第一話
隣にいる彼女が言う。
「ずいっぶん久しぶりね」
繋いだ手はそのままで、こちらを見ずに口を尖らせながら。これは怒っている。完全に怒っている。もう、間違いなく。
まったくもって穏やかな日射しが降り注ぐ五月晴れの日だが、隣から感じられる雰囲気はひやりと冷たい。五月晴れの空の爽やかさが、ここにだけは無い。
確かに久しぶりだ。
最後に会ったのはいつだったかと思い返してみると、記憶にあるのは町中を賑やかに騒がせていたクリスマスのイルミネーション。それと賑やかにながれるキャロルのメロディ。
そこから今まで会っていなかったのだから、約四ヶ月半か。
「ん、そうだなぁ。久しぶりだ……」
思えば、メールすらあまりしていなかったように思える。
言い訳になってしまうが、ここの所忙しかったのだ。ただ、それを口に出すと大変な事態になる事は経験則でもってよく分かっている。
だから、ここは余計な言い訳をしないのが正解だろう。意識して口数少な目に、ぼんやりと空を見上げた。
本当にいい天気だ。
仕事も一段落して、せっかくの珍しいオフの日だ。
このまま手を繋ぎながらのんびりと街中を歩くとしよう。そのうち彼女の機嫌も治るだろう。……治るといいなぁ。
余った左手をどうしようか一瞬考えたが、とりあえずはポケットにしまっておく事にした。
休日ということもあってか、街には同じように手を繋いで歩いている人達が多い。小さい子を真ん中に、親子三人で手をつないでいる姿も見える。
駅前通りは今日も賑やかだ。
○ ○ ○
この街には、他の街にはない一つの条例がある。
それ以外は何の変哲もない普通の街なのだ。
誰が作ったのか、何のために作られたかは分からないし別に異を唱えるつもりもない。
ただ。もしかすると。
この条例には知らず知らずのうちに助けられているのかも知れない。
「オムライス」
不意に彼女が呟いた。
「オムライス食べたい」
繰り返し、そう彼女は主張する。相変わらずこちらを向かないが、要求に関して言えば異論はない。せっかくのデートを沈黙で過ごすのももったいないと考えていた所だ。
ただ、これだけは確認しておきたい。
「……この辺りで食べるの?」
「この辺で食べる」
「……そっか」
「そう。デザート込みで君のオゴリ。
仕方ないからそれで許してあげる」
どうやら、彼女の中で自分なりの折り合いをつけてくれたらしい。
いやあ、助かった。ヘソを曲げられたままだったらどうしようかと思った。まだ問題は残っているが、とりあえずはよしとしよう。
「ん、オーケー。是非とも奢らせていただきますよ」
右手は繋いだままで自由がきかなかったのでまだちょっとムッとした顔の彼女の頭を左手でわしゃわしゃと撫でた。だが、彼女の右手にパシッとはたき落とされてしまった。
「もおっ、セットが崩れるっ!」
「ははっ。悪い悪い」
ちょっとムキになる姿がかわいく思える。
ついついからかいたくなってしまうのは、男の性というやつだ。あんまりやるとまた機嫌を損ねるから程々にしておこう。
駅の近くには洋食店が多く並んでいる。その中の一つ、オムライスのサンプルが多く並んでいる店に入ろうとすると、
「こっちがいい」
と彼女は向かいにあったファミリーレストランを指差した。これは……まだ少し怒ってるなあ。素直にオムライスで済めばいいんだけど。
「じゃあ、ファミレスで」
何食わぬ顔でそう答える。ここで動揺した素振りを見せてはいけない。
テーブル席に並んで座り、メニューを開く。
注文したのは、キノコとホワイトソースのオムライス。それと、デミグラスソースのバターオムライス。そしてデザートにチーズケーキ。
「ねぇ、最近どうしてたの?」
メニューが来るまでの間に、彼女がすかさず近況報告を求める姿勢を示した。やはり聞いてくるかそこを。聞いてくる前にこちらから言いたかった所だ。彼女の方が行動が素早い。
「部署が変わってさ。バタバタしてた。ゴメン」
これは本当。
唐突だった配置変えのおかげで、やたら忙しかったのをよく覚えている。
「もう。だからって放っておきすぎなのよ。君は。
あ、こないだなんか携帯切ってたでしょ」
「いつ?」
「二週間くらい前」
「じゃあたぶん、出張の日だ。
上司と相部屋だったから切ってた」
これは嘘。
その日なら確か前の部署の面子で飲みに行って、そのまま勢いに任せて夜を明かして麻雀に興じていた日だったと記憶している。
飲み会はともかく麻雀は禁止されているので正直には言えない。昔、学生時代に彼女と交わした約束だからだ。禁止されると余計にやりたくなってくるというのも、これまた悲しい男の性だろう。
「事前に連絡くらいしてよね、もう」
「これからはそうするよ」
まったく。と言う声が聞こえてきそうなやや大袈裟なため息が彼女から吐き出された。これは、許されたと思ってよろしいか?
しばらくして、注文の品が運ばれてきた。デミグラスソースがこっちへ。ホワイトソースは彼女へ。
ファミレスの割にはイケる味で満足なのだが、どうにも食べにくいのが難点だ。いや、まだオムライスだからいい。彼女のリクエストがラーメンや和食だったらと思うとゾッとする。
きっとその辺りは、彼女が気を利かせてくれたのだろう。
スプーンを持つ左手の力加減が分からず頻繁にこぼしてしまう俺を、意地悪そうな笑みを浮かべて彼女が見ている。
こうなる事は分かっていたんだけれども。
「あの、さ。席、交換しない?」
「あれえ?減ってないね。お腹すいてないの?」
コイツ、心底楽しそうだ。顔にありありと楽しくてしょうがないという表情が張り付いている。人が左手しか使えないと思って……。あとで覚えてろよ。
「誰が悪いのかなぁ?」
胸中の恨み節を見透かしたように意地悪く笑う彼女に反論したくなるが、確かに自分の彼女を長期に渡って放っておいたのは事実だ。ここは素直に謝ろう。
「分かってる。全面的に俺が悪い」
「うんうん。分かってればいいのよ」
利き腕が使えないと、かくも不便なものか。
そう嘆くもなんとかオムライスを食べ終え、まるで幼児の食後かと思えるような散らかりっぷりのプレートをふきんである程度片しておく。くそう、屈辱だ。この借りは必ず返す!
その間、彼女はといえば食後のデザートをおいしそうに利き手である右手で頬張って満面の笑みを浮かべていた。
機嫌はどうやら治ったようだ。
それならば、この辛い仕打ちにも価値はあると思っておこう。そうやって自分を何とか納得させることにして、ランチタイムを終わらせた。
○ ○ ○
ファミレスでの大苦戦の食事の後も、デートは続行された。
とりたてて代わり映えのない普通のデートだったが、お互いそれなりに楽しんだと思う。
立ち寄ったデパートでの出費はあまり財布に優しくはなかったが、買った品物を持つ彼女の顔がとても嬉しそうでついつい「コレはコレでありかも知れん」と考えてしまった。
そうこうしているうちに、もう日も暮れ始めていた。
駅前の賑やかな区画を離れて、家路につくために車を停めてあるコインパーキングへと手を繋いだまま向かう。
駐車番号を確認して、車のキーを探すがどこのポケットに入れただろうか。
「どうしたの?」
「いや、車のキーを……どこにしまったかな」
いつもなら左ポケットに入っているはずのキーがない。
順に他の場所を確認していくと何のことはない。右ポケットに存在を確認できた。
「あぁ、あったあった。
いつもと違う所に入れてたみたいだ」
安堵して胸を撫で下ろす。そして改めてキーを取り出そうとした。
「ん……っ」
「今度はどうしたの?」
「と、取り出しにくい」
かなり無理な姿勢になってしまう。
左手で右ポケットのものを取り出すのは体の構造的にきっとおかしい。体をひねってなんとか取り出そうと苦心している姿を見て、横で彼女はクスクス笑っていた。
笑ってしまう気持ちは確かによく分かる。左手をめいっぱい伸ばしてジーンズの右ポケットに這わせる。しかしなかなか届かない上に、手も入れにくい。
「ええい、笑うなっ!仕方ないだろ」
「ええ、そうね。ゴメンゴメン」
言葉こそ謝罪の言葉だが顔は相変わらず笑いをこらえている。耳まで赤いじゃないか。そんなにおかしいか。まったく。いやまあ、おかしいだろうなあ。彼氏がいきなり体を捻って踊りだしたんだから。
この街はそういう街なんだから仕方ない。
こういう不都合や不具合が生じる事だってある。
何せこの街では、いや、正確には街の中心にある駅前周辺の区画では必ず"誰かと手を繋いで"おかなくてはならない。
歩いている時も、食事をするときも。ずっと。ああ、おかげでオムライスは食べにくかったし今もこうして鍵が取り出しにくい!
とは言っても駅前の一区画だけなので日常生活にあまり支障はない。
「駅前でデート。かあ」
苦戦の末、車のキーを取り出して、ふと呟く。そういえば、ずいぶんと久しぶりな事だらけだ。この場所に二人で来るのも、彼女と会うのも、手を繋ぐのも。
「覚えてる?」
彼女が聞いてきた。もちろん、覚えてるとも。
「ん、初デートも駅前だったなあ」
忘れるはずがない。
否応なしに手を繋げるから。という理由で駅前をデート場所に指定したのは良いが、いざその日になると緊張してなかなか駅から出られなかった学生時代のことを、恥ずかしながらよおく覚えている。
思い出すと、照れからか少し顔があつくなるのを感じた。思わず笑みがこぼれてしまうが、バレるとちょっと恥ずかしい。
「ねぇ」
バレたかッ!?
「晩御飯食べて帰ろうよ。何がいい?」
よし、バレてない!
晩御飯か。彼女を家まで送っていくついでに食べていくにはいい時間だ。
何を食べようか。条例の区間を出れば箸もナイフもフォークも使えるので、煮魚やステーキもいいだろう。しかし、忘れるものかオムライスに受けた恥辱を!
「オムライス!」
米の一粒残さずキレイにたいらげてくれる!負けず嫌いなのだ。俺は。
やっぱりね。というような顔で笑う彼女と共に車に乗り込んだ。
ここは手を繋ぐ街。
もしかしたら、心が伝わるかもしれない街。
これからはせめてメールくらいはすることにしよう。
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