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ゆみとミズチ  作者: 甲姫
第二章:厄寄せのゆみ
4/9

2-1.

 九月に入ってから二度目の土曜日、ようやく唯美子は壁のカレンダーを放置していたのだと気付く。ぺらりと片手でページをめくりあげ、カレンダーは夏の風景から秋の風景写真に入れ替わった。紅葉が舞う部分になんとなく指先を滑らせたりもする。

 時の流れはあっという間だ。会社の同僚と海に行ったのがまるで遠い昔のように感じる。

 いつの間にか、いたはずの人物がひとり消えて、どこの記録や誰の記憶にもその男が存在した痕跡が残らなかった。末恐ろしい話だけれど、それはそういうものだという。後始末や裏工作が得意だからこそ、彼らはヒトの警戒網から逃れ続けてきたわけだ。

「わっ!?」

 考え事をしながら薄闇に包まれた居間を片付けていたのがいけない。いきなり柔らかいものにつまずいてしまった。

 ちゃぶ台が眼前に迫る。咄嗟に腕を突き出して、倒れ込むのを阻止した。

(あぶなかった)

 自身をつまずかせたものを探り、ちゃぶ台の下を覗き込む。そこに、十歳未満の少年が座布団の上にうつ伏せになって寝ていたようだ。突然の衝撃に起こされて、眠そうに唸っては頭をもたげている。

「ごめん、今日ここだったんだね」

 ところかまわずに横になる彼にも非はあるが、蹴ってしまったことにはすかさず謝っておいた。

 小鳥が陳列した赤いパジャマを着たこの少年は、不定期に唯美子のアパートに遊びに来ては、いつの間にかいなくなっている日もあれば、朝までよくわからないところで寝ている日もある。昨夜は後者だったようだ。

「うー……もう朝かぁ」

「午前八時だよ。ナガメ、起きたのなら顔洗ってうがいしてきて。それで、ちょっとここ片付けるの手伝ってくれる?」

「ぬー」

 嫌そうな声を出しながらも、彼は半分だけ目を開ける。ボサボサの黒髪を指で梳いて、のっそりと起き上がった。

 半目のままではあるが、ナガメは望まれた通りの行動をとった。彼は寝起きの時が一番素直なのかもしれない。

 そして少々、無防備だ。

 カーテンの隙間から漏れる朝日が、ちょうど少年の右腕を照らした。そこに、ぬらりと、鈍く光を反射する部分があった。

 鱗である。

 人間の七歳ほどの男児とほとんど見分けがつかない姿をしていながらも、ナガメは人間とは異なる存在だった。では何なのかと問われても、唯美子は完全に答えることができない。

 以前、質問にはゆっくり答えてやると彼は言った。その割にはお盆の季節に何も言わずにふらりといなくなるなど、未だに見えない一線を画されている感じはする。

 結局ナガメは自分のことはあまり教えてくれなかったが、自分たちの性質については教えてくれた。

 数百年の生を経て龍の位階に登った蛇、わかりやすく呼んで、ミズチ。彼のような異形は人間が認識している以上に数多く、ひそやかに人に紛れて暮らしているという。

 妖怪の類と混同されることもあるが、彼らは実体を持っていて生物寄りだ。その辺りの説明は、学生時代の生物の授業をあまりおぼえていない唯美子には難しかった。

 ――生物でありながら、既存の生物の枠からはみ出たもの。

 いつだったか、誰かがケモノと呼び始めた。

 通常、遺伝子がタンパクに翻訳され肉体を構築していくはずだが、獣においてはその過程に謎のあやふやさが、柔軟性がある。なんと言っても変化ができるのだ。しかしいくら変容した彼らを調べたところで、元々属していた種の遺伝子と大した違いが見られないらしい。

 一方、生殖能力は確かに失われている。代わりに「精神力」と「生命力」を軸として、長い長い時間を生きられるそうだ。

 そんな彼らの本質が瞳に浮かびあがる瞬間を、何故か唯美子には視えるらしい――

 ――ぴーんぽーん。

 呼び鈴の間延びした電子音が、思考を中断させる。

 思っていたより到着が早い。両手いっぱいに雑誌を抱えていた唯美子は、玄関とナガメを見比べた。出てくれる? と目で訴えかけると、少年は意を汲んで出入口へ向かっていった。

 その間に雑誌を縛って隅にやった。背後では、ガチャリと扉が開く音がする。ナガメは無言で来客に応じたのか、しばらく沈黙があった。

 次いで鋭く息を呑む音が重なる。

「げっ、吉岡由梨」

「あんた!? まさか、『みずち』……! カンボジアとかに行ってたんじゃないの!」

「インドネシアな」

「どっちでもいいわ! なんでいるのよ! お義母さん――じゃなかった、ひよりさんが追い払ってくれたと思ったのに! また唯美子につきまとう気!?」

「はあ? 別においらは、ひよりに追い払われたんじゃねーし」

 いきなり険悪だ。唯美子は玄関付近を振り返った。二人の間に入って言い合いを止める決定的なひと言が放てたならよかったが、驚きの方が勝ってしまった。

 唖然となって二人を順に指さす。

「……お母さんとナガメって、知り合いだったの?」

 その問いに対して、母が重くため息をつき、少年は舌をべっと突き出した。

「ながめ? ――ああ、おまえが化け物につけた名ね。もちろん知ってるわ。昔、こっそり唯美子を遊ぼうと誘い出しては、傷や泥だらけで連れ帰ってきた嫌なやつよ」

「そうだっけ?」

 正直、唯美子が思い出せたのは雨の中で出会った最初とその次の邂逅だけである。

 チラリと当事者の方を見やるも、彼は目線をあさっての方向に飛ばして、何も語るまいと唇を引き結んでいる。

「そうよ。百歩譲って遊ぶのはいいとしても、ミズチみたいな化け物には人の労わり方も思いやり方もわからないの。何度も無自覚に危ない目に遭わせたでしょ。唯美子が風邪をひいて帰ってきたのは一度や二度じゃないわ。湖で溺れた時だって――」

 ひと息にまくしたてながら、母は押し込むように入ってきた。慣れた手つきで古びたスニーカーを脱いで揃える。

「吉岡由梨にはかんけーねーだろ」

「関係ないはずがありますか。母親ですよ! 一生心配するし、小言も言わせてもらうわ」

「んなこと言ったって、おいらにはよくわかんねーよ。オヤってーのは」

「わかるはずがないでしょう。化け物だもの」

「わるかったなー、ニンゲンじゃなくてー」

 応酬は一向に止まりそうにない。これではいけない、と唯美子は駆け寄った。

「ね、立ち話もなんだし、二人とも中で落ち着いて」

 ところがナガメの方がくるりと踵を返した。一度閉まったばかりの扉をまた開けている。

「どこ行くの?」

「てきとーにその辺。そいつが帰るまで、もどらない」

「残念だったわね、今日は泊まっていくわ」

 母が、自身が引いて来たキャリーケースをぽんぽんと叩く。

 少年はそのまま無言で出て行った。晩ごはんどうするのと訊く暇もなく。

(いいのかな……)

 実際、心配する必要はないのだった。彼は以前言った通りに、週に数度何かを口にしただけで十分らしく、睡眠ですら毎日とらなくてもいいらしい。放っておいても自力で生命活動を維持できるだろう。

 何も心配はいらないというのに、胸の奥に沸き起こるこのモヤッとした感触はなんなのだろう――。

 ふと、母の視線と視界の中でひらひらと振られているものに気付いた。薄緑色のふっくらとしたパックだ。

「ちょっと前の旅行のお土産。お高い煎茶らしいわ。これで、お茶にしましょ」

「いいよ」

 破顔し、唯美子は湯飲みや急須を用意した。次にトラの印がついた給湯ポットに向かった。

 二人でちゃぶ台を囲んで、高級煎茶を堪能する。猫舌気味の唯美子には80℃でもまだ少し冷ましたいくらいなので、のんびり飲んでいる。

「大丈夫だよお母さん。ナガメはあんなだけど、わたしを危険に巻き込んだりしないよ。むしろ何度も助けられてる」

 ふう、と急須に軽く息を吹きかける。九月とはいえまだ暑く、水で淹れられなかっただろうかと今更ながらに思案した。これを飲んだら余計に汗をかきそうだが、こうなっては致し方ない。

 母はなかなか言葉を継がなかった。

「……それなら、いいけど」

 今の間は何だったのだろう。色々と訊きたいことができたものの、「仕事どう?」と先に質問されたのでひとまずミズチの話は打ち切られてしまった。


     *


 在りし日の漆原家が住んでいた家は、山麓の住宅街にあった。地価の安い県だ、一般家庭が買えるレベルの一戸建てでも快適に広い。

 当時は三世代で暮らしており、仕事で出払う他の大人たちに代わって、漆原ひよりが孫・唯美子の世話をすることが多かった。唯美子と知り合って間もないミズチも、既にそのことを知っていた。

 ひよりは、こちら側に踏み込んでいるニンゲンだ。漆原に嫁いだ彼女は元からそういった素質を秘めていたらしく、そのことを自覚して、己の潜在能力を引き出す修行をした。

 彼女とは顔見知り程度に面識があったが、それが雨の日に出会った少女の祖母だと知ったのは、より最近の話である。

 ある夏休みの日のことだ。

 蛙狩りに行こうと唯美子を誘いにやってきたら、うかつにも気配を消すのを忘れていた。

 和室の縁側でくつろいでいた和服姿の女が、素早く目を見開いた。

「おまえ……ミズチ、また来たね」

 おう、とめんどくさそうに返事をする。

「帰りなさいな。あたしの目が黒いうちはゆみに手出しさせないわ」

「じゃあ、ひよりが死ぬのを待てばいい?」

「ああ言えばこう言う! いけ好かない奴だよおまえさんは」

「ひよりに好かれたいと思ったこたぁないなー」

 そう返してやると、女は額を押さえて深くため息をついた。動きにつられて、かんざしの先についている金色の扇子を模した部分がしゃりんと揺れる。一瞬そこに視線が釘付けになった。こういった細やかに動きは、つい目で追ってしまう。

「おまえたち人外は厄介だよ。『蛟』ほどの個体ともなれば、悪意や真意を悟らせないようにうまく隠せるだろ? まあ……ゆみが気に入ってる時点で、たぶん悪意はないのだろうね。あの子には、そういったモノが視えてしまうから」

「わかってんじゃん」

 ミズチは数歩の距離を保ったままに、中庭でごろんと横になった。逆さの視界の中で、ひよりを見上げる。

 目の前のこの和服女は、おそらく既に己の寿命の半分以上は生きているという。その面貌には皺もあればシミもあり、笑っていない間は、全体的に皮膚が緩やかに垂れているように見える。

 大抵の生物には当たり前に訪れる、老い、というものの一環だ。老化現象に取り残されたミズチには掴みづらい概念だが、どうやら漆原ひよりはそれなりに老いているらしい。

 それが能力の衰えと同義かは知れないが、少なくともこの家を囲って張り巡らされた微かな結界の糸はなおも頑丈だ。術者と命をかけてやり合う気がなければ、簡単に破れるものではない。

 ゆえに、術者の許しを得るか唯美子が自ら出てくるまで待つしかない。いつものことだ。よほど目を凝らさなければ見えないこの銀色の糸は、許可なく入ろうとする侵入者を拒むが、内から出ようとする住人をあっさりと通す。

「どうして、そんなにしつこいんだい」

「ゆみが好きだからじゃねーの」

 と、感慨のない声で答える。

「信じられないね。ケモノが何の見返りも求めずに、自分よりずっと弱い生き物に愛着が沸くものかね」

「さー」

「おまえさんのそれは、庇護欲じゃないか」

「なんだそれ」

 ぐるんと反転し、肘を支えにして上体を起こす。ひよりは縁側に座したまま前のめりに身を乗り出し、胡散臭いものを見るような目で言った。

「ゆみを愛玩動物ペットみたいにかわいがってるつもりなんだろ」

「ペット? ってなんだ。眷属みたいなもんか?」

「いや。上下関係はあるけど忠誠とか家族じゃなくてもっと生活の上で依存した……ああもう、どうせわかりゃしないのに、説明がめんどうだね」

 女は諦めたように膝の上に片手で頬杖をつく。

「よくわかんねーけど。なんびゃくねんの生の中でニンゲンに善意をもらったのは二度目だ。もっと観察してみたいと思ったのも、な」

 さわっ、と木の葉が風に揺らされてこすれ合う音がする。

 放たれた言葉の意味を咀嚼する間、女は値踏みするような目でこちらを見下ろした。

「いいじゃん、あそぶだけ。おいらがついてんだ」

「おまえさんはそれでよくても、ゆみには異形にかかわってるだけでも危険なんだ。理由はわかっているくせに」

「けどあいつ他にともだちいないだろ。ほっといたら夏中家からでないんじゃねーの」

 ひよりは何か言い返そうとして口を開き、一拍して、唇を閉じた。事実であるから、反論を持っていないのだろう。

 そのうち、家の中から「おばあちゃーん」と呼ばわる少女の声が響いてくる。

「……仕方ないね」

 迷いの残る目で、ひよりはこちらから視線を外した。


 回想はそこで終わりだ。

 あの頃と同じ姿のミズチは、黒い墓碑の前で頭をかいた。

「踏んでも平気そーなやつだったのに……『がん』かあ」

 病気というものは、頭では理解できても真に実感を抱くことはできない。

 ひよりが息を引き取って間もなく、あらかじめ設定してあったらしい式神が発動して、ミズチの元まで飛んで彼女の死去を報せてくれた。術式とはいえ遠く離れたギリモタン島までは時間がかかり、更にミズチ自身が日本まで来るのにもそれなりの時間を要した。

「遅れてわるかったな。おまえとのやくそくも、ちゃんとまもるよ」

 深く考えずに、香立ての前であぐらをかいた。割と最近に誰かが来たのだろう、新鮮な花が飾ってある。

 ミズチは頬杖をついて物思いにふけった。

 自らに、死者に語りかける習慣があるわけではない。墓石をつくるという慣習はニンゲンだけのものだ。死者を悼むことからして、地球上のどこを探しても、ニンゲン以外に取り組む種がいない。

 失った家族を恋しがる動物ならありふれている。寂しさにとりつかれて後を追うように衰弱する事例は広くあるし、植物にもそれがないとどうして言い切れよう。だが、複雑なシステムを作り上げてまで「去った者を能動的に思い出す」のは、ニンゲンだけのように思える。

 そうする行為に意義を見出すのは遺された生者だけかと思っていたが、案外そうでもないのだと過去に教えてもらった。

 不思議だ。

 忘れないでくれ、時々でいいから思い出してくれ――そんなわがままな願いを、愛する者に投げつけながら逝くのも、ニンゲンだけではないだろうか。わかったよ思い出すよと口約束をしてやるだけで、死ぬ時の表情がまるで別物になるのだ。

 命を次世代に繋ぐ術を持たない獣には不可解なことばかりだった。

(二ホンに戻ったんだから、あいつのとこにも行ってやらないとな)

 胸中に浮かぶ感情をなんと呼ぶのか、ミズチはまだ知らない。別段、知りたくもない。

 ぼんやりと仏花の色合いを脳内で評価していると、ふわり、慣れ親しんだ生命の波動が頭上を旋回した。頭頂部の髪が僅かに乱れた。

「どした? 鉄紺」

 大型アオハダトンボの雄の飛び方に動揺が表れている。ただならぬ事態が起きたのかと懸念した。

 主と眷属に音声言語は不要だ、意思の矢印みたいなものを拾い合うだけで事足りる。思念を丁寧に受け取り終えると、ミズチは脱力して姿勢をだらりと崩した。

「そんなん、おいらに言われても。ニンゲン同士で解決すればいいじゃん」

 声に出して返事をするのは、他者との「会話」のしかたを反復練習するためだ。

 鉄紺は飛び回りつつ、自身が持ち帰った情報の重要性を再度主張する。

「あー、あー……そりゃほっとけねーかな。わーったよ、様子を見るだけなら」

 どうせ今日は暇だ。

 呟きながらも足を高く蹴り上げる。次に両足を勢いよく蹴り落として腰を浮かせ、ぴょんと跳ね起きた。


     *


 県内で何番目かに大きい駅にふさわしく、にぎやかな場所だ。近辺にはニンゲンが好む娯楽施設――カラオケやら映画館やらバーやら――が幾つも並んでいた。

 土曜日の朝は人通りが多いのか、横断歩道の信号機が緑色のアイコンに変わる度に、人がうじゃうじゃと動き出すのが見えた。

 行きたいところもなしにミズチはそんな駅周辺をうろついていた。

 やがて、どこぞのカフェの屋外の席にするりと身を収める。

 先にそのテーブルに座っていた長髪の女が、驚いたように手の中の端末から顔を上げた。テーブルの上には手帳とシャーペンが、もう片方の手には、飲み尽くされて氷しか残らない何かのドリンクの抜け殻があった。甘ったるい残り香は、あいすかぷちーの、のそれかもしれない。ミズチは思わず嫌そうな顔をした。

「なに、あなた」女も嫌そうな顔をした。すぐに表情が移ろい、化粧っけの濃い顔に認識の色が広がる。「もしかして、ゆみこが預かってるっていう遠い親戚の子じゃないの。この前写真で見せてもらったわ」

 アパートでじゃれていた時に携帯端末で撮られた画像のことか、と得心する。

「そーゆーおまえは『まきちゃん』だ」

 肩の開いた派手な服装、目元を強調した化粧。それだけで特定したのではない。というよりも、ミズチは見た目で判別しない。

 もともと蛇は視覚より嗅覚に頼る生物だ。擬態に際して視覚の機能を多少向上してみたものの、興味のないニンゲンは基本的にみな同じに見えてしまい、誰が誰なのか断言できなくなる。

 識別する材料は匂い、そして気配(これもトンボたちの方が精度が上だが)に限る。

「こら。年上のお姉さんに『お前』はないでしょ。生意気ね」

「…………」

 断じてこの個体はミズチよりも年数を経ていない。が、それを口にするわけにもいかず、首を傾げるだけだにした。

「あなたの家庭の事情はよくわからないけど、しばらくゆみこのところで厄介になるんでしょ? 大変ね、あの子も」

「ふーん。どうたいへんなんだ」

「どうって……」

 マキの顔にはいかにも「がきんちょに教えても無駄」と書いてあったが、一応答えることにしたらしい。

「世話する手間はもちろんのこと、遊びに行く時間も減るし。彼氏だって――あれ? そういえばあなた、ひとりで出歩いてるの」

「ひとりじゃない」

「ホントに? 保護者は?」

 疑惑いっぱいで、ピンク色のケースをはめた端末を口元に当てながら、マキがこちらを窺う。瞬く睫毛が不自然なまでに長い。たぶん、偽の毛を取り付けているのだろう。

「こう見えてどーはんしてるよ。おまえのしんぱいには及ばねー」

「難しい言葉を知ってるのね……」

「それよりカレシがなんなんだ。別にゆみに男ができよーが、おいらには関係ねーんじゃん」

「関係ないわけないでしょ。あなたに居座られてると、デートに出かけられないのよ。家にも呼べないし」

「なるほど、相手ができても交尾できないって話か」

「こうっ……!? あなたんちの親はどういう教育――……そういえば、あなた名前なんていうの? ゆみこに聞いてなかったわ」

 呼びづらさに今更気付いたのか、マキが端末を下ろして改めて聞いた。

 ミズチはまずその爪先に目をやった。ピンク色の爪がやたらと長いが、形が均一だ。これも作り物か。

 テーブルの上を舐めるように眺めてから、手帳とシャーペンを手に取る。後ろの方の空いているメモページに三文字書いて、持ち主に返す。

 開かれたページを顔に近付けて、マキは口元をひくつかせた。

「……キラキラネーム?」

「なんだそれ」

 聞き覚えのない単語に、またも首を傾げる。

「名づけた人の趣味がすごかったって話。あれ、そういえばあなた小学校にもあがってなさそうなのに、漢字で書けるのね」

 手帳から目線を上げて、マキがふさふさのまつ毛に縁どられた目を意外そうに瞬かせる。つい注視してしまいたくなる動きだ。

 そんな折、青と茶の軌跡が視界の端で踊るのが見えた。

 彼らの知らせがなくとも、ミズチにも伝わっていた。まだ遠いが、相当な速度で近付いてきている。

「それより『まきちゃん』、ゆみを呼んだな」

「へえ! なんでわかったの。エスパーみたいよ」

 女が端末の画面をこちらに向ける。長い爪が邪魔だが、画面に己の姿が収まっているのがなんとか見えた。マキが会話の合間にさりげなく撮っていたらしい。ブレていて見づらいが、背格好や服装で丸わかりである。邂逅して間もなく送りつけたのだろう。

 続いた数秒の間で、ミズチは速やかに判断した。

 鉢合うまでここで待っても構わないが、この場合、様子を見たほうがいいだろう。

「保護者同伴なんて嘘なんでしょ。まずその格好、パジャマっぽい」

「きがえるの忘れてた」

 寝間着で外を出歩くのは人間の感覚では恥ずかしいことなのだと、指摘されてから思い出す。道理で何かと他人の遠慮がちな視線を感じていたわけだ。

「なに、喧嘩でもして飛び出したの? お姉さんに相談してみなさい」

 マキがニヤニヤ笑いながら両手を組んだ。だがこちらはもう去るつもりである。

「いらねー。じゃあな、あと、あやしいやつに気をつけろよ」

「ちょっと待って!」

 待たない。女の制止の声も伸ばされた手もかわし、ミズチは鉄紺と栗皮を連れて人込みの中に一旦身を隠す。数分も経つと物影に移動し、そこで自らの周りの水滴を浮遊させ、薄く膜を張った。姿を認識されなくする術だ。

 そして息を切らせた唯美子が駆け付けたのと合わせて、物影から踏み出た。何かにぶつかると術が解けてしまうため、慎重にマキの席の後ろに回る。

「ナガメ!? あ、真希ちゃん、連絡ありがとね」

 唯美子は空いた椅子の背もたれに手をのせ、ぜえはあと苦しげに呼吸を繰り返した。探し人の姿がないことに眉の端を下ろし、きょろきょろと辺りを見回している。

 ――なぜ彼女は走ってきたのだろう。

 急ぐ理由などどこにもなかったはずだ、むしろ、吉岡由梨と談笑していたのではないのか。汗に濡れた前髪をかきあげる唯美子を、ミズチは奇妙な心持ちで眺めた。

(いいにおい)

 ひそかに。当人に気づかれずに、近くで観察する。

 唯美子をかぐわしいと感じるのは、捕食衝動とは別のところから生じているように思う。数百年生きてきてニンゲンを喰らったことは確かに何度かあったが、美味いとはまったく感じなかった。今でも、ニンゲンよりも食べたいものはいくらでもある。

 生物が同族の異性をかぐわしいと感じるのとも、おそらく違う。敢えて言葉にするなら、彼女が心から発する優しい波動が、好きなのだと思う。

 傘を置いて行ってくれた日からだ。

 彼女だけの呼び名を聞く度に、よくわからない感覚をおぼえる。うれしい、のかもしれない。

「やっほー、いいってことよ。でもごめん、ついさっき逃げられちゃったわ。なんなのあの子? あんたが来るの、前もって気づいてたみたいだけど」

 マキが気さくに応じた。まあ座りなよ、と手の平で示している。唯美子は促されるままに腰を下ろした。

「逃げたの……。ううん、気にしないで。あの子はひとりでも大丈夫だから。いつものことだよ」

「そうみたいね。ねえ、ゆみこって親戚にハヤシさんがいたのね。初耳」

「木が二つ並んだ字のハヤシさんのこと? いないよ?」

 そうなの、と訊き返したマキの声が明らかに驚いていた。唯美子もまた驚いた顔をしている。

 これが何の話かは、ミズチにはいまひとつ掴めない。

「名前、なんていうのって聞いたらこう書いたんだ。この字で『ナガメ』は、読めなくもないな」

 マキが手帳を開いて見せると、唯美子は上体をテーブルの上に乗り出し、真剣な面持ちでページを見つめた。納得の行かないような顔だ。

 自信があったのに、それほどまでに変な字だっただろうか。

「ゆみこさー、電車乗ってきたんだよね。わざわざ来たんだし、今から映画観ない? 実は今日、デートの相手にドタキャンされちゃって。チケットおごるよ」

「うーん。お母さんが家にいるんだよね」

「ちょっとくらいいいじゃないー」

「そうだね、あの人は放っておいても自由に動き回るだろうし、とりあえず訊いてみるね」会話にしばしの間があった。唯美子の端末が鳴るまでの数十秒だ。「好きにしていいよだって。晩ごはんまでに戻りさえすれば」

「やったー!」

 そこまで聞いて、ミズチはその場を足早に立ち去った。映画館となれば二人は少なくとも数時間は一か所に留まることになる。

 ――その間に探してみるのもいいか。

 指を軽く振って眷属の二匹に合図を送った。

 追跡すべきは、特定人物に向けられた『悪意』だ――。

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