1
一華は祥太朗との会話の後、しばらく家の前でぼんやりとしていた。
ユキに出会ってから、不思議なことがありすぎて、頭の中がごちゃごちゃしている。
冷たい風が頬を撫でる。そろそろ家に入るか。
「ただいまー……」
家の中に入ると、夕餉の香りがする。この香りは煮物だ。成る程、和食なら冷めても美味しく食べられる。
リビングでは、ユキと礼二郎が床に座ってテレビを見ている。
この浪人生は、こんなことでいいのだろうか……。まぁ、一週間もの強制旅行に連れ出したあたしが言う台詞じゃないか。
「ただいま。仲良くテレビ?」
「ん? おお、お帰り。俺は部屋で勉強したいんだけどな。見ろよ、これ」
そう礼二郎が示すのは、自分のシャツの裾だった。ユキが右手の人差し指と親指で、礼二郎のシャツの裾をつまんでいるのだ。
近づいてみると、一応、参考書は近くに置いてあった。
「あらあら、どうしてそんなことになってんのよ」
「知らねぇよ。ココでテレビ見てろって言って、部屋に行こうとしたら、こうなったんだよ」
「……へぇ」
「おい、ユキ、姉ちゃん帰ってきたぞ。姉ちゃんいれば寂しくないだろ?」
じーっとテレビを見ているユキに向かって問いかける。
「ユキちゃーん、イチカだよ。あたしと一緒にいようよ」
一華はユキの顔を覗き込みながら話しかけた。しかし、ユキは口を固く結び、首を横に振って、礼二郎のシャツを引っ張る。
「……なんかいきなり好かれたみたいね。アンタ本当に心当たり、ないの?」
「……ないと思うけど」
急に走り出したユキに追いついたのは、家まであと数メートルというところだったが、手を伸ばしかけて、止めた。触れてはいけないのだ。
「ユキ! おい! 止まれ! 止まれって!」
「嫌だ! 止まらぬ!」
「なんなんだよ。いきなりどうしたんだよ!」
「なんでもない!」
「なんでもなくねぇだろ! 止まらねぇと、飯抜きだぞ!」
言ってみたものの、当然、礼二郎にそんな権利はない。あったとしても、果たしてこんなことで止まるものだろうか。
「なんだと?」
そう言うと、ユキは急に走るのを止めた。もう家は目の前だ。
「なんだよ……、こう言えば……止まるのかよ……」
礼二郎はゼイゼイと肩で息をする。
こっちはこんなに息が上がっているのに、なんでユキは平気な顔をしてるんだよ!
「なぁ……本当にさ……。どうしちゃったんだよ。いきなりさぁ……」
呼吸を整えながら、言う。ユキは礼二郎の方を振り向かずに言った。
「……レイジ、冬は好きか?」
「はぁ? 冬? まぁ、俺は暑いの苦手だし、冬は好きだぞ」
「いちばんか? いちばん好きか?」
ユキはくるっと振り向き、礼二郎をじっと見つめる。
「そうだな……。そう言われると、一番かもしれないな。鍋料理も好きだし。ただ、浪人生にとっては厳しい季節だけど」
「……いちばんならそれで良い」
それだけ言うと、また背を向け、家に向かって歩き出す。
「ええ? おい、先に行くなよ!」
礼二郎はその後を追う。
「そんで、後はさっき言ったとおりだよ」
「成る程ねぇ……」
一華はユキの隣に座った。
ユキはよほどテレビが珍しいのだろう、CM一つ一つまでも真剣に見ている。
「で、何の番組見てたの?」
「んー、何だろ。適当につけたやつだからなぁ」
ユキがシャツの裾をくいくいと引っ張る。
「お? 何だ? ユキ」
ユキはテレビの画面を指差す。
なんてことはない、水族館のCMだった。ここからなら車で一時間くらいか。
画面では、シロクマがプールへ飛び込む瞬間が映っている。
「おお、ここよく行ったな。ちょっと前にこのシロクマに嫁さん来たんだよな」
「そうじゃないでしょ。ユキちゃん、行きたいんじゃないの?」
単純に感想を述べてしまった礼二郎に対し、一華はごくごく冷静にそう言った。
「え? あ、ああそうか。ユキ、行ってみたいのか?」
礼二郎が問いかけると、ユキは黙って首を縦に振った。
礼二郎は一華と顔を見合わせた。
行くか?
行くしかないでしょ。
目だけで会話出来るのは、さすが姉弟といったところか。
「ユキ……、ココ、行ってみるか?」
「……いいのか?」
「いいに決まってるでしょ! 行きましょ! 明日!」
「やったぁ!」
「明日? 明日かよ! 急だな!」
「だって『善は急げ』って言うし? それに、ユキちゃん、時間がないって言ってたじゃない」
そうだ……。ユキはずっと『時間がない』と言っているのだ。
しかし、何の時間なのかは結局まだ聞けていない。
でも、もしかしたら、それはユキが死ぬまでの時間なのかもしれない。そう考えると、聞くのが怖い。
それを打ち消すように、努めて明るく礼二郎は言った。
「よし、行こう! 明日行こうぜ! えーっと、車は……どうする?」
「そっか、明日も父さん仕事だし……。母さんの車は使えないかな」
「いや、使えたとしても、誰が運転するんだ? まさか、母さんに連れてってもらうのか?」
礼二郎も一華も運転免許をもっていない。礼二郎は大学が受かってから取りに行こうと思っていたし、一華に至っては交通の便が良いところに住んでいるため、必要ないと思って取らなかったのだ。
かといって、景子を連れて行けばどこかでボロが出そうな気がする。
いや、あるぞ……、方法は……。ただ、それには犠牲が……。
「……姉ちゃん、一日だけ、我慢出来るか?」
「……何が?」
「……車付の運転手の当てがあるんだ」
「あら、いいじゃない。で、あたしは何を我慢すればいいの?」
「その当てっつーのが、基樹なんだよな」
そう、その『当て』とは唐橋基樹なのだ。『憧れ』の一華と水族館デートなどと言えば、どうなるのか容易に想像がつく。
「唐橋君か……。悩むなぁ……」
一華はユキをちらりと見る。ユキは目を輝かせて一華を見つめた。
「イチカ、楽しみだな!」
「た、楽しみだね、ユキちゃん……」
無理に笑顔を作り、答える。
そして、礼二郎の方を見て、ため息をついた。
「頑張るわ……、あたし」
夕食は和食中心のメニューだった。ユキの分だけ、早目に準備をし、冷蔵庫で十分に覚ましてある。
一番心配だったのは箸だったが、パスタで鍛えたフォークさばきで何とか対応出来た。もちろん『くるくる』の出番はなかったが。
初対面である孝義は、景子からあらかじめ電話で聞いていたようだが、やはり実物は違ったのだろう。初めてユキの姿を見た孝義は、一言「白いな……」と言ったきり、二の句が継げない様子だった。
それでも、豪快な食べっぷりを気に入ったようで、自分の分の刺身も次々とユキに与えてしまった。
犬猫じゃないんだから、餌付けすんなよ。
ユキは何を食べても、冷めてさえいれば、うまいうまい、とよく食べた。
皆、ユキを中心に楽しそうだ。
きっと、明日も楽しい。明後日も、きっと。
だけど、きっと、近いうちに、ユキは死んでしまうのだ。
使命を、果たして。
じゃあ、それを果たさなければ、生きていけるのか?
いや、それでも、雪虫なのだ。永くは生きられないだろう。
礼二郎は『その時』のことを考えると、胸が苦しかった。
いまが楽しければ、楽しいほど。
ユキは自分の運命をどう思っているのだろう。
女王として生まれ、当然のように使命を果たして死のうとしている。
少しでもその運命に抗おうとはしないのか……。
いつもと変わらぬ、景子の作った夕飯も、まるで砂を噛んでいるように感じられた。
夕食後、さっさと風呂を済ませ、基樹に電話をする。
時刻は二十時を少し過ぎたところだ。
基樹は家業の花屋を継ぐための修行中だ。その花屋『花のからはし』の閉店時間はたしか十九時だったはすだ。
単調なコール音に飽きてきたころ、やっと基樹の声が聞こえた。
「悪いな、最後の客の注文がちょっと厄介で」
「いや、こっちこそ。もう、いいのか?」
「おお。今日のレジは親父が締めるって言うし。俺はシャッター下ろしたら業務終了よ」
礼二郎はベッドの上に腰掛ける。ユキと一華は、いまごろ一華の部屋でテレビでも見ていることだろう。
「あのさ、明日仕事休めないか?」
「明日? 明日かぁ……。まぁ、休めなくもないけど。何だよ」
「実はさ、いま知り合いの子を預かってるんだけど、その子をな、水族館に連れてってやりたいんだ」
「知り合いの子って……、女の子か?」
「そう来ると思ったよ。女の子だよ。ただ、お前の守備範囲外だと思うけどな」
「……なんだよ。お姉さまじゃねぇのか」
一華に憧れているだけあって、基樹の好みは年上のお姉さまだ。
「安心しろ、『お姉さま』もいる」
「何? マジか?」
「マジだ。俺の姉ちゃんだ」
「うおぉぉ! 一華さぁん! でかした! 義弟よ!」
「うるせぇ! 義弟と呼ぶな! まぁちょっと話を聞いてくれ。その知り合いの子なんだけど、ちょっと事情があってな……」
「ん? 何だ?」
「その子な、ちょっと特殊な病気でな。めちゃくちゃ暑さに弱い子なんだ」
「何だ? 暑がりさんか」
「いや、お前の思ってるレベルじゃない。お茶の湯気でやけどするレベルだぞ」
「……それは相当だな」「……だろ?」
ここまでは一華との打ち合わせ通りだ。だが、ここから先は……。
「で、その子、たぶん、もう……永くないんだ……」
「えっ……? それって……」
「ああ……。だから、もしかしたら、最後の思い出になるかもしれないんだ」
「そうなのか……」
「悪いな。黙ってても良かったんだけど、俺が耐えられなかったんだ。ただ、姉ちゃんもその子も口に出すことはないと思うんだ。だから、お前も知らない振りしてほしいんだよ」
「……任せろ」
「あと、ちょっと癖のある子だけど、あまり突っ込まないでやってくれ」
「癖?」
「話し方とか、態度とか……。ああ、あと、見た目もな」
「見た目?」
「まぁ、そういうことだ! じゃ、明日十時に迎えに来てくれ!」
「お? 随分強引に締めようとするな。まぁ、いいけど。十時な。そんで、もう当然のように俺の車なんだな」
「頼むぜ、車付運転手!」
「……任せろ」
「じゃ、明日な。……あ! そうだ。明日は完全防寒仕様で来い。その子のために窓全開だからな。じゃ」
基樹の返答を聞かずに電話を切る。
「え? お? おお? マジ?」
基樹は声をあげたが、当然、返事はなかった。
「基樹、OKだってさ」
「そ。良かった。ユキちゃん、良かったね」
ユキは床に敷いた布団の上ですやすやと眠っていた。
「さっきまで起きてたんだけどね。明日のために早く寝なきゃねって言ったら、すぐにコレよ。よっぽど楽しみなのね」
「そうだな……」
ユキの枕元に座り、顔を覗き込む。口をぽっかりと開けて眠る様はまるで赤子のようだ。
「ユキさ、時間がないって言ってたよな」
「言ってたね」
「何の時間かって聞いた?」
一華は、首を横に振る。
「なんとなく想像はつくんだけど」
「そうだね……あたしも」
「だから、明日はさ、楽しくやろうぜ」
「……そうだね。そうだよね!」
「姉ちゃんも明日は完全防寒でな。窓、開けっぱなしで行くからな」
「うっ……。わかった。恥ずかしいけど、モッコモコで行くわ」
「じゃ、俺部屋戻るわ。さすがに勉強しないとだし」
「おう、頑張れよ。浪人生!」
それには答えず、立ち上がる。ユキの寝顔をもう一度見て、一華の部屋を出た。




