前編
しばらく、雨が降っていない。
ノールは大胆に開け放した窓から身を乗り出す。
眩しいほどに照りつける陽を、手をかざして見上げた。気温は高くないのに、じりじりと肌が焼けるようだ。ノールの肌は黒く色がつくのではなく赤く火照ることになるから、早く雨雲が来てくれないだろうか。
ため息をこぼしたくなった。いくら見ても雨が降るのは数日先。風が吹くとカラカラに乾いた地面から鬱陶しく土が舞った。
「すっかり雨に嫌われたな」
通りかかった毛皮屋の親父が、ゲホゲホ咳をしたあとでノールに笑った。
この最北の町はたまにそんなときがある。よく空気は乾燥して、もっと寒くなると雪に覆われる土地だ。風も強く、天候も変わりやすい。
だからなのか、ノールのように空や星の巡りを見て天候を読むことに長けた者がたまにいる。
星詠師や星詠みと呼ばれるが、そんな呼び名がつくほどのものではないとノール自身は思っている。空を眺めれば、自ずと答えがわかるだけ。魔法が使えるわけでもない。
大きな出窓は両開きだが、小さく開けられるよう三段階に格子が入っていて、天気によって使い分けるのが一般的だ。通りに面した家は、そこで商いをする。
ノールも毎日、この出窓に腰掛けて予報図を売っていた。
一週間の空模様を認めたものである。毎日一日ずつずらして内容を更新していく。
定期的に欲しがるお客には前払いで代金をもらい、五日に一編手紙を出した。
雨は一昨日降るはずだったのに、急に降らない空に変わってしまった。巡りが変わることが、どこかであったのかもしれない。
「このあたりでお湿りがほしいところですね」
なにかの変調を空は示しているけれど、まだノールにはわからなかった。
ノールは視線を空から下ろすと、毛皮屋に苦笑を浮かべる。すると相手も上着の土埃を払いながらうなずいた。
「風邪も流行りだしたから、おまえも気をつけろよ。親父さんはどうだい」
「相変わらずです。今は西に向かっているらしいですよ」
ノールの父も星詠みだ。
ノールが十五を迎えた途端、じゃあオレ旅に出るから! とにっかり笑って手を振った。ノールが星詠みを身につけ、手がかからなくなったのを見計らっての犯行だった。
以来、気ままに星の巡りをたどりながら各地を歩き回っている。
それから三年経ったが、帰ってきたのは三回。たまに手紙が届くから生きてはいるなとノールは受け取りながらホッとする。
「まったく、あいつも好き勝手やっているなあ。おまえも苦労する」
「でも、だからみんなが気にかけてくれるし。そう悪いことばかりじゃありませんよ」
「それならいいが。さて、おれも一枚もらっていく――」
親父さんが銅貨を窓に置いたとき、通りにいた人たちが一斉にどよめいた。
みんながみんな、足を止めて門のほうを見つめている。ノールはなんだろうと窓から顔を出した。
人混みの先に、大きな鳥がいた。
鳥だ。
本当に大きい。親父さんくらい大きくて、たっぷりの羽を纏って丸く膨らんでいる。
鳥はゆっさゆっさと長い尾を揺らしながら、通りを悠然と歩いてきた。
鳥、鳥だ、でかい、なんで鳥が。
驚いたのはノールだけではなかった。居合わせた人たちも、突如として現れた大きな鳥に目を剥き、思わずとばかりに声をもらしている。
風になびかせている全身の羽根は薄茶で、焦点の合わない鋭い目は真っ黒。
紋様が織り込まれた帯がもふっとした首に巻かれ、腹にかけての飾り布は刺繍と連なった金環が見事だった。肩には赤や緑の飾り羽根も豪勢についている。
金の飾りと艶やかな玉が、歩くたびにしゃらりしゃらりと音を立てた。
ノールは言葉にうまく表せないが、いろんな意味で洒落た鳥だと思った。
顔つきは鷹に似ている。きっと彼、もしくは彼女の中で最上級の飾り立てなのだろう。なんとも贅を凝らした佇まいであった。
「星詠みとは、おまえのことか」
しゃべった! 鳥が!!
目を丸めたまま、ノールは派手な大鳥を前にごくりと喉を鳴らす。ピイと鳴くかと思いきや、人語を紡いだそれは低く落ち着いていた。
目と目を結ぶように引き結ばれた嘴は、動かなかったように見えたのだけれど。たしかに、鳥から声が聞こえた。毛皮屋の親父も目を丸めている。
もっふりと腹にかかる羽根は白や亜麻色と薄く、背や翼の赤が際立った。そのまま下に視線がいけば、褐色の肌に、草履。
草履。鳥が草履を履いている。鉤爪ではなく、草履。独特の模様が織られた鼻緒は土ぼこりがついている。
あ、これ人だ。
ようやく思い至ったノールは、慌てて口を開いた。
「は、はい。ノールといいます」
鳥はうなずくと、静かに続ける。
「次の雨はいつになる」
「明後日。ほんのわずかに降るでしょう」
「その先は」
しゃらりと飾りを鳴らして首をかしげたのに、ノールは言葉を詰まらせた。
「ええと、しっかりお伝えしたいのは山々ですが――」
「ああ、すまない。報酬はここに」
気軽に答えてしまっては、予報図を買ってくれているお客を蔑ろにすることになる。
ノールが言葉を濁した意味を、鳥は正確に読み取ったらしい。胸のあたりをごそごそ動いたものが、ぬっと姿を現した。褐色の肌をした手だった。
銀貨を五枚置くと、また羽毛の中へ引っ込んでいく。銀貨、ご、五枚。
「こ、こんなには――」
「急いでいる。この場で、雨の降る方角と時期を詳しく頼む」
ごくりとノールはまた喉を鳴らすことになった。
依頼の内容にもよるが、大体個別の相談は銀貨一枚がいいところだ。ちょっとよい食事が三回できるくらいの価値。それが五倍ともなると、相手はかなり切羽詰まった状況なのだろう。だがしかし、いかにしても不用心ではないか。
ノールは深く息をして、肺を涼やかな空気で満たした。
じっと空を眺めてから、不気味な真っ黒い鳥の瞳を見つめる。脳裏に浮かんだ星の軌跡をゆっくりとたどった。
「この町に、しっかりとした雨が降るのはこのままだと十三日後。ですが、それもまだ揺らいでいます。雨雲は東の空から風に乗って届きますが、東南に難あり。数日前からなにか淀んだ空気が流れていて、雲が止まってしまっている状態です」
「東南……」
「明日は、今日と同じく晴れ。風は少し収まります。明後日からは重たい曇り空。ですが、雨にはなりません」
どういうわけか、雨に嫌われている空だ。
多すぎる報酬だから、あとは風向きと雨足の強さあたりか。それでももらいすぎだ。もう少し先のことが読めたらいいのだけれど。
もう一度空に視線を戻そうとすると、遮るように鳥が羽を揺らした。
「それが聞ければ十分だ。――つかぬことを尋ねるが、ノール、伴侶はすでにいるのか」
「は」
「誰かと婚姻を結んでいるのか」
慌てもせず、淡々とした声は一寸の迷いもなく繰り返す。
ノールは意味もなく視線を彷徨わせ、口をぱくぱくさせてしまった。それなのに、目の前の鳥は黙って静かにノールの返事を待っている。
「い、いいえ」
鳥はもふっとうなずいた。
「約束を交わした者は」
「い、いません」
鳥はまた、もふっとうなずく。そしてノールの喉を鳴らす言葉を囀った。
「では、嫁に貰い受けたい」
「は」
「一刻の猶予も惜しい。離れずに空を詠んでくれ」
「は」
たっぷりとした羽毛からぬっと腕が出てきて、ノールに伸びた。窓から身を乗り出していたのを、これ幸いと抱き上げる。
窓枠もなんのその。あっさりと店から外に出されてしまった。
「ちょ、えっ! 困ります!」
慌てて上げた声にも鳥はまったく動じない。
ひょいと肩に担ぐと、ノールなんていないみたいに軽やかに踵を返す。
「お、おお、おろしっ…うえっ……」
「舌を噛むから黙っていろ」
ふさふさで手触りのよすぎる羽根に埋もれたノールがもがいても、やはり鳥は静かにそれだけを言って、思いのほか強い腕を緩めてくれることはなかった。
お、おい! 驚きに固まっている毛皮屋の親父や町の人々を置き去りにして、鳥はしゃんしゃん飾りを奏でながら町を出て行く。
はらりと赤い羽根が舞った。
町の門を出ると鬱蒼とした森がある。
ノールの町は山の中腹にある小さなものだ。名物があるわけでもなく、山の恵みを受けて慎ましく暮らす人ばかり。
他の町と違うのは猟師が多いことくらいしかない。乾燥した寒さと風の強さから、毛皮を使った衣服を好んで纏っているため、町の人間を見分けるのも簡単だろう。
道から外れたほうへガサガサ分け入る鳥の足は、迷いもなくやたらと速い。担がれたままのノールは、落ちないよう必死にしがみつくことしかできず、逃げるどころではなかった。
下草や低木を避けながら樅の群生を抜けると、少しだけ明るくなる。
日差しが届くブナの茂みで、鳥が足を止めた。彼は森の奥に向かって指笛をピィーッと鳴らして耳を澄ませる。
そこでようやく、ノールは地面へ降ろされた。すっかり手の感覚がなくなっている。関節が痛い。
わきわきと手を動かしていると、ノールの目の前に立った鳥が黄色の嘴をぐいと持ち上げた。もっふりとした頭が外れ、ノールは固まる。
「俺は、鳥使いのヨダ」
茶と飾り羽根が見事だった鳥頭の下から、褐色の青年の顔が出てきた。
鳥使い。
それがとてもめずらしい職であることと、鳥ではなくきちんとした青年だったことにノールは目を丸めた。
彼はにこりともせずにそのまま続ける。
「雨雲を堰き止めているところを目指したいから、力を貸してくれ。早く手を打たねば、雨が降らないだけではすまない」
黒髪は襟足が長く、ところどころに金や赤、翡翠色の飾りがついていて風に鳴る。
琥珀色の瞳でノールを見つめてから、すぐに森の奥へと視線を戻した。
ザザザザザッと草葉がざわめく音がする。顔を強張らせたノールは、ヨダの羽毛越しに身構えた。この辺りには野生の動物はもちろん、ならず者がいないとは言い切れないのである。
「クールーフー」
けれども、静かな声はやはり落ち着き払っていた。
現れたガサガサは呼びかけに止まる。クェーと声を上げる黒い塊がいてノールは目を丸めた。
鳥だ。たぶん、今度は本物の。
真っ黒な羽に覆われた鳥は、足と首が長く背には鞍を背負っていた。馬くらい大きい。
縮れたようにくりんくりんした頭の羽根が特徴的だった。
硬い木の実も簡単に割るだろう大きな嘴を、ヨダが上げた手にこすりつけて鳴き声をこぼしている。こげ茶でまん丸な瞳を甘えるように細めた。おそらくヨダの鳥なのだろう。
「窮屈だと思うが、我慢してくれ」
クェクェ話す鳥の声に相槌を返したヨダは、口を半開きにしていたノールをひょいと鞍に乗せた。不意打ちである。またしても抵抗する間がなかった。
ノールが口を開くより早く、軽々と自分もまたがる。
「ああ、忘れていた」
もふっとした羽根の中から、ヨダの手が白い包みを取り出した。
反射的に受け取ってしまったノールだと、ひと抱えする大きさだ。やわらかくて分厚い包みは、布団のように羽毛が詰められているらしい。
「天鳥の卵だ。返しに行く」
「てんちょう?」
「あまどり、と呼ぶほうがわかるのか? 霊鳥と祀られる鳥の一種だ。雨を司ると言われている」
神話や言い伝えに出てくる鳥の名が出てきて、ノールは危うく卵の包みを取り落すところだった。
「そ、それは、かなり大事なものなのでは」
天鳥が世界のどこかにいることは知っていた。だが、自分には見る機会もないとも思っていたのも確かだ。
恐る恐る包みを撫でたノールにヨダは当然だとうなずく。
「ああ。だから、天鳥へ返さねばならない。しっかり持っていてくれ」
「わたしがですか!」
「俺は手がふさがる。ノールが落ちてもいいならいいが」
「大事に持ちます!」
強制的である。ノールに選択肢はなかった。
大事に抱え直すと、背中の羽毛が左右からノールを包み込む。晴れた日に干した布団のような、お日様の匂いがすると思ったとき。ずりっと後ろの熱がくっついて、ノールの腰に硬いものが巻きついた。手綱を持っていないほうのヨダの手だった。
手がふさがるってそういうことか。ノールはなんとも言えない気持ちになった。
ヨダと一緒に羽毛に包まれると、ノールの前で褐色の腕が手綱を鳴らして、黒鳥が勢いよく地を蹴る。
ノールは生まれて初めて森の木より高いところへ飛び出した。
黒い翼を羽ばたかせ、風をつかんだクールーフーは澄んだ空を駆ける。
晴れた空は白い雲が横に伸びていてゆっくりと流れていた。雨の気配はなく、陽射しも衰えていない。
ヨダの羽毛から顔を出したノールの頬は、上空の冷たい空気をビュンビュン浴びてすっかり赤くなってしまった。
けれども、そんなことはどうでもよかった。いつも眺めている空に、今は自分がいるなんて信じられない。
「ノールは、あたたかいな」
町で真上を見るようにしていた空を、首を巡らせてぐるりと見つめられる。山際や地平線を望める。
空の色が、こんなにもちがうなんて。
胸の高鳴りは、強引に連れ出されたことなんて押しのけてしまうくらい弾んでいるのに。
ぎゅっとノールを抱え込んだヨダが、耳の横で囁いて現実に引き戻した。
ぶるりと体を震わせた彼は、旅装束とは言えない不思議な格好をしている。紋を刺した布は胸までしかなく、割れた腹筋をそのままさらしていた。腰布から下はぴったりとした股引に革でできた膝当てと脛当て。足元は草履。
顔も含めて剥き出しになった肌には朱色の模様が描かれ、それがよく似合っていた。
「ヨダさんがそんな格好だからですよ」
「俺たち鳥使いの村はもっと南にある。寒いと聞いていたから羽を羽織ってきたのに、これでも足りないとは思わなかった」
防寒具だったのか。冗談ではなく本気で嘆いている様子のヨダに、ノールはひっそりと思った。
これだけ派手な鳥の格好だ。鳥使いの正装とか、なにか意味があるものだと思っていたのに。言わなくてよかった。
鳥使いは彼らの文化の中で生活をしている、町で暮らすノールたちにとっては気軽に立ち入ることの出来ない未知の領域の住人である。
鳥を慣らし、狩りや伝達に鳥を使う。王家には一芸見せるために呼ばれるとも聞く。
特殊とも言える彼らとは、そうそう会う機会もないと思っていたのに不思議なことになってしまった。
木々の頭を通り過ぎて山を降り、川を飛び越え、平原を駆け抜ける。
そうこうしているうちに陽が傾き始め、ヨダはクールーフーを岩場の一角に止まらせた。
大きな大きなノミで削ったように切り崩された岩肌を背に、ノールの体ほどあるものから持ち上げられそうなものまでの岩がゴロゴロと折り重なっている。
どっしりした一枚岩の上に枯れ枝を集めて炉を作ると、荷物を置いて、ヨダはクールーフーにまたがった。
背には弓。獲ってくる、とだけ言って黒翼で颯爽と消えてしまった。
引き止める間もなかったノールは、鳥と青年の背中が木々の向こうに消えると大きなため息をついた。
体がガチガチだ。同じ体勢で、慣れない騎乗。変なところに力が入りっぱなしで、久しぶりの地面に足がびっくりしている。
卵を抱いたまま、何度か膝を曲げたり背中を伸ばしたりして調子を取り戻すと、ノールはようやく動けるようになった。
大きい枝と枝を噛ませたところへ鍋をかけ、細い枝と落ち葉を集める。すると羽音が聞こえて影がさした。あっさりとヨダが戻ってきたのである。
「星詠みは、先見の明を持つと聞く。ノールはこのままでは災いが起こることも、自分が巻き込まれることもわかっていたのではないのか」
ウサギを二羽、あとは果物と木の実、水筒にたっぷりの水。
思いのほかしっかりとした食材をそろえたヨダは、手際よく火をつけ、しめたウサギを手持ちの調味料で夕食へと変身させた。濃いめの味付けだったがおいしかった。
クールーフーが果物をシャクシャク食べている横で、焚き火を前にしながら口を開いたヨダ。
陽が山の向こうに隠れ、空が色を変えていくのを眺めながらノールはわずかに苦笑した。
「……わたしはまだそれほどの目を持っていません。天気が読めて、方角の良し悪しがわかる程度です」
店を構えているとはいえ、父が築いたものを間借りしているようなものだ。まだまだ未熟。もしもノールの父ならば、ヨダが訪ねてくることも、この先のことももっときちんとわかって準備もしていただろう。
水だけを火にかけていたヨダがまたたく。
「では、自分が町を出ることは知らなかったのだな」
「なにかが動き出すことと、雨が関係していることと、新しい出会いくらいでした」
ヨダは鍋が沸騰したところで手早く火を消した。鍋はそのままにして明日の飲み水などにするらしい。
明かりがなくなり、一気に夜に包まれた岩場。ヨダはノールの横に座り直し、横に置いていた羽毛をばさりと広げた。
「その若さで大したものだ。おまえの町に着くまで四人の星詠みに会ったが、東南の方角を言い当てたのはノールだけだった」
「そんなに失敗しているなら、話の初めに銀貨五枚も出してはダメですよ。そのまま騙し取られてしまいます」
「彼らには銅貨しか渡していない。案ずるな、俺は人を見る目がある」
迷いのない瞳でうなずいてみせて、ヨダは羽毛を纏うと当然のようにノールを中に引き込んだ。
クールーフーが丸くうずくまって、逆側から天然の羽毛を押し付けてくる。
「さあ、もう寝ろ。明日も早くに発つ」
くぇー、とノールの代わりにクールーフーが返事をしたのには納得がいかないが、両側からのやわらかな羽はあたたかく、抗い難いのが本音である。
濃紺の空には無数の星たち。
大きくまたたくもの、色が変わるもの、まれに流れるもの。
羽根の隙間からじっと眺めてから、ノールは心地よいぬくもりに瞼を下ろした。