第一話
それは、先月の末の出来事。
梅雨も明けてからりとした晴れ間がのぞく時期。この街である事故が起きた。
道路に飛び出した猫を助けようとした女性と車との接触事故だった。車はそれなりにスピードを出していた。
しかし不幸な結果に終わることはなく、女性も猫も驚くほどの軽傷で済んだ。足を少し挫いた程度で他には目立ったケガもしていなかった。当たって飛んだ先が運よく公園の植え込みだったことが幸いしたのだろう。
奇跡としか言いようがないこの事故だが、あまり街の人の注目を集めることは無く、日常の中で次第に事故の記憶は人々の中から消えていった。
大きな事故ではなかったことが原因ではない。
ここが、そういう街だからである。
この街には、他の街にはない一つの条例がある。
それ以外は、何の変哲もない普通の街なのだ。
○ ○ ○
自販機で冷たい飲み物でも買おうかと財布を開けてみても、そこにお札などはなく、じゃらりと小銭があるばかり。
ここで無駄遣いなどしても良いのだろうか。いや、しかしアタシは喉が渇いたのだ。梅雨も明け、炎天が続くこの時季だ。熱中症で倒れるわけにはいかない。
「せめて、量が多い方をっ!」
この暑さの中、コンビニでアイスやその他諸々を勢いで買いこんでしまうよりは、今ここでしっかり水分補給をした方が良い。きっとそうだ。そういうことにしておこう。
誰にでもなく無駄遣いの言い訳をして自販機に小銭を入れようとしたアタシはハッとその手を止めた。
「うあ……当たりつきじゃない」
それはダメだ。
せめて無駄遣いをするのであれば無駄の少ない選択をしたい。自分を正当化する最後の砦として当たりつきの自販機でなけりゃならんのだ。貧乏アルバイターなめんな。人一倍貪欲だぞアタシゃ。
数分探し回った後、やっと見つけた当たりつき自販機に小銭を入れ、財布からエメラルド色のカードを取り出す。
自販機に付いている読み取り部分にカードをかざし、スポーツドリンクを買う。ごとりと吐き出されたペットボトルを取り出して自販機をみると"当たり"のランプがぴかぴかと点灯していた。
うん。ちゃんと当たった。これで良し。
「ま、せめてこうやって二本分だとお得感もあるってことよ」
追加のスポーツドリンクも手に入れて、アタシは悠々とバイトに向かうことにした。
あ、その前に。
今日は給料日だ。銀行に寄って、残高を確認してからバイトに行こう。アタシの労働の対価をしっかりと確認して、気分よく今日も働こうじゃありませんかっ。
日々の中で、今日ほど待ち遠しい日はない。いや、嫌いな人はいないんじゃないか?
アタシのように働く身としてはこの瞬間が至福だ。労働が目に見える形で報われる瞬間。この瞬間のために働いているといっても過言じゃない。
嗚呼!素晴らしきかな給料日!!
足取りも軽やかに銀行へと向かう。
何かと支払いは残っているが、それでも嬉しいものだ。繁華街を抜けて、銀行へ足取り軽やかに入店する。
「えーっと、コレと、コレ」
オレンジ色のカードと、エメラルド色のカード。それぞれをATMに通す。そこには輝かしい私の成果とこの街特有の嬉しい特典アレコレが……
「あらら?」
エメラルド色のカードの残高がゼロに近い。オレンジ色のカードの残高は着実に増えているというのに。
手続きが遅れでもしたのだろうか。確か末締めの二十日支給で、土日も祝日も挟んでいないのに。アタシは少し不思議に思いながらも確認を終えたカードをしまってそのままバイトに向かった。
○ ○ ○
「おっかしいなあ」
バイトで周りの人に聞いてみても、どうやら振り込まれていないのはアタシだけだったらしい。再び、財布の中を確認する。アタシだけ、街から嫌われでもしたのだろうか。
エメラルド色のカードは、この街でだけ使えるカードだ。正規の給与とは別に毎月、街から送られてくるものがある。
別に金銭という訳ではないので急を要するものでもないのだが、無いと何かと不便ではある。
街から送られてくるもの。それは、運だ。ツキとか、ラッキーとかそういう類の。
毎月一定量の運勢が街から"配給"される。
コツコツ貯めておくことだってできるし、前借りして使う事も出来る。
どのくらいの量が毎月与えられるかといえば、自販機の当たりくらいなら一日一本くらいは平均して当てられるくらいの幸運だ。
「先月はそんなに運使ってないよアタシゃ」
独り言をぶつぶつ呟きながら、アタシは家に帰ってきた。そりゃ、自販機の他にも商店街の福引きでちょいと奮発して運を使い大量の猫缶をゲットしたけど。あれは六等の景品だったからそんなに大量に運を使ったはずもない。
最近飼いだしたうちの可愛い同居猫。
しばらくエサ代に困らないとなれば福引きで運を使うくらい随分とお得だったろう。他にはそんなに使ったかな。いいや、使ってない。断じて。
残っていた運残高では、自販機での当たりはおろかアイスの当たり棒すら当てることは出来そうにない。このままでは、今後一ヵ月は間違いなく、信号全止まり生活だろうし、神頼みはことごとく外れるに違いない。
「困った。貸運屋にでも行こうかな。
あぁ、でも来月以降に響くから、ご利用は計画的にしないとな」
貸与、贈与なども出来るので金融会社ならぬ運融会社もこの街には存在する。
もちろん、返済や利息に充てられるのもまた運なのだ。
部屋に帰ると、留守番をしていた同居猫が出迎えてくれた。
先月の末から一緒に暮らしはじめた可愛い子だ。
玄関の奥から鈴を鳴らして出迎えてくれた。
鍵尻尾をぴぃんと立てて、大きな瞳を見開いて。
「ただいまっ」
首の鈴をリンリンと鳴らしてやる。
あぁ、かわいいなぁもう。一人暮らしに少しは潤いが欲しいと思ってたんだ。これこれ。こういうのだよ。帰りを待ってくれる存在っての?素敵じゃないの。
いやあ、拾ってきて本当に正解だ。
先月キミをを助けたのは人生最大のファインプレーだね。
あ。先月?
「ああ!」
先月。先月の末だ。
すっかり忘れてた。
「そうだ。アタシ事故ったんだったなあ」
少し首を傾げるように、鈴をちりんと鳴らす猫。かわいい。
先月の末。
道路に飛び出した猫を見て、反射的に飛び出していた。
カッコよく助けられればよかったのだが、日頃からそんなに運動もしていなかったのであっさりと猫と一緒に飛ばされた。
だが、飛ばされた先には植え込みがあり、奇跡的に助かったのだ。
あの時は、運を使ったなどとは思っていなかったが、どうやら命の危機には強制的に使用されるらしい。
そうか、今月の運残高の少なさはそういうことか。
合点がいったアタシに、同居猫は一鳴きしてゴハンを要求してきた。
まぁ、のんきな子ですこと。そこも可愛いぜコイツぅ。おまえを拾ったご主人様は今月、幸運が残ってないのですよ?
まぁ、いいか。当たりクジも、赤信号生活も我慢するさ。
台所から大量に積み上げられた猫缶を一つとってきて皿に出すと嬉しそうに尻尾を立ててそれを食べるうちのかわいい同居猫。
その幸せそうな姿に免じて大いに許そうじゃないの。
不幸との、ちょっとした期間限定の友達付き合いだと思えばいいか。
この街には、他の街にはない一つの条例がある。
それ以外は、何の変哲もない普通の街なのだ。
ここは、運勢が配られる街。
願いの叶う街。
もっとも。無駄使いをしていればすぐになくなるので、その辺りはなかなかシビアだが。
運の無いことを言い訳に、バイトで楽な仕事でも回してもらうかな。なあに、モノゴトは考えようだ。
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