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ゆみとミズチ  作者: 甲姫
第一章:みずちという子
3/9

1-3.

 かつて、雨音を怖いと思っていた。

 あの唐突さがいけなかったのだろう。いついきなり激しく窓を叩くとも知れぬ雨粒や風、気まぐれに降りる騒音が、幼い唯美子を度々震え上がらせた。

 ゆえに、雨の時に外で過ごした思い出は極めて少ない。自身が雨天での外出を頑なに拒んでいたのだ。

 そんな数少ない記憶のひとつの中に、いままさにとらわれている――

 乾いた唇に、軽く舌を滑らせた。冷えている。抱いた膝も、腕に直接触れている箇所以外は、ひどく冷たかった。ガチガチと歯を鳴らし、どうしてこんなことになったのかと、自責の念に占められる。

 ああ、そうだった。きっかけは近所の子たちだ。

 何人かが隣の家の庭で追いかけっこをしているの聞きつけ、勇気を出して、まぜてほしいと願い出たのだった。彼らは渋々ながらも「いいよ」と言ってくれた。

 最初のうちは普通に楽しかった。

 雲行きが怪しくなったのは、皆の跳び回る影が長くなり始めた頃からだ。頭上の樹から大きな枝が落ちてきたり、一見ただの芝生の上を走った子の足が穴にはまったり、ゆみを捕まえようとした子が何もないところで転んだりした。

 ひとつひとつを不幸な事故と受け取れなくもないが、そういった「不幸な事故」と異常な頻度で結び付けられるのが漆原唯美子なのだと、近所では既に評判になっていた。その時も、子供たちの雰囲気が一変するまでが早かった。

『ゆみこのまわりだけいっつもおかしいんだよな』

『あたしやっぱり、いっしょにあそびたくない!』

『もう、うちにこないでほしいんだけど。ごめんね』

 気が付けば、脱兎のごとく駆け出していた。

 ――誰も悪くない。わかっていたはずだった。

 何を言われても気にしちゃだめよと、母はいつも元気付けてくれる。自分のせいではないはずなのに、自分が人として欠陥しているように思えてきて、苦しい。

「どうしてゆみだけ……わたしだけ、いつもこうなの……どうして……」

 ぼたぼたと大粒の涙を腕に落とし、鼻水を垂れ流しながら、うわごとのように繰り返す。

 今日は、まだよかった方だ。もっと危ない目に遭ったこともあるし、もっとたくさんの人に迷惑をかけたこともある。他人と付き合っていけそうな境目を探りつつなんとか友達を作ろうとしてきたが、どうにもうまくいかない。

 七歳の唯美子には、これ以上何をどううまくやればいいのかが、わからなかった。親戚の中にも煙たがる者がいるくらいだ。

 死ぬまでひとりで遊ぶしかないのか。早くも悲観して、諦めかけている。

 自分と一緒にいるせいで誰かに傷付いてほしくなんてない。でも、ひとりは、嫌だ。

「さみしいよぉ……やだよう」

 がむしゃらに山道を走って見つけた洞穴の中――帰り方がわからずに、この上なく心細い思いをしていた。

 雨が降りしきるほどに絶望が深まる。

 外は宵闇の刻となっていた。あまり遅くなっては誰も捜しに来てくれない。夜の山に分け入るのが危険すぎるからだ。母は、お隣さんの家で遊ぶなら安心ね、と言い残して「パート」というところへ行ってしまった。唯美子がいなくなっていることに、しばらく気付かないかもしれない。

 体育座りの形にうずくまって助けを待つのみだ。喉が渇いても、お腹が空いても、我慢しなければならない。

 どれだけの間そうしていたかはわからない。涙が渇いて頬が嫌なざらつきを持ち始め、完全に夜のとばりが落ちる前だったように思う。

 にわかに気配がした。ぎょっとする。

 相当近づかれるまでに、気付かなかった。それもこれも雨音のせいで足音が聴こえなかったからに違いない。

「らっ、だ……」

 誰、と問いたかったが震えがひどく、舌を噛みそうになる。怖くてまともに呼びかけることができない。

 熊だったらどうしよう。狼でも、野犬でも嫌だ――!

「みぃつけた」「ひゃあ! たべないで、おねがいたすけて!」

 上機嫌なそれと、怯えきったそれ。重なった二つの声は全く別の方向に向いたものだった。

 だが共に、紛れもなく日本語だった。咄嗟に頭を抱えていた唯美子はゆっくりと顔を上げる。

(おとこのこ……?)

 よっ、と元気いっぱいな声をかけて、雨に濡れた少年は洞穴の低い入り口をくぐった。

 同い年くらいの彼はこちらの様子をじろじろと見下ろしては、無遠慮に距離を詰めて来た。呆然としていると、強引に手を掴まれた。

「あのう、きみ、なに」

「ニンゲンはあったかいと安心するんだろ」

 少年は欠けた前歯を見せるように、にかっと笑った。

「『善意』を向けてくれたニンゲンは、おまえがふたりめだ。名誉におもえよ。ともだちになってやる。きょうは、それをいいにきた」

「ぜに……? めい、よ? なんのはなし……きみ、だれ?」

 安心というよりは困惑が勝る。けれどひとりではなくなったことに、ひそかに喜んでおいた。手を握る感触には確かに勇気づけられるものがある。

 見ると、少年は袖なしのシャツと半ズボンを着ていた。偉そうな口ぶりの割には、何の変哲もない格好をしている。金持ちの家の子、というわけではなさそうだ。

「おいらは、みずちだ」

「ミズチくんっていうの」

「んにゃ、個体名でなければ種族名でもない。数百年の生を経て龍の位階に登ったから、ミズチだ」

 聞いたことのない言葉が一気に並んで、唯美子は目を回した。「いかい」は異世界のことだろうか。異世界に登った龍の一族がなんとかかんとか……。

「りゅうっておそらをとぶ、あのひげのながいやつだよね。じゃなくてドラゴン?」

「空はまだとべねーなー。最低でもあと八百年かかりそう」

「とべるの!?」

 びっくりして大声になる。洞穴の中でこだまして、変な感じがした。興奮のあまり、唯美子は少年が先ほど述べた数字を聞き逃していた。

「まだだっつーの」 

「でも、とべるんだ!」

「はいはい。いつかとべるようになったら、雲の向こうに連れてってやるよ。もうともだちだし」

 少年は目を細めて笑った。

 胸の奥を突き刺す単語に、唯美子は手を引いた。知らず、目元に涙がたまる。

「……わたしといたらこわいことがいっぱいおきるんだよ。いたいことも。だからだめ。ともだちはだめ」

「はあ? 知ってるし、んなこと」

 デコピンされた。

 痛むおでこを押さえながら、近所にこんな子いたっけ、と唯美子は不思議に思った。こちらの事情を把握しているのだから、きっとそうなのだろう。

「知ってて、いってんだよ。だめとかはナシだぜ。おまえに拒否権ねーから。よし。川を見にいこーぜ」

「よるのやまはうろついちゃだめだっておとなたちがいってたよ」

「だいじょうぶだって」

「まいごになったら、たすけにきてくれないんだよ」

「ふーん、薄情なんだな。いくら夜が危険っつってもいなくなったのがガキじゃあ、捜索隊ってやつ、だすんじゃねーの」

「そうなの?」

 思いもよらなかった可能性に、しばし唯美子は言葉を失くした。ハクジョウの意味はわからないが、ソウサクタイはなんとなくわかる。

「知らんし。どうなんだよ、まわりのおとなは」

「くる……かなあ。わかんない」

「ま、どっちでもいいや。心配すんな、おいらが家に帰してやる」

「でも――」未だに及び腰の唯美子を、彼は力づくで洞穴から連れ出そうとする。膝に力を込めて抵抗を試みたが、少年の腕力には勝てなかった。「あ、雨にぬれちゃう」

 雨滴が皮膚に跳ね、服に吸い取られていく。濡れた土と草木の匂いが、むんと鼻孔に飛び込んだ。気持ち悪さと寒さに全身が強張った。

 外の世界は暗かった。完全なる暗黒が刻一刻と迫り来る予感に、竦み上がりそうになる。悪天候の山中にて確認できる僅かな熱源は、ミズチの手のみだった。

 その事実を実感した時、出会ったばかりの少年の腕にすがりついていた。

「なあ、ゆみ」

「な、なに……」

 くっつきすぎだと文句を言われるのかと思って、身構える。

 こちらを見下ろす双眸は愉快そうに光っていた。光っているように見えるのではなく、実際に黄色っぽい燐光を発している。しかも黒目の部分が細長い形で、動物みたいだった。

「ちょっとさ、うで、ひろげてみろよ。たのしいぜ」

「た、たのしくない……よ。さむ、さむいよ」

「いいから。いちど『こわい』っておもったらさ、からだぜんぶで怖がるんだ。だからその『こわい』ってきもちを手放してから帰らないと」

「てばなし……?」

「そ。こうやって、ばーん! って手をひろげて、余計なもんをすてるんだよ」

 ミズチは唯美子の拘束をするりと逃れて数歩下がり、口にした通りに、両手を思い切り広げてみせた。

 刹那、周囲が眩い光に照らされ――続いて、激しい轟音がした。

 唯美子は悲鳴を上げて顔を覆った。雷鳴がさらに数回響く。骨の髄にまで届きそうな振動だった。

 その場に成すすべなくうずくまる。次に目を開けたら雷に打たれて焼け焦げた新しい友達の姿が見えるはずだ。きっと、そうだ。

 泣いて怯える唯美子の耳は、やがて妙な音を拾った。

 ――笑い声。

 おそるおそる顔を上げる。なんと、ミズチは無傷どころか笑いの発作に身もだえているようだった。馬鹿にされているらしいことがひしひしと伝わってくる。

「ひどい。なんでわらうの」

「ごーめんって。ほら、やってみろよ」

 彼はもう一度両腕を広げた。加えて、目を閉じ、雨に感じ入るようにして顔を天に向ける。

 そうすることに何の意味があるのか。

(やってみればわかるかな)

 とりあえず真似をしてみた。本音では自分も、怖いという気持ちを捨てられたら楽になれるだろうなと思う――

 瞼が下りた瞬間。ぐらりと、上体を支える体幹が傾いだ。パッと目を開け、姿勢を調整する。

 一方のミズチは相変わらず瞑目して雨天を仰いでいた。しかも水を飲むように口を開けている。

 水。喉が渇いていたことを唐突に思い出して、唯美子も彼に倣う。

 舌に弾ける雨粒がくすぐったい。冷たい感触が喉の内を伝い落ちる。寒さと潤いを同時に感じて、身震いした。

 雨は飲めるのだと思い出し、心の中で、あんなに恐ろしかった自然現象がただの水になった。ただの、日常的で身近なものだ。

 ――捨てる。

 余計な思考も感情も、被った布をするりと脱ぎ捨てるように手放せた。恐怖の対象だった雨とひとつになっているのが、妙な気分だ。

 なるほど、とても開放的で、楽しい。

 うっとりした。数十秒経つと、くしゃみの衝動で我に返る。

「はっくしゅん!」

「そろそろ川を見にいくか」

「やだ、かえりたい。かぜ……かぜひいちゃうよ」

「しょうがねーな。じゃあ、つれてってやるよ」

 涙目で訴えてやると、ミズチは渋々承諾した。まるで寒さを感じていないのか、平然とあくびをしている。

「かえりみち……」

「わかるわかる。あと、おいらは夜でも見えるから」

 少年の瞳が黄色い環を描いて光っていた。妖しくて、きれいだ。黒目の部分はやはり縦に細長い。

 唯美子は、思いついたままに喋った。

「ね、おなまえないなら、メナガってどうかな。めがながいってかんじで」

「やだよかっこわりぃ。それ、なんかの虫の名前じゃねーの」

 即刻、提案が跳ね返された。めげずにまた考える。

「じゃあじゃあ、ナガメ」

「それも虫……ふーん。ナガメ、な。悪くないひびきだな。くっさい虫とおなじなのはきになるけど……わかった、ゆみだけ、呼んでいいよ」

 いしし、と少年は口角をいびつにつり上げて笑った。喜んでもらえたのが嬉しくて、唯美子は水を弾けさせながら飛び跳ねた。

 話がついたところでようやく帰路についた。

 奇妙な少年に手を引かれ、勢いの引きつつある雨の下を、二人でトコトコ歩く。道は濡れていて危ない。どうしても、暗闇を急いでかきわけることはできない。

 山は異様に静かだった。動物の音も気配も一切しないのは、みな雨宿りしているからだろうか。

 ――知らないひとについてっちゃだめよ。

 母の警告がどこかから聴こえてきた。それに対し、もう知らないひとじゃないからいいよね、とひそかに自答する。

「きみ、ほんとはなんなの」

 先導する背中に問いかけた。

「そうだな……」彼は振り返らずに答えた。ぽたぽた、との継続的な雨音に覆われて、へたすると聞き逃しそうになる。「二ホンの昔話にあるだろ、ツルのおんがえし的な? そーゆーあれだよ」

「ぜんぜんわかんない」

「まあいいじゃん。今日は、うねうねしてないからさわれるだろ」

「え?」

「おいらの『ギタイ』すげーだろ。ちゃんと、体温までまねしたんだ――」

 暗くて、振り返った横顔はよく見えない。

 薄っすらと浮かび上がる白い歯の隙間に視線が吸い付けられる。右手に絡んだナガメの手の温みを、唯美子は急に強く意識した。


     *


(……違う。初めて会ったのは、あの時じゃない)

 不安定な子供の記憶を、大人の脳の処理能力でさかのぼる。なぜか今は不自然なほどに明瞭に呼び覚ませる。

 彼は確かに擬態と言った。人の姿を、うまく真似ているのだと。ならば、ヒト型ではなかった時のミズチは果たしてどんな姿であったのか。


 さかのぼったのが数日分か、数週間分かは定かではない。

 ――けがしてる……。

 ひとつの思考をきっかけに、場面が断片的に再現される。

 その日も雨が降っていたが、唯美子は傘を手にしてしゃがんでいた。視線を注ぐ先は、地面でうごめく小さな生き物。

 ――あめ、しみちゃう。でもながくてうねうねしてるの、きもちわるいなあ。さわりたくないなあ。

 小さな生き物をどこかへ避難させてやりたかったが、運ぶ手段が問題だ。下敷きか何かで拾えただろうに、その時は思いつかなかった。

 触りたくないけれど、雨に降られているのがかわいそうだ。結果、傘をあげることにした。後に母に「ずぶぬれじゃない! ちょっと目を離した隙にどうやって傘をなくしたのよ!?」とひどく叱られたものだ。

 ――へびってなにたべるのかな。

 呟いても、答えはなかった。大人の手の平に収まりそうなほど小さい蛇は、弱々しく頭をもたげようとするだけだ。

 ――はやくげんきになってね。

 せめてものエールを送るつもりで、唯美子は蛇に笑顔を向けた。


     *


 建物がひしゃげてつぶれるような凄まじい破壊音の連鎖で覚醒した。

 浮遊感に、息が詰まる。寝ぼけた頭が発するそれではなく肉体全体で感じ取れる重力の欠如――つまりは落下が始まる予兆である。

 恐怖は抱かなかった。唯美子を包み込む気配が、安心をもたらすものだからだ。

(…………ナガメ)

 これが偽りの温もりだと言われても、俄かには信じがたい。自身の肩を握りしめる大きな手も、膝を支え上げる力強い腕も、作り物だとは思えなかった。あるいは真偽のほどは大して重要でないのかもしれない。信頼できると直感できるなら、それで十分だろう。

 着地の衝撃はほとんどなかった。

「先達に敬意を払えって、習わなかったのかあ? こいつの糸を引いてたのって、あんただな」

 成人男性の姿をしたナガメが、毒を含んだ声で言い放つ。

 数秒ほどの沈黙。さきほどまで喫茶店であったはずの瓦礫の下から、先にマスターが這い出て、恐縮したように深く頭を垂れた。

「まさか近くに上位個体がいたとは気付かず……礼を欠いてしまい、申し開きもありません」

「おう。わかりゃーいいんだよ」

「これからどうするおつもりですか。我々はニンゲンの法では裁けない。顔を変えることも、DNA鑑定をごまかすことだってできます」

「おとなしくどっか遠くに消えるんならどうもしないぜ。俺は別に、餌場荒らしがしたかったわけじゃねーし」

「慈悲を与えてくださり、感謝」

「はは、お前も大変だな。ニンゲンの味をおぼえたケモノは、大抵は餓え続ける。俺たちは確かに新鮮な内臓を喰えば生命力が跳ね上がるけど、喰った相手の思念も己の血肉に吸収されるからな。その業を消化できるほどの精神力がなければ、狂った化物と化すだけだ」

 次のひと言は、マスターの後方からゆらりと立ち上がった影に向けられていた。

「ニンゲンの思念は、重くて粘っこいだろ。案外ギリギリのとこで理性保ってんじゃねーの」

「せっかくの、すごく、うまそうな、エモノ! じゃまを――するなぁっ!」

 影は威嚇するように呼気を吐いた。察するにこれが笛吹の本性なのだろう。「これ」と会話して食事をしていたとは、なんと不気味な……。

「頭冷やせって。もっかい吹き飛ばしてほしいみたいだな」

 唯美子はただ息を呑み、悠々としているナガメにしがみついた。

 そこに、マスターが間に入って手を突き出す。

「ご心配には及びません。力ある眷属を育てたかったのですが、いつの間に勝手に食の範囲を広げて、収拾がつかなくなってしまいました。この個体はいずれ、私の方で『処理』します」

「おー、ぜったい半径百キロ以内に戻ってくんなよ」

「はい」

 二つの影は瞬時に折り重なり、突風を伴って消えていった。悔しそうな雄叫びも一緒になって遠ざかる。

 今になって振り返ると、笛吹秀明が真に経理課の先輩だったかどうかに自信が持てない。初めて会ったのがあの合コンで正しいのか、またはいつから勤めていたのかを思い出そうとしても、頭の中に靄がかかったように判然としない。

 これまでに得た情報を疲れた頭でかき集めると――彼は、彼らは、人間ではないもので。この周辺で(死体を隣の県に捨てたりして?)、人に害をなしていたのだという。

 非日常感が強すぎてなかなか理解しきれない。自分は死にそうになっていたのか。食べられるところだったのか。

 騒ぎを聞きつけた者が駆け付けるよりも早く、ナガメもあっという間にその場を後にした。サイレンの反響から離れられたところで、やっと地に下ろしてもらった。

「泣いてんのか、ゆみ。よしよし怖かったな」

「……違うの。わたしは助かったけど、助からなかった他の女の人たちがどんなに怖かったのかと思うと、ほんとにこれでよかったのかなって」

 ふと頭を撫でる手が止まった。

「報復したいって意味か?」

「え? そんな怖いこと考えてないよ。ただ、あの人たちは悔い改めも償いもしないのかな、って」

 ナガメは不可解なものを見るような顔をした。子供の姿の時の表情をそっくりそのまま大人にしたようで、不思議だ。普通は、誰かが年を重ねる前後の姿を見比べる機会は写真や映像の中でしかない。

「たとえばコモドオオトカゲが人里に降りて人を喰い殺した時、その個体に悔い改めて欲しいと思うか」

「なんでそんなマニアックなたとえなの」苦笑する。「えっと、思わないかな」

「な、人を喰った動物は退治するか、遠くに追い払うかするだろ。害獣だっつって。種をまもりたいなら、不安要素は放っておけない」

 ――言われてみれば、そうだ。

「でもコモドオオトカゲとは意思疎通ができないよ」

「さっきのやつらとだって、言葉が通じても意思疎通ができるかはわからないぜ」

 それで遠くへ追い払ったのかと思えば、どこか納得できそうだった。でもこの場合は唯美子にとっての遠くであって、人里に届かないようなところではない。また犠牲者が出ることは十分に可能だ。そう漏らすと、ナガメは二匹のトンボたちを指先にのせて遊びながら、実にどうでも良さそうに答えた。

「人類のことは人類がどうにかすればいーだろ。俺がまもるのは、ゆみだけだ」

「そ、そう」

 感覚の不一致に、越えられない溝を感じる。先述の通り、言葉が通じても理解し合えるわけではないのだと思い知らされているようだ。

 けれど彼は助けてくれた。今はそれだけに、感謝すべきだろう。

「ナガメ、ありがとう。ごめんね忘れてて。十七か十八年前のことだから」

 難しいことを考えるのはやめだ。昔そうしてもらったように、今度はこちらから彼の手を握る。

 握り返してきた指は記憶の中のそれと違って骨が太く、慣れない感触だった。心臓が二、三度大きく跳ねる。

 作り物の温もり――ぬるま湯のようで、触れているとなんだか気が楽になる。

 ニヤリ、青年は片方の口角だけを吊り上げた。

「やーっと思い出したか。まあ、思い出せなかったのもたぶん、ひよりの術のせいだろーな」

「また、おばあちゃんの術――」

 タイミングを見計らかったかのように、地鳴りのような低い轟きが響いた。と言うのは大げさで、実際はただの腹の虫だったが、恥ずかしい。いいかけていた言葉を飲み込み、唯美子は耳元の髪を指先でいじった。

 歩いて帰らないかと提案する。ナガメは手を振って却下した。

「何時間かかんだよ、それ。川でも使った方が早くね」

「川を使うという発想がまずよくわからないのだけど。あ、そうか! きみ、蛇の姿にもなれるんだよね」

 そう言ってぽんと手を叩き合わせた時、何かもうひとつ大事なことを思い出しそうになったが、空腹のせいかうまく頭が回らない。

「ん。『蛇』は手の平サイズ、『蛟』だと全長十メートル。ミズチっつってもその単語が一番わかりやすいから使ってるだけで、記録の中の蛟と比べて、独自の生態があるから」

「自分のこと、生態とかいうんだね」

「生態は生態だろ。だから、蛟の姿なら川」

「待って。きみが何を言おうとしているのかわかってきた。やっぱり、タクシー呼ぼう」

 両手を突き出して制止を呼びかける。いくらナガメが一緒とはいえ、水辺や鱗はできれば触れずにいたいものだ。

 ふいに静寂があった。もしや、断ることで傷付けてしまったかと焦る。

 唯美子が少し上に目線を上げると、そこには、難しい顔をして額を押さえる青年がいた。どうしたのと問いかけると、ナガメは歯切れ悪く言った。

「いや……たくしぃってなんだっけなって。車の種類なのはおぼえてるけど。うーうー鳴るやつか?」

「タクシーは鳴らないよ。お金を払って車で快適に送り迎えしてもらうシステム……?」

 乗ればわかるから、と唯美子は思わず笑って返した。


     *


 外食は節約の敵だ。多少の空腹を我慢することになろうとも、自炊がベストの選択と言えよう。

 残り物のご飯に冷凍野菜を加えてサッと炒飯に仕立て上げ、卵でとじる。後は豆腐とワカメたっぷりのみそ汁でたんぱくを補えば事足りる。

 ごはんできたよと呼ばわりながら振り返ると、なんとちゃぶ台の前に、七歳くらいの少年がちょこんと座っていた。危うく皿を取り落しそうになる。

「いつの間に縮んだの!」

「体積を減らすへんげは四十秒でできるぜ。外皮は特殊仕様でみずにとけるから、トイレにながしとけばすむし」

「うわあ……」ドン引きだ。この話題はあまり引きずりたくなかった。唯美子は散らばってた雑誌や新聞紙をちゃぶ台の上から落として、皿を下ろす。「きみも食べるよね」

 訊くと、黒い目線がぐるんとこちらを向いた。

「きょう何曜日だ」

「金曜日だけど、それがどうしたの」

「じゃーくわなくてもいいや。小さいときは、省エネだし」

「なに言ってるの。少しでいいから食べないと」

 半ば強引に小皿とスプーンを持たせ、ついでに「いただきます」などの挨拶について教え込んでおいた。こうなってしまえば、意外に彼は素直だ。咀嚼音とテレビの音が、しばらく続いた。

「ごちそさま。しってたか、ゆみー? ヘビの舌って、ほぼ味覚がねーんだよ」

「えっ」

 この時にして、もしかしたら本日一番の驚きに出会ったかもしれない。驚く点の多い一日だったのだから、相当だ。

「なんとかソン器官のほうに、舌でひきこむんだよ」

 思わずスマホで検索した。厳密にはヤコブソン器官というらしい。

「それで『多分おいしい』なんて感想になるんだね」

 スマホから顔を上げた唯美子は、あれ、と目を瞬かせた。少年の朗らかな笑顔に、違和感をおぼえたのである。その源を特定しようとして、さんざん見つめることとなった。

 歯だ。前歯の欠けている部分が、大人の時と子供の時とで違うのだ。欠けた歯の種類も、位置も合わない。そう指摘した。

「こっちは子供の歯が抜けた穴で、あっちは大人の歯が殴られて折れたんだよ」

「うん? 脱皮して変化してるのにそういうの関係あるの」

「まあ、いいじゃねーか。細かいことは」

 あからさまにはぐらかされた。

 そして追究する間もなく、にゅっとナガメが唯美子の腕の下をくぐり、懐に入ってきた。きゃ、と反射的な悲鳴を上げる。

 腹部に小さな背中が当たっている。嫌ではないが、変な感じだ。

「ナガメは、大人の時と子供の時とでちょっと雰囲気違うね?」

「おう。ニンゲンのたいどって相手の見た目によってかわるから、こういう姿なら、あまえほーだいなんだろ」

「……なんか作為的だね」

「うけうりだけど。そーゆーもんじゃねえの」

「たぶん根っこのところではみんなそうなのかも……そんなこと考えながら生活してるのって、計算高い感じがするけど」

「ケーサン?」

 少年がぐりっと頭を後ろに傾けた。双眸に光る黄色い環は、時折現れては消える。それは「ミズチ」の非人間的な本質を象徴しているようだった。

 この子は、人間を冷静に分析していながら、さらなる一歩を踏み込む気がないのではないか。計算高いのではなく、本当に素直に、誰かに言われたことを実現しているだけに思える。

「ううん、気にしないで。それよりきみはいつまで居座る気なの」

 流れで夕食に誘ってしまったが、彼にも帰るところがあるのではないか。

「ゆみが死ぬまでかなー。だってほっとけねーし」

「……それってすごく長くない?」

 困った顔で問い返すと、ぶかぶかの服に着られている少年はニッと笑んでみせた。

「おまえもききたいこといっぱいあんだろ? ゆっくりこたえてやっから。これからめんどーな目に遭うんだしな」

「でも」

「おいらは長寿だ。不死じゃないけど、不老なの。ゆみひとりの人生に付き合ったって、何も減らないどころか暇が有り余るんだな、これが」

「わたしの生活費が……というよりきみの食費……」

「一週間に一度食えりゃたりる。そんなにかさばんねーとおもうぜ」

 安心しろ、と彼は舌を歯の間にちろちろと出し入れしてみせた。ちゃんと人間の舌の形をしていたそれは、蛇である時の動作をそのままクセにしたようなものだという。

 唯美子が思い悩んだ時間はそう長くなかった。

(可愛いから、いっか)

お付き合いくださりありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。


ミズチの擬態はいい加減なとこもあって、蛇の構造を人型のまま使ってたり、人間の構造を真似ているところもあります。自分ではうまいと思っているけど微妙に化かし切れていなくて、血が出ないのは雑さの表れみたいなものです。


第二章投稿は2018年秋頃の予定。

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