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途中何度かコンビニに寄り、トイレ休憩を経て、目的地である水族館に着いたのは十一時半を少し過ぎた頃だった。
入り口でチケットを購入する。中へ入ると、薄暗い。
ぐい、とユキがチェーンを引っ張る。
「怖いのか? ユキ。これくらいの暗さ、ウチの中でもあったろ?」
そう声をかける。
「怖くなど!」
ユキはそう返したが、チェーンはピンと張ったままだ。
「ゆっくり回ろう。きれいだぞ」
「じゃ、礼二郎は彼女と回れよ。俺は一華さんと回るからさ!」
「……ユキちゃん、礼二郎とデートしてらっしゃいな。……あたしに……構わず……」
一華はもうあきらめた顔をしている。
それに反して、ユキの顔は明るい。
「そうか。イチカは『下僕』と『デート』なのだな。では、行こう、レイジ」
ユキはチェーンを引っ張り、奥へと進んだ。
「ちょ、おい、ユキ。ごめんな、姉ちゃん。俺ら昼はおにぎり食べるからさ、適当に温かいもん食ってていいから!」
それだけ言うのがやっとだった。
まっすぐ進むと壁一面の巨大な水槽がある。やはり、平日だけあって、館内はがらんとしていた。
ユキは二階の天井にまで吹き抜けになっている水槽をじっと眺めている。
まるで海の中みたいだな……。
「ユキ、どうだ? すごいだろ?」
「すごいな……。こんなの、空からは見えなかった……」
「そうだな……。海の上から見たって、こんな景色は見えないよなぁ」
礼二郎は水槽の前にある案内看板を見ながら、魚の名前を教えようと思ったが、何せ魚は一箇所に止まってくれるわけではないのだ。ほら、これが……と言ってるうちにその魚はいずこかへ泳いでしまう。仕方ないので、大物のカメやエイのみ、指差して教えた。
「すごいな。きれいだな。私の知らない世界はたくさんあるんだな」
「そりゃ、あるさ。俺だって知らないとこいっぱいあるぞ」
「レイジにもあるのか?」
水槽から目を離して、礼二郎の方を見る。
「あるさ。それこそ、俺は北海道だってぜんぜん知らないからな」
「そうか! 北海道ならば私は少し知っているぞ。それなら私の方が物知りだな」
ユキは無邪気に笑う。
「そうだ。北海道のことなら、ユキに負けるよ」
また水槽の方を見る。そんなに気に入ったのか。
「ユキ、水族館はここだけじゃないんだぞ。テレビで見たシロクマもいるぞ」
「テレビで見た……。あの白いモコモコか?」
「そうだ。……白いモコモコって、お前の服もまぁ、そうだけどな」
「行こう! モコモコ!」
「よしきた」
階段を上って、二階へ行く。
シロクマへ向かう途中にもたくさんの水槽があり、その一つ一つをじっくりと鑑賞する。
一華と基樹もいた。二人の間は微妙に離れている。基樹はあれで意外と奥手なのかもしれない。
ユキはクラゲが気に入ったようだ。特にミズクラゲがいいらしい。
「シロクマといい、クラゲといい、ユキは白いのが好きなのか? まぁ、クラゲは白を通り越して透明っぽいけど」
「そうだな。白いのが好きだ。白は雪の色だからな」
「雪の色か……。そうだな。雪の色だし、ユキの色だ」
「そうだ。私の……色だ……」
ユキはクラゲの水槽を見つめていたが、クラゲは見ていないようだった。
もしかして泣いてるんじゃないのか?
礼二郎はユキの手に触れないようにチェーンを軽く引っ張った。
「?」
「行こう。シロクマ見るんだろ?」
礼二郎に合わせてユキも歩き始めたので、チェーンから手を離した。
数メートル歩くとシロクマの水槽だ。シロクマはプールの中を悠然と泳いでいた。時折、プールから上がって、ぐるぐると岩場を歩く。岩場の奥には部屋とつながっている穴がある。
水槽の隣の壁に手書きのポスターが貼ってあり、それによると、どうやら他県から嫁い出来たお嫁さんが仔グマを産んだらしい。残念ながら、まだ一般公開はされていないとのことだった。
「ユキ、このシロクマはお父さんみたいだぞ。仔グマも産まれたらしい」
「仔グマ? もっと小さいのがいるのか?」
「ああ。でも、まだ小さすぎて見せてもらえないらしい」
「そうなのか……。それは残念だな……」
「母グマの方も見えないけど、仔グマと一緒にいるのかなぁ……」
礼二郎は水槽に顔を近づけて、部屋に続く穴に目を凝らす。
しかし、中は真っ暗で何も見えない。
「駄目だ。見えないな。もっと奥にいるのか、それとも、別室なのかな……」
ぐい、とチェーンを引っ張られる感覚がある。
「どうした? ユキ。疲れたか? 飯、食うか?」
「うん……」
「そうか。じゃ、飲食出来るとこ探そう。少し歩くぞ」
今日のユキはやけに浮き沈みが激しいな。たぶん、腹が減ったとかじゃ、ないよな……。
館内の案内掲示板を見ると、どうやら三階に飲食可のコーナーがあるようだ。
階段を上って、三階へ向かう。
「ユキ、大丈夫か? それつかんでて上りづらくないか?」
「大丈夫だ」
礼二郎を見上げるユキの目の端がうっすらと赤くなっている。
泣いていたのか?
聞こうとしたが、止めた。
きっと、もうすぐ『その時』なんだ。
聞けば『その時』がその分早く来てしまいそうで、聞けなかった。
「ほら。着いたぞ」
そこには丸いテーブルと椅子が何組かあり、自動販売機も数台設置されていた。
昼時だというのに、誰もいない。
皆、一階のレストランにいるのかもしれない。
椅子を引き、ユキに勧める。本当は向かい合わせに座るのだが、椅子を移動させ、チェーンを放さなくてもいいように隣に座った。
鞄からアルミホイルに包んだおにぎりを出す。冷えた飲み物は販売機で調達すればいい。
「おにぎり、好きなだけ食え。まぁ、これしかないから、足りなかったら後でコンビニで買ってやるから」
礼二郎がそう言っても、珍しく、ユキは手を伸ばさなかった。
「どうした? ユキ」
「レイジ……。あのな……」
……言うな。
「ありがとうな……」
……なんだよ。こんなタイミングで礼とか言うなよ!
「たぶん、今日が最期だ……」
……最期とか、言うなよ!
「北海道に戻れなかったのは、残念だが……」
……そんな顔するなよ……ユキ……!
ユキは礼二郎の顔をじっと見つめていたが、一度、俯き、またすぐに前を向くと、目の前に置いてあるおにぎりを一つつかんだ。
「私は、行く!」
そう言うと、礼二郎のチェーンを放して駆けだした。
「え? ユキ?」
礼二郎は一瞬何が起きたのかわからなかった。しかし、すぐに我に返って、その後を追う。
走りながら、尻ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、一華に電話をする。
「姉ちゃん! 大変だ! ユキが! 最期だっつって走り出して! いま! 追ってんだけど!」
走りながらだとどうしても言葉が途切れ途切れになる。伝わっただろうか。
「礼二郎、落ち着いて! とりあえず、アンタは追ってなさい! 話はしてあるから!」
「誰にだよ!」
「いいから! いったん切るわよ!」
くそっ! 切れた! ユキ! お前はどこに行くんだ!
「一華さん……? いまの礼二郎ですか? ……一体……?」
「唐橋君、ごめんね。事情は後で話すから!」
切羽詰まった姉弟のやり取りを不思議そうに見ていた基樹を制して、祥太朗に電話をかける。この時間ならもうとっくにこっちには着いてるはずだ。
「櫻井? 大変なの! お父さんだけでも先にこっち来れない? 場所は……」
「いまからか? ……ああ、大丈夫だって言ってる。場所は……わかる。でも大変ってどういうことだ?」
「あたしもよくわかんないんだけど、一緒にいた弟が見失ったっぽくって。なんかもう『最期』って言ってたみたい」
「『最期』か……。父さ……、あれ? ああ、マジか」
「何? 櫻井? どうしたの?」
「いや……、もうそっち行ったわ……」
「へ?」
「とりあえず、俺らも向かう。一応。あー、えーっと、着物着てるおっさ……、『すてきなおじさま』見かけたら、それ、ウチの父さんだから。じゃ、後で」
おっさんから『すてきなおじさま』に訂正したのは、おそらく、祥太朗の嫁からにらまれでもしたか、まぁそんなものだろう。
とりあえず、櫻井のお父さんが来れば何とか……なるのかな?
スマートフォンを握りしめ、「どれくらいで着くのかしら」とつぶやく。
基樹は何が何やらさっぱりわからない様子で、憧れの『一華さん』をただ眺めるだけだった。
ユキ、待て!
なんでいきなり消えようとするんだ!
「ユキ! 待て! 頼むから!」
かろうじて、ユキの背中は見えている。
きっと、高校の時のクラスのアイツとか、アイツだったら、余裕で捕まえられるのに。
そんな思いがよぎる。
館内は走らないでください! そんな係員の声を振り切って、気付くと外だった。
それでもユキは止まらない。
何だよ、ユキ! 北海道まで走るつもりかよ!
ヤバい……。
もう限界だ……。
これ以上はスピード、出ねぇよ……。
待ってくれよユキ……。
ユキとの差がどんどん広くなる。
もう駄目だ。もう、これきり会えないのか……。
ガクッと力が抜けて、足がもつれる。
「うわっ……!」
ズザァッと音を立てて、派手に転んだ。
「……っ痛ぇ……」
手をついて起き上がると、目の前にユキがいた。
「大丈夫か? レイジ」
「……ユキ……」
腰のチェーンを引っ張って立たせようとする。
「無理だよ、お前の力じゃ。自分で……立てるよ」
痛みをこらえて立ち上がる。
「だいたい、お前が急に走り出すから、こんなことになったんだぞ。どうしてそんな急に……」
パンパンと膝を払う。
ユキはチェーンをつかんだまま、俯いていた。
「北の方に行くと言ったから、もしかしたら、北海道まで飛べるかと思ったんだ……。でも、もう私には、飛ぶ力が無くなってた。後はもう……雪を降らせるだけの力しか、残ってなかった」
「雪を……?」
「私の……女王の使命だ。北の大地に、強い雪を降らせる……」
「北の大地って……。それで北海道に……」
ユキはずっと下を向いたままだった。
ぽたり、ぽたりと地面に雫が落ちている。
「私のために、同胞達は生命を託してくれたのに……。この地で降らせるしかないのか……」
「ユキ……」
ざぁぁ、と強い風が吹く。こんな季節なのに、生暖かい、吐息のような風だった。
風と共に、濃紺の着流しに身を包んだ男が立っていた。
男は礼二郎とユキを交互に見つめ、微笑みながらゆっくりと口を開く。
「大丈夫です。お迎えに上がりましたよ、女王」




