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ゆみとミズチ  作者: 甲姫
第一章:みずちという子
2/9

1-2.

『先日、〇〇市〇〇区にて女性の刺殺体が発見された件についての続報です』

 フライパンで野菜を炒めていた唯美子は、物騒なニュースに反応し、箸を動かす手を止めた。

 しかし換気扇がうるさい。

 これでは続きが聴き取れない。一旦火を弱めて箸を置き、居間のテレビの音量を上げに行った。

『去年十一月に〇〇県でも女性が発見された事件や一昨年の〇〇県での事件との関連性が懸念されており――』

 ちゃぶ台に積み重なっていた新聞の下を探る。ほどなくリモコンを発掘することに成功し、「音量を上げる」ボタンを連打した。

 満足した唯美子は、キッチンに戻って夕飯の支度を終えた。

『手口や発見場所が違ったものの、いずれの事件でも死体から内臓がごっそりなくなっている点が共通しており、犯人はまだ捕まっておらず――』

 丼にごはんを盛り、その上におかずを仕分けてのせる。いただきます、と軽く手を合わせてから食事に至った。

 作ったばかりの炒め物に残り物の煮物、某市場で買った佃煮で、三品。独り暮らしにしては頑張った方の日であろう(ちなみにこの盛り方は使用する皿の数を、すなわち洗い物を減らすためである)。頑張らない日には主に冷蔵庫にあるもので煮込みうどんを作って済ませている。

 海での短い休息から数日経って、木曜日になっていた。後一日働けば週末だ。

 夢中遊行――と呼んでいいのかはわからない――はあれきり発生していない。

 真希に相談した時には検査してもらった方がいいと騒がれたものの、気が進まないので、様子見になっている。二度目があったら受診するつもりだ。

(あの時の真希ちゃん面白かったな)

 野菜を咀嚼しながら、くすりと思い出し笑いをする。

 皆のあこがれの的である男性に助けられた挙句、夜道を二人で歩いたのだ。こちらに感謝以上の感情がなくとも、事の顛末を聞いた真希が羨ましがったのも仕方がないだろう。

『――県警はこれまでに捜索願が出ている女性のリストを改めて検証しているそうです。その辺り、先生はどうお考えですか』

 丼から顔を上げると、いつしか画面が切り替わっていた。中年の男女が向かい合って座っている。犯罪心理学の専門家だという男性が、犯人像について語るようだ。

 唯美子は論議に注目した。怖いが、つい気になってしまう。

『こういった連続的犯行に及ぶ人間は、被害者を選ぶに用いるパターンと言いましょうか、好みがあるものでしてね』

 彼らは深刻そうに声を潜め、それでいて、アナウンサー特有のハキハキとした語調を崩さない。

 思わず箸を置いて見入ってしまう。

『でもこれまで見つかっている三件の被害者は服装や髪型もバラバラだったんですよね?』

『ええ、そこが問題ですね。現状、共通しているのは全員が若い女性だという点だけで、犯人がどうやって次の犠牲者を選んでいるかはほとんど見当がついていません』

 また画面が切り替わった。これまで発見された女性たちの顔写真と短い紹介が並べられる。

 左から順に――ぽっちゃり気味の穏やかな表情をした主婦、化粧の濃い短髪の女子高生、無表情で巻き毛のボブを茶色に染めた大学生。

 なるほど、共通点は見当たらない。

「へー、ころされたヤツら、こんなんだったんか。みぎ端っこの女、ゆみに似てるな。髪色ちがうけど」

 突然。実に、突然だった。

 ひとりだけの空間に、他者の声が響いたのは。しかも耳元で。

「!?」

 驚いて唯美子は膝をちゃぶ台の裏にぶつけた。痛みにしばらく動けずにいると、声の主は構わずに話し続けた。

「なあ、まえは黒髪おかっぱだったよな。なんでいまはワカメみたいな頭になってるん」

「……これはパーマです! デジタルパーマ! ワカメ言わないで」

 いつか浜辺で遭遇した少年に向かって、抗議した。

「デジタルってなんだよ、サイバー空間でやってもらってんの? ちょっとはなれてたあいだに日本もすすんだなー」

 つぶらな瞳が好奇心旺盛に見つめてくる。

「ちが――ううん、なんでデジタルって呼ぶのか、わたしにもわかんないけど。そんなことよりきみ、どこから入ってきたの!?」

「どこって、窓あいてんじゃん」

 少年は悪びれずに親指で背後をさす。そういえば居間の窓は網戸がなく、全開だ。十歳以下の子供の小さな体躯であれば余裕で通れる幅である。

 問題はそこではなかった。

「あの、ここ、三階だよ」

「三階だな」

 言わんとしていることが伝わらなかったらしい。我が物顔でちゃぶ台の前にちょこんと座った少年に向かって、唯美子はいま一度問う。

「梯子なんて出してなかったよね。どうやって上がってきたの」

「ベランダ伝えばらくしょーだし」

 少年は鼻で笑った。果たして彼が言うほど楽にできることなのか首を傾げざるをえないが、自信満々に言うので、そういうことにしておいた。

(押し入りの常習犯……? にしてはなんか……)

 金目のものを探している風ではない。けれど子供の姿で相手を油断させて、実は大人の共犯者がいたりするのかもしれない。この物騒な世の中だ、どこに危険が潜んでいるのか誰にもわからない――

 黒い双眸が丼をじっと睨んでいた。

 まるで初めて出会う料理を前にした時のように、唇に指をあてて何かしら考え込んでいる。ついにはちゃぶ台のふちを両手でつかみ、丼に鼻を寄せてひくつかせた。微かに立ち上る湯気を嗅いでいるようだ。

 もしかして、と声をかけた。

「きみ、おなかすいてるの」

「んにゃ別に」

 即答すぎてかえって疑わしくなる。

「意地張らないで正直に言ってもいいんだよ」

「ほんとだって。はらへってねーけど、それ、どんな味すんのかなって気になってるだけ」

「じゃあ食べてみる?」

 唯美子が提案した途端、その子はわかりやすく顔を輝かせた。

 無邪気そうな表情だった。一緒になってはにかんでしまう。

 正体が物乞いでも押し入りでもいい、少なくともこの瞬間では、無害な児童にしか見えなかった。

(まあいいよねこれくらい)

 独身生活を寂しいともつまらないとも思ったことはないが、誰かと食事ができるなら、それに越したことはないのである。

 立ち上がりかけて、唯美子はぎょっとした。視界の端で少年が、丼に右手を突っ込もうとしている。

「ちょっと! お行儀悪いよ! きみの分の食器いま持ってくるから」

 慌てて叱りつけると、不服そうな顔が返ってきた。

「そういえばそんなもんがあるんだったな。ニンゲンはめんどくせえなあ。それにギョーギってなんだ。ギョーザ?」

「お・ぎょ・う・ぎ。作法や礼儀のことだよ」

「れーぎ、ね。わかった」

 わかってくれたか、とひと安心して踵を返す。まったくこの子の親はどういうしつけをしている――考えかけて、そういえば「親なんていたことない」と主張していたのを思い出す。言葉通りではなく、親と思えるような人間がいなかった、の意味だろうか。

 さすがにこの歳で保護者がいないのはありえないはずだ。

 唯美子は丼と同じように盛ったお碗と箸を手に戻り、まじまじと少年を見下ろす。太っていなければ痩せすぎてもいない、十分に健康そうな肉付き具合である。

 身なりも、汚いという印象はない。むしろ服はきれいだ。

 ――なぜか今日は、浴衣ではなく時代劇みたいな和装をしているが。

(七五三……違うか。平安時代の衣装っぽい)

 陰陽師映画にでも出られそうな感じだ。撮影会か何かから逃げ出したのだろうか。

「えっと――」とりあえず声をかけようとして、なんて呼べばいいのかわからないのだと気付く。「きみ、お名前なんていうの」

 奇妙な間があった。少年はじっとこちらの表情を窺っているような目をしている。

「おいらは、みずちだよ」

「ミズチくん?」

 いざ口にしてみると、聞き覚えのある音の羅列のように思えた。神話か民話の化け物だった気がするが、そういったものよりももっと身近に感じる。

「べつにそれ名前じゃねーけど」

「え? 違うの?」

「厳密にはちがうけど、まあいちばんわかりやすいから。よんでいーよ」

 まるで話題に興味を失くしたみたいに、ミズチと名乗った少年は箸を手にした。

 その箸の持ち方がまた独特だった。上と下を先端から開閉する動きではなく、クロスさせた二本の隙間を縮めることでものを挟んでいる。それも、左利きで。

「スプーンの方がよかったかな」

 不慣れなものを使わせてしまったかと気を遣う唯美子に対し、ミズチは「んー」とだけ返事をしてお椀を片手で持ち上げた。

 ものすごい勢いでかき込んでいる。よほど美味いかよほど不味いかのどちらかだと予想し、身震いした。

「煮物ね、ダシ入れ忘れて後で気付いてつけたしたの。ちょっと味薄めかも……大丈夫? まずくない?」

「うまいよ。たぶん」

 無頓着そうに彼は応じる。

(たぶんってどういう意味だろ。そんなに微妙だったかな)

 これには、ちょっと傷ついた。というのも、唯美子の料理は必ずどこかでなにかが抜けている、とよく評されるからだ。気を付けているつもりなのだが、たとえレシピ通りに作っていても何かを入れ忘れるなり下ごしらえの手順を飛ばすなりしてしまう。

「でも肉たりない」

「ごめんね。今週高かったから、少なめでいいかーって」

 見ず知らずの彼の要望を考慮して献立を組んでいるわけではないのに、つい謝った。

「ふーん。くえるときにくっとけよ、倒れっぞ。ただでさえほそっこいのに」

「う、うん」

 それきり少年は黙り込んだので、テレビの声だけを供に、唯美子も食事を済ませた。

 洗い物をしている間、ミズチは険しい表情でテレビを睨んでいた。殺人事件に関係がありそうな、どんな情報でもいいから連絡してほしいという視聴者への呼びかけで、報道はひと段落した。

「ねえ、きみの服……」

 居間に戻るなり唯美子は質問しかけた。

「これか。童水干っていうらしいな。たぬきやろーに、面白がってきせられた」

 ミズチは腕をばたつかせ、長い袖をうっとうしそうにみやる。

「えっと、その『狸野郎』さんは、きみの保護者なのかな」

「ちっげーよ。やどぬしだ。天気がわるいときに泊めてもらってるてーどの仲だよ」

 宿主、と唯美子は口の中で単語を反芻した。

「天気が悪い時だけ?」

「晴れてるんなら、公園でねりゃいーだろ」

「あはは……」

 やはりこの子供はおかしい。言動に、言葉選びに一貫して不自然さがにじみ出ている。補導されずに幼児が公園で夜を明かせるはずがあろうか。

 おかしいのは言動だけではない――

 唯美子がおかっぱ頭だったのは小学校低学年までだ。後にツインテールに移り、ストレートセミロングや、何を血迷ったのか姫カットを試したこともあったが、最終的にボブに落ち着いた。それから会社勤めを始めてちょっと経つ頃、パーマに興味を持つようになったのである。

 要するにミズチは小学校低学年までの唯美子を知っていると主張しているのだ。

 少ない想像力を総動員して、考え込む。

(肉体の成長が止まった病気……ううん、それならわたし、どうしてこの子をおぼえてないんだろう。おばあちゃんからわたしの話を聞いて、思い出を捏造した、とか……?)

 可能性としては後者の方が比較的苦しくない、気がする。

 問い質すつもりで少年を見つめた。

 その時、座布団に放置していたスマホが軽快な電子音を発した。チャットアプリからの通知だ。

 内容を確かめようとして手を伸ばすと、ミズチが先に素早くかっさらっていった。眼前までスクリーンを寄せて、眉間にしわを刻んでいる。

「めん、る、ぎょう……なんだこれ」

「え、そんな暗号めいた文章を誰かが送ってきたの」

「わかった! 『あした』『いく』か」

 少年がドヤ顔でスマートフォンを渡してくる。文面をみなまで確かめると、正確な内容は――

『こんばんは、明日まだ行けそう?』

 ――だった。

 不思議とミズチは、漢字部分しか読もうとしなかったのである。

(ひらがなが読めないのかな)

 珍しいこともあったものだ。通常ひらがなからカタカナへ、果ては漢字へと順に教えられるものではないか。彼の家庭事情を気遣って、唯美子は訊ねることができなかった。

(それに漢字も。意味はわかってたみたいだけど、音読みですらなかったような)

 流暢な日本語を話しているのに、外国の子だろうか。謎だらけだ。

(既読ついちゃったから、返事書かないと)

 大丈夫でs――まで入力したところで、視界が急にぼやけた。

 両耳と鼻にかかっていた圧が消えた、つまり眼鏡を取られたのだ。

「こら、なにするの。返して」

 取り返そうとするも、子供は絶妙に上体を捻って、唯美子の手の届く範囲から逃れた。

「ゆみは『いく』気なんだな」

「うん? もともと約束を取り付けたのはこっちからだよ?」

 というより、たったあれだけの文面でこの子は、自分がどこへ行くと思ったのだろう。

「よくしらないやつとふたりきりで会うんだろ」

 ずばり、言い当てられた。

「それを言うならまったく記憶にないきみとふたりきりで晩御飯を食べたけど」

「おいらはいーんだよ。そいつは、ダメだ」

 ぎくりとした。

 冷たい、声だった。幼児にこんな声音が出せるものかと思わずたじろいだほどだ。黒い視線も、同様に冷たい。どんな感情で「ダメ」と言われているのか、唯美子にはわからなかった。

 その双眸を見つめ返していたら、瞳の奥が光ったようだった。視界がぼやけているのに、それだけがはっきりとわかった。

「あ、あのミズチくん、眼鏡返して。それがないとわたし、家の中でもすっころんじゃうの」

 威圧に負けて、目を逸らした。その間にどうやら少年は眼鏡を自分でかけてみたらしい。

「うぅわ……わざわざこんなもん使って……あたまいたくなんねーの? 多少みえなくたって、しにゃしねーだろ」

「死ななくても生活しづらいんだよ。特に現代はね、視覚情報に大いに偏ってるの」

 あくまで個人的見解ではあるが。

「ふーん。まあいいや」――慣れない手つきで彼は眼鏡をあるべき場所に戻してくれたので、視界がクリアになった――「おまえがそのつもりなら、こっちにも考えがあるぜ」

 唐突に話も戻った。

 思えばどうして、会って間もない子供に自分の明日の予定を語らなければならないのだろう。むっと眉をいからせ、目と鼻の先の彼を睥睨する。

 視線を交えたまま少年は赤い舌をちろちろと、歯の間から出入りさせる。何気ない動作はまるで無意識の癖のように、自然と繰り出された。

「きみには、関係ないんじゃ、ないかな」

「そう、かも、な」

 彼はわざとらしくゆっくりと答えた。そして身をひるがえし、窓に向かっていった。

「ま、まって。ききたいことがまだたくさんあるよ」

 半ば衝動で引き留めた。

「たとえば」

「どうやってわたしの住んでるアパートを見つけ出したの……とか」

 最初に会ったあの浜辺は別の県にある。連絡先を交換したわけでもないのに再び会えた、この事実はどう考えても普通ではなかった。

 ぶうん、と羽音がした。

 一対の大きなトンボが少年の肩にとまる。いつか見たのと同じ、青と茶色の二匹だ。

「そりゃー鉄紺と栗皮にさがしてもらったにきまってるだろ。こいつらな、特定の気配ってゆーか、魂の痕跡を追跡できるんだぜ」

 虫を指さしながら、また当たり前のように小難しい話をしている。

 そう思ったが、次いでミズチは窓枠に片足をかけて「こんせきをついせき……せきせき……なんかへんな響きだな。これであってるんかな」と自信なさげに呟いた。受け売りだろうか、どこまでうのみにしていいものかわからない。

「とにかく明日はきをつけとけよ。じゃ」

「えっ」

 ――危ない!

 急いで窓辺まで駆け寄り、外を見回した。暗がりの中で、怪我にうずくまる子供の姿を探し求める。

 だが、そこには何もなかった。いくら目を凝らそうとも――

 街灯の照らす地上には人どころか小さな影のひとつも浮かび上がらない。


     *


 唯美子は某表計算ソフトとにらめっこをしながら、昨夜「ごちそうさま」と言ってもらえなかったことに対して、時間差でショックを受けていた。

(きっとあの子の国にその習慣がないだけだよね)

 過ぎたことを気にしてどうするのかという話だが、なんとなく、もう一度会いそうな気がしていた。二度あることは三度ある。次会ったら教えてやろう、そう心に決めた。

 計算式の最終チェックやメール返信を済ませるうち、背後から足音が近寄ってくることに気付いた。振り返らずに己の作業を進めていると、その者が話しかけてきた。

「漆原さん、そろそろあがれそう?」

 肩越しに爽やかな声が届いた。経理課の笛吹秀明である。

 社に残っている周りの人間――主に山本女史や田嶋女史といった彼に興味を抱いている女性――の注目を浴びてしまわないかと内心ヒヤッとしつつも、振り向きざまに返事をする。

「はい、あと少し」

 定時を過ぎてまだ数分といったところだが、今日はこの通り約束がある。そのつもりで仕事をさばいてきたし、幸いと残業の必要もない。

「じゃあ僕は下で待ってるよ」

 そう言って、長身の男性は踵を返した。

「あの人気者とデートだなんて、どうやったの」

 唯美子がパソコンの前から立ち上がるのを見計らって、隣の席から年配の女性がオフィスチェアを転がしてきた。内緒話をするみたいに手の甲を口元に添えて。

「誤解ですよ。この前助けてもらいまして、お礼にコーヒーをおごらせていただくだけです」

「お礼にコーヒーねえ? 後学のためにおぼえておくわ」

「だからそんなんじゃ……」

 困ったように唯美子は笑った。こういう時、もっとうまく返せたらいいのにと常々思う。恋愛方面にからかわれるのはどうも苦手だ。

 お先に失礼しますと挨拶だけして、逃げるようにその場を後にした。

「お待たせしました」

「お疲れ。さっそく行こうか」

 こちらの姿を認めて、笛吹はスマホをコートのポケットにしまった。入れ替わりに同ポケットから車の鍵を取り出している。

「運転するんですか?」

 驚きを隠せずに訊ねる。行き先は余裕で徒歩圏内のはずだった。

「ああ、駅前のチェーン店もいいけど、僕の行きつけの店を紹介しようと思って」

「そうですか……」

 不安そうな表情を浮かべたかもしれない。後退りそうになるのを、なんとかこらえる。

「味は保証するよ。ごめん、さっき思い付いたもので。駅前の方がいいなら無理にとは言わないけど」

「あ、だ、大丈夫です。笛吹さんのおススメの方に行きましょう」

 唯美子は慌てて取り繕った。

「ありがとう。車を回してくるから、ここで待ってて」

 はい、と短く返事をする。

 イケメンが高そうな靴を鳴らしながら駐車場へ向かった様は優雅そのもので、他意は感じられない。

(なのに、この落ち着かなさは何だろう)

 よく知らない男性の車に乗り込むのに、抵抗をおぼえるのは当然だ。だが一度は承諾してしまった以上、途中で「やっぱり気が変わった」と言い出すのは気が引ける。

 ヘッドライトの光が近付く間に最後の迷いを振り払った。観念して、助手席に滑り込む。

 密閉空間で成人男性と二人きり――会話はかろうじて続いたけれど、少しでも沈黙すると、息苦しさを感じた。窓を開けても、代わりに入る空気は夏の夜の淀みに満ちている。

「漆原さんは会社から近いとこに住んでる?」

「近いと言うほどでも……二つ先の駅です」

 ただし、田舎でいう「駅二つ」はそれなりの距離である。

(都会の電車なんて三分ごとに停まったりして、効率が悪そう)

 会話と関係ない思考がよぎったのは、落ち着かなさゆえだろう。

「へえ、ひとり暮らしなの」

「そうです。笛吹さんは?」

 質問されてばかりなのが気になり、唯美子は訊き返してみた。

「僕は会社から車で十五分、山の上に一戸建てを持ってるよ」

 滑らかに車を左折させながら、彼はさらっと答える。

「すごいですね」

「そうかな」

 二十代後半という若さで家を買ったのか。唯美子は驚嘆した。もしかして何かタネがあるのかもしれない。自称した年齢よりもずっと年上だとか、親族から相続したとか……。

 あれこれ考えているうちに目的地に着いてしまった。シートベルトを外してバッグを肩にかけて、車から出るのにもたついていると、颯爽と助手席側に現れた笛吹がドアを開けてくれた。

 差し伸べられた手を取るべきか、逡巡する。紳士的行動を、親切を拒否しては相手を傷つけかねない――そう結論を定めて、やがて唯美子は手を取った。

 真夏だというのに笛吹の手の平は氷水のようにひんやりとしていた。漠然と抱いていた不安を、より一層と深めるような冷たさである。

 地面に降り立ったが早く、手を放した。

(あからさますぎたかな)

 内心では冷や汗をかいたものだが、当人は気を悪くした風でもなく、朗らかに「ここのコーヒーとチーズケーキは格別に美味しいんだよ」と言って先導している。しかも明らかに足の長さが違うのに、こちらの歩調に合わせてくれた。

 困惑気味に後ろに続いた。

 ――この人はこんなにやさしくしてくれているのに、どうして自分はその所作に、いちいちうがった見方をしてしまうのだろう。

 唯美子は小さく首をひねった。異性に対して警戒心が強い方なのは自覚しているが、体温までをも深読みするのはさすがにおかしい。

 ――カランカラン

 入口にかかった鐘が立てた小気味いい音が、思考を中断させる。

「漆原さん、注文は僕が決めてもいいかい」

「はい、お任せします」

「お菓子とかは?」

「えっと……それもお任せで。わたし、食べられないものはないと思います。なんなら、さっき言ってたチーズケーキでも」

「わかった」

 それから笛吹は、マスターと親しげな挨拶を交わした。

「挽きたては何があるんだい」

「そうですね、本日は――」

 二人は呪文のような固有名称を応酬した。おそらくは、豆の種類について話しているのだろう。大体インスタントで済ませてしまう唯美子には、どこの秘境やらどこの国の高山やらからとった豆の違いはわからない。

 手持ち無沙汰なので、店内を見回すことにした。

 六席のバーカウンターに、四角いテーブル席が八組、ブース席はなし。赤茶や黒を組み合わせたシックな内装で、照明も淡くムーディーな黄金色を使っている。ローストコーヒー特有の香ばしさが空気中に漂っていて心地良い。ジャズだろうか、ゆったりとしたサックスやピアノがスピーカーから流れている。

 雰囲気はとてもいい。ざわついていた心が少しはまともに戻れそうだった。気がかりなのは、他に客がいないことだけだ。

 テーブル席に腰かけて注文が届くのを待つ間も、そこに意識を向けずにいられない。隣の空いた席にハンドバッグを下ろし、笛吹と向かい合って座った。

「貸し切り状態ですね」

「夕食の時間帯は、客足が遠のくものかな。ゆっくり話せるから、ちょうどいいんじゃない」

 そう返されては微笑むしかなかった。

 豆がゴリゴリと挽かれていく音が、穏やかな店内に響いた。僅かばかり続いた、唯一の不協和音だった。

 壮年の男性マスターが、大きめのマグカップ二つと皿に盛った可愛らしいチーズケーキを持ってきた。ごゆっくりどうぞ、と目を細めて笑ったのに対し、ありがとうございます、と答える。

 唯美子はミルクの入った小さな水差しを手に取ったが、笛吹がマグカップをそのまま口に近付けたのに気付いて、ふと口に出した。

「笛吹さんはブラックで飲む派なんですね」

「まずは純粋に味わわないと、失礼だからね。コーヒー豆そのものにはもちろん、その豆を育てた人や焙煎した人、挽いては淹れてくれた人にも……あ、これはあくまで僕の美学であって、きみがどんな飲み方をしたっていいんだけど」

 こちらの手が止まったのを見て、彼はそう付け足した。

「そこまで言うなら、わたしもまずブラックで味わってみます」

 セラミック製の小型の水差しを手放し、マグカップを両手で持ち上げる。

 黒い液体は顔に近付けるにつれて芳香さを増してゆく。しばしためらっていると、鼻先が湯気で湿気った。

「無理することないんだよ」

 返答の代わりに唯美子はひと口飲んでみた。

 苦い。知れたことだが、混じり気のないコーヒーは苦い――落胆して顔をしかめたところで、思わぬ甘やかな後味が舌を撫でた。もう一度口を付けてみる。もっと多く飲み込んでみると、今度は苦さのインパクトと一緒に、別の味が舌を打った。

「フルーツっぽい……?」

「チョコレート・ラズベリーだって。味付きのコーヒーは僕はそんなに好きじゃないけど、女性には人気らしいね。どう、いける?」

「はい、これなら何も加えなくても飲めそうです。フルーティと言っても甘いだけじゃなくて酸っぱいようなコクがあるような」

「気に入ってもらえてよかった」

「笛吹さんのは違うんですか」

「スマトラブレンドだよ。飲んでみるかい」

 差し出されたマグカップを、間接キスにならないように、さりげなく回してから口に触れさせる。

 結論から言って強烈な味だった。ついでに変な匂いがする。口元を震わせながら、カップを返した。

「わたしには早すぎたみたいです」

「あはは、気にしないで。口直しにケーキを食べるといいよ」

「そうさせていただきます」

 イチゴがのったチーズケーキを堪能する傍ら、他愛のない話をいくつか交わした。お盆の予定はあるのか、海で日焼けをしたのか、ペットは飼っているか、などと。

 車内と比べるといくらか自然に、リラックスして会話ができた。

 笛吹は動物に嫌われる体質らしく、道行く野良猫にもれなく襲われるのだという話をした時は、お互いに声に出して笑ったほどだ。

 次第に、マグカップの底が見えてきた。壁にかけられたアナログ時計を瞥見し、既に店に入ってから三十分が経っていることを知る。お開きにするべきかもう一杯頼もうか、唯美子は迷った。もう少し話していたい気もするし、やはりそれはやめた方がいい気もする。

 ふいに、目が合った。

(この人も一瞬、光って……?)

 黒い瞳の奥に、炎のような激しさを見た気がした。それは決してありきたりの光景ではないはずなのに、視線を交えていると、脳の芯が溶けるようで何も考えられなくなる。

 すべてが些事だ。陶酔感が、胸に広がってゆく。

「きっかけは不穏だったけど、こうして二人で会う機会ができてうれしいよ。きみとは気が合いそうな気がしていたんだ」

 そんなことを言われたのは初めてだった。何と返したらいいかわからない。

「この後、食事に誘ってもいいかな。イタリアンなんてどう」

 意図せず点頭しかける。

 了承し終える前に、邪魔が入った。茶色の翅をしたトンボが弧を描いて飛び過ぎ、唯美子の手の甲に停まったのである。

 昆虫の足が触れたくすぐったい感触に、我に返った。どもりながらも声を出す。

「う、いえ、今日この後はちょっと都合が悪くて。すみません」

 金曜で明日は仕事も休みだ、都合が悪いという断り方は、無理があるかもしれない。

 けれども、いくら話が弾んできたと言っても、食事のムードはまだ無理だった。むしろどうして「はい」のひと言を舌が発しそうになったのかがわからない。どうかしている。

「その虫――」

 トンボと笛吹が睨み合っていた。心なしか、男性の形のいい切れ長の双眸が、強い感情に歪んでいる。敵意だ。

(栗皮ちゃん?)

 ふと唯美子は、店内が未だにガランと空いていることを意識した。

 嫌な予感がする。

「すみません、お手洗いに行ってきます」

 相手の反応を待たずに、バッグを鷲掴みにして席を立った。

 ――そいつは、ダメだ。

 扉を閉めた後の束の間の静寂。扉に向かってうなだれた頭の中には、昨夜の警告がよみがえっていた。

(どうしよう)

 タクシーを呼んでも、到着するまでにどれくらいの時間がかかるのかは予測不能だ。逃げ場がない。

「イヤならイヤって、ガッツリいわなきゃダメだぜー」

 ついさっき脳内に浮かんだのと同じ声が耳朶を打った。びくりと、大げさなほどに両肩が跳ねた。

 なぜ。どうやって。神出鬼没そのものではないか。

「ミズチくん、ここトイレだよ! 鍵かけたけど!?」

 涙目で振り返る。洋式便器の蓋を下ろして、その上に子供が頬杖をついて腰かけている。

 今日は金魚柄の赤いTシャツにカーキ色の短パンという洋服姿だが、上下どちらもぶかぶかでまったく丈が合っていない。裾をひたすらにまくって無理やり着ているようだった。

「けっこーまえからいたし」

「……疑問が多すぎて逆に言葉が出てこない」

 深いため息をついて、ゆみこはその場にしゃがみこんだ。

 目線が低くなった途端、少年の脛辺りに五センチほどの切り傷をみつけた。その傷どうしたのと訊くと、忍び込んだときにやったんだろ、と彼はなんでもなさそうに答える。

 かなり深く切れているのに血が出ていない。そう指摘してやると、ミズチは楽しげに傷口を広げてみせた。

「この姿のときはえぐってもめくってもなにも出ねーぜ」

「きゃあ!」

 咄嗟に目をそらした。たとえ血が出ていなくとも、皮膚下の様子は生々しくていけない。くらっとした。抉っても捲っても、と彼は言ったのだろうか。

「そんなことよりさー。たすけてやろうか。おまえが望むなら、だけど」

「……やっぱりあの人、なにかが変なんだね」

「さっすが、ゆみにはわかったか」

「だって目が光ったし、死人みたいに冷たいし。怖いのに、怖がってたことがすぐどうでもよくなっちゃうの。さっきも栗皮ちゃんが来なかったら、ぼーっとしたままだった……」

「じょうできじょうでき。むかしよりも危険察知能力が発達してて、なによりだ。これにこりたらもうへんなやつについてくなよ」

 まるで子供にするように、子供に頭を撫でられた。不思議と、嫌な感じはしない。

 思い切って訊いてみた。

「きみにあの人をどうにかできるの」

「できる」不敵な笑み。妙に説得力を感じるひと言だ。「おまえは四分ちょい、じかんをかせげ」

 唯美子はしゃがんだままでうなずいた。何ゆえ四分なのかとか具体的に何をするつもりなのかとか、疑問がなくなったわけではないが、彼の言葉を信じてみようと思った。

「ねえ、どうして助けてくれるの」

「ゆみが望んだから」

「なんでわたしが望めば、助けてくれるの……?」

「ないしょ。ゆみがじぶんでおもいだすまでは、おしえねーよ」

 そう言って、ミズチはデコピンしてきた。予想外に痛い。

「……きみの瞳も光るのに、なんでかな。こわくないよ」

「んー? そうかあ? こわがってくれてもいいぜ」

 少年は屈託なく笑った。欠けた歯が惜しげなくあらわれる。

「そんなにかわいく言われたら、ますますむりかな」

「じゃあ役得ってやつだ」

「なにそれ」

 ミズチが「えへへ」と笑うのでつられて笑い返す。

 唯美子は膝に両手を当てて、立ち上がった。

「あの、めんどうかけて、ごめんなさい」

「いーってことよ。おいらが、ゆみをまもるから」

 小さな体のどこにこれほどの力があるのか、力いっぱい背中を叩かれて、唯美子はたたらを踏んだ。

(いまのセリフ……夢の)

 一歩踏み出した瞬間、遅れて既視感がやってきた。夢の中の声とミズチが発したばかりのそれが、折り重なるようにして頭の中で再生される。

 ありえない。けれどあの子を中心に、ありえないことが次々と起きているのもまた事実だった。

 再び店内に踏み出すと、気のせいだろうか、部屋の温度が少し下がっているように感じられた。寒気に身を震わせた。唯美子の着ている長袖ブラウスは、冷房をあまり強くつけない職場に合わせて薄めの生地のものを選んでいる。

「お待たせしました。そろそろ出ましょうか」

 以前よりもいくらか落ち着きを取り戻して、唯美子は挨拶をした。席に戻るなり、マスターに勘定を頼む。

「そうだね」

 笛吹は組み合わせた両手で口元を隠している。微笑んでいる、ように見えた。

 しまったと思った時には遅かった。無警戒に目を合わせたのだ。

 今度は、はっきりと何かをされた手ごたえがあった。

 視界が歪み、口を開いても舌が痺れて動かせない。テーブルに腕を置いて身体を支えようとしたが、それも遅かった。

 ゆらり、景色が反転する。

 体の右半分が地を打ったはずなのに、何も感じない。

「あの旅行の時に漆原さんは『かかりやすい』のだとわかったよ。女性全員に術をかけてみたけど、最も素直だったのはきみだ」

 靴音が近付いて来る。

 声が出ない。遠くに浮かぶマスターの輪郭に向かって、たすけて、と唯美子は唇を動かした。しかし黒のエプロンがよく似合う彼は、こちらのことなど興味がないとでもいわんばかりにカウンターで忙しなく動き回っている。

 行きつけの店。ああそうか――彼らはグルだったのか。

「今更だけど、あの質問に答えよう。好みのタイプは……内臓がほどよく柔らかそうな、それでいてコシがあるような、若々しい女性だ」

 内臓。その言葉を最近聞いた気がして、ぞっとした。どこで聞いたのか。思い出したくないけれど、思い出さねばならない……。

「きみを抱き起こした時に感じた。きっと、いい腎臓をしているだろうなと」

 怪しく光る瞳を見上げた。

 恐怖に喉が収縮する。それでなくとも、喋れない。動けない。

 髪に触れられたような気配があった。直後、男の手が離れた。それを追うように、細かい空気の振動がちょこまかと宙に踊っている。

 翅が発する激しい振動は、青いトンボと、茶のトンボのものだ。

「また虫か。強い生命力の波動がついて回っている……貴様ら、誰の眷属だ」

 笛吹が鬱陶しげに鉄紺と栗皮を払おうとするのが聴こえた。吐き捨てられた言葉の意味はわからない。ただ、二匹が護ってくれようとしているのはわかった。恐ろしさは潮引かないが、少しばかり心強い。

(四分……経ったかな……)

 気を失うこともかなわず、心を強く保つしかなかった。待つしかできないのがもどかしい。トンボたちが乱暴に床に叩き落されても、何もできない。

 それでも確信はあった。あの子はきっと、見捨てない。

 よだれを垂らした恐ろしい形相で、端正な顔の男が振り向く。

 心臓が縮み上がった。せめてもの抵抗に、睨み返す。

 ――爆音がした。

 大量の水しぶきが飛び、唯美子は反射的に瞬こうとしたが、瞼は緩慢にしか動かない。視界が濡れて滲んだ。

「なあ、ゆみ。おぼえとけよ。野郎ってのはな、例外なく餓えてるんだよ。ま、コイツが欲しがってるのは雌としてのおまえじゃなくて別のもんだろーけどさ」

 水柱の向こうから、滑らかに低い、大人の男性の声がした。またもや既視感に頭が混乱した。

「浜辺の夜から、異質な気配の残滓がしたと思えば。貴様、獲物を横取りするか」

 殺意のこもった笛吹の威嚇は、口調からしてもはや別人のもののようだ。

「横取りもなにも、ゆみはもっとずっと前から俺んだし」

 話し方が少し違うが、「ゆみ」の独特のイントネーションが一緒だ。この男性は、トイレにいた子供と間違いなく同一人物だ。

 もう驚く力も沸かなかった。

 男性は唯美子をかばうようにして仁王立ちになっている。

「ならば致し方ない。どちらかが死ぬのみだな」

「おう、いいぜ。やりあおうか。ここはこれから、俺の縄張りになるんだからな」

 二人の会話は、そこまでしか聞き取れなかった。

 唯美子の息はすっかり浅い。水に濡れて、髪が受ける微風がやたら冷たく、頭の奥がじんじんと痛む感覚が不快だ。

 ――そうか。この声、浜辺での――

 あの夜のみならず別の古い記憶の蔵が揺さぶられた。彼の言う通り、もっとずっと前に共に過ごした時の。

 何かが思い出せそうだ。

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