということ自体がうれしかったらしい。
兄や姉が多くいる家の十二人目の子供あるいは七男で、存在自体が家族に煙たがられているそうだった。卵の殻を自力で破いた瞬間から終始、一匹で生きてきたミズチには家族というものがよくわからなかったが。
「『妖怪』は、どうしてぼくとおなじかおをしてるの」
「んー、あたらしくつくるより、まねするほうがうまくニンゲンになれるから」
「ほんとうはどんなかおなの?」
むき出しの土を枝でえぐるようにして、ミズチは小さく蛇を描いた。と言っても、目や口すら描き入れないような単純な輪郭だ。
「蛇ちゃん、かおがないよ」
「これだけで蛇ってわかったんだから、べつにいらなくね」
「どんなかおしてるのってきいたのに……」
ニンゲンはふくれっ面をしてしゃがみこんだ。指先で蛇の絵に目玉を加えていると、突然何かに気付いたように息をのんだ。
「あのときのちっちゃい蛇だ」
「やっとおもいだしたな」
「だって蛇が、ばけてでるなんて、そんな童話みたいなことがあるなんて」
恐怖の色が眼差しに侵入し、じわじわとニンゲンの表情に広がっていった。今更何を、とミズチは思う。
「おどろきおわったか」
「おわってない」
「それよりききたかったんだ。なんであのとき、ないてた? んだよ」
否定の返事を無視して、ミズチは質問をした。目と鼻から水を流す状態を泣いているというらしいことは調べがついている。そこには、強い感情が伴うものだと。
「さわるの、こわかったから。あと、かわいそうだったから」
何がかわいそうだったのかと訊き返すと、答えはこうだった――おうちからいきなりおいだされちゃうの、かなしいよ。
だがミズチはあの餌場に強い愛着を持っていたわけでもなく、深い目的があって水域をうろついていたわけでもなかった。
むしろ、後に棲家から追い出されて苦労するのは、どこぞの家のこの七男の方であった。
そうして、はじめの邂逅からしばらく経った頃。
下層の者がより裕福な家に使用人となるために売られるのは、当時にはよくあることらしかった。集団生活においての間引き、口減らし。たとえ売る側が得るのは一時のみの対価であっても、それを選択する家は少なくなかった。
なかでも七男の家のニンゲンは「華人」と呼ばれる異邦の少数民族の枠に入るらしく、街に出ても働き口は限られていた。うまく成り上がったほかの華人の家に受け入れてもらうのが、ひとつの生き方だったそうだ。
潮の匂い、浮遊物が波に揉まれてぶつかり合う音。
何日も前から姿が見えなくなった七男の気配をたどった先が、港だった。物陰に縮こまっているところを背後から無遠慮に話しかけたら、見慣れた泣き顔がこわごわと振り返った。
目が合うなり、表情が目に見えて和らいだ。よほど心細かったようだ。
ミズチは隣に腰かけて、これまでどうしていたのかを聞き出した。売られたのだと聞いても、これといって感慨は沸かなかった。それならそうともっと早く教えてくれれば、探し出す苦労を省けたのに。
「つーかおまえはそこまで理解してて、なんでないてんだ」
「うぅ……『ご主人』がすっごく、きびしいんだ」
「それがどうしたよ」
衣食住を得る代わりに働くという仕組み、力関係はもとより一方的だったのではないか。わかりきっていた現実をいちいち嘆く理由が、ミズチにはつかめなかった。
「いたいのもこわいのも、もうやだ……」
言われて見れば着物からのぞく手足が生傷だらけである。まるで鞭に打たれたような痕だった。足は泥に汚れ、皮膚がめくれて鮮血が滲んでいる。
何度目かのせっかんの後、七男は思わず敷地から飛び出したのだと言う。当然、行き先に当てなどなかった。
「なんならおいらがそいつ、始末してやろーか」
「だめだよ! ご主人がいなくてどうやっていきれば……それに、ご主人はぼくの『しつけ』のためにやってるだけだって……」
途中から己の言い分に自信を失くしたのだろう、声が消え入り、ついには波の音にかき消されてしまった。
「じゃあもどるんか]
逆に提案してやった。だがそれにもはっきりとした否定が返ってきた――無我夢中で逃げ出しただけに、帰り方がわからないらしい。
「妖怪……ご主人のいえ、どこかわかる?」
「むり。接触したことないヤツの居場所なんてどーやってみつけだせってんだ。いまのおまえにはいろんなニオイがついてるし」
「ど、どうしよう。これからどうやっていきよう」
「そのうちだれかがさがしにくんじゃねーの」
「さがしに……さがされたら、また、いたいかな……」
目を泳がせて爪を噛む少年に対し、ミズチは頷いた。文脈から考えて、ある程度の覚悟は必要だろう。
七男は再び泣き出しそうな顔をした。だがそれよりも早く、腹部から空気の入った袋をねじるような音が響いた。
「とりあえず腹へってんなら、カタツムリでもくう?」
ミズチはつい先ほど採ったばかりの食糧を差し出した。
お約束のように叫び出すかと思えば、七男は気分悪そうに顔を歪めただけだった。やがて、おずおずと手を伸ばす。
「おっ!? くうんか!」
つい、歓喜に大声を出してしまった。
これまでにもさまざまな食べ物を差し出してきたものだが、このニンゲンがそれを受け入れた回数は、まだゼロであった。
言っているそばから、手が引っ込められた。
「や、やっぱりやめる……それ、どうみてもまだうごいてる……」
「うごかなければいーんだな」
「火! 火、とおして!」
「ナマの方がおいしいのに」
「おなかこわすのヤダよ」
ちょっと火をおこしてくるから、と少年が立ち上がる。ミズチは仕方なくついていった。少し離れた浜辺で小枝や薪などの必要なものをそろえ、ようやくカタツムリを調理し完食し終えた頃には、なにやら日が傾きそうな時刻になっていた。
これだからニンゲンは面倒だ、とは言わずに。陸貝の旨味にいまだに目を丸くしている彼に話しかける。
「かえるとこないならいっそあたらしい土地にいけば」
港は、あれから何隻かの船が出航していた。
残るいくつかの大きな船影を、ふたりは足を抱き込んだ姿勢で眺める。常に誰かが何かを運び込んだり、何かを点検しているようだ。いずれも長い船旅を予定しているらしいのはなんとなく感じ取れた。
密航するなら夜のうちに人知れず乗り込んでしまえばいい。そのようにミズチは提案した。
「そんなうまくいくかなあ」
ただでさえ初めての航海に、人目を盗んで乗り込む危険。食事も排泄も寝起きもきっと満足にできないだろうし、見つかったらどのような罰が待ち受けているか――力説する七男に、ミズチは肩をすくめる。
「えらぶのはおまえだ」
個人的には、どちらでも構わなかった。
既に明らかになっている不幸と、あるかどうかまだ知れない不幸。結果がどうなろうとも、選択の責任を負えるのは当人のみだ。
「わかってるよ。でも、妖怪は、ぼくに……ついてくるつもりなの?」
「ん?」
一瞬、何を訊かれたのかがわからなかった。否、改めて訊くようなことだったのかと驚いてしまった。「つもりだぜ」
「海をこえるんだ。きっとたいへんだよ」
「塩水はまずいけど、べつに海なんてこわくねーよ」
「ことばがつうじないよ」
「おぼえなおせばいーんじゃん」
「し、しってるひとがほかにだれもいないんだよ!」
「ふつうじゃね?」
何をそんなに興奮しているんだ、とミズチは首を傾げる。
腕を振り回して抗弁していた七男は、急にがっくりと肩を落とした。疲れたような、呆れたような笑い声を漏らして。
「きみにこわいものはないんだね」
「恐怖かあ。そういわれりゃ、どーゆーかんじかわっかんねーなー」
ミズチが変異を遂げて蛇の「枠」から逸脱して以来、生命の危険を感じなくなったのは、何百年前からだったか。日々を必死に生きなくなったのは、いつからだっただろうか。
生命維持にさほどの努力を必要としないのだ。ニンゲンの不安など、わかろうはずもない。そしてニンゲン側からも、己が理解されることはきっとないだろう。
「もともときみは、ちがうところから……すごくとおくからきたんだっけ」
そう呟いた少年の横顔は、ミズチが模している状態に比べて幾分か成長を経ていた。その成長を細かく追って擬態してもよかったのだが、なんとなく最初に真似た小さい形状が維持しやすいのでそのままにしている。
ミズチは小さく首肯した。
生まれた土地について多くをおぼえてはいない。ひたすらに当てもなくさまよっていると、時間の流れにも地理にも執着を持たなくなるものだ。
「ぼくにもできるかな。こわいけど、きみがいっしょだったら、できそうなきがする」
「んん。なにが?」
「あたらしい……『 』だよ」
七男が口にしたのは、ミズチにとってまだ知らない言葉だった。厳密には、今会話している言語の中では初めて聞く単語である。
どういう意味かと訊ねる。
「ちょっとまって。そのまえに――」少年はゆっくりと腰を上げた。「しのびこむふね、どれにするかきめようよ」
にかっと少年は口を大きく開いて笑った。
出会った頃は欠けていた乳歯が、既に永久歯に生え変わっている。対するミズチは数年遅れの、同じ者のかつての笑顔を返す。
果たして、共に東の島国に渡った。
*
狭い空間に充満する確かな死の予感と、臭いが、ミズチの嫌悪感を煽った。
臓腑を絞られるような嫌な気配だ。
生命の終焉そのものに思うところはないが、この類の死には、どうも慣れそうにない。
――飢餓。
縮む筋肉の代わりに膨らむ下腹部、窪む皮膚に代わって突き出る骨。生物が一生を終えるに至るさまざまな手段の中でも、最もいたたまれないもののひとつだろう。病に屈する者のほとんどは、根本的には臓器と細胞の餓えによって力尽きているのだろうとも思う。
強靭な生命力とずば抜けた回復力を持ち合わせたミズチでさえ、飢餓による死だけは、どこか身近に感じられる。きっと生きとし生けるものがみな、五臓六腑の奥深い場所で実感できる苦難だからだ。
寿命というものから遠ざかった上位個体でさえ、本能を思い出すことはできる。
これが恐怖かと歯噛みする。
恐怖と、それから――憐憫ではない。憤りだ。
何故、平行線なのか。どうすればこの男は、わかってくれるのか。
うまく言葉にできない怒りを視線に込めるしかない。差し出した食物のことごとくをはねのけられ、途方に暮れた瞬間でさえ、自分は未だに諦めきれないらしい。
喪う恐怖――。
ほんの少し、受け入れてくれるだけでいい。かつてのように、こちらが差し出す食料を咀嚼して飲み込んでくれればいい。
どうして拒むのか。死んで無実を証明したとして、意味があるのか。たとえば村人の注意を引いて例の家族が夜逃げするだけの時間を稼げたとして、奴らは遠からず役人に捕まるのではないのか。
ニンゲンの社会はいつだって理不尽だ。それでも彼はこの社会を愛しているという。
そうまで言い切られては、ムラという輪の外に在るミズチが何を言ったところで無駄だろう。
もどかしい。元より先立たれるだろうとはわかっていたが、このタイミングで、こんな形で、とは予想していなかったのだ。
「っ、蛟龍……」
おぼえているか、と痩せ細った青年はため息のように囁く。乾いていくつもの亀裂ができた唇を苦しげに動かして。吐き出された息には、ほとんど体温が伴っていない。
幽閉されたばかりの頃、まだ五体満足だった姿から幽鬼のようなこの状態になるまでの変遷を、ミズチは眺めて来た。決して気分の良いものではなかった。
毎日、水だけは誰かが無理やり飲ませていた。「罪人」が罪を認めるまで死なせないつもりだったのだろう。
村人の目論見は外れた。この男の意地が、勝ったのである。
ただこの試練には果てが無い。期日まで無実を主張しきって生き延びれば釈放、という褒美はなく、ただ死すのみである。
ニンゲンのやることは時々、実に無意味だ。
「……港で、お前に食べさせてもらった、カタツムリ」
「おぼえてる」
確か食した直後にラムは目を丸くして固まったのだった。後になって聞かされた話、あまりの美味さに頭が真っ白になり、泣きそうになっていたのだと言う。
それを聞いた時、大げさなやつ、とミズチは笑い飛ばしたものだが。本人はいたって真剣だった。
「我々は、それを親切と呼ぶ……お前が自分の物を僕に分けてくれたのは、決してあの時だけじゃ、なかったな」
「そーだな。むしろあの日を皮切りにイロイロくわせてみたんだっけな」
「食べ物、以外も、だ」
冷たい闇の中で、青年が笑った気配がした。
ミズチは思わず頭をかいた。最もかけてやったのは、時間と労力だろうか。
本当はわざわざ指摘されなくても、自分の行為は記憶に残っている。このニンゲンが腹が減ったと嘆けば食物を確保し、寒いと訴えれば毛皮となりそうな野生動物を狩った。病に伏したなら、自らの鱗を口に含ませて生命力を分け与えたりもした。
そして歩き疲れたとくずおれた際には――大蛇となって幾里か運んでやったこともあった。他者のためにここまでしてやったのは、ミズチにとっても初めての経験である。
「この国の民以上に、僕に優しかったのは、お前だ。お前にそんなつもりなどなくても。祖国を発つ勇気、新天地を求めて旅立つ力は、蛟龍がいたからこそ……持てた。そそのかれて、『挑戦』してみて、よかった」
長く語り過ぎたのか、そこまで言って、ラムは激しく咳き込んだ。
「むりすんな。もうあんま声だす力もないくせに」
諫言はあっさりと無視される。
「だ……から、最後に、頼まれてくれないか」
「だからやだっつっただろ」
「そう、言わずに。僕にはほかに頼れる相手がいない……いや」また咳を挟んで数十秒。「お前だから、頼りたい」
――家族だと思っている――。
音にならない声で、言った。
家族と呼ばれて、胸の内にどのような感情が生じたのか、当のミズチにもわからなかった。
「とじこめられてるあいだ……自害して、楽になろうとはおもわなかったんか」
葉を零れ落ちる朝露のような、ささやかな問いを投げかける。
「思ったさ。けどそれじゃあ、蛟龍の話し相手がいなくなるだろう」
「――――」
変な気を回すな、そう笑い飛ばしてやりたいのに、何故だか喉が詰まって何も言えない。感心しているのか――今わの際に、他者に心を割くこの者の気概に。
「おまえ、ニンゲンの中じゃ生命力は平均以下のくせに。精神力は、つよいほうだな」
「そう、かな」
――味方がひとりでもいればそれだけで充分なものだ。
青年は目元に笑みを浮かべて言葉を継ぎ、時を惜しむように饒舌になる。
「十年以上経つのに、故郷の言葉を忘れずにいられたのは、蛟龍のおかげだ。お前が気まぐれに僕らの言語をおぼえたからだ。感謝してる。感謝しか、ないくらいだ」
「カンシャね」
またか、とは言わないでおいた。ラムの満足そうな声音は、以前に村への情を語った時のそれと似ている。
「何度か……死んで楽になりたいとも思ったさ。これが……さいごの心残り、それともわがまま、か」
一周して再び頼み事の話題に戻ったところで、今度は、ミズチも拒絶を示さなかった。
「僕に、墓、が建てられれば、そこに家名を刻んでほしい。ないなら、作ってほしい」
「なんでわざわざ」
「僕は家族から遠く離れた地で死ぬけれど、霊は、先祖の元に、逝きたい。その道しるべだ」
「あー、『死後の世界』しんじてるんだったな」
「妖怪であるお前は、信じないんだったな。でも魂の存在は肯定していただろう」
「死に際のいきものの生命力の残滓みたいなもんがとぶのは、みえる。それが消える時、いきつく先があるかどうかは、しらん」
「……なら、いまも見え」
「やなこときくんじゃねー」
言葉を被せて、ミズチは蛇として威嚇する時みたく、舌を出して鋭く息を吐いた。思いのほか気が立ったのか、外の強風に勝るほどの音量が出た。
ラムはか細く笑うだけだった。
得も言われぬ苦しさがミズチの喉の奥を襲う。
死にゆく者から生命力が溢れることは、ある。風に舞う雪結晶のように、光源の前に踊り出す埃のように。両目を凝らさねば気が付かないほど微かな何かが散る――まさにこの時、この場でも。
見たくなどないのに。無意識に目を逸らし、そこでしまったと思った。
狭い場所だ。いくら弱っていようと、ラムがそのような動きや気配をとらえないわけがなかった。時として行動は言葉以上にものを言う。
「僕が死んだら――お前への、せめてもの礼に、この身体を明け渡そう。肉は少ないだろうけど……食べて腹の足しにするのも、解剖して仕組みを研究するのも、自由だ」
「いらねー」吐き捨てるように答える。「そんなことしなくても、この数十日間、ずっとカンサツしてたからな。もうじゅうぶんだ」
実際、青年の身体機能がひとつずつ力尽きていくさまを、詳細に感じ取ってきた。次にニンゲンの擬態をする時は、これまでとは比べ物にならないくらい緻密に再現できるだろう。
解剖までしたならば、ますます精度を上げられるに違いない。
それはミズチにとって好都合のはずだった。かつての自分なら喜んで承諾していた。否、今でも、有益な取引だと思う。
であれば相手が悪いのか。他の誰かなら、肉体が腐り果てるまでじっくりと見守ってやったかもしれない。
この青年の白骨死体を想像すると、拒否感のあまり眩暈がした。
(情がうつったか)
認めたくない事実に意識を向ける。
悔しさともどかしさを発散する方法がわからなくて、ミズチは敢えてニンゲンがするように歯ぎしりをした。顎の筋肉が張る感覚がやたら不快だった。
(カゾク……家族だったら、どうする。承けるべきか?)
どうすべきかではなくどうしたいかでしか物事を判断してこなかったゆえに、咄嗟に考え方を変えるのは困難だった。
石に一文字刻むだけ。大した労力のかからない頼みだ。どのみち暇だけは持て余している身で、この男が死ねば、これからどうやって暇をつぶせばいいのか改めて探す必要ができてしまう。
「だー、家の名前をほりゃーいーんだな。彫れば」
「ありがとう! もうひとつ、頼みがあるんだ――」
「おまえな」
「――忘れないでくれ。時々でいいから、僕という人間がいたこと、思い出してくれ」
瞬間、ミズチは息を呑んだ。
もとより忘れるつもりなどなかった。だがこの時を境に、長い一生の中で、能動的にニンゲンとの思い出をなぞるようになったのも確かである。
ふいにラムが笑った。何がそんなにおかしいのかと問い質すと、お前こそ笑っているじゃないかと返された。
まったくの無意識だった。自分でも何が楽しいのか、まるでわからない。
わからないが、何かが吹っ切れたような気がした。
いつの間にか視界いっぱいに光が満ちていた。生命力が器から零れ落ちて、昇華されていく。
そんな光景をミズチは美しいとも寂しいとも感じなかったが、大気中の温度が微かに上がった点に、不思議な心地がした。命の温かみと、知った顔との別れに触れていることに、胸の内がざわついた。
「好了。你可以放心」
光の海に沈む青年に近寄り、膝辺りに一度拳をぶつける。ふたつの願いを聞き入れてやるという意思の表れでもあった。
それを受けたラムは口元を僅かに震わせた。もう一度、微笑もうとしたのかもしれない。
「兄弟、你要照顧自己」
青年は言った――兄弟よ、自分を大事にするんだよ、と。
不規則な呼吸音が続き、やがて数分と経たない間にその瞳から光が失われた。
長かったようで、あっけない。この者がゆるやかに死に向かっていくのを見届けはじめてからどれだけの日々が経つだろう。
(大事にするもなにも……)
己の滑らかな指とラムの壊死したそれとを見比べる。ニンゲンの手足は大きく損傷したら再生できないが、ミズチの場合、再生できない損傷というのがむしろ稀有である。
ひとつため息をつくと、吐息が白くうねって霧散した。
いつしか気温は相当に低くなっていた。死の瞬間に感じた儚い熱量は気のせいだったのかと思うほどに、厳冬が猛威を振るっている。
あらゆる生命が息をひそめる時季――
突如けたたましい音がし、小屋の扉が外れた。
物置の中を強風が吹き荒れる。次々と倒れてくる農具を、ミズチは僅かな動作のみで避けた。爬虫類であった頃ならいざ知らず、いまのミズチが極端な温度に動けなくなることはない。
生物の枠を超越した自分に、何を大事にする必要があるのか。そうとわかっていながら、なぜ彼は最期の挨拶にそれを選んだのか。
「よけーなせわだ、ばーか」
もう声を発することのない抜け殻は、倒れた農具に半ば埋もれてしまっている。いずれ村人が死体に気付くだろう。墓が建てられるかどうかを見届ける必要があるが、その後は、どうしたものか。ミズチにこの国に留まる理由はなくなってしまった。
「おいらの当面の悩みは、すげー暇んなったことくらいだ。どーしてくれんだ」
返答は当然ながら、無い。
思い立って、ミズチは重なった農具をひとつひとつ拾い上げてどけた。露になった骸を眺めやり、その傍らに膝を抱えて寄り添う。
暇になってしまったからには、じっくり考えてみるほかあるまい。
友の、兄弟の、願いを叶えるための手立てを。
*
追憶する。
村人が異邦人の死体を回収して山に埋めるまでの数日、腐敗してゆく青年をただ観察していた。想像した段階ではあんなに嫌悪感があったのに、いざ目の当たりにすると、抱いた感情は名状しがたい穏やかなものだった。
墓と呼べるようなものは建てられなかった。未だ罪人と疑われていながら最終的に彼がニンゲンらしく埋葬された点で厚遇と受け取るべきなのか。たとえ墓石が設けられたとしても大多数が字の読み書きができない村人たちは、ラムの名をどう刻めばいいかわからなかっただろう。
かくいう本人もたいした教育を受けられていなかったので、己の家の名以上に書ける文字がなかった。
数年に渡る交流の果てに残ったのは、少年と青年の像と「林」の一文字。
だがそれだけあれば忘れないでいられた。時々思い出すには、誰かに語って聞かせるには、こと足りた。
「ナガメはラムさんがすごく好きだったんだね。ううん、今も、大好きなんだね」
その思い出語りを聞かせていた相手が言う。
「…………」
長い沈黙の後、そうかもな、と呟く。
「逃げようって、そそのかしたこと後悔してる?」
「んにゃ。後悔っつーのは、ニンゲンがつくった概念だろ」
二度、逃亡を提案した。一度目に受け入れられ、二度目には拒まれたが、それぞれの状況の差異に気付かないほど、ミズチは愚かではなかった。
「ラムが遊んでくれなくなるまで……あいつが所帯持って、歩けなくなるまで長生きするのを、見届けてもよかった。うまれた国で使用人してた方が、何事もなくそうなったかもな。けどもしもの話に意味なんてない。あいつは自分の意思でクニを出て、生きて、死んだ。そんだけだから」
「うん。わたしはその人を直接知らないけど、彼も責任を感じてほしくないと思ってたんじゃないかな。感謝してるって言葉が、きっと本心だよ」
唯美子は「話してくれてありがとう」と囁き、そっとミズチの肩を抱き寄せた。
「きみは長生きしてる割に他者と関わってこなかったって織元さんは言ったけど、そんなことない」
一瞬、耳をかすった彼女の声に、何かを決心したような力がこもっていたのを感じた。どういった決意であるかまでは感じ取れないが。
恒温動物の発する熱に包まれ、ミズチは気が緩んだ。長らく呼び起こしていなかった記憶を辿ってしまうほどに。
「はじめて海に出た夜、あいつすげーはしゃいでたな」
少年は見渡す限りの平面に愕然としたのだった。吹き荒れる海風に委縮して、甲板の手すりの前で立ち上がってはしゃがみ込み、を繰り返して涙の滲む目で叫んだのをおぼえている。
――しんじられない!
――なにいってんだ。しんじるもなにも、海は海だろ。存在してんだよ、いまここに。
――そうじゃないって。きみは、うみがぜんぜんこわくないんでしょ!? しんじられない! こんなにひろくてまっくらなのに、なんでへいきなの?
――ただのでっかいみずたまりみたいなもんだろ。
――うみのなかは、みえないんだよ! いきができないんだよ! どんな妖怪がでるかわからないよ!
しまいには少年は海面を見つめているうちに気分が悪くなったと言い出し、再び船内に身を潜めた。もちろん上陸するまでは船酔いもひどかった。なんとも情けない話である。ミズチは呆れながらも、終始そばについていた。
航海中、天気のいい日にはラムはこっそり甲板に出て果てしない空と海の青に感嘆していた。塩水を見ているだけで心が浮き沈みするのが、ミズチにはやはり奇妙に思えてならなかった。
姿形をいくら似せようとも、少年は己とは別の種に属する別の個体だった。相手を真に理解することはできないし、される日も来ないだろう。
けれどそれでいい気がしていた。距離感に、不満はなかった。
――妖怪がでたらさ、おいらが倒してやるよ。だからそんな怖がるなって。
――だめだよ。かわいそう。
――じゃーおとなしく喰われるんか?
――たべられるのもたおしちゃうのもヤだな。だからそうなったら――
屈託のない笑顔。
忘れていた。
「あー、そーか。あいつ『逃げるのを手伝って』って答えたっけ」
変なところで頑固で、変なところで潔い。そうしてその会話通りの展開もあったなと、遅れて思い出す。
これを滑稽と呼ぶのだろうか。
笑った。何が楽しいのかわからなかったが、やがて唯美子が心配そうに「大丈夫?」と声をかけてくるまで、うずくまって笑い続けた。
*
どれくらい深く穴を掘れば、差し込んだ石が真っすぐ立つのか。かけた土をどう叩けば、土台が崩れずに済むのか。知らないことだらけの初めての作業に、ミズチはずいぶんと手間取った。
亡骸が埋葬された山の中。
夕方に始めたのに、もうこんなものでいいだろうと妥協した頃には、すっかり夜が更けていた。しかし雪雲が月明りを反射して、辺りは意外と明るい。
いつか亡骸にしたように、墓石のそばで膝を抱えて座り込んだ。ニンゲンならば墓に向かって言葉を添えるはずだ。返事があろうとなかろうと、そうするはずだった。
(こういうときなんていえばいーんだろーな。おまえの言語に『再見』以外の挨拶あんのか?)
あるとすれば、ミズチは教わっていなかった。
別れの挨拶にしては前向きに過ぎる。
(またあおうって。いつ、あえんだよ)
そう思っていても、言葉がわからないのでは仕方なしである。
頭をかいて、嘆息した。
「――以後再見」
空を仰ぐと、雪結晶が額に触れてそっと解けた。
ミズチは死後の世界を信じない。死者の霊が風を吹かせただの動物の使いをやっただの、ニンゲンが語るような事例に一切期待しない。
なのでその挨拶は願いのようなものだった。
口に出してから理解した。二度と会えなくても、会いたいという想いを形にすることには意味があるのだと。
想いがどこかにある限り、共に過ごした日々が消えることはきっとないだろう。
三章までお付き合いくださりありがとうございました。丸一年ほど更新が遅れたこともあってもはや内容を忘れている方も少なくないでしょう…。過去の話メインだったので案外みな問題なく読めたのかなとポジティブにとらえておきます。
ラム⇔ムラ はまったく意図していなかった偶然です。
四章は再び現代ライフに戻ります。今度こそ読み手の皆様をあまりお待たせしないように頑張ります…!