2-3.
帰りの電車の中は思いのほか静かで、端の席にてゆっくりと休息ができた。車両にいる他の人と言えば気持ちよさそうに居眠りしている女性と、動画でも観ているのだろうか、イヤホンをして真剣に横向きのスマホに見入っている男子高生だけである。
電車の進みは荒っぽくてうるさい。
隣の青年が物珍しそうに窓の外を眺めていたのは数秒のことで、今では別の場所に意識が集中している。腕の傷はほぼ癒えていたが、気持ちだけ、唯美子はハンカチを巻いてあげたのだった。
ナガメはそれが気になるようで、結び目を逆の手で弄ったりしながら、話を切り出した。
厄寄せとは――唯美子が周りの厄を一身に寄せる代わりに場が清まることを言うらしい。厄は形を持ってしまった人の悪意だったり、怪奇現象だったり、単なる不運だったりもする。
先天的にして、似た傾向を持った親戚は他に確認されていないものだ。
そこで早々に唯美子は口を挟んだ。
「でもわたしじゃなくて、わたしの周りの人の方がよく危ない目に遭ってた気がするよ?」
「んー、それは解釈の幅っつーか。ゆみに集まろうとした厄が途中で誰かに飛び移ってたみたいな。局所で気絶したり忘れてるだけで、周りじゃなくてお前が一番やばいもんを負わされてたと思うぜ。ひとりの時は他の誰かに移りようがないし。一部はひよりや俺が弾いてたけど」
「そうだったの」
信じられない、と口の中で呟く。友達が次々と逃げていったのは自分以外の皆が被害を受けたからだと思い込んでいた。ひとりだけ無事だったら、自然と不運はその者のせいにされるのだから。
「ほら、ストーカー男はゆみを変に恨んだだろ」
「理由はあったよ?」
「きっかけはあっても、厄寄せの効果も確かにあった。『寂しそうなマキの相手をした』ってだけなら、省エネ版の俺もその場にいたし」
そういえばそうだ、と唯美子は納得した。
がたんごとん。電車がひときわ大きく揺れてから、車掌が次の駅のアナウンスをする。あと数分すれば降りる駅に着く。
「たとえばゆみがおぼえてる子供時代と、吉岡由梨がおぼえてるゆみの子供時代は、だいぶ毛色が違うんじゃねーのか」
母の名が挙がったので、唯美子は今朝の高級煎茶を飲んでいた時の会話に思考を馳せる。
「お母さんはどうして、わたしがナガメと遊ぶのにそんなに猛反対したの」
「さっきも言ったでしょう。あんな化け物、危険だからよ」
言葉の内容とは裏腹に、母はどこか歯切れが悪そうに視線を逸らす。
「わたしは、あの子に何度か助けられた記憶もあるけど……」
それには反応せず、母はお茶を黙々とすすり煎餅をかじる。
ふと不思議に思う。この人はどこまで知って、どこまで気付いていたのだろうか。祖母と一緒になって、唯美子に隠し事をしていたのだろうか。守るための嘘だったとしても、大人になった今、問い質さねばなるまい。
「お母さんにもおばあちゃんみたいな特別な力、ある?」
「いいえ。漆原――あなたのお父さんも、ひよりさんの才能は受け継がなかったみたい」
「そっか……」
「いいこと? あなたもよ。あなたも、ひよりさんの『才能』を継いでいないわ。つまり多少の変なものが見えても、最悪関わってしまっても、それをどうにかする力も、自分の身を守る力も無いの。それだけはわかってちょうだい」
こぽぽ。母が急須から湯飲みに茶を注ぐと、微かな湯気が立ち上る。
そのはかなげな白さを見つめながら、唯美子は近しい家族の真摯な警告を吟味していた。
――まもなく〇△、お出口は右側です――
駅名にハッとなる。降りるよとナガメに目配せすると、彼は既に立ち上がっていた。
エスカレーターに乗っている間、ポケットから電子音がした。スマホを確認すると、母からのチャットが来ていた。駅から徒歩圏内のデニ〇ズで夕飯にしないかとのことだ。
「い、い、よ、と……お母さんと落ち合うまでまだ時間あるし、公園でもう少し話してかない?」
「おー」
ナガメが顎が外れそうなほどに大きくあくびをしている。
なんとなく蛇は夜行性と決めつけていた。この数か月間を振り返ってみると、昼行性かもしれないし、彼はあまり規則的に活動していないようだった。夜行性だとすれば瞳孔が縦長になっているところは見たことがないけれど――
「栗皮ちゃんの人型、眼だけ虫っぽさがあったね。ナガメは擬態でそういう失敗やらかしたりしないの」
「なくもない、っつーか、メインのコレと子供モード以外に変化する時は俺も大体あんな精度になるぜ」
公園が見えて来た。サッカーボールを追いかける小学生くらいの集団を通り過ぎて、座れるところを探す。
「他の姿もあるの? すごいな。きみが非常識な存在なんだって忘れてたよ」
「まーな。ゆみが聞きたい――思い出したいのって、その先だろ」
ベンチに腰を下ろすなり、「昔、こんなことがあってな」と彼は語り出した。
*
――次の週は家族旅行に出かけるから絶対に出て来るな。
そのようにひよりに強く釘をさされ、ミズチはひたすら不満を垂れた。縁側で月明かりに佇む彼女に向かって「なんでー」を連呼する。
「なんでも何もないだろ。家族水入らずの時間に邪魔をされたらたまらないからね。息子と由梨さんはめったに休暇が重ならないんだ。ゆみがかわいいなら、時には距離を置くのも大事だよ」
えーあいつらの都合なんて知らんし、とミズチは常のように中庭の芝生の上にあお向けになった。
「絶対について来るんじゃないよ。ただでさえ『枠をはみ出た』おまえさんたちは、幽霊みたいなところがあるんだから」
「ゆーれい? おいらは実体あるぜ」
「じゃなくてね。話題にしたり意識するだけで、呼び寄せちゃうってとこさ」
ひよりはそう言って、肩にかかる髪をわずらわしそうに払う。
ミズチは反論できなくて唸った。思い浮かべるだけで縁ができてしまうものと論じるならそれは何も「獣」や幽霊に限った話ではないが、自分たちのような曖昧な存在は、割合それが強く反映されるようではある。
これと言って、思念を受信したから近寄っているつもりはないのだが。
「ゆみに聞いてないだろ。おまえさんと出会ってからは、ひとりの時でも『変な生き物』を見るようになったそうだよ。目の前を横切ったカブトムシに猫みたいな毛むくじゃらの尻尾がついてたり、下校中に、神話のキメラみたいな大きな影が横を通り過ぎたりとね」
「それがどーしたんだ? いるからみえるんだろ」
「どうしたんだ、だって!? そんなものに何度も出くわして、幼い子の手に負えるわけがないじゃないか。次はもっと危ないものが近付いたらどうするんだい。頭が追いつかないうちは驚いているだけで済むけど、いずれはその場に凍り付くような恐怖にかわる。おまえさんの恐ろしさにも、気づくだろうよ」
逆さで見る女の面貌は、表情は、大真面目だった。
ミズチにはひよりの言っている意味が半分ほども伝わらなかった。他の獣にならともかく、唯美子に恐ろしがられる筋合いはないはずだが……。
「いいじゃんか、ゆみはおいらがまもる。そう約束したんだ」
「心意気はじゅうぶんだがね。上位個体に、か弱い生き物が守れるかい? 眷属じゃないんだよ、傍にいたっておまえさんの強靭な生命力にあやかることはできないんだ」
ならば彼女を自身の眷属に迎えれば解決するのではないか――脳裏に一瞬ひらめいた考えを、どこかへ追いやる。まったく前例のない話ではなかったが、それはミズチの望むところではなかった。
「っかー! ねちねちうるさいな。わーったよ、行かなきゃいいんだろ、いかなきゃ」
結局、保護者の意思に従うことに決める。
「それでよし」
漆原ひよりは我が意を得たりと胸の前で腕を組んだ。
*
「待って。まって、ナガメ、わたしその旅行のこと……思い出せそう」
公園のベンチの上で上体を折り曲げ、深呼吸する。
例によって話半ばに制止を呼びかけるのは不本意だったが、唯美子は己の埋もれた記憶をもっと精力的に呼び覚ましたかった。むしろ今までこのエピソードが意識に挙がってこなかったのも、亡き祖母の術が未だに効いているからだろうか。
あれはそう、夏休みの終わりの方にキャンプに行ったのだった。ナガメの話にあった通り、会社勤めの父と看護師である母が休暇を揃えてくれたのである。
そこで何かが起きた。ここまでは、淀みなく思い出せた。
しかしここから先は、思い出していいのだろうか。言いしれない不安が喉の奥から立ち上る。
キャンプ場の敷地内には湖があった。ほとりでバーベキューセットを組み立てる父母や、珍しく洋服に身を包んだ祖母の姿も思い浮かべられる。祖父はどうしても外せない用事があって来なかったはずで、叔父など他の親戚は、父と仲が良くなかったため誘われなかったように思う。
「……あのね、想像から訊いてもいい?」
スッと背筋を伸ばして座り直した。
「おう」
隣の青年はベンチの肘かけに頬杖ついて静かにこちらを見つめている。頭上の枝葉の揺れに合わせて、頬に落ちた影が踊った。率直にそれをきれいだと思った。
「意識するだけできみたちが寄ってくるのと、わたしに厄が寄ってくる作用が合わさって、何かとんでもないことが起きたのかな」
具体的には、そうだ。
たとえば二度とまともに泳げなくなるまでに溺れたとか。たとえば祖母が唯美子の記憶を一部封じなければ生きようがないと判断するまでの恐ろしいことがあったとか。そして――
「わたしたちが一緒に遊んだのって、たったひと夏の間だったんだね。きみと会わなくなったのもこの家族旅行が境目」
「当たらずとも、遠からず」いつしか表情の抜け落ちた顔になっていたナガメは、そう話を遮った。「黄金色の巨大ナマズって言えば思い出すか?」
黄金色の巨大ナマズ。囁くように、キーワードを復唱してみる。
次いで瞼を下ろし、過去へと連なる記憶の糸を手繰り寄せた。
すぐには映像が浮かばなかった。
先によみがえったのは匂いだった。土や泥、瑞々しい草木と、水場特有の香り。それから、音がきた。話し声や虫の音、遠くに響く他の家族が連れた犬の吠え声――。
水の匂いは、唯美子にナガメを連想させた。たったひとりの友達がこの場に居ないことがつまらなくて、何かにつけて思い出していたのも事実だ。
大人たちがテントを張ったり食事の準備をする間、唯美子に手伝えることは限られていた。遊んでていいのよと笑顔で母に言い渡され、ひとりうろちょろしていたのをおぼえている。
旅行中はどんな天気だったのか、日焼け止めを塗ったのかそれとも傘を出したのか、その辺りは思い出せない。視覚情報は依然としておぼろげだ。
突如、冷水に包まれたような感覚がした。
追体験だ。察した頃には既に肌が濡れた感触を思い出し、呼吸器官が存在しないプレッシャーにもがき苦しんでいた。
溺れていた。鼻が反射的に空気を求めて収縮しても、冷酷に流れ込んできたのが水だった。
パニックに陥るまでに数秒とかからなかった。それからどんな行動をとったのかは詳細におぼえていないが、冷静に対処できていなかったのは間違いない。
――直前までの自分に、湖に入る気はなかったはずだ。
水着は持参していたし、折を見て親の監督のもとに泳ぐつもりはあったのだと思う。でもあれは、そういった意識的に取り組む遊びとはかけ離れた出来事だった。
溺れた時の記憶は、親に聞かされた話も合わせて、断片的に持っていた。
欠けているのは、前後である。
(服を着たまま、湖に「落ちた」の?)
不慮の事故が原因で、今現在に及ぶほどの水泳への苦手意識を植え付けられたというのか。
(でも怖かった。死ぬほど怖かったな、あの時)
湖の中は緑色によどんで、ほの暗かった。他に何を見たのか――否、その前に、どうして落ちたのか――
縁におかしなものを見た気がする。黄金色、そうだ、あれは金色だった。たまに雑誌やニュースで観る黄色っぽいものではなく、体中に砂金がひっついているみたいな黄金に光り輝く表面をしていた。
そこからして既におかしい。水底や岩陰にいるはずのナマズが水面にあがってきたのも、派手な金色をしていたのも不自然だ。言わずもがな、幼い唯美子を丸呑みできそうな大きさであったのもだ。
けれど最も異様だったのは、見た後のことだ。その魚は巨大なひげを震わせたのだった。まるで伝えたい言葉があるように。案の定、「言葉」が唯美子の神経に届いた。
――新たな水の精が現れたんだってぇな。ニンゲンの小娘に取り入って、この近くに住み着いたってぇ話だ。
――いまおさかなさんがしゃべったの? みずのせーってなあに?
――むすめっこ、おめぇに恨みはねぇ。けどな、ここは昔からおらのナワバリだってぇんだ、勝手な真似されちゃあ困るんでぇ。
ぽくっ。
腕にそれが噛みついた音はどこか間が抜けていて、けれども腕が訴えた鋭い痛みが、ことの重大さを知らしめた。悲鳴を上げられるより早く、引きずり込まれた。
そこから先は、悪夢だった。湖の中心まで連れ込まれ、しかも死なないように時折息継ぎをさせてもらえたのだ。人の目の届かない絶妙な加減で、時折水中に潜ったりなどして。
(あれ? 息をさせて「もらえた」って)
どうやらあの獣には人質を取るという知恵があったようだ。そうしているうちに溺れて失神したのだろうか。
(ううん、まだある。まだ、思い出せる……)
欠落した記憶の隙間を飛び越えて。ひとつ、ちらつく場面があった。
三日月のように反り返り、ぐったりとした黄金色の巨大ナマズ。
周囲の水に暗く淀んだ帯のようなものがひらひらと舞い広がるさまはひどく不吉で。臓腑をかき乱されたような、気分の悪さが付いて回った。
(血――!?)
本当に忘れねばならなかったのは果たして何であったのか。じわじわと体力を奪われながら溺れた体験でも、怪物にさらわれたという異常事態でも、なかった。
己を上回る体格の生き物にまったくひるまず噛みつき、顎の後方に生えた牙で獲物を毒して撃沈させられる化け物がいた。これまた異様に大きく、深緑と黄色の鱗に覆われていた。長くてうねうねしているだけでも唯美子には気持ち悪いのに、胴体には四本の短い足がついていた。
水中を伝って耳朶に届いた音は、残虐極まりなかったように記憶している。ただの、思い込みかもしれないが。
(全長十メートル……! じゃあ、あれは!)
――あの黒く無感動そうな双眸の主は――。
喰われた加害者を、かわいそうに感じるべきかどうかはわからない。助けてもらったとはいえ、ナガメの所業を咎めるべきかどうかもわからない。縄張りを侵されていると他者が感じないように事前に防ぐ手もあっただろうに。
(気持ち悪い)
目を見開き、口元を両手で抑えた。隣の青年は解せないものを見るように訊ねた。
「ものほしそうにこっち見てるけど、どした?」
「物欲しそうじゃなくて、助けてほしいんだよ……!」
「助けてって?」
「た、体調悪いの。見てわからない」
「体温上がってるなー、はわかる」
彼は背中をさすってくれるわけでも、自販機から飲み物を買ってきてくれるわけでも、手を握ってくれるわけでもなかった。なるほど確かに、労わり方がわからないようだ。
「も、いい……少し静かにしてれば治まるよ」
そのまま、数分間動かずに過ごした。
真向いのベンチの下で、大小さまざまなハトたちが、たい焼きの食べ残しらしきものを激しく取り合っていた。気分が未だに優れない唯美子には、羽根がけたたましく飛び交うさまが目まぐるしい。まじまじとは見たくないものだった。
けれども蛇は元来肉食であるはずだ。あの鳥はナガメには美味しそうに見えたりするのだろうか、視線がぼうっとそちらに注がれている。
「大体思い出したみてーだな」
どこか無機質に彼が問いただす。うん、と小声で応じると、それからナガメはぽつぽつと足りない部分を補足してくれた。
「ついてくんなとは言われたけど、ひよりは俺の眷属の姿形を知らなかった。鉄紺・栗川に離れた場所から様子を探らせてたんだ。だから、ひよりが式神を飛ばして助けを求めた時、早くに気付けた」
式神とは実体の無い霊的存在を使役する呪術らしい。映画や漫画の中ならともかく、それが身近な人間の名と一緒に挙げられるのが不思議だ。
「おばあちゃんが……?」
「あいつはそういう判断に手間取ったりしない。自分の手に負えない事態だってわかった時点で、術を発動したんだろーな」
それでも呼ばれてから駆け付けるまでに十五分はかかった。
二匹の獣は、水中で対峙した。ナマズは最初から「ミズチ」と取引をするつもりもなければ追い払う気もなく、徹底的に始末する心積もりだったそうだ。
状況の不利を覆したのは、ナマズの意識の外にあった、人間の動きだった。
「人質を取られていてもひよりの機転でどうにかなった。あいつが隙を見つけてゆみを助け出して、後は」
「きみが金色のナマズを倒したんだね」
「ん」
語る過去が尽きたかのように、青年は言葉を続けなかった。
そよ風が、彼の黒い前髪を無音に揺すっている。
(昔のわたしはあれがナガメの別の姿だってわかってたのかな)
どうやっても思い出せそうにない。だがその後に何があったのかは、忘れていたのが信じられないくらいに、今でははっきりと思い出せる。
あの日を境に家族の歯車が合わなくなった。
転勤を以前から考慮していた父が何日もかけて母と言い合い、環境を変えた方が唯美子の為だとの主張を押し通したことや、引っ越し先の新しい職場になじめなかった母がどんな顔で夜帰ってきたのかなど、鮮明に思い出せる。両親の仲は冷める一方で、別居、離婚、と物事は知らぬうちに展開していった。
どちらが唯美子を引き取るかでまた、何週間も揉めていたように思う。最終的に父のもとに残ったのにはいくつか決定的な理由があったのだろうが、いずれにせよ家族がバラバラになってしまった。とても、とても悲しかった。
ちなみに父は唯美子が中学生の時に再婚した。相手に連れ子がおり、急に兄ができた。今ではそれなりに仲は良好で兄夫婦の家に遊びに行くことも少なくないが、当時はずいぶんと戸惑ったものだ――。
記憶の川を漂い始めて数分。お互い黙り込んでいるのがはた目には変だが、決して嫌な空気ではない。
「ね、責任、感じてたりする」
急な問いに、ナガメは黒い瞳をぱちくりさせた。
「責任って何の?」
「んーん、やっぱなんでもないや」
唯美子は所在なげに足をぶらぶらさせる。
家族というものを、きっと彼はあまり理解できていない。爬虫類には卵生ではなく胎生の種もいれば子を大切に育てる種すらいるらしいが(再会して以来、何度か蛇の生態を検索にかけて知った)ナガメが自責の念に駆られているとは考えにくい。もちろん、責めたいとは思わない。
「でさ、ゆみ。来週末ひま?」
競うように急な問いが返ってきた。今度はこちらが目を瞬かせる番だった。よくわからないままスマホを取り出し、カレンダーアプリを覗いてみる。
「今のところ予定はないよ」
「じゃーちょっと出かけるか」
「え、きみとわたしで?」
「他に誰がいるんだよ。狸野郎のとこ、行こうぜ」
狸野郎とは、彼が以前に言っていた「やどぬし」を指しているのだろうか。ナガメの交友関係には興味あるものの、またどうして、そんな話が出るのか。
「突拍子のない提案だけど……その心は……?」
「お前の体質をどーにかできるとしたら、あいつだ」あくびを挟みながらののんびりとした答えだった。「なんてったって、ひよりの『 』のシフだからな」
「シフ? なんて言ったの」
謎の名詞は、濃い異国の響きを伴っていてどうにも聴き取れなかった。「ふぁ」「す」と発音した気はするが、間に「つ」または「T」の音も入っていたような。
「んあー、日本語読みわかんね」
ナガメはゆみの手の平を引き寄せて、指先でするすると文字をなぞった。くすぐったいが、我慢する。「法術」に続いて「師父」だ。
「それは『ほうじゅつ』かな」
「ほうじゅつ。法術、まじないのことだろ」
「おばあちゃんの術のお師匠さんなんだね。うん、会ってみたい」
断る理由がないどころか願ってもない話だった。唯美子は厄寄せ体質に関してはまだ実感が持てないが、助けになってくれてもくれなくても、祖母の昔の師だという人に会ってみたい。
「決まりだな」
「そうだね、楽しみになってきた」
諸々の出来事からの心労も、過去を思い出した衝撃も、少しだけ和らいだ気がした。
(このひとは、ヒトに見えても、人の倫理観や道徳観を持ってない)
では本能のみのケダモノなのかといえば、それも違う。感情があるし、理性もある。
(信じていいの――)
脳裏にちらつく血濡れた大蛇は相変わらずだ。
それでいて、幾度も助けてくれたナガメは、一貫して約束を守ってくれている。祖母に求められて助力したのも事実だろう。
礼は敢えて言わないことにした。まだ、昔のことを整理しきれていないのだ。
大きく伸びをして立ち上がった。
すっかり日は暮れかけて、ハトたちもいつの間にか離れた場所で新しい標的に群がっている。そろそろ帰宅した方がいいだろう。母が待っている。
それにしてもさっきのは何語なの、ふいに訊ねてみるも、青年は首を傾げるだけだった。
*
救命行為というものを遠くから見守っていた。
ぐったりした少女が大人たちにもみくちゃにされているようにしか見えない。胸を圧迫したり、口や鼻をまさぐったりとわけがわからないが、強引に呼吸をさせているのだと、後に説明を聞いた。
成人済みの方のニンゲンたちは口々に少女の名を呼んでいる。目を覚ませだの死ぬなだのと、同じセリフの繰り返しで騒がしい。湖畔に居た他のニンゲンまでもが手を貸しに集まっている。
――死ぬ
もしも救命措置が実を結ばなかったならばと、その先にある別れを予感して、ミズチは口元をおかしな形に歪ませた。いつになく明瞭な思念を抱く。
(オワカレはやだなぁ。もうあんな、あれは、やだ)
無意識に、近くのやぶを掴んで揺さぶり始めた。行き場のない焦燥感を、発散するかのように。
周りの心配をよそに、少女はやがて目を覚ました。取り囲む大人たちが喚く中、当人はぼんやりとしている。
「おかあさんどうしたの」
「よかった、ゆみ……! よかった!」
「くるしいよおかあさん」
「だから僕は早くこんな町出ていこうとあんなに」
男親が険しく言い捨てると、女親が噛みつきそうな勢いで反論した。
「こんな町って、あなたの故郷でしょう」
「ここで生まれ育ったからこそ、さっさと出ていくべきだと思っている。過疎っていく一方だし、唯美子まで母さんみたいに変なものが見えてしまうんだから」
「おまえ、全部あたしのせいだって思ってるのかい。言っとくがね、都会に出たって、見えるもんは見えちまうよ」
オトナたちの言い合いは悪化する。
「なかよくしてよう……」
涙ぐんだ少女のひと声でなんとかその場は収まった。
結局、口論はひよりのあの決断に続いた。唯美子の記憶と知識から、枠をはみ出たものたちに関する一切を封印するという決断に。
「そういうわけだから。異論は認めないよ」
「…………ん」
縁側に座るよう招かれたミズチが、幼児の姿で座布団にあぐらをかいていた。大して美味しくもない醤油せんべいを口の中でもごもごと動かして、ひと思案する。
ここに来ていいのは今日で最後だと、ひよりに言い渡されたばかりだった。明日からは唯美子の気配が異形のモノに認識されないように不可視の術も施すという。
――忘れられる。
――見つけることも、できない。
それがどういうことなのかを、不味いせんべいと共にゆっくりと咀嚼する。
「この前はでも、助かったよ。か弱い人間を傷つけないように立ち回るのは大変だったろ。見直したよ。おまえさん、ほんとうにゆみが大好きなんだね」
「だからそー言ってんじゃん」
答えた自分の声には抑揚がなかった。
あのねえ、と女は忌々しげに切り出した。
「今生の別れじゃあないさ。あたしがくたばったら、ゆみのこと頼んだよ。あの子はしっかりしてるつもりでなんか危なっかしいのよ。人外絡みに限らず、厄の方が寄ってくるんだねえ」
「わかってる」
ボキッ、奥歯に割られたせんべいの音が脳にまで反響したようだった。奥歯は普段ほとんど使わないので、変な感覚だ。
「都合の良いこと言っちゃって、悪いね」
「別に」
何故とは言えないが、ひよりがこう願い出ることはなんとなく予想できていた。
「最期まで守り抜くつもりで関わることだね。人間は――……もろいんだ」
「わかってるよ、それも」
ありがとう。安堵したように、ひよりは胸に手を当てた。
「願わくばあたしがいなくなる頃のゆみが、己を取り巻くすべてを受け止める強さを身に着けていることを。今は大人が守ってやるしかなくても。忘れさせることが我々の尽くせる最善、でも」
和服姿の女は遥か遠くにある月亮を潤んだ眼差しで見つめ、ため息をつく。
「あの子にもいつか選べる時が来る」眼差しは、ミズチへと焦点を合わせた。「ゆみがもう一度全部忘れたいと願うなら、尊重してやってほしいんだ。でももしも関わり続けていたいと願うんなら――よろしく頼むよ」
「ん。頼まれてやる」
けどそれっていつ? 訊いても、ひよりは肩をすくめる。ニンゲンの時間で十年以上はかかるだろうと言う。
「えー。待ってんの退屈だなー」
「修行の旅にでも出たらどうだい」
「いいなそれ。じゃあアレだ、既存の大型爬虫類とかたっぱしからやり合ってくるか」
「戻る頃にはゆみは水が平気になってるといいね。あれからプールも嫌がってるんだ。水の精であるおまえさんには、きつい話だろ」
「なんだよ。おいらに気ぃつかうとからしくねーな」
「うるさいよ」
女の笑い声は、夜の空気を静かに震わせた。
時が経つのは遅いようで早い。
あれが漆原ひよりと交わした最後の会話だった。その事実をミズチは悲しいとも惜しいとも感じず、「意外にあっけない」とだけ思うのだった。
十年以上、経っている。唯美子が選ぶ時が迫っていることも明白だ。
気乗りしない。
唯美子が公園を去り、ミズチはひとり残って砂場の中で横になっていた。夜までこうしていると通りすがりにホームレスと呼ばれることはわかっているが、別段どうでもいい。
(俺は……選んでもらえないかもしれないのが、)
思考回路はそこで詰まる。
ハンカチの結び目をいじって、気を紛らわせてみた。紛れるどころか、もやもやは増すばかりだ。別のことに意を向けるとする。
何十、何百年前だったか、かつて出逢ったひとりのニンゲンを思い浮かべた。
――善意は、心地良い。
別れは、嫌だ――
二章までお付き合いくださりありがとうございました。今回は日常感を前面に押し出しましたが、次はもっと過去を遡る予定です。
これまでのペースを考えて、11か12月に三章を投稿すると思います。またお会いしましょう!