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ゆみとミズチ  作者: 甲姫
第三章:しまわれた幻像
7/9

3-1.

 山奥の茶屋から日没を眺めていた。向かいの席には大層うつくしい男性、その横顔は、暮れ行く太陽の最後の熱気を受け取るかのように赤く染まっている。

 映画のワンシーンのような光景――それに、唯美子は見惚れるよりも落ち着かなさをおぼえていた。

 肩よりも長い黒髪と目の上にひいた朱色が印象的な男性は、逆に肌が陶磁器のように白かった。彫りが深く端正な顔の中にある黒目は意外に大きく、丸みを帯びていて、可愛らしいと言えなくもない。

 自らを織元と名乗った男性は銀鼠の着物を着こなし、湯飲みを片手でもてあそびながら頬杖をついている。深い物思いの最中なのかわからなくて、唯美子は声をかけづらい。そもそも共通の話題と言えば、彼を狸野郎と呼ぶナガメだけだ。

 当のナガメはこの場にいない。茶屋に着くなり、織元に「近くの温泉からバケモノ払いの依頼が入っています。即刻行ってきてください」と送り出されたのである。しかも出るのは女湯らしく、ナガメはご丁寧に若い女子の擬態をしてから出発した。

「ユミコ嬢」

「え、あ、はい」

 にわかな呼びかけに狼狽する。

「お茶のおかわりはいかがですか」

 滑らかな声だ。はちみつの海をたゆたうような、撫でられる猫が出す声のような。男性が微笑むと、大きな目がやさしく細められた。ドギマギせずにはいられない。

「じゃあ、いただきます」

「ええどうぞ」

 織元はふわりと腰を上げ、優雅な仕草で急須を傾けた。湯気と共に、ほうじ茶の芳醇な香りが鼻孔を通り上がる。

 再び席に腰かけて、織元は破顔した。

「やはり、ヒヨリ嬢の若い頃の面影がありますね。こうしてお会いできてうれしいですよ」

「わたしもおばあちゃんが師事した人に会えて、うれしいです」

 そう返せば、彼はくすくすと上品に笑った。そういえば彼は人ではないのかもしれないと唯美子は遅れて気が付いた。

「型だけです。もともと才能のある娘でしたので、基本だけ教えたらあっという間に伸びたものです」

「そうでしたか」

「時にユミコ嬢、ミズチはどうです。迷惑をかけられてはいませんか」

 話題を変えた途端、織元の柔らかい雰囲気も一変し、わずらわしいものを思い浮かべる顔になった。

「迷惑だなんてそんな。いつも助けられてます」

 唯美子は両手を振って否定するが、織元は胡乱げに応じる。

「本当に? あの者は長く生きていながら他者とあまり関わってこなかった弊害で、気配りなどまったくできませんし。何かあったら遠慮なく相談してくださいね」

 そう言って彼はスマートフォンを取り出して番号交換を促した。この浮世離れした山奥の茶店の主人は、見た目に反して現代的であった。電波が届くのも驚きだ。

 連絡先をお互いに登録すると、唯美子はひとつ訊ねた。

「ミズチとは知り合って長いんですか」

「あの者がこの国に来てしばらく経ってからですね。百五十は超えますが、おそらく、二百年に満たないかと」

 唯美子が無言で驚愕している間、織元は茶をのんびりとすすった。

「そんなに経ってるんですか。あれ、彼は自分のことを五百年とちょっとを生きてるって言ってたから……何歳くらいで日本に来たことに……?」

 織元は意外そうに眉を吊り上げた。

「五百? ああ、あの者はサバをよんでいますよ」

「えっ、どっちにですか」

「実際に生きた年数はもっと多いはずです。大雑把さゆえにおぼえていないだけとも考えられますが、私の推測では、別の理由があるように思います」

 ふう、と織元は湯飲みの縁に息を吹きかけた。数秒の沈黙の後、話を続けてくれる。

「千五百年を生きた水蛇はおのずと龍に昇格します。周りに感付かれれば面倒だからと、なるべくごまかそうとしているのかと」

「龍に……」

 例によって実感の沸かない話だった。

 いわく、水蛇は五百年で蛟に、さらに五百年経て龍になれるらしい。そこから五百年、また千年生きればより上の階級に進めると言うが、いずれも龍神である。蛟とは龍神の幼体なのだ。

「少なくとも必要な齢の過半数は重ねているはずです。水神には、眷属になりたがるモノ、利用したがるニンゲンなど、お呼びでなくても勝手に集まってくるものです。どんなにうまく隠しているつもりでも、必ず誰かが気付きます」

 織元の言を追うように、橙色の葉っぱがどこからかひらひらと舞い降りる。何気なく目で追っていたら、織元の長い指がぱしっとそれを捕らえてみせた。そのまま口元を覆い隠す。一瞬、葉を食べる気なのかと思った。

「掛かり合いたいと願いますか。あなたは人の身ひとつで、畏敬すべき異形に、つながりを持ち続けてもいいのですか」

 遠回しに何を訊かれているのか、察しがついた。安易に頷かずに、唯美子はゆっくりと返事を組み立てる。

「わたしは、ミズチと関わり続けていたいです。でも、彼以外の未知の脅威と向き合えるかは自信がありません。そのためにあなたを訪問しました。わたしの……体質? をどうにかしてもらいたくて」

 みなまで言わずとも祖母の師たる彼は知っているのだろう。ナガメも事前に話を通していると言った。

 果たして、織元は朱に彩られた瞳を思慮深げに細めた。それから木の葉を口元から取り除いて、薄い唇を開く。ひとつはっきりさせたいのですが、と切り出した。

「どうにかする、とは、あの者との思い出を再び忘却の彼方へ追いやることと同義です」

 衝撃だった。期待した答えではなかった。身を乗り出して、抗議する。

「そんな! 改めて相談しに来たくらいだから、おばあちゃんのかけた術とは違う、ほかのやり方があるものかと」

「ええ、この機に改めて検討しました。結論は同じでした。あなたの我々への『認識』が封印をほころばせる。ではミズチにニンゲンのふりを徹底してもらって、あなたからも我々への認識を引き抜くのは、どうか」

 唯美子をも欺き、人ならざるものであることを隠すなら――

「そう考えましたが、いま一度不可視の術をかけたとしても、あの者の残り香がうつってしまえば隠れ蓑は消滅します。解決たりえないでしょう」

「香りって、あの水の匂いみたいな……?」

「匂いと表現するのがもっとも近いだけで、嗅覚が感じ取れるそれとは別です。枠に収まらぬモノを察知する、直感のようなものと言いましょうか。あなたの、そう――我々の瞳がときおり光って見えるのは、そういう直感の表れです」

 織元は次々と仮定を積み上げていった。

 いっそのこと、ミズチ自身にも「己はニンゲンだ」と思い込ませる催眠と、彼にも不可視の術をかけてはどうか。それも厳しい。ほかの問題点をなんとかごまかせても、擬態に過ぎない体への違和感から自覚が芽生えてしまい、催眠は長くもたないだろう。

「それ以前に、あの子はそんな仕打ちに納得しませんよね」

 おや、と織元は唯美子の反論に目を瞬かせた。

「お気遣いなく。あの者からは、あなたの望む通りにするようにと言われています。極端な方法を用いても、承服するでしょう。けれど私の見解では、やはり記憶を消して、接触を断つ以上にうまいやり方はないかと」

「ミズチはこのことを」

「最初から全部、理解した上であなたをここに連れてきています」

 ――どうして話してくれないの。

 詰問すべき相手はこの場におらず、唯美子はやるせない気持ちを視線に込めて織元にぶつけることしかできなかった。それを受けた正面の彼は、不思議そうな表情で長い髪を結っている。

 彼らの性質、だろうか。

 ナガメが自由気ままに過ごしているのはいつものことで、悪く言えば自分勝手な性格だが、大事なことは話し合ってから決めると思っていた。その前提はしかし、友人や家族同士でも成り立たない場合は多い。どうして、頼まなくても彼がそうしてくれると思い込んだのだろうか。

 この関係はそもそも、いったい何であるのだろうか。

「こちら側からの厄にも立ち向かう覚悟で、我々と関わり続けてもかまいません。あまりお勧めできませんが。あなたはヒヨリ嬢の才能を引き継いでいませんし、また、見たところ『攻撃性』に欠けているようです。たとえば法術の修行をしてみても、実際に誰かに術を向けられるとは思えません」

「攻撃性……」

 男性の物腰は柔らかいが、歯にものを着せない言い方をする。曖昧な表現や嘘をつかれるよりはずっといい。妙な感慨を受けた。

「それが悪いこととは言いません。他者を傷つけられないのが、ユミコ嬢の特性であり長所なのですよ」

 ありがとうございます、と小さく点頭すると、織元は優しく微笑んだ。

「失礼。どうぞくつろいでいてください」

「はい」

 話し込んでいた間に、山道をゆったりと登る人影が現れていた。三人の高齢の女性客だ。織元は颯爽と彼女らの傍らに馳せ参じて、足の悪そうなひとりに手を差し伸べた。親しげに話すあたり、常連客のようだ。

 だが不運なことに、彼女らの到着と同時に小雨が降り出した。織元が客を小屋の中に案内する間、せめて使っていた茶器を片付けようと唯美子が立ち上がる。

(あれ?)

 急須に隠れて死角にあったのだろうか、その時になって初めて、古そうな小瓶が目に入った。

(なんだろう。織元さんのかな)

 もし大切なものだったら雨に濡れては困るだろう。そっと手の平で包んで、屋内に持っていこうと考える。

 俄かに視界が明るくなった。

 背後の天空を稲妻が駆け抜けたのである。

 遅れてやってきた轟音に驚いて、唯美子は大きく肩を震わせた。小瓶を取り落としてしまうほどに。

 転がりゆく小瓶を急いで追う。瓶は取っ手がない形であるため、妨げるものなくどんどん先を行った。ひょっとしてこのまま山からも落ちるのではないかと焦る。

 さすがにそんなことにはならなかったが、唯美子の見ている前で、瓶は樹の根元に激突して割れた。

(そんな……)

 落胆を胸に、瓶の残骸を覗き込む。大小さまざまな破片となって砕けてしまい、きれいに繋ぎ合わせて復元するのは難しそうだ。

 幸いにも中身は空っぽで――

 ――空っぽだったのか?

 唯美子の視覚は、立ち上る微かな霧をとらえた。雨粒が地面に弾けてできた霧ではないと断じたのは、色がついているように見えたからだ。

 己のうかつさに気付かずに、破片のひとつを拾い上げる。

「熱ッ」

 指が焼けるようだった。痛みに身じろぎをした一瞬の間に、破片は霧と化した。

 紫色の霧が渦を巻いて濃くなる。

 ――取り込まれる!

 悲鳴ごと、空間から切り取られたような感覚があった。


 次に意識が浮上した時には、肌を細やかに打つ水の感触が消えていた。

 雨が降っていない。それどころか、振り仰げば、多彩な雲が散らばる晴天だった。湿気や気温は秋というよりも春か夏に近いものがある、と唯美子は奇妙に思いながら辺りを見回す。

 そんなに長く意識を失っていたのだろうか。そもそもどうして意識が途切れたのだろうか。

 わけがわからずに一歩、二歩と足を踏み出す。

 眼前を覆い尽くす藪をかき分けると――

 まったく見覚えのない景観が少し坂下にあった。

 見渡す限りの、水田。

 等間隔に植えられた瑞々しい稲を包む水は穏やかで、明瞭に空の模様を映し上げている。時折響く蛙の鳴き声が、いい雰囲気をつくり上げる。

 美しい景色だ。美しいが、感心している場合ではなかった。

(え? え、なんで?)

 一気に混乱がこみ上げてきた。

(ここはどこ? いま何時? なんでわたし……さっきまで茶屋にいたはずじゃ)

 水田はひとりを除いてほぼ無人だった。ひとりの男性が、叫べばかろうじて声が届くような距離にいて、稲の様子を確かめていた。

 三角笠と丈の短い着物を着た青年だ。

(このひとに訊ねてみよう)

 体を動かそうとして、しかしうまくいかなかった。何度試しても、意識して手足を繰ることができない。さっきは歩けたのに、何故――?

 青年がこちらに気付いて、自ら近寄ってきた。

 そのことが、不思議とうれしかった。まごうことなき自分自身の感情と受け入れるほどに自然に、けれども心のどこかで、これが自分の心情ではないことを俯瞰して知っているようだった。

 おかしなことばかりだ。次いで藪から飛び出し、青年の元に行こうとしていた。

 彼が笠を右手の親指でくいっと持ち上げた瞬間、唯美子はふたつの意味で驚いた。

(ナガメ……!?)

 三角錐の笠の下から現れたのは、確かに見知った顔だった。新たに驚いたのは、その表情が怒っていて、或いは不機嫌そうに見えたからだ。ナガメのこのような表情を見るのは初めてだ。

 まるで別人のように、「人間臭い」顔だと思った。

 男性の唇が開きかけるのを認めた。

 かと思えば、視界がぐるんと反転した。気が付けば再び藪の中に戻り、身を隠すようにして、青年の様子を窺っていた。

「ラムさーん!」

 水田の向こうから呼ばわる声がある。女性の声だった。

「ハーイ、いま行きマス!」

 これはまた驚いた。確かにナガメと同じ声帯だったが、使い方がずいぶんと違った。喋るトーンはいくらか高く爽やかで、言葉の節々にぎこちなさが――訛りがあった。

 別人のようではなく、別人なのだ。

 ラムと呼ばれたナガメと瓜二つの青年は水田の間のあぜ道を駆け下りて、女性に向かって会釈した。

「この時期に田んぼ見ても気持ち悪いんじゃないの。ヘビがうじゃうじゃいるでしょ」

「そデスね。いぱい、います」

「まあラムさんはヘビ怖くないものね。それよりもねえ、ちょっと困ったことになってて」

「大丈夫デスか?」

「あのね……」

 離れているのに、二人の話している内容がよく聴こえた。

 女性の相談は、食物の蓄えが少なくなっていることにあった。ただでさえ毎年領主に年貢を納める量が多いのに、これでは村の皆が食べる分までなくなってしまう。何か心当たりがないか、怪しい動きをした者は見ていないか、そういう話だった。

 なんでも、このラム氏はよく蔵に入り込む小動物の退治を任されるらしい。他に出入りしている人間がいれば、いち早く目にするはずだった。

「わかりまセン。今度から気をつけてみマス」

「いつもありがとうねー」

 人の好い笑顔を浮かべて、女性は踵を返した。彼女を見送りながら、ラムはのんびりと手を振る。

 女性の姿が家屋の陰に消えるのを見届けて、彼はぐるりと身を翻した。

「――ガウロン!」

 ものすごい剣幕だ。大股で坂を駆け上がって来る。

「まだそこにいるんだろう、蛟龍ガウロン。出てこい」

 彼が口にしたのは耳慣れない単語だったのに、呼ばれたのだと何故かわかった。

(何語なんだろう)

 先ほどの女性と交わしていたのは間違いなく日本語だった。しかし今話しかけられているのは違う。言葉の意味は何故か理解できるが、音の羅列や抑揚の付け方に、未知の響きがある。

 藪の中から歩み出ると、唯美子は己の目線の低さにぎょっとした。ラムの腰辺りを見上げている程度である。

 そして口を開けば舌から転がり出て来たのは、相手と同じ言語だった。

「なにおまえ、なんかおこってんの」

「それだ。その姿でうろうろするなと言っただろう、過去の鏡像をみているようで気分が悪い。誰かにみつかったらどうするんだ」

 頭のてっぺんをはたかれた。瞬間的に痛かったが、怒りをおぼえることはなかった。

「えー? 弟ができたみたいだっておもえばいいんじゃん。おまえ、末っ子でずっと弟妹がほしかったって言ってたよな」

「そんな無茶な。何百年も年上の弟がいてたまるか。いきなり村人たちに紹介しても、不自然すぎる」

「ラムのいじわるー、懐がせまければココロもせまーい」全くやる気のない罵り言葉を吐きながら、ひと跳びで青年の背中にとりつく。「おいらに、小蛇の姿でいろってゆーんか。タイジされろってかー」

「別にそこまでは。もっとこう、違う動物に化けたらいいじゃないか。小鳥とか」

「でもなー」

 ラムの背中から水田の縁まで飛び降りて、しゃがみ込んだ。

 水面に映っているのは、前歯の欠けた少年。そこを嬉々として指さした。

「でもおいら、おまえのカオ気に入ってるし」

「…………」

 リアクションに困る、と言いたげな苦い表情で、ラムは額に手の平を当てた。

 ようやく唯美子は悟った。

 ――この幻は、記憶だ。

 どういう原理かはわからないが、おそらくナガメの記憶の中に囚われているのだろう。彼の経験した会話、事象をたどっているのだから、唯美子の意思で手足を動かせないのは当然だ。もしかしたら、あの小瓶に細工がされていたのかもしれない。

 そしてもうひとつ。今まで思い付かなかったのがおかしいくらいだ――

 ナガメの少年と青年の姿は、知っている人間をなぞったものだった。それ以外の擬態の精度が著しく落ちるのは、モデルとなった人物がいないからか。

 するとナガメとラムという男性はどういう関係であったのか。自然と気になってくる。

「なーなー、そんなことよりほかにききたいことあんじゃねーの」

 心の内を見透かされ、ラムは大きく嘆息した。

「そういう察しのいいところが全然子供らしくないんだ……蛟龍、やはり蔵の食糧をくすねているのが何なのか知っているのか」

 チッチッチッ、とリズムのきいた舌打ちを返す。

「何、じゃなくて、誰、のまちがいだな。しってるぜ」

「いったい誰なんだ!」

 村人の裏切りが信じられないのか、ラムはナガメの細い肩を掴んで声を荒げた。揺さぶられながらも、ナガメはのんきな声で名を答えた。

「あの人がどうして――いや、言わなくていい。僕が直接訊き出す。本人のあずかり知らないところで、交わすような会話じゃないな」

「そーか? いちおー動機も知ってるけど」

「やめておく」

 ラムは弱々しく頭を振って立ち上がった。

(誠実そうなひと)

 驚くべき印象の違いだ。この捉え方がむしろ逆か、ラムがオリジナルなら、ナガメが海賊版のようなものだろう。彼が真似たのは明らかに容姿だけである。

 立ち去ろうとする青年を、少年が呼び止めた。正確には草履の後ろを、かかとが離れた瞬間を狙って踏んづけたのである。ラムは盛大にたたらを踏んだ。

「げんきだせよー」

 そう言って着物の懐から何かぬめったものを取り出す。手の平に触れた感触は冷たく、感覚を共有している唯美子は、背筋を這うような気色悪さをおぼえた。だがそうであっても悲鳴は出せない。

「……また蛙をとってきたのか」

 振り返ったラムの表情に驚きや嫌悪は表れておらず、ただ呆れがあった。

「おう。蔵なんかにたよらなくてもたべものはそこらじゅうにあるだろ」

 それには、ラムは少し笑ったようだった。

「食糧難が気がかりで元気がないわけじゃないさ。蛟龍、お前は相変わらずだな」

「なんだよ。たべねーの?」

「焼けた時の匂いで周りに興味を持たれたら困る。この国はどうやらあまり蛙が食卓にのぼらないようだ」

「はあぁ、ニンゲンは気にするトコが多くてめんどくせーなー」

「仕方ない。前にも話しただろう、人間には群れが必要なんだ。嫌われたら困るし、少なくとも僕は居場所が欲しい。暖かいごはんや屋根のついた家を持っていても、安心して帰れる家じゃないと意味がない。人の気配を感じながら目を覚ましたいんだ」

「ラムはひとりぐらしじゃん。カゾクいないじゃん」

「隣の家から漏れる子供の声や朝餉の匂いがあるからいい」

「ふーん。おいらはひとりのが安心できるけどな」

 わからない、との内なる声が聴こえた気がした。

(ナガメには前者のふたつだけで十分なんだ。お腹いっぱい食べられて雨風にさらされないなら、それで満足なんだね)

 仲間や同族に囲まれた団らんをこいねがうことがない、個のみで完成された生物。生殖能力も備わっていないから伴侶を求める必要もない。それを唯美子が寂しいと思うのは、余計なお世話なのかもしれない。

(このひととは仲良さそうだけど)

 話しぶりからは旧友のような距離感が読み取れる。

 水に映った屈託のない笑みを思い出す。織元とは嫌々関わっている風に見えたナガメが、この青年には飛びついて近付いていったのだ。ラムの方も、異形のモノと知っていながら邪険にしない。

「おまえさ」

「ん?」

 深刻そうに話を切り出そうとする少年。対する青年は、三角笠の紐を結び直しながら、微笑を返す。

 ナガメが何かを伝えようとして躊躇したのが、わかった。

「……これからなにすんの? ひまならあそぼうぜ」

「残念ながら暇ではないな」

 遥か遠くを流れる薄雲を見上げて、ラムは頭を振った。

「んなら、やることおわったらあそんでー」

「家事や用事が終わるのが夜中だったら、さすがの僕も疲れて遊べないぞ。ちなみに具体的に何がしたいんだ」

「んーと、カエルとり……?」

「その手に持っているものは何なんだ!」

 鋭く突っ込んでから、ラムはハッとして辺りをきょろきょろと見回した。怒鳴ったのが誰かに聴こえなかったのか気にしているらしい。

「とにかく情報を提供してくれたのは感謝している。また今度、相手になるから」

「ほい。じゃーな」

以後イーハウ再見ジョイギン

 意外にあっさりと別れの挨拶を交わした。ラムの後ろ姿が民家の中へ消えるのを待たずに藪の中へ戻った。

「おまえにはせめられないだろ、あいつが。きっと同情する」

 ため息交じりの独り言。瞬間、唯美子には手に取るようにわかってしまった。

 ナガメはあの青年の未来を憂えていた。

 確かな予感をもって、心配、していたのだった。


     *


「――嬢。ユミコ嬢! お気を確かに」

 近くで呼ばわる美声が、意識を現実あるいは現代へと引き戻す。視界が明瞭になると、至近距離に織元の顔があった。長髪から滴る雨粒が唯美子の頬を打つ。

「あの、わたし、」

「よかった。戻って来られたのですね」

 彼が唯美子の身を襲った現象をしっかりと把握していることを、戻ってきた、の言い回しが物語っていた。問い質すも、織元はとりあえず屋内で話をしようと答えた。

 促されるままに屋内に入ると、そこでは先ほど見かけた女性三人組が歓談していた。通りすがりに会釈を交わして、唯美子は隅の席に腰を下ろす。

 織元から渡された手ぬぐいとしいたけ茶を手になんとか人心地がつく。けれど頭の中はつい先ほどまで見ていた白昼夢でいっぱいだった。

 まとまらない思考、次々と沸き上がる疑問。ざあざあと激しく降り注ぐ雨の音が、心のざわめきを余計に掻き立てる。

(いまどき年貢を収めてる地域なんてあったっけ? もっと昔の時代なのかな)

 知らない日本と、知らない彼。訊いたら答えてくれるだろうか。

 それとも二百年近くナガメと知り合っているという、ちょうどいま近付いてきているこの男性なら、答えを持っているだろうか。

「織元さん」

「はい?」

 彼が隣の席に腰を掛けてくるより早く、声をかけた。長髪の美丈夫は艶やかな黒目で見返してくる。

「わたし、気を失ってたんですか」

「そうですね。すぐ傍に落ちていた小瓶の欠片で、何が起きたのか察しがつきましたが」

「あの小瓶は何なんですか……あやしい術がかかってたんですか」

 言ってから、詰め寄りすぎたか、余裕のない訊き方だったかなと反省した。卓の上で乗り出していた上体をさりげなく引き戻す。

 ところが織元の方から距離を詰めてきた。互いに吐息がかかりそうな近さで、彼はフッと口角を吊り上げた。

「この茶屋では茶や菓子や茶葉のほかに、ちょっとしたサービスを提供しておりまして」

「裏メニューみたいな」

「ええ、そんなものです。私の本性を知らずとも『すこしふしぎな品揃えの店』とニンゲンたちの間にも噂が広まっています」

 目を輝かせて織元は語った。いままでに解決したトラブルや、処方した薬について。

「あの小瓶は試験的に作っているもので、いくつか試作品があるのですよ。対象の記憶を抜き取って、本人が意識していない細部まで磨いて顕現させる術です。本来、記憶とは断片の寄せ集めですからね。正確性が次第に落ちるのはもちろん、感情との結びつきによって意図せず改ざんされることもありましょう。紡がれた場面を己で見つめ返して懐古に浸るもよし、誰かに渡して共有するもよし」

「……ではあなたは、あの子を実験台に」

 織元が無言でにっこり笑ったのが答えだった。中身も見たのですかとおそるおそる問うと、整合性を確かめる必要がありますから、と至極当然そうにうなずかれる。それから織元は意味深に顎に手を添えた。

「割れた瓶の内容は一場面でしたね、確か」

「もしかして続きもあるんですか!?」

「あるとすれば、どうします。紐解きたいですか、ミズチの旧い記憶を。そこにどのような痛みや激情が含まれているのか興味がおありでしょう」

 それは、と唯美子は口ごもった。甘やかな言の葉が、半ば誘導尋問のようだと気付けずに。

「試作品は無料で提供いたしますよ」目にも止まらぬ速さで織元は小瓶を五、六本取り出し、卓の上にずらりと横一列に並べた。「順序不同です。初期に作っていたものは断片的で内容が整理されていないのが難点ですが、どれからでもどうぞ。目にさしてご利用ください」

 もはや押し売り販売――いや、販売ですらないのか。

「待ってください!」

 色とりどりの小瓶の列に視線を張り付けていながら、唯美子の脳裏には、ラムの言った「本人の知らないところでする話じゃない」という言葉が浮かんでいた。首を傾げる織元に、つたない言葉で己が躊躇する理由を語る。

「ああ、ご心配なく。他者に見られて心底困るものを、実験に出したりしないでしょう。もっとも我々の間にはそんな思いやりや気遣いがありませんので、ユミコ嬢がマナーに反すると気にしていても、私はまったく気になりません」

 ――見られて困らなくても、進んで他人に開示したい過去とは限らない。

 なおも抵抗する唯美子の手を、美丈夫はさりげなく取った。思わず息を呑むほど冷たい手だ。黒い瞳に刹那の燐光が浮かび上がる。

「構いません。こうした方が面白い結果を生みそうなので、勝手ながら手を打たせていただきます」

 手を打つってどういう――。

「目を開けたまま眠るような感覚でしょう。ごゆっくりどうぞ」

 耳元に聴こえたひと言の言いしれぬ不気味さに、指先が震えた。

 後ろめたく思う。けれどそれ以上にナガメとラムのかつての物語の結末を知りたくて、唯美子は好奇心のままに記憶の奔流に身を任せた。

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