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条例都市 The usual  作者: 三衣 千月
条例 第八条『移りゆく街並み』
9/9

第一話

 夏の朝は清々しい。今日も朝陽がカーテンの隙間から部屋を満たしている。

 この朝の時間だけは穏やかで心地いい時間だ。できれば、このままベッドで微睡んでいたい。


 しかし、現実はそうもいかない。

 社会人としての仕事を放り出せるはずもないのだ。


「まあ、仕事が嫌な訳でもないが……」


 嫌でもないが、特別やりがいを感じているという訳でもない。なすがままに働き、給料をもらい、生きている。そんな平坦な毎日だ。

 仕事さえなければ、昼過ぎくらいまで遠慮なく寝たいと思う。惰眠を思うさま貪る。それは、世の中のサラリーマンの永遠のテーマだろう。


 ベッドの横に置いてある時計を見る。現在時刻は七時過ぎ。

 出社時刻は十時。家から会社までがおよそ一時間。


「よし、余裕で間に合うな」


 寝癖のついた髪の毛を直し、手早く朝食をとる。

 簡素なベーコンエッグとホットミルクだけの朝食を終えて、リビングの窓から見える隣の公園に目をやった。比較的緑が多く、それも我が家の爽やかな朝を演じる一つの要因になっているのだろう。


 支度をすませて玄関を開けると向かいにある家の主人もちょうど出社時刻だったようで、お互いに軽く挨拶を交わした。いつもの風景だ。

 この世間の繋がりの希薄さが嘆かれる昨今、こうした挨拶程度の近所付き合いでもそれなりに大切なものだ。


 車に乗り込み、カーラジオのスイッチを入れる。聴こえてくるのは何の変哲もないニュース。これも、いつものことだ。世間でいかに大きな事件があろうと、自分に関わる事でないかぎり、どこまでいってもそれは他人事だ。


 慣れた通勤ルートを走り、お決まりのコンビニに寄ってコーヒーを買う。特に意識している訳ではないのだが、つい寄ってしまうのだ。


「ありがとうございました!」


 愛想のいい店員の声をあとに車に乗り込む。彼はいつも元気が良いのでこちらも気分が良い。出社前の大切な習慣と言える。これもまた、いつも通りだ。


 いつもと変わらぬ出社風景。

 きっと、いつもと変わらぬ仕事を終えて今日も一日が終わるのだろう。


「せめて、昼の弁当くらいは違うものを食べるか」


 誰に言うでもなく、会社に向けて走る車内で一人呟いた。




   ○   ○   ○




 案の定、代わり映えのしない一日で、違った事と言えばいつも会社の下に弁当を持ってくる売り子が少し可愛かった事くらいか。

 思わず、いつもよりワンランク高い弁当を買ってしまった。こうしたささやかな違いでも、ちょっとした日常への刺激にはなるものだ。


 そうしていつもと変わらぬ仕事を終える。別に、気が乗っていないからといって仕事をおろそかにしているつもりはない。気分に左右されることなく、きっちりと与えられた仕事をやってのけるのが社会人というものだ。


 職場を後にしようとすると、ふとカレンダーが目に止まった。明日の日付に赤丸がつけてある。

 何かあっただろうか。


「ああ、地区替えか。明日は」


 しばしの思案の末、その事実を思い出した。同僚や担当部署への引継ぎが厄介だが、仕事に支障がでる範囲ではない。普段からやるべきことをやっておけば、多少の余裕は生まれるものだ。

 明日になってみないと分からないが、少しは退屈しないで済みそうだ。


 この街には、他の街にはない一つの条例がある。

 それ以外は何の変哲もない普通の街なのだ。


 目的も何も知らないが、おかげで月に一度は退屈せずに済む。

 明日に備えて、今日は早めに休むとしようか。




   ○   ○   ○




 相も変わらず夏の朝。

 しかし、今日は窓から陽は差し込んでこない。

 その薄暗さのためか、今日はいつものような爽やかさもまたない。


「今日は快晴の予報だったが……」


 ベッドから出て、昨日と同じように時計を確認する。

 習慣化されたその仕草。もちろん、時計が指している時間もいつも通りだった。


 現在時刻は七時過ぎ。出社時刻は十時。

 普段ならば、家から会社までがおよそ一時間。


「さて、間に合うかどうか。

 神のみぞ知る、といった所か」


 いつもの朝食を、気持ち早めに済ませ、スーツを着て玄関のノブに手をかけた。

 少し、楽しみだ。


 扉を開けると、いつもとはまったく違う風景が広がっていた。

 家の隣に公園はなく、どこにでもあるような住宅地が並んでいる。そして、向かいの家もなく、代わりに随分と大きなマンションがそびえ立っていた。

 朝陽が入ってこなかったのはこの建物が原因のようだ。


「これはまた、運の悪い……」


 これでは洗濯物の乾き具合が気に掛かる。隣の公園もないとなれば、爽やかな夏の朝はどうやらどこかへ消え失せてしまったと判断せざるを得ない。


 辺りを見回すと、昨日とはまったく違う風景。

 しかし不幸中の幸いか、マンションの横にいつものコンビニを見つけた。


「これは少し嬉しいな」


 折角なので、いつものコーヒーを買ってから出掛けようか。いつものように車で寄るのではなく、徒歩でコンビニへと入店し、いつものコーヒーを買った。いつもの店員がちゃんとレジに立っている。


「ありがとうございました!」


 いつも通り愛想のいい店員の声をあとに、家に戻り車に乗り込む。

 さあ、会社を探そうか。


 新聞受けに入っていた"企業・事務所移転先一覧"を取り出し、会社の住所を調べることにした。

 片手に缶コーヒー、もう片手には住所録一覧。


 自分の会社がどの地区に移ったか確認し、それと共に取引のある会社の場所も確認しておく。会社に着いたら、まずは各社への電話挨拶、および営業連中のルート決めだ。

 幸い、会社までの距離は前とさほど変わっていないようだ。


 一覧をダッシュボードにしまいこみ、会社を目指すことにした。


 ゆっくりと動きだした車は、いつもと違う風景を前から後ろへと流していく。


「お、あんな店この街にあったのか」


「スーパーはここか。少し遠くなったな」


 などなど、まるで初めての道を走るかのように様々な発見がある。実際初めて走る風景なのは確かなのだが。


 毎度のことながら、"地区替え"と称されるこの条例は面白い。

 街全体が一夜にしてその場所場所を入れ替えてしまうのだから。


 また、ご近所に挨拶にいかないといけない。

 カーラジオのスイッチを入れると、いつもと変わらないニュースが流れてくる。景色が違うだけで、随分と雰囲気が違うものだ。


 この街には、他の街にはない一つの条例がある。

 それ以外は何の変哲もない普通の街なのだ。


 誰が何の目的で作ったかは知ろうとも思わないが、退屈しないことだけは確かだ。

 昨日までそこにあったものが、今日もあるとは限らないのだから。世の中は往々にしてそんなものだろうが、この街では物理的にそれが起こり得る。


 ここは、月に一度席替えをする街。

 迷子が絶えない街。


 今日の昼食は、いつもと同じ弁当がいい。




.end

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