1-1.
まどろみがじわじわと冷気に侵される感覚に――またこの夢だ、とぼんやり思った。
大好きな祖母が亡くなってしばらく経ってから、繰り返し見るようになったものだ。
風景は涙で滲んだようにおぼろげで、向かい合っているのが自分と歳の近い男児だというのがわかるだけである。
なぜか夢の中の自分は悲しい。理由はわからないが、息苦しいほどに悲しくて、消えてしまいたい。
「なくなよ。おいらがゆみをまもるから」
水音のような雑音が混じる中、そのセリフだけはちゃんと聴き取れる。涙に暮れる自分を、男の子は根気強く慰めてくれているのだ。
やがて安心して、彼にうなずきを返す。
「うん。ありがと」
少年の顔はぼやけて不明瞭だ。なんとなく懐かしく感じる声も、ひとたび目を覚ませばどんなものだったか思い出せなくなってしまう。
けれど、温かい。
握った彼の手がぬるま湯みたいにやさしかったのは、いつも起きてからも鮮明におぼえている。
*
耳元に響く虫の羽音にびくりと震えた。
漆原唯美子は眠気の抜けない頭をゆっくりと仰向ける。
白いビーチパラソルの向こうでは、薄い雲に縁どられた太陽が輝いていた。
七月半ばの今日は、風が弱く、ひたすらに暑い。傘の下から出たら、たちまち茹で上がってしまうことだろう。
ビーチチェアの上で足を組み直し、唯美子はスマホの表示を確認した。まだ午後の三時を回ったばかりである。
漏れ出すあくびを手で覆った。
(うたた寝でも、あの夢みるんだ)
ここまで何度も見るとは意味深だ。夢という形の記憶の再現かもしれない。
そうであれば、あの男の子は一体誰なのだろう。心当たりはまるでなかった。
(昔のアルバムを探せば出てくるかな? こんど、お母さんに頼んでみよう)
あるいはこの夢は唯美子の秘めたる望み――守ってくれる幼なじみが欲しいとか――を映し出しているとも考えられるが、それこそ心当たりがない。
まあいいか、と両肘を抱いて大きく伸びをした。
浅瀬で会社の同僚たちが男女混合でビーチボールを飛ばし合っている。
こちらの視線に気付くと、友人の真希がポニーテールを揺らしながら大きく手を振ってきた。
「ゆみこもおいでよー!」
「ごめん、むりー」
声を張り上げて応じた。
こんなにも暑い中、太陽の下を動き回る体力がないとか、もうしばらくくつろいでいたいというのも一因だが、唯美子は基本的に海に入らない。海に限らずとも、水深が身長を超えるのであれば河もプールも入りたくない。
なにしろ泳げないのだ。基本動作は学校でちゃんと身に付けたのだが、過去に溺れて死にかけた体験があって、そのトラウマが脳裏に刻み付けられたのがいけない。
浅瀬ならかろうじて入れなくもないが、気乗りしないのであった。
真希もその辺りの事情を了解しているため、残念そうに眉を垂れ下げたものの、食い下がらなかった。
ボンッ! と爽快な音を立ててビーチボールが天高く飛び上がる。
楽しそうだな、と思う。交ざりたいとまでは思わない。元より唯美子は今日のイベント自体に乗り気ではなかった。
こういった騒がしい場は得意ではない。休日は屋内で静かに過ごす方が好きなのだが、友人が「内陸県はつまらないわね! 経理課の先輩方を誘ってさ、海行きましょ、海!」と意気込んだので、気圧されてついてきた。
男性陣とお近づきになりたいという明確な目的を持った真希と違って、唯美子は恋愛や婚活にそれほどやる気がない。入社二年目、彼氏いない歴、三年。周りの心配はともかく、現状ではおおむね独身生活に満足している。
(もっかい寝ようかな)
ぐるんと横を向いてみた。
ところが、妙な邪魔が入った。
先ほどの虫がしつこく付きまとう。どれほど振り払おうとしても、戻ってくる。
改めてよく見てみたら、それぞれ深い青と茶色の立派なトンボが二匹、寄り添うように飛んでいた。
立派過ぎる。
これでも田舎育ち田舎住まいだ、虫にはそれなりに耐性がある。が、手の平の大きさともなると、さすがに背筋がぞわっとした。
ビーチチェアの上で精一杯、後退った。
ぺたり。
「え、なに!?」
突然触れたぬくみに飛び起きる。おそるおそる、デニムショーツから覗く膝に触れているものに焦点を定めた。
小さな手、だった。
「みぃつけた」
蛙柄の青い浴衣を着た溌溂そうな子供が、死角からひょっこりと顔を出してきた。
七か八歳くらいの、大きな目と小麦色の肌が特徴的な、東洋系の顔立ちをした男の子だ。子供にしては彫りが深く、どこか東南アジアっぽさを感じる。
首元までの長さのボサボサの黒髪は毛先が不揃いで、左右のもみあげの部分だけがやたら長い。前髪も長いが、斜めに分け目があってなんとか目が隠れていなかった。
トンボが子供の頭にとまった。少年は眼球をぐっと上に巡らせつつ虫たちに話しかける。
「鉄紺、栗皮。ごくろーさん」
「きみのトンボなの? 大きいね」
渋いネーミングだとこっそり思いながら、指さした。
「ん、こいつらはおいらの僕だよ」
少年は得意げに笑った。上列の歯に中心から少しずれた箇所に隙間があって、愛嬌を感じる。
そうなんだ、とつられて笑みを返した。
この年頃の男の子だ、虫を僕と見立てて遊ぶのもうなずける。それにしてはトンボらが本当に従順そうに翅を畳んでいるのは気になるが。
「ねえぼく、お父さんとお母さんは?」
辺りに保護者らしい人物が見当たらないので、訊ねてみた。
「お父さん、お母さんんん? んなもん、いたことねーよ。なに言ってんだ、ゆみ」
男児は不可解なものを見るように眉を捻った。ごく自然な質問だったはずなのに、彼はなぜ声を裏返すのか。
いや、そんなことよりも。独特なイントネーションだったが、もしや名を呼ばれたのではないかと耳を疑う。
「なんでわたしの名前を知ってるの」
「なんでっておまえなぁ」
我が物顔で少年はチェアの上によじ登ってきた。探るようなまなざしで、じっと唯美子の瞳を覗き込んでくる。思わず見つめ返した。
少年の双眸は濃い茶色だ。底知れぬ深みに、瞳孔が溶け込んでいるみたいな――
(茶色……だよね)
瞬きの間にちらりと薄い色が見えた気がした。瞳孔を縁取る黄色だった。見間違いだろうか、次の瞬間には元に戻っていた。
「ははーん、何十年も前の話だから忘れてんのか」
その言葉で我に返る。
少年は得心したとばかりにニタリと笑っている。
「な、なんじゅうねん? わたし、まだ二十五歳だよ。それじゃあきみは何年生きてることになるの」
「五百年とちょっとかな」
彼は一文字ずつ、大げさに唇を動かす。
少年は砂の上に跳び降りると、なぜかくるくると側転をし出した。鮮やかな青い袖がはためいている。二匹の大トンボが、所在なさげに空を舞う。
不思議な子供だ。おかしな嘘のことはともかく――話し方や間の取り方に子供離れした様子がある。気ままそうに見えて、自らの言動や挙動を意識している風だ。
最近の子は皆こうだったかな、と甥や姪を思い浮かべて比べてみたが、どこか違和感があった。
別の問いを投げかけてみる。
「ねえ、『みつけた』って言ってたよね。きみはわたしを探してたの?」
「そーだよ」
即答だ。唯美子は続く言葉につまずいた。
「……どうして」
すると少年は側転をやめた。
振り返った顔は、可愛らしい蛙柄の浴衣とちぐはぐに、ひどく真剣である。
「ひよりが死んだんだろ」
その声に悲しさはなく。静かな、労わりだけを含んでいた。
唯美子は無意識にパーカーの裾を握る。
「おばあちゃんを知ってるの……?」
正確には「知ってたの」だが、心の整理がついていないところもある。咄嗟に口から出てくるのは過去形ではなく現在進行形だった。
「知ってるっつーか、まあ、うん。仲良くはなかったけど。いちおう、報せを受けたから」
少年は頬をかいてぶっきらぼうに答えた。
(そっか、ひよりおばあちゃんのお友達だったのかな)
祖母は県内に、それも車で三十分という、頻繁に会いに行ける距離に住んでいた。週に何回か会っていたが、この子が話題に挙がったことはなかった。祖母はあまり写真を飾るような人ではなかったし、日記の類も目にしたことがない。二人に縁があったかどうかなど、どちらとも判断がつかない。しかしそうであれば彼が唯美子を知っているのもうなずける。
(おばあちゃん……教えてくれればいいのに)
どんなに仲が良かったつもりでも、誰かが持つすべての顔を知ることはできないのかもしれない。もっと話せばよかった、もっと会いに行けばよかった。こみ上げる後悔に、ぐらりと視界が歪んだ。
「だいじょうぶか、ゆみ」
ぺたり。今度は頬に小さな手の感触がした。柔らかくて、ほんのりと温かい。
「うん、気遣いありがとう」
「ちげーよ。そういう話じゃない」
否定する声は険しい。びっくりして少年を見下ろす。
赤い舌が一瞬、歯の間からちろりと出入りした。
――まただ。また刹那の間に、少年の両目に黄色い環が浮かんだように見えた。
「いいか、ゆみ。ひよりはおまえをまもるための『不可視の術』をかけてたんだ。いわゆる、まじないってやつ。けど術者が死んだ時から、効力が徐々に弱まってる」
突拍子のない話に、呆気に取られた。「術」や「呪い」と言われても思い当たる節がない。
子供のごっこ遊びかと思って笑い飛ばそうにも、そんな雰囲気ではなかった。少年は難しい単語をさも当然のように扱ったし、表情や声音には大人びた深刻さがある。
問い質すしかなかった。
「なに、言ってるの」
「要するにだな。これからおまえ、何かとめんどーな目に遭うぞって話」
「面倒な目……?」
どういう意味、と訊き返そうとしたその時。浜から「おーい」と呼ばわる者がいた。見れば、社の同僚たちが浅瀬から引き揚げている。
ふいに頬に触れていたぬくもりが消えた。
「なあ、ゆみ。みず恐怖症はもう克服できたか」
浜辺の喧噪が一瞬だけ耳朶から遠ざかり、少年の声だけがやけに大きくきこえた。そしてやはり「ゆみ」の発音が独特だ。
――きみはそんなことまで知ってるの。
口を開きかけて横を振り向いたら、そこには誰も居なかった。浴衣姿の男の子も、異様に大きいトンボも。
人込みの中に視線を走らせる。ビーチチェアの下も思わず探った。
まさか暑さにやられて幻覚を――否、妄想の産物にしてはディテールが凝りすぎていた。自分にはそこまでの想像力も独創性もない。
「今の子、知り合い?」
水着姿で歩み寄ってきた真希の問いかけで、幻ではなかったと確信する。友人にも少年の姿が見えていたのだ。砂に目を凝らしてみれば、確かに子供サイズの下駄の跡があった。
「ううん」
「えー。迷子に絡まれてたのぉ」
「迷子じゃなかったけど……なんていうか、よくわかんない子だったよ」
祖母の友達だったという可能性を話そうかどうか迷ったが、結局どう説明しても謎が増えるばかりな気がして、断念した。
「そう? みんなが、そろそろバーベキューの準備しようってさ。行こうよ」
「わかった」
謎の子供の件をひとまず意識の隅に追いやって、唯美子はチェアから立ち上がった。
*
女性四人、男性三人という組み合わせで食卓を囲んでいた。女性陣は全員が事務員、年齢も二十代前半、とほとんどとスペックが似通っている。
こう表現してしまえば野暮だが、顔のレベルは(唯美子含め)およそ平凡。唯一、都会暮らしが長かった八乙女真希が例外的に垢ぬけている印象だ。
ポニーテールを下ろして化粧を直した真希は、昼間の彼女以上に、華やかな空気をまとっている。
(さすがまきちゃん)
真希は男性陣と自然な会話を続け、間が開けば誰かに話を振っていた。残る二人の女性にも自己アピールする機会を差し挟んだり、空いたグラスにビールをテキパキと注いでいくなど、気配りにも余念がない。
媚びた印象がしないのが、すごい。
これを「出しゃばってる」と評する女子もいるだろうけれど、唯美子には感心しかなかった。
ちなみに会話の内容はというと、男性側が自身の趣味を語り終えたところだった。
「きゃー! 笛吹さんってサーフィンやってるんですか? 今日見せてくれればよかったのにぃ」
眼鏡をかけた同期の山本女史がやや大げさにリアクションをした。普段よりも、頑張って明るく話しているのがわかる。
「夏は日中混んでて思うように楽しめないかな。だから僕は最近、ナイトサーフィンにはまってるんだ」
男性陣の中で抜きんでて顔立ちが整っている二十代後半の彼は、名を笛吹秀明という。鋭そうなタイプのイケメンだが、笑うと目元が柔らかくなって、こちらの好感を誘う。
雑誌のモデルが務まりそうなスラッとした長身、均整のとれた体格。スポーツで汗を流している姿がよく似合う彼は、一方で社内でも周囲の信頼が厚く、仕事ができる男として知られている。
どうやら真希は彼を狙っているらしかった。
(美男美女で、お似合いだよね)
のんびりと缶ビールを啜りながら、唯美子は蚊帳の外から見守る。もともと奇数の集まりで自分の居場所はないし、真希のついでに来ただけだ。引き立て役として連れてこられたのだと指摘されようと、これといった反論はない。
「夜のサーフィン!? うそー、超ステキ! 見にきちゃだめですか?」
「どうかな。今夜は曇りそうだから、難しいね。ここの浜辺は夜は灯りが少なくて、月光に頼らないといけないんだ」
笛吹は嫌味のないジェスチャーを添えてしゃべった。そこに、黒髪をロングボブにした田嶋女史がうっとりと言う。
「月明かりのサーファー、いいですねえ」
「ありがとう。やってみるかい」
「初めてが夜って危なくないですか? 私、そんなに運動神経よくないですよぉ……でも先輩が教えてくださるなら安心かな」
田嶋女史が上目づかいに言葉を紡ぐ。この流れで二人は約束を取り付けるかのように思えた、が。
「笛吹さんって現在フリーなんですよね。めちゃくちゃモテそうなのに、信じられないわ。あ、ビールもっとどうぞ」
横から真希がさりげなく割り込んだ。笛吹の腕にそっと触れるなど、ボディタッチも抜かりない。
ありがとう、と彼は満杯になったビールを嬉しそうに受け取る。
「買いかぶりだよ。僕はこれでも女性にはうるさいんだ。深入りすれば、いつも相手の方から逃げちゃうんだよね」
「お前そういや誰とも長続きしないよな」
笛吹の隣の男性が肘でつついた。正直、名前はおぼえていない。
「そうなんですか? じゃあ試しに、理想のタイプがどんなか、教えてくださいよ」
「大して面白い答えは持ってないんだけどね」
「そんなこと言わずに、お願い! 条件がものすごく多いんですか? それともニッチな……ハーモニカが吹けるとか、スパイスの香りがするとか?」
「あははは! 八乙女さんこそ、発想が面白いね」
こんな風に、男性の羨望の眼差しを集めるイケメンと女性の嫉妬の視線を集める美女の言葉のキャッチボールはしばらく続いた。
いつしか会話に飽きていた唯美子は、先ほどの子供のことを思い返したりと思考を別の場所へ浮遊させた。時折、ふと笛吹と目が合った気もしたが、適当に微笑を返して、気に留めなかった。
(月か……街が近いし、見えないかな?)
後でおぼえていたら民宿の窓から探してみよう、とこっそり思うのだった。
満月を見上げていた。
予報通りに、夜空は曇っている。昼間よりも風が出ているのか、雲は速やかに形を変え続けていた。
月が幾度となく見え隠れした。その都度、表情を変えたようである。とてもではないが、街の灯りとは比べるべくもなく、心を惹き付けるものがある。
冷たい感触が太ももを撫でる。
首を下に動かし、深い闇を見つめた。その濃さは重い質感を伴っているようで、水面に踊る月光とはあまりに対照的だ。
(あ、パジャマ濡れちゃう……)
潮水が勢いを増して戻ってきた。膝丈のボトムスの柔らかい布が水を吸って、肌にくっつく。
それから意識が明晰になり、ここが海の中だと気付くまでに、数秒かかった。
――海。
「うそっ、うみ!?」
激しい焦りが急速に全身を巡る。
夢遊を経験するのは人生で初めてだ。この点だけでも十分に動揺しているのに、行き着いた場所が場所である。
唯美子はたちまちパニックに取りつかれた。
慌てて背後を振り返った。
視覚が頼りない。コンタクトを入れていなければ眼鏡もかけていないからだ。
光明を見出そうと、とにかく必死に目を凝らした。
遠いが、疎らに光が灯っているように見える。あちら側に岸があるのは間違いない。
そうとわかれば――
安全圏へ進もうとして、足が滑った。波にさらわれたのである。
喉から飛び出た悲鳴は、黒い海に呑みこまれた。
皮膚を揉む感触は冷酷で。まだ足が付くような浅い地点であったにも関わらず、唯美子は必要以上に手足を暴れさせてしまった。
(いや! いや、誰か助けて!)
鼻や口や耳や目が浸食されている。冷たい。怖い。
なんとか頭を水の上に出すが、視界はますます悪くなっていた。光を反射する水泡がとけてなくなる度に、果てしない黒に取り巻かれるみたいだ。
「だっ、だれか……!」
必死に出した声はか細く、あっさりと風にかき消されてしまった。
次いで、むせた。しょっぱい味が不快だ。
――ここはどこ。
岸は近付いたのか、それとも遠ざかったのだろうか。近くに船はないのか。
――誰か。見つけてくれる誰かは、いないの!
寒い。激しい波に翻弄される。泳ごうともがいたが、濡れた衣服が絡みついて、手足の疲労は早かった。
(落ち着いて、落ち着かなきゃ。平泳ぎってどうやるんだっけ)
波に揺らされるほどに平衡感覚が失われていった。こうなっては浮力も何の役に立ちやしない。
(やだ。おぼれるのだけは――)
いやいやをするように頭を振る。水中では嗚咽すら満足にできなくて、ただただ苦しい。
行き場のない恐怖が胃の奥に固まった。
「が、は……だ……」
空気を飲み込めるタイミングが、間隔が次第に長くなっていった。
酸素が足りない。意識が途切れそうになる。
『めんどーな目に遭うぞ』
こういう時に、どうしてか頭に浮かぶのはあの子供の警告だった。
(面倒どころじゃないよっ……!」
肺が痛い。耳も目も。
二十代で死にゆく自分を、かわいそうに思う余裕はなかった。走馬灯を見る時間も――
――突如、腹部と膝周りが圧迫された。
ごぼぼ、と吐かされた息が泡になる。
瞑っていた目を開けても、暗くて何も見えない。
巻き付いた何かが、唯美子の体を運ぼうとしているらしかった。手探りでそれに触れてみる。
滑らかな触り心地ながら、微かにでこぼことした表面。
(うろこ……へび? 蛇はちょっと、もうしわけないけどおことわりしたいな……)
南米のアナコンダならいざ知らず、日本の海にこうまで太い蛇がいるはずがなかった。きっと錯乱している。錯乱ついでに、抗う力が沸かずにぐったりとされるがままになった。
じきに、水の呪縛から解き放たれた。
気が付けば仰向けに倒れていた。背に当たる大地の確固たる手ごたえが、いまだかつてないほどに愛しい。
砂を手で握りしめながら泣き笑いした。この瞬間に我が身に広がった安心感を、今後も忘れることはないだろう。
やがて、はっきりしない視界の中に何者かの輪郭が浮かび上がる。肩幅の広さからして成人男性――浜へいともたやすく唯美子を引き上げてくれたのだ、男性の腕力でこそ可能といえよう。
腕力――お腹と膝を抱いていたあれは、人の腕だったのだ。そう、無理やり自分に言い聞かせた。
「うぇ、まっず。やっぱ塩水まっずいなー、こんなとこにすむ奴らの気が知れねー」
助けてくれた人物は背を丸めて唾を吐き出している。すぐに気を取り直したように、唯美子の傍に来た。
「おい、しっかりしろ」
頬を叩かれた。顎に響くほどの衝撃で、麻痺していた皮膚に活気が戻るようだった。
お礼が言いたいのに、返事をしているつもりなのに、喉からは呻き声しか出ていなかった。
震える腕をふらふらと伸ばした。受け止めてくれた手は力強く、ほんのりと温かい。
「あーあ。全っ然、克服できてねーじゃん」
吐息のように微かな呆れ笑い。小馬鹿にしたような言動の向こうに、確かな心遣いがあった。その話し方に、既視感をおぼえる。
(だれ?)
月からの逆光で相手の姿はよく見えない。
疑問の答えに辿り着ける前に、男性がいきなり黙り込んだ。かと思えば鋭く舌打ちをした。
「いまみつかるのは得策じゃねー……またあとでな、ゆみ」
あっという間に気配が消えた。
(まって、いっちゃ、やだ)
取り残された唯美子は、わけもわからずに猛烈な寂しさをおぼえていた。
短い間、気を失っていたらしい。
頭痛にめまい、更にぐわんぐわんと頭の中でおかしな音が鳴っていたところで再び目が覚めた。
「大丈夫かい」
瞬く度に、視界の角度がわずかに変わった。誰かにそっと抱き起こされたようだ。
至近距離から覗き込む端正な顔には見覚えがあった。ウェットスーツに身を包んだ彼は会社の経理課の先輩、その名も。
「うすい……さん?」
よかった、と彼は安堵のため息をこぼした。
「曇ってたけど諦めきれなくて、波の様子だけでも見てみようと思って出て来たんだ。よかったよ。たまたま僕が通りかからなかったら、どうなってたことか。きみはひとりで何をしてたんだい」
「わかりません……目が覚めたら海の中で……あの、あなたがわたしを助けてくれたんですか」
「間に合ってよかった」
どうも会話がかみ合わない。かみ合わないと言えば、陸に上がった前後のあやふやな記憶と現状に齟齬を感じていた。
目の前の彼とは別の声が耳の奥に残っている。もっと言葉遣いや声音が荒い感じだった気がするが、頭が痛くて考えがまとまらなかった。
――助かった。あの黒い海から生還した。今は、それしか考えられない。
「本当によかったです」
泣いているのをさとられないため、顔をそむける。すると視線の先、つまり脇腹に逞しい手があった。狼狽した。一旦意識してしまえば、そこの感覚のみが何倍にも拡張されてしまう。
察した笛吹がパッと手を放した。
「失礼。必死だったもので」
「い、いいえ」
「戻ろうか。立てそうかい」
「平気です、ありがとうございます」
これ以上世話になるのも悪いと、よろめきながらも自力で立ち上がった。
先導する背中をぼんやりと見つめる。ウェットスーツが濡れていないように見えるけれど、そんなはずはない。見間違いだろう。
(あんなに手が冷たかったんだもの)
無意識に脇腹をさすった。まだ感触が残っている気がして、頬が熱くなった。
訊いてしまえば早い。が、とにかく宿に戻って風呂に入りたい唯美子は、他のことは後回しでいいと判断した。笛吹だって一刻も早く温まりたいに違いない。
はやる気持ちに応じて、砂を蹴る素足に力を入れた。