3-2.
ひどい騒音が空間に反響している。継続的に聞いていては頭痛を引き起こしそうなそれは、折り重なる赤ん坊の泣き声だった。
――前回の記憶の断片の始まり方とは打って変わって、ここは落ち着かない。
「うるせー」
ナガメがわずらわしそうに小指で耳の穴をほじくる。しゃがんで覗き込んだ先は、浅い洞穴のようだった。
「みつかりたくなかったら、だまってたほうがいいぜ」
少年が洞穴の中に無造作に手を突っ込むと、泣き声はたちまち勢いを失くしていった。
静寂を取り戻した暗闇。ひんやりとした風、木々の匂い、まるで山にいるような印象を受ける。ナガメの記憶を通して五感の情報を得ている唯美子は、奇怪な状況に驚いていた。
穴の中にはまだ生後数か月といったところの小さな赤ん坊がふたり、一枚の布にくるめられて寝かされている。
「しょーがねーな」
そう言って、少年が己の袖を破いた。もともとあまり強靭な生地ではなかったのか、紙を破くような容易さで着物が裂けていく。小さな布切れ二枚を、ナガメはそれぞれの赤ん坊に巻いてさるぐつわとした。
(だ、大丈夫なのかなそんなことして……おしゃぶりじゃあるまいし、苦しいんじゃ)
異を唱えようにもこの映像はすでに過ぎ去った記憶、変えようのない出来事である。どこの誰の赤ん坊が山奥に捨てられていようと、助けてやることは叶わない。
にわかに空気が震えた。直前、ナガメは己の呼吸を鎮めたようだった。
猛獣の気配に反応したのだ。夜の山に赤ん坊が置き去りにされていて、近隣の肉食獣が興味を抱かないわけがなかった。
「また来たのか」
闇の向こうから威嚇してくる野生動物にまったく引けを取らずに、ナガメの発した声は底冷えしそうな迫力を有していた。しばらくして、猛獣の足音は遠ざかっていく。
(「また」……?)
慣れた様子で、少年は歯と歯の間から鋭い呼気を吐き出していた。こうして赤ん坊たちを脅威から守ったのが、まさか今夜が初めてではない――?
疑問の答えは、少しずつほどかれていった。
夜が更けると新たな来訪者が現れ、赤子のおむつを替えたり体を拭いてやったり、粥のような食事を与えてやったりと手厚く世話をした。その男性が穴に近付くよりずっと以前に、ナガメはさるぐつわを取り除いて己の身を木の上に隠していた。
もっとも驚くべきは、男性が別の赤ん坊を背負ってきたことだった。帰り際にその子を置いて、ほかのどちらかを入れ替えに持ち帰っていく。
これが毎晩続いた。男性の妻であろう女性が来ることもあった。
(村にいてはいけない子供を、こっそり生かしてるみたい)
それをナガメは邪魔をするでもなく手伝うわけでもなく、時々やってくる肉食獣を追い払うだけして見守っていた。
けれど何故だか子の両親を見下ろすナガメの心情には蔑みが――否、怒りが――含まれているように感じられた。
そういえば順不同だった、と次の場面に移り変わった時に思い出した。物置のような狭い小屋の中は、血管が凍りつきそうな寒さだ。もしかしなくても季節は冬である。
数分おきに木板を叩く風がいやに激しく、唯美子は竦み上がりそうになる。けれど記憶の主である少年は恐怖どころか寒さも感じていないらしく、それどころか燃え上がりそうな怒りを胸の内に宿していた。
こんなに激情することもあるのかと唯美子が驚いていると、向かい合っている青年もまた、同じ感想を漏らした。
「お前でも怒るんだな、蛟龍」
「そっちがくだらない理由でしにそうになってるからな」
ナガメが苛立たしげな早口で応じる。ラムは苦々しく笑った。
小屋の中は真っ暗だが、ナガメは夜目が効くため簡単な輪郭以上の映像が網膜に映っている。水田を歩いていた健康的な青年の面影は今やほとんどなく、痩せ細って皮膚と骨しか残っていないような儚い命が目の前にあった。
(どうして……それにさっきから気になってたけど、この臭い……)
まるで何日もここに閉じこもっていたような――。ただし閉じ込められていたのだとすれば、ナガメはどうやって小屋の中に入ったのだろう。
ラムは座っているだけでも億劫な様子だったが、物置きは散らかっていて、横になれるようなスペースがなかった。壁に背をあずけるのが精いっぱいだ。
「くだらない……か」
「そーだよ。なんでお前がこんなとこで朽ちてやんなきゃなんねーんだ? ぬれぎぬだし、ばかばっかりだし、逃げるなら手を貸すっていったじゃん」
「ありがとう」
「だー! 礼は言っても、来る気はないんだろ」
ラムは今度は「ごめん」と小さく笑った。
「罪を認めれば領主さまのもとで裁かれる、逃げたなら罪を認めたと同じ、それか無実の主張を貫いて餓死するしかない。選択肢をぜんぶ検討したうえで、僕はこうするのが一番だと決めた」
「納得いかねー」
「……あの人は、決して名乗り出ない。せめて僕ひとりの口減らしができるなら、結果、村のためになるだろう」
「そこがいちばん納得いかねー。なんで、ラムがしんでやんなきゃなんねーんだ。逃げていきのびればいーだろ? べつの村にいけば? 最悪、ひとりで野に生きてればいいじゃん」
「別の村に辿り着いても、領主さまからお触れが出るはずだ。どこまで逃げれば安息がある? 前にも教えただろう、人間は社会がないと生きていけない。孤独に生きるくらいなら、僕は民家に囲まれて死ぬことを選ぶ」
「わっけわかんねーよ! 生きてればそれでいいじゃん。生きてる以上に、なにがそんなにだいじなんだ」
ふしぎだ、とラムは静かに呟いた。
「永遠のような生を送る化け物が、生きることそのものを至上とする――生きていることを、誇りに思うんだな」
「…………」
「きっと人間は、どうしようもなく欲張りなんだ。息をしているだけじゃあ物足りないと感じてしまう――……蛟龍、僕は」
消え入るような声だった。ナガメはしゃがんで続きを待った。
「この村に感謝している。未練や悔いはあるし、悲しいと思うこそすれ、恨めしいという感情は少しも無いんだ」
おうむ返しにナガメが「感謝な」と囁いた。
「わからない感情だ」
「わかりたいか? 初めて会った時と比べて、今のお前は、人間にもっと細かに興味を持っているように見える」
少年の表情筋が動いて、むっとした顔をつくった気がした。しかしラムには見えていなかったのか、言及されなかった。
「身ひとつでこの国に着いたばかりの頃、右も左もわからなくて、言葉もしゃべれなくて、どんなに不安だったか。村人たちが見つけて受け入れてくれたおかげで僕は、毎日……屋根の下で眠れて、温かいご飯が食べられた。幸せだよ。十何年もの間、ずっと、幸せだ」
ナガメは何も答えず、ただ嘆息した。会話が途切れ、風の音ばかりがしつこく響く。こんな状況では満足に眠れるはずがない――。
ふと、ラムの言葉が過去ではなく現在形であることに、唯美子の意識が向いた。
「蛟龍……お前も長いこと、よく僕の平凡な人生に付き合ってくれたものだな」
「こんなん、まばたきの間ですらねーよ。もっとつきあわせりゃいいのに」
「……感謝してる。もうお前がこの国に留まる理由もなくなるな……最後に頼まれてくれないか」
「やだ」
食い気味に答えて、ナガメはそっぽを向く。
(なんてもったいない!)
友と過ごせる限られた時間だというのに。穏やかに過ごしたいと、彼は思わないのだろうか。こんな時、最期の願いを、叶えてやりたいものではないのか。しかしナガメが自分で明確に「友」と口にしたわけでもないので、こちらが勝手に親しい間柄なのだと勘違いしているのかもしれない。
(それにこの拒絶の仕方はどっちかというと、認めたくないみたい)
大切な相手がいなくなるのだと信じたくないがために、話題を全面的に否定してしまう心理だ。唯美子自身は逆にできるだけ相手に尽くしたくなるタイプだが、母辺りは、こうだった気がする。
結局、風景が中途半端なところで崩れてしまい、続きを見ることはできなかった。
次の場面は一室を見下ろすようなアングルからだった。
だが遠近感がおかしい。というより視界そのものが不明瞭で、色彩が極端に少ない。待てども、ナガメ自身が動こうとする気配がない。
なんとか慣れない映像からヒントをかき集めようとした。
体の感触にも違和感がある。まるで全身が触覚になっているような、座っている時よりも「地面」に触れている表面積が多く感じるような――温度情報に敏感になっている気がして、そこでようやく思い至る。
(これって蛇バージョンなのかな)
蛇と言っても既存の枠からはみ出た身だ、ナガメの五感はたぶんかつて同種だった蛇よりも優れているのだろう。視界はやがておぼろげながらちゃんと形を成し、聴覚も人の声を拾い始めた。
男性と男性が囲炉裏を挟んで何かを言い争っている。若い方の男性の糾弾を、年上の男性が頑なに受け付けない感じだろうか。泣き喚く赤ん坊をあやす女性が、不安そうにふたりを見比べている。
言い争いはこの場では解決されなかったのか、ついには年上の男性が立ち上がって出口を指さし、もうひとりの男性を追い出した。
「ねえあんた。あのひとはあれで、ごまかせたのかな」
女性の問いに、男性は舌打ちした。
「だめだろうな。なんでばれたかわかんねえが、おれたちが蔵のもんをとったって、知ってやがる。ほっといたら告げ口すんじゃねえか」
「どうしよう!」
女性がわっと泣きだした。それを夫らしき男性が「騒ぐな! 近所のやつらが不審がる!」と怒鳴りつける。
(この夫婦、山に来てた……!?)
自分の背筋でもないのに、スッと冷えたような感覚があった。これが古い時代なら、きっと双子が忌み嫌われていたはずだ。双子どころか三つ子となれば、村の者からひた隠しにしなければならないのも致し方ない。
聞けば、真実を唯一知っていた産婆が流行り病で死んだため、夫婦は自分たち家族に運が向いていると考えたらしい。なんとかこっそりと子供を育てようとしたが、さすがに三人分の乳を出し続けるには授乳の頻度が足りなかったし、母親の疲労も著しい。
(かわいそう――)
同情しかけた次の瞬間、耳を疑うはめになった。
「なすりつければいいんだ」低く、泥の中を這うように笑って、夫が提案した。「そうさ、告げ口される前に告げ口してやりゃあいいんだ」
「そんな! 村のみんなにうそをつくってのかい。あんないいひとに、そんなひどいことできないよ!」
「きっとみんな信じるさ。それともなにか、おめえはわっぱの命より縁もゆかりもねえ南蛮人がだいじだってえのかい」
「そうじゃないよ……でもラムさんは何年もいっしょに畑で汗流した仲間じゃないか……」
「わかってる。背に腹はかえらんねえだろ」
話はなおも続いたが、妻の説得が夫に届くことはなかった。
(ナガメはこうなるって、いつから予想してたのかな)
しゅるり、小蛇の体は屋外へと進み出る。
地面にまで下りて、草の隙間を縫っての進行に移った。次にどこへ向かうのか、皆目見当がつかない。
外は薄暗かった。
(時系列で言えばさっきの場面より前、でいいんだよね)
木陰でナガメの進行が止まったかと思えば、形容しがたい感覚が全身を包んだ。
超高速で、あるはずのものがなくなって、あったものに替わって何かが浮かび上がっている。自分自身が、元の場所から脱していくようだ。
数分して、曖昧にしか掴めなかった周囲のイメージが鮮明になっていく。足元を見下ろすと、小さな蛇が脱皮した抜け殻があった。それをナガメは感慨なさげに踏みつぶす。
「ここにいたか」
突然かけられた声の源をたどると、息を切らしたラムが、いつぞやのように大股で駆け寄って来ていた。彼は流れるような慣れた動作で、自らの羽織っていた上着をナガメに譲った。
「外で変化したら寒くないか」
「へーき」
「だからって全裸で歩き回るな。誰かに見られたら、」
「わーってるって」
幾度となく繰り返されたやり取りなのか、ナガメは煙たそうにする。少年の体には明らかに大きすぎる着物になんとか帯を締めて、再び顔を上げた。
「で、なに」問われた青年は目に見えて怯んだ。きっと言いにくいことだろう、唇が微かに震えている。「てかなんつー顔してんだ。おまえ、なぐられたんか?」
その言葉で、唯美子はラムの顔を二度見した。すると片方の頬が、最初に目に留まらなかったのが不思議なくらい、すごいことになっていた。顎まわりが腫れてあざができ始め、口元には血がついている。
「そうだ。歯も一本抜けてしまった」
「うわーヒサンだな。ただでさえオトナの歯は生え変わらないんだろ」
「……どうして蔵の食べ物を盗んだんだって、あのひとに事情を聞こうとした。でも取り合ってもらえなかった。自分はやってないの一点張りで、しまいには激昂して……このザマだ」
「なにやってんだよ、ばっかじゃねーの。犯人がスナオにやりましたってふつう認めるわけないじゃん」
ナガメは青年の脛辺りに軽い蹴りを入れる。ラムは短く呻いた。
「返す言葉もない。僕はお前の証言を信じてるけど、あのひとが目を合わせて否定してくれれば、そのまま受け入れようと思っていたんだ。だけどかえって不信感を抱いてしまう結果になった」すっかり意気消沈したような、悲しい苦笑を浮かべる。「教えてくれないか。お前は動機を知っているって、前に言ったな」
知ってる。肯定を述べて、ナガメはぽすんと草の上に腰をかけた。隣の位置を手の平で叩いて、ラムにも座るように示した。青年は神妙な面持ちで応じた。
それから少年は語る。
これまでに見聞きしたすべてを。三つ子を産んだ夫婦の抱える秘密と、その代償を。最後に彼らの悪意の向いた先についても、淡々と伝える。
当事者となってしまった青年はまず驚きに目を見開き、表情を曇らせ、そして深く頭を垂れた。
「話してくれて、ありがとう。蛟龍」
一言一句、重いものを引きずるように、彼は口にした。
「ん。これからどーすんの」
胸中に巣食う心配を声に出さないのは努めてのことなのか、それとも自然とそういう仕様なのか。ナガメは足元の草を片手でぶちぶちと引き抜きながら返事を待っている。
そんな折、唯美子は思い返した。水田でラムを見送った際の独り言を。
(責められない……きっと同情する)
かくして、憂えていた展開に繋がったわけだ。
「どうもしないさ。どうしようも、ないことだ」
ナガメが俯いていたため表情は見えなかったが、答えたラムの声は穏やかだった。
「ほんとばっかじゃねーの」
――ぶちっ。
ひと際大きな音を立てて、草の束が根ごと大地から引っこ抜かれた。
*
他者の記憶をたどる旅が中断された。まだもやのかかった頭で、なんとなくそれだけは理解できる。
夜中に細かい物音で起こされるような浮遊感があった。人工的な灯りが照らす室内は明るく、目が慣れるまでに何度も瞬きをしなければならなかった。あの三人組の女性客は既に立ち去った後なのか、それらしい影が見当たらない。
ふと唯美子の耳に剣呑なやり取りが届いた。意識が呼び戻された外的要因はこれか、とゆっくり上体を卓から起こす。
「てめーはいつも面倒ごとおしつけるな。大物相手ならさいしょからそう言え、よけーな体力つかわせやがって」
「おや、あなたほどの個体に『余計な体力』という概念があったとは驚きです。もしや苦戦したんですか? いい気味ですね」
「狸のくせに狐みたいな顔すんだなー」
「それより水を滴らせながら店内を動き回らないでいただきたい」
「なんか拭くもんくれ」
手ぬぐいが宙をよぎったところで、ちょうど唯美子の目の前がクリアになった。出かけた時と同じ、十六歳ほどの少女の姿をしたナガメが、乱暴な手つきで髪を拭っている。
(この姿も知ってるひとを写したのかな)
段の入ったショートヘアやほっそりとした手足、上下が完全にコーディネートされたパステル色のふわふわとしたブラウスとスカートが、あまりにも調和が取れている。かなりの美少女と言えよう――
片足を椅子にあげていなければ、の話だが。いかに見た目が可憐そうでも、中身まで擬態する気がないのかもしくはこの場は織元の目しかないのでスイッチを切り替えているのか、ナガメはやはりナガメだった。
「戦利品の提示をどうぞ」
「おう」
促され、少女は胸元に手を突っ込んだ。そんな真似をしたら襟元が伸びてしまう――唯美子は制止の声を出しそうになり、思いとどまる。
(ほとんどの服も擬態だって言ってたっけ……って、わっ!)
ブラウスの下からにゅっと現れたのは、干からびた手に似た何かだった。正直、見つめていて気分の良いものではない。だというのに美丈夫もまた、何でもなさそうに干からびた手首を着物の内にしまっていく。
「確かに受け取りました、これにて依頼完了とします。ご苦労様でした。報酬は食糧と金品のどちらにしますか」
「んじゃ、今回は金目のもん」
「了承しました」
ビジネスめいた会話が終わると、こちらに気付いて、ナガメが軽く手を振りながら近づいてきた。かと思えば怪訝そうに片眉を捻った。
「なんでゆみ、泣きそーな顔してんだ」
「え?」
無自覚のうちにどんな顔をしていたのか、確認のため己の表情筋に手を触れてみる。それでもよくわからなかった。泣きそうと言われても泣いていたわけでもないらしく、頬は濡れていない。
もしも悲しい顔をしていたとすれば、きっと先ほどまでに辿っていた過去の像を想ってのことだろう。そのことを詳しく語るのは憚られる。
「ところで」音もなく織元が傍まで歩み寄ってきた。「風呂を沸かしてあります。お使いになりますね? いっそのこと、ふたり一緒に入りますか」
「それはだめ!」
半ば条件反射で否定するも、はたとなって現在のナガメをまじまじと見上げる。見られている当人は、きょとんとした表情で長い睫毛を上下させた。
どこをどう見ても女性でしかない。では何故、揃って風呂に入るのがだめなのか。彼の中身を異性と意識しての反応かもしれないが、そこでもまた疑問が沸き起こる。この異形のモノは異性と思っていいのだろうか。今更ながら、蛇であった頃に雄だったと明言されたことがない。
「……まさか小さい頃に一緒に入ったことがあったりする?」
「じょーだん。湯はむかしから苦手だ」
滑らかそうな女子の手をひらひらと振って、ナガメはあっさり否定した。
「そうなの? わたしのアパートで入ってるのはお湯じゃないの」
「冷水にきまってんじゃん」
「えぇ……寒いよ」
想像してみたら遅れて身震いがやってきた。どこまでも彼は唯美子の当たり前の感覚とかけ離れている。だがひそかに、一緒に水を浴びたことがないというその答えに安堵した。
気が抜けたらふいにくしゃみの衝動に襲われた。風邪をひいてしまう前に、風呂には入っておくべきだ。
「お言葉に甘えて、わたしは浸かってくるかな」
店の裏に居住スペースがあるらしく、奥に案内された。店を後にする時に目に入ったアナログ調の壁の時計は既に七時を回っている。夕食はいつも何時くらいなのかと問うと、「あなたの望んだ時が食事時です」などと曖昧な答えが返ってきた。彼もナガメ同様、毎日食べなくても平気なのだろうか。
まとまりのない思考で風呂に入り、芯まで温まって、ぽかぽかとした気分で上がった。心地良い眠気を迎えつつ、持参していた寝間着に着替えた。
廊下に出ると、壁に背をあずけて織元が待っていた。縦縞の入った揃いの浴衣と羽織を纏い、髪をゆるく三つ編みにしている。
「ヒヨリ嬢の古い衣服を見つけたんです。背丈もあまり違わないようですし、差し上げます」
「ありがとうございます。おばあちゃんの服、持っててくれたんですね」
丁寧に折りたたまれた着物の束を受け取る。
「元より、返す機会を逃したもので」織元は薄明かりに艶美な笑みを浮かべた。「では客室に案内いたします」
彼の足取りに応じて、ぎ、と一度だけ床が軋んだ。
家に漂う木材の匂いにどこか懐かしさをおぼえながら、唯美子は廊下を進んだ。あとは柔らかい布団に飛び込めれば言うことなしである。
織元の手がスッと襖を開ける。明るくなった視界に慣れようと、唯美子は目元に手をかざした。
部屋の中には先客がいた。畳の上に仰向けに寝転がる子供は、分厚い本を手に持って唸っていた。
その少年の姿を認めて、唯美子の心臓は小さく跳ねた。
「いかがですか、その小説。結構面白いでしょう」
「んにゃ、ぜんぜん読めねー」
「いい加減、平仮名と片仮名をおぼえたらどうです」
「どうやって」
「誰かに教えてもらいなさい」
織元はそっけなく答えた。立候補をするつもりはないようだ。打って変わって、笑顔で唯美子に向き直る。
「すぐに食事をお持ちします。食べられないものがありましたら、教えてください」
「ありがとうございます。食べられないものはたぶんないです」
「わかりました。ではしばらくお待ちください」
彼は会釈してその場を後にした。
(至れり尽くせり……)
唯美子ひとりのみのためのルームサービスとなれば、いよいよ先ほどの懸念が現実味を帯びてくる――彼らには食卓を囲う習慣もなければ、その必要もないということだろう。
ついでに言って、部屋の隅に用意された布団は一組だけだった。
(そこに面白い意味は一切ないんだろうけど)
ドラマなどで旅館のスタッフが「あとは若いお二人で」と気を利かせるのとはわけが違う。ナガメはどんな場所でも寝るので布団を用意しなくてもいいだけの話だ。彼は寝心地の良し悪しに頓着したためしがない。
むろん、知り合ってこれまでの月日、同衾した回数はゼロである。
荷物を置いて座布団に腰を落ち着かせると、静まり返った空気が気になってくる。この家にはほとんど生命の気配が無いような気さえする。
「織元さんの家って、ほかに住んでるひといないの」
「僕ならいるぜ。ふだん地中に潜ってるみたいだから姿をみかけたことねーけど」
手元の本を未だ睨みつけたナガメが答える。
(地中かぁ。盲点だったな)
おもむろに足元に目線を落とした。白い靴下をはいた己の足の下に、畳が敷かれた床よりずっと下に、未知の世界が広がっているという。
「『自分の知る世界が、世界のすべてではない』」
「んー? なんだそれ」
「どこかで聞いた言葉……意味はたぶん、自分が日頃意識している世界以上に世界は広いんだって感じじゃないかな。わたしにとってのナガメたちは、まさに知らない世界の有無を意識させる、ふしぎな存在だよ」
「しらないと、どうなんだ」
――こわいよ
ひと呼吸の間をかけて迷ったが、結局言い出せなかった。
ひゅるり、冷たく湿った風が部屋を吹き抜ける。何かに追い立てられたように、二匹のトンボが慌ただしく飛び込んできた。窓が開け放たれている点に、唯美子はその時はじめて気が回った。
寒いから窓を閉めてもいいかと訊ねる。どーぞー、と興味なさげな返事があった。
夕食を待つ間が手持ち無沙汰だ。床に座ってスマホを弄っていると、衣擦れの音がした。
ナガメが本を持ったままごろごろ回転している。よく目が回らないものだ――漏れそうになる笑いをこらえて、声をかける。
「ひらがなとカタカナ、わたしでよければ教えようか」
回転が止まった。かと思ったら小さな背中が反転した。転がりすぎたのだろう、いつしか紺色の浴衣が大きくはだけてしまっている。そこから覗く胸元の皮膚は鱗に覆われていた。一日に何度か変化すると段々と粗が目立つようになるものらしい。
浴衣だけでも直してやりたいが、訝しげに細められた双眸に躊躇した。
「なんで? ゆみ、別にひまじゃねーんじゃん」
「暇かどうかじゃなくて、わたしはきみが日本語が読めるようになったらいいなって」
「なんで?」
同じ質問が繰り返された。どう答えたものか、唯美子はやや首を傾げて言葉を探した。
「知らない世界が開けた時の感動を、味わってほしいから……? そういうのって、傲慢かな」
「ぬー」
少年は本を閉じて四つん這いから起き上がる。分厚い小説のタイトルは「籠城の果てに慟哭」だった。いったい織元は彼に何を読ませようとしているのか。
「昔、ナガメがわたしにひとつの感情を手放してみろって言ったよね。その逆かな。いろんな気持ちを取り込んでみたら、面白いんじゃないかな」
「あったかいフトンってやつで眠ってみたいとおもったことならある。そういうのはアリか」
「いいね! あったかい布団、いいと思うよ」
唯美子は手を叩いて賛成した。手軽に叶えてやれるリクエストだし、新しいものを発見する感情は、どんなにささやかな挑戦からも得られるだろう。
「……でも何百年も生きてるのに温かい布団が未体験って、ちょっと信じられないね」
「それはほら」
「!?」
少年は一瞬で唯美子の腕の中に飛び込んでくる。勢い余って後ろに倒れると、まるで出番を待ち受けていたかのように布団一式がそっと受け止めてくれた。
しゅふん、と微かな音を伴い、ふたりして沈み込む。
腹の上にかかった重みに戸惑った。水辺を思い起こさせるほのかな匂い。小柄な体は、相変わらずぬるま湯といった程度のぬくもりだ。
「じぶんじゃほとんど産熱しないから。ただフトンにくるまってもあったかくなんねーんだな」
「擬態でも一応、体温はあるんだよね」
「恒温動物のまねしてな。たべたものを熱に変えて血を皮膚にめぐらせて……燃費がわるくてやってらんね」
哺乳類ならば内臓も一定の体温で保たなければ生きていけないはずだが、そのぶん一日に何度も食事を採らなければならない。ナガメの食事頻度では人間の基準である三十六℃に届かないのもうなずける。
「えっと、じゃあ一緒にくるまってみる? わたしの体温でよければおすそ分けするよ」
おそるおそる言い出してみた。
みる、と言って唯美子の胸にうずくまっていた頭がひょっこり持ち上がる。
(わるい顔)
茶色の瞳が光ったように見えたのは、天井の丸型蛍光灯を反射したからか。
「なんでかな。誘導された気分だよ」
「へへ」
軽やかで気持ちのいい笑い声が返ってきた。
いざ消灯する時間になり布団の中で腹這いになって肘を立てていると、浴衣を着たままのナガメ少年が隣に潜り込んできた。闇の中でスマートフォンをいじる唯美子をじっと見つめる。
観察されている、ふとそう意識した。
小学生がダンゴムシにするように、生物学者が研究対象にするように。微かに黄色の輪を描いて光った双眸は、画面ではなく唯美子自身の動作を追っていた。
気になるのでやめてほしいとも何がそんなに面白いのとも訊けなかった。温かみをまるで感じさせない無機質な視線に気圧された。何かを探しているようだとも思った。
誰かに送ろうと思っていたはずの他愛ない言葉を忘れてしまい、画面の上で指を宙におどらせる。
――ヘンな感じ……。
いつかの彼も、こんな風に至近距離から覗き込まれたことがあったのだろうか。知りたい。知りたいが、どう切り出せばいいかがわからない。
「ゆみさー」
「はいっ!?」
耳にかかった息に飛び上がった。考え込んでいて、接近されたことにまったく気が付かなかった。
「ずっとなんか言いたそうにしてるけど、なに」
こちらが言葉を選ぼうとしたのに対してなんてダイレクトな訊き方か。数秒ほど唖然となったが、気を取り直して咳払いした。
「織元さんにね。見せてもらったというか見せられたというか、不可抗力だったんだけどわたしも拒んだわけではなく……あの」
喋り始めてから段々としどろもどろになる。ため息をついて、スマホを枕元に置いた。
画面を消し忘れたため、ブルーライトが暗闇を頼りなく照らし上げている。
冷ややかな青い光が不思議と少年によく似合う。
ヒトではないモノを相手取るのがどういうことか、何度考えても自分はやはり理解できないような気がする。けれど――ナガメ単体を理解したいと願うのは、本心だ。
「きみの過去を少し見たよ」
「へー」
瞬きすらない、平淡な応答。
「驚かないんだね。頭の中? を覗かれるのって、嫌な感じがしないの」
「みられてヤなもんをわざわざ狸にやらねーし」
「な、なるほど」
あっけらかんとしすぎていないか。唯美子は拍子抜けした。
「んで、それがどーかしたか」
「あのね。できればナガメの口から聞きたいんだ……ラムさんって、どんなひとだった? きみが一番使いまわしてるふたつの姿は、あのひとを模したんだよね……?」
質問の内容にも驚いた様子はなかったが、答えるまでに意外なほど長い間があった。やがて、スマホの明かりがフッと消えた。
どんなやつかー、と少年は短く唸る。
「いつもは押しが弱いくせに、しょーもないとこでガンコ。潔癖? そんで昔はなきむしだったな」
「うん」
彼の言う「昔」がいつを指すのかよく掴めなかったが、唯美子は相槌を返した。
「いっぱいあそんでくれた。いいやつだった」掛け布団を頭から被ったのか、布が擦れる音の後、言葉が途中からくぐもって聴こえる。「もっと、あそべたのに」
言葉尻に向かって早口になっていた。
あのひとの結末は、思っていた通り、明るく幸福ではなかったのだと察する。
(どんなに経ってようと辛いものは辛いんだ)
嫌なことを思い出させた罪悪感に、とにかく慰めなくてはと慌てる。逡巡してから、布団の盛り上がりにそっと手の平をのせることにした。
一転して、気が付けば布団の中に引きずり込まれていた。
己の右手首の方を見つめた。暗がりで何も見えないが、確かに巻き付いたぬくみが――細い指が、あった。
「もっときくか」
「きみが話したい分だけ、わたしは聞くよ」
それから続いた間が数秒だったのか数分だったのか、正確なところはわからない。ただその間ずっと、小さな手から力が抜けることはなかった。
「…………ハカを」
「え?」
ハカオとは何だろうと首を傾げると、ナガメは静かに続けた。
「すげードラマじゃあないし、たぶん特別でもなんでねーんだけど。おいらが――」
――ニンゲンに墓を建ててやった話をしよう。