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礼二郎はすっかりぬるくなってしまった保冷剤を交換しにキッチンへ向かった。
「あら、礼二郎。それ、ユキちゃんのね。いっちゃんといるの? お茶でも持って行こうか? お菓子もまだあるわよ」
「いいよ、腹が膨れて眠くなったみたいで、いま寝てんだ」
「そうなのー。食べてすぐ寝ちゃうなんて赤ちゃんみたいねー」
たしかに、生まれたばっかりなわけだから、赤ちゃんみたいなものか。
冷凍庫を開けて保冷剤をしまう。
「ねぇ、夕飯は食べるかしら。家出って言ってたけど、お家の人に連絡した方がいいんじゃない?」
「ああ、とりあえず、ウチにいることだけはさっき電話したんだ。……ん?」
礼二郎の尻ポケットに入っているスマートフォンが振動する。
「あれ? ユキん家からだ。さっきかけたばかりなのに」
そう言いながら、『応答』をタッチする。
「もしもし……。はい。さっきはどうも。……いえ。どうかしたんですか? ええ? それは急でしたね……。そしたら、ユキはどうしますか? そちらに送り届けましょうか? ……え? シッターさんに?」
ここまでしゃべると、受話口を手で覆い、何事かと見守る景子に向かって「ユキ、何日か預かってもいいよな?」と聞いた。
非常事態を察したのか、景子は無言で何度もうなずき、指でオッケーサインまで作っている。
「ああ、すみません。もしよろしければ、ウチでしばらくお預かりしましょうか。いま、姉も戻ってきてて……。はい。……いえ、だいぶ仲良くやってますんで大丈夫ですよ。え? お礼? いえいえそんな。はい、……もちろん。はい。では」
礼二郎は『通話終了』をタッチした。
景子は心配そうな顔で見つめている。
「なんかさ、ユキの親戚に不幸があったんだって。で、ユキの母さん、実家の……シベリアの方に急遽行かなくちゃならなくなったみたいでさ」
景子は「あらー」とか「シベリア?」など合いの手を挟みながら聞いている。
「だったら家に送り届けようかって聞いたんだけど、ちょっと複雑な事情でユキは連れて行かないみたいなんだよ、そんで、シッターさんに見てもらうとか言うからさ」
「それで、ウチで預かるってわけね。たしかにシッターさんはプロだけど、ちょっとユキちゃんには寂しいかもしれないもんねぇ。いいのよ、困った時はお互い様なんだし」
よし! 信じた!
礼二郎は冷凍庫から冷えた保冷剤を二つ取り出すと、景子から深く追及されないよう、早々にキッチンを出た。
「シベリアの子ってやっぱり日本は暑く感じるのね~。成る程~」
景子はユキがシベリア出身と聞いて、納得したようだった。
「さーて、じゃあユキちゃんが食べられそうな料理考えなくちゃね」
とレシピ用の本棚に向かって、そこから数冊抜き取る。
「あら? でも向うにも煮込み料理ってあるんじゃない?」
礼二郎がいた方を振り向きながら言うと、そこにはもう誰もいなかった。
「……ああ、礼二郎君? 何度もごめんなさいねー。あのね、ちょっといま急に実家の方で不幸があって、シベリアに帰らなくちゃならないのよ。ええ、ほんと急で。……そうなのよね、ユキなんだけど、ちょっとあの子の苦手な親戚のところなもんだから、出来ればシッターさんにでも預けて行こうかと思っててねー」
ここで一呼吸。
「……よろしいの? 助かるわぁ。……あら、お姉さんが? ご迷惑じゃないかしら? ……そう? じゃあ申し訳ないんだけど、お願いしようかしら。……このお礼は明日届くチーズケーキ三分の一でいいわよ。じゃ」
一華は電話を切った。
別にここまでしなくても、と言ったのだが「一人芝居だと絶対にボロが出る!」という礼二郎の懇願により、存在しない『ユキの母親』を演じることになったのだ。
それにもちろん、「一言ご挨拶しないと」と景子が代わろうとするかもしれない。そうなったら、あの礼二郎では対応出来ないだろう。
まぁ、話した感じ、棒読みってわけでもなかったし、景子もユキを気に入ってる様子だったので心配ないとは思っていたが……。
「イチカ、もう良いか?」
ユキは両手で口を抑えていたが、手と手の間をわずかに開けて小声で問いかける。
「あー、もういいよ。協力ありがとうね」
一華がそう言うと、ぷはぁ、と言いながらユキは両手を離した。
「よーし、これでしばらくココにいられるよ、ユキちゃん。これからどうしようっか。どうしたい?」
「どうしたい……か。私はとにかく栄養を蓄えなければならぬ。したいことといえばそれくらいだ。たぶん、もう、時間がない」
「時間? なんの?」
「まだ言ってなかったか。私には使命があるのだ。この分だと、たぶんあともう少しだ」
「使命……。それって……?」
一華が身を乗り出す。ユキは手元にあったせんべいを手に取り、包装をピリピリと破る。
「女王として、しっかりやり遂げなければならぬのだ」
せんべいにかぶりつき、バリっと音を立てて真ん中から割る。
しかし、一口では入りきらなかったのだろう、空いている方の手で口に咥えたせんべいを抑えながら噛んでいる。
「女王としての使命って?」
一華は問いかけたが、せんべいをバリバリと噛む音で聞こえないのだろう。ユキはその質問には答えず、機嫌よくせんべいを食べている。
仕方ない、これを噛み終えるまで待つか、と一華もせんべいに手を伸ばす。
トン、トン、と階段を上ってくる音がする。礼二郎だろう。
「おーい、うまくいったぞー」
そう言いながら、ドアを開ける。
「二人してせんべいかよ。まったく」