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ゆみとミズチ  作者: 甲姫
第二章:厄寄せのゆみ
5/9

2-2.

 巨大なスクリーンに映し出される映像に、誰もが釘付けになっていた。この作品のクライマックス、家と職の事情により引き裂かれそうになっている恋人同士が、涙ながらに永遠に心を通じ合わせると誓う場面だ。女性は良家の令嬢で、家人の目を盗んでまで、遠征に発つ男性の見送りに来たのだった。

『泣かないでくれ。君だけを愛している、永遠に愛し続ける! 僕は何も持っていないし、この戦争から必ず生きて帰ると約束できないけれど! 君が例の婚約者と結婚して家庭を築いても構わない、僕は君の幸せをいつまでも願っているよ』

 切なくも激しいピアノ演奏曲がスピーカーから流れ、場面をますます盛り上げる。

『私もよ! アキトさんが無事に帰って来るように毎晩祈ってる! 家の命令には逆らえないの、でもアキトさんさえいれば――全部捨てられるわ!』

『ハルミさん! 君の祈りがきっと僕を守ってくれる!』

 ひしと抱き合う恋人たち。結局男性は戦場から帰ることなく、女性は家の役目を顧みずに自害した。

 最期まで愛を貫いた彼らの、遠く離れたそれぞれの墓前には、同じ色のアジサイが咲く――。


「あー、最高! ベタでもよかったわ、主演俳優の演技がばっちりはまってた感じ。ボロボロ泣いたな、久しぶりに」

 映画館から出て喫茶店の方へ足を向けている最中だ。友人の八乙女真希が、歩きながら伸びをした。

「面白かったね」

 唯美子はひと言のみの相槌を打った。おや、と先を歩く真希が足を止める。

「どうしたゆみこー。テンション低いぞぉ。感動しなかった?」

 温度差に不満を感じているらしい。彼女は眉根を寄せ、唇を尖らせている。

 思わずたじろいだ。

 面白かったのは確かだ。チケット代を払わなかった点を差し置いても、演出や音楽、全体的にいい映画だったと思う。男性が観たら退屈に思いそうなテーマだが、唯美子には普通に楽しめた。

 ただ手放しで褒め讃えるには、シナリオと登場人物に共感できない部分があったのだ。

「家の反対を押し切ったり安定した生活を捨ててまで誰かと一緒に居たいとか、愛のためなら死ねるって感性がちょっと、わたしには遠いかな」

「ぜんぶ情熱パッションゆえでしょ」

「うん、情熱的な恋愛ってのがわたしにはわからないんだ……婚約者さんはいいひとだったし、結婚から始まる恋愛を選んでもよかったんじゃ」

「それはねえ。愛が盲目だからよ。ほかの人じゃダメ! ってなっちゃうくらい好きだったんだよ。ゆみこにはそういう恋、なかった?」

「人を本気で好きなったことはあるよ、あるけど。障害が出てくると諦める選択肢に傾いちゃって、どうしても手に入れたいって押し切るパワーが沸かないや」

 そうやって踏み出すことすらなかった片想いのなんと多かったことか。やはり、「本気」の度合いに不足があったのだろう。

「あんたちょっとぼんやりしてるもんね。前の彼氏も、横恋慕してきた子に譲った形で別れたんでしょ」

「譲ったつもりは……」

 三年前のことをちらと思い返す。彼はあの時、自分と彼女の間で揺れていた。彼らのひどく苦悩した姿を見て、自分さえ身を引けば皆が解放されるのではと思ったのは憶えている。

 それに裏切られたのだと感じた時点で、終わりを予感してしまっていた。己が浮気を一切許せないタイプなのだと、あの時に知った。

(譲ったことになるのかな)

 過去のできごとを延々と分析しても仕方がない。この話題は終わり、と手を振る。

「ふーん。あ! あそこ入ろう。アイス食べたい気分だわ」

 真希が指さした先では、外に立ててある看板に秋パフェが派手に宣伝されていた。

 席に案内される途中、子供連れの家族を通り過ぎた。小さな兄妹が携帯ゲーム機を取り合っている。お兄ちゃんもういっぱい遊んだでしょ! と妹が訴えかけると、親が譲りなさいと叱る。

 外見年齢ではナガメと同じくらいの少年は嫌々従うも、むすっとした顔で「こわすなよ!」とテーブルを叩いた。

 こうしていると気付かされる。そうだ、子供の姿をしていてもあの子は――演じているだけで、子供らしい感情の起伏がない。人の子ではない、ミズチと呼ばれる彼は、たとえば癇癪を起こすことがあるだろうか。まるで想像ができない。

 席に落ち着き、小型リュックを肩から下ろしながら、ふと唯美子はナガメがメモ帳に書き記した名を思い出していた。

 ――「林 永命」

 永命、の部分がナガメと読むのだとして、苗字はどこから来たのだろうか。思い付きでつけたのか、それともそれも誰かから貰ったのか。

(わたしに会うまでは、個人の名前を持ってないみたいな口ぶりだったのに)

 疑問に思えば思うほど、言いようのないモヤッとした気分になる。

 これではいけない。せっかくの友達との時間だ、暗い気持ちはどこかへ追いやって、オーダーに集中すべきである。メニューを吟味し、真希は特産ブドウの入った色とりどりのパフェを、唯美子はアールグレイラテとチョコタルトをひと切れ頼んだ。

 他愛のない話をするうちに、ウェイトレスが注文の品々を持ってきてくれる。最初にひと口ずつを分け合って、それからじっくりと自分の頼んだものを味わった。どれも甘味と渋味のバランスがちょうど良い。絶賛すべきクオリティだった。

「んまーい!」

 向かいに座る真希はまず写真を撮った。それが終わると次にスマホを片手にレビューを投稿しつつ、残る手で忙しそうにパフェを口に運んでいる。

 こうして腹は甘いもので満たされた。晩ごはんの時間になったらちゃんとお腹すくかなー、とぼうっと思いながら唯美子は自身の飲み物をわけもなくスプーンでかき混ぜる。

「なんだかこの頃、誰かに見張られてる気がするんだよねー」

 ぽつりと漏らされた呟きに、唯美子はアールグレイラテをかき混ぜる手を止めた。動揺のあまりすぐには返事できなかった。友人がストーカー行為の被害に遭っている――?

「そういう大事なことは早く言って!」

 反射的に声を荒げてしまう。ハッとなり、テーブルに両肘をのせて上半身を低めた。

「え、ど、どうしたのよ。具体的に何をされたってわけでもないからさ、警察どころか誰かに相談するのもバカみたいじゃない。自意識過剰みたいで」

 彼女らしくない消極的なスタンスであった。

「バカみたいだなんてことない。わたしは真希ちゃんを信じるよ。わたしじゃあ何の力になれないかもしれないし、頼りたくないって思われてもしょうがないけど」

「ありがと。ちゃんと頼ってるわよ、だからさっきひとりでいるのが嫌で、映画に誘ったんだよね」

「まさか駅にいた時点で視線感じてたの!?」

 なんとも気まずそうに、答えづらそうに、真希が首肯した。

(……じゃあ)

 席を立って辺りを見回す。広い店内は仕切りのついたブース席が主で、他の客を観察するには向かない。

 よく考えてみれば、唯美子に不審者をどうこうする力はない。たとえそれらしい人を見つけても「見られた気がしたから」と相手に詰め寄ったら、ただの言いがかりもいいところだ。確信を持って特定できたとしても、通報するに値する理由がない。

 せめて二度と真希に近づくなと堂々と釘を刺せたならよかったけれど、生憎と、普通に怖い。そんな果敢さを、唯美子は持ち合わせていないのだった。

「おーい、挙動不審って思われるわよ。心配しなくても今は感じてない」

「今はそうでもわたしが帰った後にまたその人が浮上してくるかも」

 力説すると、友人は苦笑した。

「ゆみこってのほほんとしてるのにたまにいいところ突くわよね」

「のほほん……」

「ともかくね、いつもは家の近くが怪しいのよ。職場だと全然だし、出かける時に視線を感じたのって今回が初めてだわ」

「家の近くって、真希ちゃんもひとり暮らしだよね」

 ひやりと背筋に悪寒が走った。住所を知られているということではないか。恐る恐る、その旨を訊ねる。

「どうだろねー。近くって言ってもいつも駅周りとかスーパーとか通勤中に交差点渡ってる時とかよ。帰り道は何事もないわ」

「強がってる? 相手がいつエスカレートして帰り道にも現れるかわからないよ、なんとか――」

 なんとかしようよ、と言いたかったのだが、言葉の先を呑み込んでしまった。なんとかとは、何だろう。口先だけのアドバイスでは単なる余計なお世話ではないか。

(ストーカーがすぐそこに……一緒にいる今のうちにあぶり出せたら)

 その後のあらゆるパターンを想定してみるも、無茶だと結論づいた。格闘家でもあるまいし、大人の男性に果敢に立ち向かえるほどの力が自分たちには無い。

 途端、背後の席から仰天した声が上がる。

「ぎゃっ! 窓の外にでっかい虫!」

 後ろのカップルが窓ガラスを叩いて払おうとしている。件の虫がぴょんぴょんと横にずれて、こちらの視界に入った。

 見知った形状のトンボが二匹。

(ナガメ……?)

 逃げられた、と真希は言った。あれから数時間経っているし、どこか別の場所へ去ったと勝手に思い込んでいたが、まだこの辺りにいるというのか。

 気にかけてくれている、そう考えるのは自惚れだろうか。彼が唯美子を「まもる」と約束した、その重みを未だに測りかねている。

 とにかく近くにいるという可能性が重要だ。

「えっと、この後少し散歩しない?」

 唐突すぎる提案を却下されたらどうしようと内心焦ったが、杞憂に終わった。

「いいね」

 会計を済ませ、おもむろに店を出た。外は曇り空で少し暗くなっている。

 人間観察がしたいと真希が言い出したので、先にある交差点へ向かい、歩道橋を上った。人が四人は並んで歩ける横幅がある。

 ここから不審者の気配を探れたらいいのにと思う。

 隣の真希は風にさらわれそうになる長い髪を片手で抑えながら、手すりに身を寄せ、楽しそうに地上の人の流れを観察している。当事者がリラックスできているなら、それでいいのだろう。

「どこかにイケメン落ちてないかなー。そんでこっちに都合よくひとめぼれしてくれないかな。ねえ、一緒に探してよ」

「そんな、お金を拾うみたいに。顔だけ良くても生活力が無かったらどうするの」

「よほどグレードの高いイケメンなら養ってもいいわ」

 冗談めかしているのかと思えば振り返った友人は真顔だ。絶対やめた方がいいよ、と言いたいところを、思い直した。

「この前とだいぶ意見が変わってるような……」

「だってさー! 疲れるじゃん、結婚を前提にしたお付き合いって。コレ! ってピンと来る相手がみつかれば別だけど。堅実で収入も安定してて更に顔が好みの男が選択肢にいないなら、せめて見た目だけでも好みの方がいいって。ゆみこも思うでしょ?」

 食い気味にまくしたてられた後に水を向けられて、唯美子は狼狽した。

「わたし? わたしは、うーん」

 今朝母に同じ話題を振られたのだと思い出し、あいまいに笑う。母にはそのうちお見合いするよと答えておいたのだが。本心では、独り身の方が気楽でいいじゃないかと思っている。

(子供は嫌いじゃないし、家庭を持ちたくないわけじゃないけど……)

 きっとなるようになる。少なくとも夏からは退屈していないので、急がなくてもいい気がしている。

「真希ちゃんがそれで幸せなら、いいと思うよ」

「思考放棄したみたいな結論ねえ。ゆみこは安定した将来の為なら心惹かれない相手と一緒になれる? さっきの映画の婚約者とかさ。あー、でもあの婚約者役も顔よかったし、たとえとしてはいまいちか」

 どうだろ、と唯美子は色あせた手すりを見つめる。

 安定した将来の為に誰かとゆっくり愛をはぐくんでみるか恋愛の為にすべてを捨てるかの二択なら、前者の方が性に合う気はする。では直感でダメそうな相手と、無理して一緒になるまでのことかと言うと、違うだろう。

 ――ほどよく末永くうまくやっていけそうなパートナーがいいな。でも見つからないなら見つからないままでも、いい。

「ねえ、あの人とか良くない!?」

 横から興奮の隠せていない小声がした。しきりに小脇をつつかれてもいる。

 どれ、と真希の目配せする先を追った。

 こちらに向かって歩いている、緑っぽいカーキ色のズボンの縁に右手をひっかけた青年を指しているらしい。身長は180センチ未満といったところか。シワ加工をされた黒いシャツの袖を肘までまくりあげ、ボタンを三個も外した首元からは褐色の素肌と胸筋が覗いている。まるでファッション誌から飛び出したような着こなし、悠然とした姿勢や歩き方が印象的だ。

 無造作に過ぎるボサボサの髪だが、もみあげを除けば長すぎず、本人が醸し出すワイルドさに似合っている。通った鼻筋、力強い顎のライン、やや厚めで滑らかそうな唇、いずれも彫りの深い東洋系の顔立ちを魅せてくれる。

(ん? もみあげ?)

 男性が上を仰いだ。斜めに流れる前髪の下から、濃い茶色の瞳が見上げる。

「なっ――」

 みなまで言う前に口を手で覆った。さすがに同じ名で呼べば、友人に不審がられる。

 青年の挑戦的な笑みが、とろけるような甘い笑顔に変わっていく。そんな表情もできたのかと驚いた。

(なんで大人の姿になってるの)

 思わず目を泳がせ、ついには逸らした。力になってくれるかなと期待して喫茶店の外に出たのは唯美子の方だが、予想外のアプローチである。

「ねえちょっと、こっち来るんだけど」

「う、うん」

 どういうつもりだ。わからない。彼はいつも、何を考えているのかわからない。

 足音が近くで止まった。

「よ。そっちは、どーもハジメマシテ」

「……ゆみこの知り合い?」

 訊ねられてしまえば、精一杯に確答を避けることしかできなかった。いつ子供の方と似ていると気付かれるかヒヤヒヤする。

「ごめんね、今は説明を省かせて。信用できるとだけ言っておく」

 言ってておかしな気分になる。「ミズチ」を人間である自分たちが信用していいものか、真の意味では唯美子にも把握できていないというのに。

「いや説明してよ」

「お前を気にしてるやつがちょうどこっち見てるぜ」

 真希の詰問を、ナガメが遮った。

「えっ。どこ――」

 素早くナガメが真希の後頭部を抱え込み、動きを制する。突然のことに驚いて唯美子も心臓がドキリと跳ねた。

「自然にしてろ。いいか、あたかも親密そうに振るまうんだ」

「嫉妬させておびき出すってわけね」

「話が早くて助かる」

 二ッと唇の端を吊り上げて、青年は詰めていた距離を少し離した。

「ゆみ、別れるふりして立ち去ってくれ。最低でもお互いの視界から消えるように、離れてな」

 彼はさりげなく近くを飛んでいる大きなトンボを一瞥する。貸してくれるという意図だろうか、栗皮色の雌が進み出た。

「……わかった」

 口先では了解を示し、しかしどこか釈然としない思いで踵を返す。またあとでねー、と手を振る真希が妙に楽しそうに見えた。

 歩道橋を下りて遊歩道を歩く道中、何度かさりげなく振り返ってみた。橋の上の二人は、「初対面」とは思えないほどに、朗らかに談笑している。

(何話してるんだろ)

 ふりだとわかってても変な気分だ。まずナガメが他の人間と関わっているところを滅多に見ない。手すりに背を預けて大笑いしているさまは、いつもの彼の、人類へ無関心そうにしているイメージとは結びつかなかった。

 羨ましいと思った。あそこにいる方が、自分はよかった。ストーカーをおびき寄せる作戦なら真希がひとりで立ち去っても効果があったのでは?

(ううん、だめ。真希ちゃんを危ない目に遭わせちゃ本末転倒だ)

 束の間の負の感情を振り払う。ナガメが人間との交友関係をひろげても、それは彼の勝手であって、唯美子には口出すいわれも独占する資格も当然ながらない。

 足し合わせてたった数ヶ月、構ってもらっただけの仲だ。彼がこれまでに過ごしてきたらしい数百年に関して、自分は何も知らない。

 元祖「善意を向けたくれた人間」についても――

 自転車に乗ったジャージ姿の男子高生数人とすれ違ったところで、我に返る。唯美子は現在地を確認した。

(失敗した。逆側に渡った方が建物の死角に入れたのに)

 こちらは河川敷に連なり、遮蔽物などちょうどいい隠れ場所がない。中途で方向転換するのは不自然だ、いっそのこと川辺まで降りようと歩を速める。小川は浅く、流れも遅々としているため、唯美子は問題なく近付くことができた。

「これだけ離れてればいいのかな、栗皮ちゃん」

 傍らを飛んでいたはずの茶色のトンボに問いかける。ところがナガメのしもべだという虫のつがいの片割れはそこにいなかった。

 羽音が聴こえなくなったのはいつからだったか、明確に思い起こせない。

「栗皮ちゃん?」

 周りを見回してもそれらしい影がみつからない。空中にも、草の上にも、水面の上にも。ナガメのところに戻ったのだろうか。

 とりあえず、ここからでは歩道橋が視界の中に入らないことを確かめた。二人の方からももう唯美子の姿は見えないだろう。後はナガメに任せて待つのみだ。

(ひまだなぁ。どこかに座って、電子書籍でも読もうかな)

 急いで家を出たため、じっくりと持ち物を整える余裕がなかった。小型リュックに入っている文庫本は、この前読み終わったきり未だに取り出していないものだ。

 草に覆われた斜面に腰を下ろす。吹き抜ける風が涼しい。

(そうだ、更新されてるかも)

 スマホを取り出し、漫画雑誌の公式サイトへアクセスしてみた。最新話が公開されたばかりの作品群の中に、いくつか追っている物語があった。可愛い動物が主役の日常系には、特に癒される。

 サムネイル画像にタップして、数ページほど夢中で読み進めたところで。

 画面に影がかかった。

 顔を上げると、見知らぬ人が立っていた。

 五十やそこらの小柄な男性、猫背で、表情もどこか卑屈そうな印象だ。何かの業者なのか青い制服を着ている。こんにちは、と唯美子は通常の挨拶をした。

 男性は応じなかった。細長い三角型の両目をこちらに合わせようともしない。

「あの、わたしに何かご用ですか?」

 努めて明るく問う。胃の底では、不吉な予感が渦巻きつつあった。男性の瞳が翳っていたからかもしれない。

「ず、ずるいぞ。おまえさえ来なければ、おれが……、おれだったのに」

「すみません。何を言ってるのかちょっと」

 わかりません、と続けられる前に飛びかかられた。

「はな、して! 誰か!」

 無我夢中で抵抗するも、男性はまったく怯まなかった。

「あの男は誰だあの男もじゃまだ。でもまずはおまえだおまえのせいだ」

 衝撃で頭がくらくらする。息苦しい。重い。こうしている間にも男性の呪詛のような言葉はどんどんうわずって速くなる。

「さびしそうにしてるかのじょをおれが慰めるはずだったおまえが来たからおまえが悪いおれのチャンスをせっかくのチャンスを」

 目が合った。戦慄した。

 日本人にありがちな、一見普通の茶色の双眸であった。怪しげな光を放つわけでも瞳孔がおかしいわけでもない、けれどもどうしてか狂気的な色を感じる。

 大声を出せば通行人が来るはずだ。声さえ出せば。頭ではわかっているのに、喉から音を出すことが叶わない。

 視界がぼやけていく――

 のしかかっていた重圧がフッと消えた。と同時に、鈍い衝突音がした。なんとかして起き上がると、小さな人影が男性を翻弄しているようだった。

 飛び蹴り、回し蹴り、肘落とし。さきほどまで唯美子を支配していた恐怖心も吹き飛ぶほどの鮮やかさだ。

(カンフーかな? かっこいい)

 ぐったりとなった男性の腕を背後に締め上げて、人影は満足そうに鼻を鳴らした。

 取り押さえたのはおかっぱ頭の少女のようだった。通りすがりの子供が格闘技の有段者(推定)とは、末恐ろしい世の中になったものだ。

「誰だか知りませんけどありがとうございま――うっ!?」

 振り返った少女の片目が複眼だったことに驚いて、お礼を最後まで言い切れなかった。よく見れば、顔や首の肌が不自然に滑らかそうで、白い蝋を彷彿させる。

(うう、わたしの子供の頃に似てる。なのにお人形さんみたいにきれい……ホラー感……)

 極めつけに服装は、膝丈の浴衣ときた。もしかしなくても、ナガメとの関係性を疑ってかかるべきであろう。

「よくやった栗皮」

 振ってかかった声に唯美子は「やっぱり」と額を押さえる。ナガメがのんびりと河川敷を下りて来た。

「きみが変化できるなら、きみの仲間もできると考えるべきだったね」

「精度が低いけどな。ほらこの服、本物の布じゃねーぜ」

 ナガメが我が物顔で少女の袖を引っ張ると、それは奇妙な伸縮性を見せて、伸びるほどに色素が薄くなっていった。布というよりは皮膚に見えなくもない。

「あるじ。もっとほめて」

 男の背を膝で抑えつけたまま、かわいらしい声でねだる少女。声がかわいくても片目複眼の恐ろしさは相変わらずである。

(喋ったー!?)

 唯美子は驚愕したが、顔に出さないよう頑張った。

「おー、すごいすごい。よくゆみを守ってくれたな。変化も前よりできてるぜ」

「えへん」

 ナガメに頭を撫でられて、栗皮少女は大変にうれしそうだ。そこでもやはり、黒光りする複眼だけが表情にそぐわない。

「この虫の目は課題だなー。もういいぜ、戻っても」

 主人のひと言が引き金となったのか、栗皮少女の輪郭が瞬時に揺らいで、その場に崩れた。崩れた跡には抜け殻のようなものが残り、やがてそれも解け落ちた。精度と引き換えに、速く変容できるのだろうか。

 一匹の茶色のトンボが飛び上がり、青い方のトンボと合流する。二匹はナガメが差し出した手の甲にそっと降り立った。何故か、さまになる。

 背にのった少女の体重がなくなっても、男性は草に突っ伏して動かない。気絶しているのか、戦意喪失しているのかは不明だ。

「ミズチさん、足はっやっ……!」

 そこに真希が駆けつけた。ずいぶんと息が荒い。

 彼女にはミズチと名乗ったのかと、唯美子はひそかに安堵した。

「おまえが遅いんだろ、じゃなくてその靴が走りにくいからじゃん」

「わかってるわよそんなこと――あら? その人」

 見覚えがあるのか、真希は眉間に皺を刻みながら、地面に伏した男性をどこで見たのか懸命に思い出そうとする。バッグを手首からぶらんとさげてしゃがみ込み、しばらく唸った。

「真希ちゃんの知ってる人なの」

「なんだろね。それなりに頻繁に見てるような、日常的な風景にいるような――あっ」ぱん! と膝を叩き、素早く立ち上がる。「思い出したわ。あなた、自動販売機を補充してる人じゃないの」

 むくり。胡乱な目をした男性が頭を起こす。背筋が凍るようなまなざしだったが、気付いていないのか、なんでもなさそうに真希が話しかける。

「そうよね。たまにすれ違いざまに挨拶したと思うわ。おぼえてるかしら」

「……ぼえ……る」

「え、なに? 聞こえない」

 真希に訊き返されて、男性は言葉をうまく紡げずに赤面し、目を泳がせる。

「はっきり言ってほしいわね。だいたい何でそんな姿勢にされてんの。まさか……この人が『視線』のもとだったワケ? ゆみこ、何かされたの?」

 射貫くような視線を向けられ、今度は唯美子がどもった。

「え、っと……」

 それだけで察したらしい、友人は激怒して怒鳴る。

「サイッテー! なんてことしてくれてんのよ! 軽蔑するし、警察も呼ばせてもらうわね」

 一切の躊躇なくスマホを取り出した。

 刹那、冷徹な煌きが視界に入った。

 ――刃物!?

 男性が腕を振り上げて飛び上がる。

「おまえのせいで嫌われた! おまえが悪い! つまらない日常にやっとみつけた癒しだったのに! 唯一笑いかけてくれた天使と近付けるチャンスだったのに!」

 刃先が下りてくる――!

 その場に凍り付いて動けない。だが唯美子と男性の間に黒いものが割り込んだ。シワ加工の施されたシャツ、すなわちナガメの背中だ。

「いみわかんね。逆恨みってやつじゃねーの」

 ザシュ、っと耳慣れない音がした。赤い飛沫が飛ぶ――

(え、え)

 呆気に取られたこと数秒、その間にナガメはものの見事に男性を捻じ伏せてみせた。そして、首の後ろを強く殴りつけて気絶させた。

(言ったのに)

 視線の先が一点に吸い付いて離れない。

 青年の前腕を滴るそれは、鮮血ではないのか。唯美子はわなわなと震える手を伸ばし、勢いよく腕をひったくった。

「うぉ。なんだなんだ」

「――血は出ないって言ったのに!」

「あの姿だと出ないって言った。この姿は、別」

「とにかく手当てしようよ」

 嘆息して、唯美子は傷口をあらためる。

 三、四センチほど一直線に切れていて結構深そうだ。皮膚が開けた奥から赤い液体が沸き上がっては草の上にぽたぽたとこぼれる。血が苦手ということはないが、じっと見ていると吐き気を催しそうになる。

「ほっといてもふさがるって。敬意を払いたくて、付けたオプションだから」

 腕を奪い返されたはずみで唯美子の爪先が切り傷をかする。瞬間、ナガメは目を眇めて小さく舌打ちした。

「痛いの?」

 質問しても応答は返らない。

(爬虫類って痛覚あったっけ。凝固、するのかな)

 なんとなく彼に血が流れているのだとしたら青か紫色ではないかと思い込んでいた。知らない間に「化け物」という単語にイメージが引っ張られていたのかもしれない。

 蛇に痛覚があっても、果たして蛟ならどうか。まったくの未知だ。だが実際に、傷口は塞がりつつある。

「ありがとうそしてごめんなさい、私のせいで。ゆみこにも迷惑かけるわね」

 傍に立った真希が気まずそうに覗き込んだ。それぞれ「お構いなくー」「気にしないで」と答えた。何かで縛っときましょう、と言って彼女は自らのハンドバッグを漁る。

「ハンカチハンカチ――あ、ねえ。姿がどうとか言ってたのって何の話?」

 唯美子は生唾を呑んだ。うかつだった。動転していて、会話を聞かれる可能性にまで気が回らなかったのだ。

 冷や汗が滲み出る。いきなりの追究、かわせるうまい言葉が思い浮かばない。

 そもそもナガメは己の本性を隠すのにどれほど重きを置いているのか。常に人型に擬態しているものの、要所での態度からはあまり誤魔化す意が無いようにも思う。怪我が超回復しているところもきっと見られている。

 青年を見上げ、表情を窺ってみた。

 彼はにっこり笑って、傷を負っていない方の手をズボンのポケットに入れた。

 しゅり――紙が擦れる微かな音がする。

 次の瞬間、感電したような衝撃を受けた。ナガメがポケットから取り出した長方形の白い紙に、得体のしれない既視感をおぼえたからだ。

 紙は鋭い動きで視界を横切り、真希の額に当てられた。

(わたし、あれ、あのお札を、知ってる)

 札の紙部分が粒子となって霧散する。宙に残った部分、札に描かれた紋様が、額の中へと吸い込まれていった。直後、友人は眠そうに瞬いてその場にへたり込んだ。

 目の錯覚でなければ、今のは何かの術式だ。かつて見た光景と一致するため、理解が及ぶのが早かった。

 都合の悪い情報を対象から抜き取ったり封印する類の呪術だ。

 ナガメがニヤリと笑って口を開いた。

『――その記憶は無い方がいい』

 異なる声音が二つぴったりと重なる。

 無意識に舌から転がり落ちた台詞だった。見えない余韻を辿るように、唯美子は己の唇に指を触れる。

「思い出したんだな」

 背を向けたままで彼は低く呟いた。

「前にもこんなこと、あったんだね」

 知りたい、でも知りたくない。相反した気持ちを処理できずに言葉がわなないた。

「さー」

「どうして濁すの。ほんとは、どっち? きみがわたしを巻き込んでしまうの、それともわたしがきみを巻き込んでいるの」

 大げさな嘆息。振り向いた横顔、その瞳に黄色い環が浮かんでは消えた。

「聞かない方がいいんだけどなー」

「おしえて。おねがい。ナガメはわたしのききたいことに、答えてくれるんじゃなかったの」

 唯美子は頑なに引き下がらなかった。

「わたしの昔の記憶も、きみがそうやって消したの」

 瞬時に失言だと気付いたが、取り消せない。

 赤い舌がちろちろと口腔を出入りする。

 険しい表情と形容するのは違う気がした。表情を、つくっていない。世にあふれる変温動物のそれと似た、冷たい印象を受ける。

 再会してから今日まで、これほどに無表情な彼を見たことがない。

「何か勘違いしてるな。お前の記憶を封じたのも、その判断をしたのも、間違いなく、ひよりだ。俺は、忘れてほしいなんて一瞬も思ったことはない」

「…………うん。そうだよね。ごめんなさい」

 ナガメは地面の男性を肩に担ぎ上げ、真希の腕を掴んで無理やり立たせていた。慌てて唯美子も手伝いに行く。呆然としている真希に軽く肩を貸した。

 交番に向かって歩き出す。

「さっきのな、聞かない方がいいんだけど、どうせ手遅れだよな。端的に言えば『両方』だ」

 しばらくして、ナガメが切り出した。

「巻き込んで巻き込まれて、ってこと?」

「そ。まず、ひよりは『厄寄せ』って呼んでた。ゆみが持って生まれた体質だってさ」

 彼はいつもの調子で笑い、側切歯がひとつ欠けた笑顔を見せた。

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