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「じゃ、目を瞑って」
そう言われて、一瞬冷たい風が吹いたかと思うと、すぐに暖かい風に包みこまれるような感覚があった。
「もう開けても大丈夫だけど、身を乗り出したら落ちるからね」
どこからか声がして、目を開ける。
「え? ぅうわぁっ!」
礼二郎と祥太朗は稚内の上空に浮かんでいた。
祥太朗はさすがに慣れているらしく、平気な顔をしているが、礼二郎には衝撃的だった。壁のような感触はあるが、上下左右、どこもかしこも透けているのだ。足元をちらりと見る。
身を乗り出すも何も、無理だよ……。
「レイジ君。まっすぐ前を見てごらん。白い渦が見えるだろう? あの中心に女王はいる。近づくから、出せるだけの声で、女王の名前を呼んで」
顔を上げると、前方に巨大な竜巻のようなものが見える。
「わかりました」
「やはり……。もう充分足りている……」
横目で祥太朗を見る。マッチ箱を両手で包み込み何度も深呼吸している。祥太朗も緊張しているのだろう。
徐々に渦に近づく。少しだけ、温度が下がった気がした。
「ユキ! ユキ! 聞こえるか? 俺だよ!」
「もっと! 大きな声で!」
「ユキぃっ! ユキぃぃっ! 俺だぁぁぁっ!レイジだぁぁぁぁっ!」
渦が少し弱まった気がする。
「渦の中に入るよ。祥太朗も準備して」
「お、おう……」
祥太朗は大きく深呼吸して、マッチを擦った。炎に右手を近づける。
一瞬、視界が真っ白になる。飛行機で雲の中に入った時のようだった。
渦の中は空洞になっており、その中心にユキはいた。
「ユキ! 迎えに来たぞ! 俺と一緒に帰ろう!」
「レイジ……? なんでココにいる?」
「聞こえたか、良かった……。ユキ、帰ろう。姉ちゃんも、母さんも、父さんも皆待ってる。お前が帰ってくるの待ってるんだ」
「皆……。でも、私は雪を……」
「もう充分足りてるって! お前は充分女王の役目を果たしたんだよ! 皆待ってるぞ!」
「でも……」
「俺だって! お前に! いてほしいんだよ!」
「レイジ……。お前……」
ユキは安堵したように笑った。
その瞬間、ふ、と渦が消えた。
ユキの身体が垂直に落下する。
「祥太朗! 僕は女王を助けに行く! 後は任せた!」
信吾の声が聞こえ、しゅるしゅる、と礼二郎と祥太朗を包んでいた風の壁がはがれていく。徐々に冷たい風が入り込んでくる。
「任せろ! 目ぇ瞑って歯ぁ食いしばれよ! 弟ぉ!」
「は、はいっ!」
「ぅぅぅおおぉぉぉぉぉっ!」
祥太朗の力では、風の壁を作るのに時間がかかるのだろう。数秒落下したようだ。
それだけで、露出している顔面が凍る。目を瞑れと言ったのはこのためだろう。
「悪ぃな。俺はまだ半人前なんだ。これでも自己新なんだからな」
そう言って、右手を礼二郎の顔に近づける。軽く振ると熱風が吹いて来て、顔の氷が溶けた。
「結構寒いよな? これでも……何とか成功してる方なんだ。お前はとにかく丸まってろ。俺ももう黙るから、、お前もしゃべるんじゃねぇぞ……」
膝を抱え、顔をうずめる前に祥太朗を見た。
左手で右手の手首を抑え、小刻みに震えていた。ものすごく辛そうだ。
それでも、休んでくださいとは口が裂けても言えない。
自分の命はこの人が握っているのだ。もちろんそれは祥太朗にしてもそうなのだが。
くそっ、ぜんぜんスピード出せねぇ。これ以上出せば、凍っちまう……。
自分の身体と同じで考えてんじゃねぇぞ、クソ親父! 戻るまでにどれくらいかかると思ってんだよ!
右手は燃えるように熱いのに、身体は凍りそうなほどに冷たい。
右手からの熱風は、風の壁の中に送り込む。
礼二郎の方には特に熱の層を厚くするように意識する。
まさかこんなとこで凍死させるわけにはいかねぇよな。
しかし、いくら手の熱があるといっても、祥太朗の身体は限界だった。
どこまで……来た……? 少しでも……高度……下げないと……マジで……。
寒さと疲労で意識が飛びそうになる。右手を押さえている左手はもう感覚がない。
……やべぇな……、洒落になんねぇ……。
がくっと高度が落ちる。
風の音も聞こえなくなり、目の前が霞む。
祥太朗の意識はそこで途絶えた。
丸まってじっと耐えていた礼二郎は、だんだんと気温が下がるのを感じていた。
もしかしたら、祥太朗さんは限界なのかもしれない。そしたら、俺はどうなるんだ?
どう考えてもこの高さから落ちて助かるわけがない。
寒さと死の恐怖に震えていると、一瞬高度が落ち、より強い恐怖が身を包む。
もう駄目か……。俺、ココで死んじまうのかよ……。
身を切るような寒さと、恐怖が全身を覆い尽くした時、それらをすべて吹き飛ばすような熱風と共に、信吾の声が響いた。
「頑張ったね、祥太朗。ここから先は僕が運ぶから」
助かったのか……?
緊張の糸がぷつりと切れ、礼二郎は気を失った。
気付くと礼二郎は基樹の車の後部座席で横になっていた。
「あれ……。なんでだ? さっきまで、俺……祥太朗さんと……」
ゆっくりと身体を起こす。窓をコンコンと叩く音がする。
「あ……」
窓を叩いていたのは信吾だった。車内を指差している。中に入ってもいいか、というジャスチャーだろう。礼二郎は首を縦に振った。
するり、と窓のわずかな隙間から侵入してくる。普通にドア開ければいいのに……。
「お疲れさま。ごめんね、大変な思いをさせてしまった」
「いえ……、俺よりも祥太朗さんの方が……。あの……大丈夫なんですか? 祥太朗さん」
「もちろん。僕がついているからね。実はね、それについても、君に謝らなければならないんだ」
謝る……? それは、まだ半人前だという祥太朗さんに託してしまったことだろうか。
「実はね……。別に祥太朗の力を借りる必要はなかったんだ。君を凍えないようにしながら女王を運ぶくらい、僕に出来ないことではないんだ」
「え……? じゃあ、どうして……?」
「祥太朗を成長させたかったんだ」
「成長って……?」
「祥太朗は自分のことを半人前だなんて言うけど、それは身体だけの問題だ。もうだいぶ力をつけているのに、その思い込みのせいで、力を出し切れていない」
信吾はそこまで言うと、視線を落とした。
「だから、この機会を利用してしまった。本当に、君には申し訳ないことをした」
そして、深々と頭を下げた。
「いいんです、俺は……。ちょっと怖かったけど……。ユキが無事なら……って、そうだ、ユキ! ユキは?」
信吾は頭をあげると、にこりと笑い、足元に置かれていた小さなクーラーボックスを指差す。
「この中にいるよ。氷は補充してある。虫の姿に戻って、眠っているところだよ」
「虫の姿に……」
礼二郎はごくりと唾を飲んだ。
「きっと、少し休めば人の姿になれると思うけどね。君の家に何か木は植えられていないかな」
唐突な質問に虚を衝かれる。
「木……ですか……?庭にたしか植えてます。何か白い花が咲くやつですけど。それが何か……?」
「良かった。君には二つの選択肢がある。一つは、彼女とこのまま過ごすこと。ただ、それでもやっぱり、寿命は一週間くらいだと思う」
「一週間……」
「もう一つは、その木の根元に埋めること」
「え? 生きてるんですよね? 生き埋めにしろってことですか?」
礼二郎が問い詰めると、信吾は優しく微笑んで言う。
「生き埋め、と言うと残酷だけれど、間違ってはいない。ただ、生きている状態でないと、意味がないんだ」
「どういうことですか?」
「彼女の命を、その木に移すんだよ。虫では永く生きられない。でも、何か他の動植物に移せば、それと共に生きられる。彼女は眠る前に君に選んで欲しいと言っていたんだ」
「俺が……選ぶ……」
「君がどちらを選んでも、彼女は受け入れると。帰りの道中でゆっくり考えるといいよ」
そう言うと、また窓の隙間からするりと車外へ出る。丁寧にお辞儀をして、背を向け、歩き出す。礼二郎は慌ててドアを開ける。
「あ、あのっ、本当にありがとうございました!」
礼二郎の声で信吾は振り向き、笑う。
「僕の方こそ、本当にありがとう」
そして再度丁寧にお辞儀をし、歩き出した。




