第二話
隣を歩く男性に声をかけた。わたしは今、怒っている。
「ずいっぶん久しぶりね」
繋いだ手はそのままで、相手は見ずに口を尖らせながら。今回はいつもにも増して放っておかれた感じがする。
ゆるゆると眩しい日射しが降り注ぐよく晴れた日なのに、心の中はそれとは反対に曇り空もいい所。もしかしたら雷雨くらいの悪天候かも知れない。
そう思うくらい荒れた心模様になっている事が自分でも分かる。
本当に久しぶりだ。
最後に会ったのは確か、クリスマス。駅前で待ち合わせて、ご飯を食べてお互いにプレゼントを渡して。それでおしまい。何て洒落っ気のないクリスマスなんだろう。
でも、年末で仕事が忙しい彼を知っていたから、それでも我慢できた。
そこから今まで会っていなかったんだから、約四ヶ月半。
忙しいとはいえ、彼はメールすらあんまりしてきてくれていなかった。
ほら。考えるとまた、わたしの中の天気が悪くなっていく。
「ん、そうだなぁ。久しぶりだ……」
それでも、久しぶりに彼の声を聞くと少し安心する。手を繋いでるからなおさら。ほっとする。
ああ、わたしの心の天気はなんていい加減なんだろう。彼の発した一言で少し心に晴れ間が見えてきている。こんなに簡単に晴らされるなんて、ちょっと悔しい。
こうも容易く心理が変わっちゃ手のひらで踊らされているような感じになる。心理学の教授だって、こんなゆらゆら七変化で面妖な心理には両手を上げて逃げ出したくなるに違いない。
ここは、わたしのプライドと偉大なる過去から現代まで連綿と続く心理学の歴史と、その歴史者達の名誉のためにも気を晴らしてはいけない。
ここでいっそ下手な言い訳でもしてくれたら。そしたら、うやむやになりそうなこの空気も、わたしの心に渦巻く曇天模様も全部ないまぜにして理不尽なまでに怒るのことができるのに。
人はそれを八つ当たりと言うけれど。
口数少な目にぼんやりと空を見上げる彼を尻目に、必死で許すまいとしている自分がいた。
休日ということもあってか、街には同じように手を繋いで歩いている人達が多い。駅前通りは今日も賑やか。家族連れもいて、両親の真ん中をぶら下がりながら歩く少年の姿にほのぼのとした空気を感じる。
○ ○ ○
この街には、他の街にはない一つの条例がある。
それ以外は何の変哲もない普通の街。
誰が作ったのか、何のために作られたかは分からない。
けど、今の私にとっては少しだけ困る。
声を大にして思いっきり怒鳴り付けてやりたいのに、彼の頬を思いっきり張り付けてやりたいのに、それができないから。
もう。なまじ手を繋いでいるせいで、すっかり落ち着いてしまった。頭では許すまいとしていても、いつの間にか心の中はすっかり晴れ渡って穏やかな事この上ない。
先程の荒天はどこへやら。たまに、こんな自分がいやになる。
世界中の心理学者に心の中で謝ってから、せめて何かしら嫌がらせでも出来ないかと考えてみた。
そういえば前にデパートで見かけたサンダル、かわいかったなぁ。
ちょっと高くてあきらめたんだっけ。まだあるかなぁ。よし、まだあったら絶対に買わせてやるぞ。
そういえば、お腹もすいてきた。
変にセットに気合いと時間を使いすぎてまだ食事らしい食事をとってない。
あ、そうだ。
駅前で食事して、食べにくそうにしてる姿を見て笑ってやろう。私は左手を、彼は右手を繋いで歩いている。彼の利き手は右手。きっと利き手が使えずに苦戦するだろうから。
それなら、与える精神的ダメージも考えてちょうどいい感じかな。
決まりねっ。
「オムライス」
まだ不機嫌な振りをして、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「オムライス食べたい」
「……この辺りで食べるの?」
「この辺で食べる」
「……そっか」
当たり前なんだから。駅前で食べないと面白くないじゃない。
せっかくだから、おごってもらっちゃおう。
なんせ、ずっと放ったらかしだったんだから。これくらいは、いいよね。
「そうよ。デザート込みで君のオゴリ。
仕方ないからそれで許してあげる」
口にこそ出さないけど、サンダルも込みなんだから。
ヘソを曲げたフリのままもかわいそうだし、何よりせっかく会っている時間がもったいない。わたしだって、今日のデートは楽しみにしてたんだ。
「ん、オーケー。是非とも奢らせていただきますよ」
右手は繋いだままで自由が利かなかったに違いない。彼は笑顔とともに、左手でわしゃわしゃとわたしの頭を撫でた。
「もおっ、セットが崩れるっ!」
誰の為に朝から時間と朝食を犠牲にしたと思ってるの。だいたい、ちょっとくらい褒めてほしいな。こちらから言えば、きっと似合ってるとか言ってくれるんだろうけど、それはなんとなく違う。
あ、ちょっとまた曇り空になってきた。ほんと面倒くさい。私の心……。
だから、右手で思いっきり手をはたきおとしておいた。うん、八つ当たり完了。
「ははっ。悪い悪い」
無邪気に笑う彼の顔に反省の色は感じられなかった。もおっ、あんまり嫌な気がしないのが逆に腹立たしい。
彼は駅前に並ぶ洋食屋の中から、いかにもな感じのお店を選んでくれた。そっちもおいしそうなんだけどね。違うんだよ、君。
「こっちがいい」
わたしはあえて向かいにあったファミリーレストランを指差した。わたしはオムライスを食べると言ったけれど、君は左手で箸を使うことになるかも知れないんだよ。
その可能性に思い至ったのか、彼はほんの一瞬だけ顔をしかめた。わたしに悟られないようにと平静を装って、
「じゃあ、ファミレスで」
と言って店内へと二人して入った。
テーブル席に並んで座り、メニューの中のランチのページから注文したのはキノコとホワイトソースのオムライス。それと、デミグラスソースのバターオムライス。ちょっと贅沢かも知れないけど、今日くらいはいいや。デザートにチーズケーキも。
君の注文を和食にしなかったことを感謝してね。
さて。許すとは言ったものの、何の査問もナシで許すなんてそんな甘いだけの女じゃないの、わたし。事と次第によってはオムライスが和食御膳に変わるのは理解してくれているかしら。
そう決めて、言葉を紡いだ。
「……ねぇ、最近どうしてたの?」
「部署が変わってさ。バタバタしてた。ゴメン」
彼の顔をじっと見る。
参ったな、という顔こそしてるけど。
うん、どうやら嘘じゃないみたい。たしかに、よく彼の顔を見ると疲れが伺える気がする。少し、悪い気もするかな。
「もう。だからって放っておきすぎなのよ。君は。
あ、こないだなんか携帯切ってたでしょ」
話題を終わらせようとした矢先、ふと思い出した事を口にしてみた。
「いつ?」
「二週間くらい前」
「じゃあたぶん、出張の日だ。
上司と相部屋だったから切ってた」
あ。前言撤回。これは嘘だ。
長い付き合いだもの。嘘をつく時のクセくらいよく知っている。嘘つく時は視線が落ちるのよ君は。教えてあげないけれど。
ただ、部署変えの話は本当みたいだし、会社の面子で飲みに行って勢いで麻雀でもしてたくらいが関の山。だとは思う。学生時代の口約束なんだから、律儀に守らなくたっていいのに。
そんな所だけは昔から変に真面目なんだから。
「事前に連絡くらいしてよね、もう」
会社での付き合いなんかもあるんだろうし。別に麻雀くらい。そりゃあ、大学時代はそればっかりやってたから怒ったこともあったけど。
彼の右手からも、そんなに焦りの雰囲気も伝わってこないし、浮気ってこともなさそう。今回は和食は勘弁してあげる。
ただ、嘘は嘘。
罰としてサンダルに付け加えて何かご購入願おうかな。
「これからはそうするよ」
まったく。ここまで寛容な彼女は世界のどこを探してもわたしくらいなものよ。もっと感謝してほしいな。
そうこうしているうちに、メニューが届いた。食べながら横目でちらりと見て見れば、案の定苦戦している。ああ、スプーンからこぼれてるよ、ほら。
「あの、さ。席、交換しない?」
「あれえ?減ってないね。お腹すいてないの?」
ふふ、クセになるかも。結構楽しい。
「誰が悪いのかなぁ?」
悔しそうな彼の顔を見ながら、自分のオムライスに手をつける。うん、おいしいね。勝利の味だよ、これは。
「わかってる。全面的に俺が悪い」
「うんうん。わかってればいいのよ」
ずいぶん気が晴れた。
まるで幼児の食後かと思えるような散らかりっぷりのプレートを彼がしずしずと片している間に、勝利のデザートをおいしそうに、しかも利き手を見せ付けるようにわざとらしく食べておいた。
満足満足。
○ ○ ○
ファミレスでの食事を終えてから後は、少し歩いたりデパートに行ったり。
目当てのサンダルが残っていたのは、本当に嬉しかった。
精一杯の笑顔で彼を見ると、何も言わずに苦渋を飲んだような顔で財布の中身を確認していたけど、そこはそれ。これでばっちり予定調和。
ちゃんと、次のデートで履いてってあげるから感謝してね。そして今度こそ何かコメントが欲しいな。
でも、そうなると新しい服も欲しくなる。うん、次のデートまでに、君に買ってもらったサンダルに似合う服を買っておくから期待してて。
そうこうしているうちに、もう日も暮れ始めていて。楽しい時間はあっという間に過ぎるんだなとわたしは思っていた。
駅前の賑やかな区画を離れて、家路につくために車を停めてあるコインパーキングへと手を繋いだまま向かう。
気づいていないのだろうか?
条例の区画はとっくに出て、もう手を離しても違反じゃない事に。でも気が付いていようがいまいが手を離す理由なんかないんだから別にいいんだけれど。
隣を見れば、彼が何か探し物をしている。
「どうしたの?」
「いや、車のキーを……どこにしまったかな」
鍵はいつもなら胸ポケットにいれていたと思うけれど、どうもそこに無いみたい。そういえば、初デートの時も同じようなことがあった。
あの時は、彼の財布が見つからなくてあたふたしてたっけ。
懐かしい反面、なんだか昔の事を思い出すとこそばゆいような気持ちになってくる。それが手を通して伝わってしまわないかと少しドキドキして頬があつい。
「あぁ、あったあった。
いつもと違うところに入れてたみたいだ」
ほっとした顔でのんきな声をあげる所を見ると、わたしのこのドキドキには気づいてないはず。
「ん……っ」
「今度はどうしたの?」
「と、取り出しにくい」
体をひねってなんとか取り出そうと苦心している姿を見て、思わず髪で顔を隠しながら吹き出してしまった。その体勢はずるい。だって、面白いもの。
それに、髪で顔を隠してしまえば照れた顔だってばれないよね。ばれていないか気にするあまり、顔がどんどん赤くなっている。
「ええい、笑うなッ!仕方ないだろ」
「ええ、そうね。ゴメンゴメン」
きっと今のわたしは耳まで赤いに違いない。
だいたい、手を離せば無理な体勢になんかならないのに。まだ条例の区画内だと勘違いして手を離さないからわたしが余計な事を思い出して照れるハメになるんだ。そうだ、君のせいだ。うん、そうしておこう。
街の中心にある駅前周辺の区画だけなんだから。
誰かと手を繋いでおかなくちゃならないのは。
それをすっぽりと忘れてる君が悪いっ。甚だしい責任転嫁だと思うけどあんまり気にしない。
「駅前でデート。かあ」
鍵をなんとか取り出して彼が呟く。
そういえば、彼は財布であたふたしたことを覚えてるのだろうか。
「覚えてる?」
「ん、初デートも確か駅前だったなあ」
んー。そこじゃないんだけどなぁ。ま、いいや。
駅前をデート場所に指定したくせに、いざその日になるとなかなか手をつなごうとしなくてヤキモキしたことを昨日の出来事のように覚えている。懐かしいなあ。
そのことでも思い出しているのか、彼の頬が少し赤い。
気づかない振りをしてあげるよ。
「ねぇ」
彼がこちらを向く。
「晩御飯食べて帰ろうよ。何がいい?」
聞くまでもなく、決まってるんだろうけど。
君は、負けっぱなしは嫌だっていつも言ってるから。
「オムライス!」
ほらやっぱり。お見通しなんだから。
間髪入れずに笑顔で答えた彼を、少し可愛いなどと思いながらあえてそれは口にせずに車に乗り込んだ。
ここは手を繋ぐ街。
もしかしたら、心が繋がるかもしれない街。
後日、メールで白状させるとやっぱりこの前は麻雀をしていたらしい。それをネタに、今度のデートの際には夏物でもおねだりしてみようかと思う。
悪いかな?
ううん、いいよね。これくらいっ。
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