前編
夫婦ゲンカは犬も食わないと言います。本当につまらないものです。結婚記念日も間近だったというのに。
三日前のことになります。
夕方、珍しく夫が早く帰宅してきました。夫はIT系のシステム開発会社に勤めておりまして、日がな一日パソコンの前で仕事をしているようですが、それが昼間に留まらず、深夜に及ぶこともありまして、帰宅時間は早くとも夜の九時を過ぎてからということが多いようです。なのにこの日は珍しく夕方の、それもまだ日の沈まぬうちにご帰宅ということでありまして、仕事はどうしたんだろうと思い、そう聞いてみると、
「辞めてきた」
と言います。驚いて心臓をドキドキさせながら、
「辞めたって、会社を辞めてきたってこと?」
と聞き返しますと、「そうだ」という返事が返ってきます。
言葉を失い、呆然としていると、それを見た夫は突然笑い出し、
「冗談だよ」
と言って、そのまま私の方に笑顔を向けてきます。
「今夜、またちょっと出勤しなきゃならなくてさ。午前零時から明日の朝七時まで仕事なんだ。それで今日は昼間は十五時で終わり。深夜勤務に備えて一時帰宅、英気を養って、その後また出社っていうタイムシフトなんだよ。確か……、一週間くらい前だったかな? 多分、言ってあったはずだと思うんだけど?」
そう言われて、一週間くらい前のことを思い返してみれば、確かにそうでした。一週間程前の土曜日、二人でお酒を飲んでいた時に、夫がそんなことを言っていた気がします。ですが、私はその時酔っていて、また夫の方でもさして重要でもないような口ぶりだったものですから、すっかり忘れてしまっていたのでした。
「思い出した?」と、夫が聞いてきます。
「うん……。でもヒドイよ。会社辞めたなんて嘘つくなんて」
「ゴメンゴメン。君がすっかり忘れているみたいだったから、これは一つからかってやろうと思ってね」
「たちが悪いよ」
「そうだね。ちょっと、深刻過ぎたね。ゴメン、謝るよ」
「それに『早く帰る』みたいなスケジュール的なことは、お酒飲んでる時に言わないでよ。忘れちゃうよ」
「うん。それもゴメン。今度から気を付けるよ」
「お願いね?」
「うん。君のことが大事だからね」
これです。夫はこういう人なんです。
「君のことが大切なんだ」
「君に会えて、僕は幸せ者だと思う」
そういったことを恥ずかしげもなく口にする人なんです。呆れ果てて、思わずその場にへたり込みたくなってしまいます。もう本当に困った人なんです、私にとっては。
ですが、こうした夫の過度な愛情表現が不満で今回のケンカが始まったのかと言えば、そうではありません。
私の男性私観ですと、男性の口から出る「愛」とやらは、とても胡散臭く、かなり疑わしいものとなっています。そして、この男性が語る「愛情」とやらが本当にまがい物ではないかと思えるような事態が今回起きてしまいました。
夫が浮気してるかもしれない。
それが今回のケンカの原因です。
この後のことです。
夫がシャワーを浴び、その間に私が夕食の準備をしていると、家の固定電話が鳴り出しました。味噌汁を煮ていた私は、コンロの火を切り、電話に出ると、相手はしばらく無言でした。少し待ってみましたが名乗りもしません。
「あなたのところの旦那さんが、ウチのかみさんと浮気している。今日もこれから会う予定だ」
男の声が突然それだけを言って、電話は切れました。虚を突かれた感じでした。
あまりに突然のことで、私は最初、言葉の意味がうまく飲み込めませんでした。なんだったのだろう? そういう疑問が真っ先に浮かんできました。
「あなたのところの旦那さんがウチのかみさんと浮気している。今日もこれから会う予定だ」
男の声は言っていました。
混乱が渦を巻きました。浮気? だれが? これから会う? 誰と誰が? そんな感じでした。
理解が追いついていませんでした。ただ底知れぬ恐怖と悲しみの予感がありました。心臓が鼓動を早め、その動きが全身を揺らし、視界が白くぼやけて霞んでいくようでした。
夫が浮気をしている。声の主はそう言っていました。
今日もこれから会う。確かにそう言ってました。
信じられませんでした。あの夫が、まさか、そんな馬鹿な真似を……。それもよりにもよって浮気だなんて……。信じられない、いいえ、信じたくない! そう思いました。
ガラっという音がして、夫がシャワーから上がってくる音がしました。ハッとして私は受話器を置き、キッチンに急いで戻って、夕御飯の続きを作り始めました。何気ない装いをして、いつもと寸分違わぬ様子を心がけたつもりです。でも、そんなことは到底不可能でした。心の中は嵐の海原でした。逆巻き、うねり、前も後ろもなく、荒れに荒れて乱れ狂っていました。ほんの少し手を動かしては呆然とし、ああいけないと気を取り直してはまた呆然とする。そんなでした。
そんな状態だったわけですから、料理は当然、滅茶苦茶になりました。魚は焼き過ぎでカラカラでしたし、味噌汁は鍋の中で白い泡を浮かべて煮立っていました。ああ、失敗しちゃったなという自覚がうっすらとありましたが、どうでもいいやと思ったことを覚えています。様々な思いがグルグルとしていて、それどころではなかったのです。
「あれ? この魚、焼きすぎじゃない?」
シャワーから上がってきた夫が席に着き、並べられた料理を前にそう言います。ですが、私は何も答えません。夫の向かいに座り、無言で小刻みに震える箸を動かし続けました。
「アチっ! この味噌汁、ちょっと熱すぎじゃない? それに味もいつもと違う気がする」
やはり返事はしません。無言の食事を続けます。
「律子さん。醤油、取ってもらえる?」
沈黙が続きます。
「あの、律子さん? お醤油、取ってもらえませんか?」
何かしら察したのか、夫の口調が若干丁寧になります。
「あのー、律子さん? お醤油なんですけど……」
夫が言葉を言い終わる前に、私はすばやく立ち上がって、煮え立った味噌汁をぶっかけてやりました。
「あちゃちゃ! あちゃちゃちゃ!」
夫は後ろに飛び退いて急いで服を脱ぎ始めます。味噌汁に濡れた部分が肌に張り付いて、そこから湯気が立ち上がっています。
「何すんじゃい!」
キッと顔を上げ、夫がそう叫びます。
ですが私はそれに答えませんでした、答えられませんでした。その場に崩れ落ち、両手で顔を覆って泣くばかりでした。
「だって……。だって……」
その先は言えませんでした。感情がからまって言葉にならなかったのもありますが、「あなたが浮気してるから」と口に出して言うのが恐ろしかったんだと思います。認めたくなかったんです。
「ど、どうした?」
激しく泣く私の異様を見て、夫が心配そうに近寄ってきます。さっきまでの怒っていた雰囲気は既にありません。
「来ないで」
「でも……」
「来ないでよ」
「いや、でも君が……」
「いいから近づかないで!」
「そんな言い方はないだろう。人がせっかく心配してるってのに」
「いいから向こうに行ってて。私を一人にして」
私が泣きながらそう訴えると、夫は少し傷ついた様子で「分かったよ」と言い、居間の方に引っ込んでいきました。
私はその後もしばらく泣き続け、泣き止んだ後、顔を洗いに洗面所に行きました。目の周りを赤く腫らした酷い顔の女が鏡に映っています。その顔を見てさらに情けなくなり、またしばらく泣きました。食べ残しの料理は全部捨てました。
一人でリビングのソファの上に横になっていると夜の十時過ぎに夫が玄関を開けて外に出て行くのが分かりましたが、声を掛けようとは思いませんでした。
行ってらっしゃい、なんてとても言えません。他の女に会いに行くのかもしれないのに。
その夜は色々なことに思い悩みました。
私達は結婚して今年で三年目の夫婦になります。私が二十七で、夫が三十三歳。子供はなく、賃貸マンションの一室を借りて暮らす、至って平凡な夫婦です。去年までは私も仕事をしていましたが、出産に備えて現在は専業主婦をしています。ただまぁ、いざ仕事を辞めてみたら、子宮にちょっと問題が見つかりまして、現在は子作りを控えねばならない状況になっているのですが。
夫は優しく、愛情深い人間です。機嫌のいい時には家事を進んで手伝ってくれることもありますし、私が病気で床に臥せっている時には細々とした看病もしてくれます。「家事は私の領分なんだから、あなたはゆっくりしていて」と言っても聞き分けない人です。根が優しいんでしょうね、きっと。仕事も順調らしく、決して多くはない金額ではありますが、毎月しっかりお給料を稼いできてくれます。タバコもギャンブルもしませんし、物欲が乏しいからなのか、これといって趣味も持ち合わせてはいません。ただお酒にだけは大変ご執心のようで、仕事でどんなに遅く帰ってきても、毎晩必ず一定量を飲んでいるようです。ゾッとするほど飲むことはありませんが、何しろ毎晩休肝日も設けず、ひたすら飲んでいますので、いつか体をダメにするんじゃないかと、それだけが心配の種です。でも、注意しようとは思いません。夫が唯一生活の楽しみとしていることなので、黙認することにしています。言ったら言ったで、きっと不機嫌になるでしょうし、それにお酒を飲んでいる時の夫は、非常に上機嫌で会話も弾み、隣にいる私でさえも楽しく過ごすことができますから。何かのタイミングで月に三、四度お酒を飲めない日ができますので、多分今のままでも大丈夫だと楽観しています。健康診断の結果でも、ガンマの値は全然大丈夫みたいですしね。
こうやって改めて考えてみますと、この三年、夫は非常に優秀な夫でした。おそらく世間一般で見聞きする平均的な夫より、遥かに立派にその役目を果たしてきた人でしょう。私は幸運で、だから幸せでした。確かに愛情表現が直接的過ぎる点には不満を抱いてますが、それを差し引いても、夫は優秀で、私は恵まれていて、そして幸福でした。私達の、いえ私の結婚生活三年間の総括は、そんな感じになると思います。
だからこそ私は疑問に思ってしまいます。一体いつだったのでしょう? 不幸の影が近くに這い寄って来たのは。知らぬ間に足首つかまれ、悲しみの沼に引きずりこまれそうになってるなんて、気付きもしませんでした。
夫の浮気。そんな兆候、微塵も感じられませんでしたのに。
この三年、私から見た夫に変化はありませんでした。昨日の夫は今日の夫に重なり、今日の夫は明日の夫と重なる。私から見た印象はそんなでした。不幸の果実。その実が実るよりずっと以前の、芽が出たばかりの頃がいつだったのか、まるで見当もつきません。
それで気付きました。もしかしたら不幸の種は三年より前に蒔かれていたのではないかと。
三年より前の彼と、三年より後の夫。
確かにそこには明白な違いが見て取れました。
四年前、私は夫と出会いました。当時の私が二十三で、夫が二十九。出会いの場は神田で開催された街コンでした。
ところで街コンのことはご存知ですか? 街を舞台にした合同コンパのことで、略して街コンです。ただ街を舞台にするといっても、雑踏の街中を出会いの場とするわけでなく、開催地の街にある飲食店に協賛を募り、その協賛店を出会いの場とするものです。
店は常に複数用意されていて、参加者は自分の好きな時に好きな店に移動することができます。そしてその店移動によって、新たな出会いが見つかるのです。まあ男女の人数比によっては、出会いのない場合もあるらしいのですが。
あと合同コンパというだけあって、街コンの参加者は個人ではなく、同性の友人知人と一緒にという指定がある場合がほとんどのようです。
えっと、だから、そうですね、言ってしまえば、街コンというのは色々な会場を自由に行き来することのできる合コンということになりますね、つまりは。ただ合コンとの違うのは店を回る度に新しい異性と知り合うことができるといった点でしょうか。短時間で終わる合コンを、一日に何度も繰り返すイベント。それが街コンです。
私と夫は、その街コンで二軒目に入ったお店で知り合いました。JR神田駅の西口商店街にあるおでんや焼き鳥を出すお店だったと思います。
私から見た夫の第一印象は「君のことが大事なんだ」なんて絶対に口にしないような人でした。もっと固く厳しく、冷やかな印象を受ける人でした。
後で聞いた話では、夫はまだその頃前に付き合ってた彼女と別れたばかりで、とても次の出会いなど望めない時期だったのだそうです。きっとそれが夫の表情や態度、雰囲気に反映されていたのでしょう。不機嫌そう、というよりはどこか頭の芯が冷たく醒めた感じで、笑顔が重く、コンパの浮つきから取り残されているような感じを強く受けました。
では何故そんな状況なのに街コンなどに参加したのかと言うと、それは単に友達の頭数合わせに付き合ってやるためだそうです。元々一緒に行くはずだった職場の先輩が仕事の都合で急遽参加することができなくなり、その代打としてどうしても参加してほしいと友達に頼まれたからだと。みっともなく何度も頼むもんだから渋々応じてやったのだと、そう言っていました。(例によってこの後、私の方を見て「まぁ思わぬ宝物が見つかったわけだけど」と言ったりしたのですが)
だからあの時の会話の最中も、多くを語ることはなかったように思います。
あの時……、あの街コンの時は、夫とその友人の新山さん、私と友達の朋美の四人で卓を囲んで会話をしていたのですが、そのほとんどを新山さんと朋美の二人が行っていました。
話題は神田の変わった町名についてでした。
「それにしても神田って町名に昔の名残が表れていて面白いよね。お江戸の文化っていうかさ」と、新山さんが言い、
「あ、それ、私も気になってました。鍛冶町とか麹町とか、結構面白いですよね」
朋美がその話題に食いつきます。
二人だけの会話がそんなふうにずっと続いていきます。
「皇居が元江戸城のあった場所で、八重洲や丸の内周辺が大名屋敷のあった場所で、そして神田が武家屋敷や町民が住んでいた所になるんだよね」
「じゃあ、やっぱり鍛冶町には刀鍛冶が多く住んでいて、麹町には味噌とか醤油とかの職人が住んでたってことなんですか?」
「うん、そうだって」
「へぇー」
朋美が大げさに相槌を打ちます。
夫は口を開きません。私と同じく黙って新山さんと朋美の会話の様子を眺めています。
「まぁ、職人っていっても、選りすぐりの超一流の人達だとは思うけどね」
「どうしてですか?」
「この辺はさ、江戸城のすぐ近くじゃない? ってことはさ、当然一等地になるわけじゃない?」
「えっと、そうですね」
「とするとさ、一等地に家を持つなんて、腕のいい職人じゃなきゃ許されなかったと思うからね」
「ああ、そっか」
「それにさ、ここら辺で生産されたものって、基本的に大名や武士達が日々使ったり消費したりするものだろう? それってつまり、現代で言ったら大金持ちの人達が飲み食いしたりするものを作ってたってことになるよね?」
「そうですね」
「ってことは、それなりに実績と評判のある職人だったはずだよ。うっかり変な物を献上したら、即処刑ってこともあり得た時代なんだし」
「ああ、そっか、そうですよね。……新山さん、物知りなんですね?」
「そうでもないかな? 大学時代、レポートか何かでちょっと調べてみたことがあるだけだよ」
「えー、でもすごいですよ。そこまで知ってるなんて」
そう言うと朋美がこちらの方に振り返ります。
「律子は?」
「え?」
「律子は、何か知ってる?」
「ううん、知らない」
「興味は?」
「興味? 興味かぁ。うん、まぁ、おもしろいとは、思うけど……」
「何よ、その答え。煮え切らない子ね。スイマセン、この子いつもこうなんです。おっとりしてるっていうか」
朋美が男性陣の方に向き直って言います。
気にしないでよ、と新山さんが笑います。
その後、朋美は余程新山さんのことを気に入ったのか「せっかくなので、この後神田の街を一緒に歩いて回りませんか?」と言い出し、夫と新山さんは一度目配せしてから「いいですよ」と答え、意外にもすんなり四人で散歩することが決まります。
梅雨に入る直前の、まだ天気の爽やかな頃合のことで、晴れていて少し暑かったですが、とても気持ちにいい一日だったと記憶しています。
私達は男女二人ずつペアになり、二列縦隊で西口商店街を歩きました。前に私達の友人同士が、後ろに私達未来の夫婦が並びます。前を行く二人は、かなり楽しそうに会話をしています。
「普段、休日はどんなことをされてるんですか?」夫が私に聞いてきます。
「そうですね……。特にこれといってないかもしれませんね」
「ぼーっとしてると、一日が終わってしまうってやつですか?」
「そうですね、そういうことが多いです」
「そうですか。それもいいかもしれませんね」
話はなぜかそれで終わりで、後は商店街の賑わいを眺めながら黙って歩きます。
「高畑さん(夫のことです)はどうされてるんですか? 休みの日とか」
ふと思い付いたように私が尋ねます。本当は沈黙が辛くって、仕方なく言い出したのですが。
「休日ですか? そうですね……。最近は昼間にどこか大きな街に出て、酒を飲みに行くことが多いですね」
「昼間からお酒を飲むんですか?」
驚きました。第一印象からはとてもそんなことする人には見えなかったので。
「ええ。まあ」
「一人で?」
「ええ、一人で」
後から聞いた話では、夫は彼女と別れてから休日に何をすれば良いのか分からなくなって、それで取りあえずの暇つぶしにお酒を飲みに行っていた、とのことらしいです。真昼間から酔っ払って、一人で読書するのは中々気持ちがいいんだよと言ってました。
ですが、夫のそうした行動は、もしかしたら前の彼女と別れたショックを引きずっていたことが原因なのかもしれません。夫が前の彼女と別れた原因というのが、結婚を望む夫に対し、仕事優先で当分結婚のことなど考えられないと主張する彼女との意見の不一致だったと聞いています。お互いがお互いのことを嫌いになったわけじゃないけど、それぞれの幸せの在り方に隔たりが出来てしまった。だから分かれるしかなかったんだと、夫は言っていました。
今は確かにお互いを想い合っているけど、でもこの先どちらかが、あるいは両方が悲しんだり、憎んだり、後悔したりすることになるかもしれない。それなら、そうならないうちに別れよう。
話し合った末に、そういう結論に至ったのだと、そう言っていました。
ただ、もちろん夫のこうした内情を知らない当時の私には、自分に厳しそうに見えるのに、意外といいかげんな人なのかもしれないなとしか、思われなかったのですが。
そうこうしているうちに神田駅西口商店街の終端らしき場所まで行き着いてしまいましたので、四人でまたぞろぞろと引き返すことにします。
「丸の内って、あるじゃないですか? 東京駅の」夫が話しかけてきます。
「ええ」横を歩く夫を見上げ、頷きます。夫は正面を向いたまま話を続けます。
「あれは江戸城を囲む、外堀の内側って意味らしいですよ」
「へぇー、そうなんですか。でも外堀って、どの辺りを言うんですか?」
「総武線に乗ってる時、御茶ノ水や水道橋辺りで川が見えるじゃないですか? あれが外堀なんだそうです」
「え? あれ、堀なんですか?」
「らしいですよ」
「人の手で作られた川、なんですか?」
「らしいですね」
「へぇー、そうなんですか……。知らなかった」
「新山の受け売りです。一軒目の店であいつがそう話してたんです」
「すごいうんちくですよね。新山さん」
「きっとこの日のために調べたんでしょう。こういうことに、余念がありませんからね、あいつは」
「でもさっき、大学時代のレポートで調べたって……」
「嘘に決まってますよ。多分」
それきり夫は黙ってしまいます。
前を行く新山さん達が時々話しかけてきますが、夫は面倒くさそうにあしらって返します。皮肉屋なのかなと私は感じてました。
「ところで、どうして敬語なんですか? タメ口でもいいですよ。私の方が年下なんですから」夫を見上げて聞きます。
「そうですね……。いえ、やっぱり、このままがいいでしょう。何となく、敬語の気分なんですよ、今日は。それに初対面の人に馴れ馴れしくするのって、あまり得意じゃないんです」
「ああ、それ分かります。私もあまり得意じゃないですから」
「そうですか」
神田駅の西口が迫ってきます。
街コン終了まで少し時間が残ってるので、連絡先を交換し合って別れることにします。
「新山さん、かっこよかったね」
夫達と別れた後で朋美がいたずらっぽく言います。
「そうかな? 私はあまりタイプじゃないな」
全体的に軽薄そうだからという印象は口にしません。
「ふーん。じゃあ高畑さんみたいな方がいいの? 律子的には」
「うーん、まあ、どちらかと言えばね」
「えー、でもちょっと暗そうじゃない? あの人。話しててつまんなそう」
「うん。話はあんまり上手じゃなかったね。それより朋美、楽しそうに話してたね? 気に入ったの? 新山さんのこと」
「うん。本日のアタリだよ。ああ、手抜きせず、ちゃんとメイクしてきて良かった」
後日、朋美は新山さんに連絡を取りますが、そのやり取りの中で彼がもうすぐ九州に異動になることを知らされます。
「そんな大事な情報は、黙ってないで最初っから言えっつーの」
そう言って電話の先で愚痴ってました。
「ああー、私のイケメンがぁー」
あなたのものじゃないでしょうに。
私が夫と再会したのは、この神田での街コンから一ヶ月とちょっとが過ぎてからです。
「都立近代美術館に行きませんか?」というお誘いが、突然携帯に送られてきました。
なぜ一月もの時間が空いたのかと言えば、前の彼女との事を整理するのに時間がかかったかららしいです。気持ちに整理が付き、新しい出会いでも求めてみようかとなった時、ふと思い出したのがこの街コンで、一緒に歩いた私のことだったのだと、夫は語っていました。隣り合って沈黙気味に歩いた、あの散歩の時間が、不思議と安らげるひと時だったのだと。それで同じ卓を囲んでいる時に、私が「美術館って行ったことがないから行ってみたい」と言っていたのを思い出し、誘ったのだそうです。まあ、私は美術館には良く行きますし、美術館に行ってみたいと発言したのは、朋美の方だったんですけど。
この夫のお誘いに、私は戸惑いながらも一応OKしました。一ヶ月も何の音沙汰もなかった男性から誘われて、確かにためらう気持ちも当然あったのですが、普段から美術館は一人でばかり見て回ってたものですから、誰かと感想を共有してみたいという欲求がありました。それとどういう訳か、その時だけは何となく行ってもいいかなと自然と思えたことも理由としては大きいです。きっと人の運命って、こんな風に決まっていくんじゃないかなと、そう思います。
そしてその良く分からない運命の歯車がうまい具合に噛み合わさって、私達は付き合い始めることになります。
付き合ってからも夫は相変わらず醒めた物言いをする人でした。いつだって状況を俯瞰的に見ていて、自分が当事者である時にも、まるで自分は無関係であるかのような言動を繰り返す人でした。理性的だったとも言えますし、感情の温もりに欠けた冷血人間だったとも言えます。まあ、どちらかというと冷血人間寄りに見えていたのですが。
例えば、です。
いつだったか、ネット上の相談版に「年老いて呆けた母親を施設に入れるどうか、主人ともめている」というトピックスがあり、それについて私達が意見を述べ合った時に出た夫の台詞がこれです。
「金銭的な問題が解決できるなら、僕なら死ぬまで施設に放り込んでおくと思うなぁ。特に自分の両親なんて。死んだら教えてくれって言ってさ。……呆けた老人の世話なんて堪らん話だよ」
「お父さんとお母さん、呆けそうなの?」
「長生きすればね。ま、僕としてはそうなる前に死んでくれると、助かるんだが」
「酷いよ。自分の親に早死にしてほしいなんて」
「何言ってんの。自分の両親だからこそだよ。自分の両親に対してだから、早く死ねって言えるんだよ。お役目ご苦労さん。もう死んでいいぞってね」
どうです? 酷く冷たい人間だと思いませんか? でも、一応弁護しておきますが、これでも優しい面もあるんです。それになんといっても真面目で誠実ですしね。
こんなことを言ってしまう人でしたから、当然愛情表現も淡白な方でした。今とは逆の意味で不満を持つ程に、です。この人は本当に私のことが好きなんだろうか。そう思ってしまうことも良くありました。
「私のこと、好き?」
「ボチボチかな」
いつ、どんな場面でだったかは、記憶にありません。ただ電話越しであったのは覚えています。好きか? と冗談のように聞いた私に、夫はそう答えてきました。
夫と交際が続いている間は、愛情表現にだけ限って言えば、大体がこんな感じでした。冷静一貫で、恋愛もロマンスも許さないのです。私が一体何度「私のことが好きか?」と聞いたことでしょう。ですが、その度に夫は「多少はね」とか、「まぁそれなりに」とか言って、曖昧にぼかして答えを返してくるのです。現在のように「君が大切だ」とか「君が大事なんだ」などとは、口が裂けても決して言わない。そういう人でした。その点だけは、終始徹底した、不動の方針を貫いていたと言えます。
こうして考えてみればよく分かります。この方針が、結婚を機に反転していたのだいうことが。
きっと理由があるに違いない。夫が「好きだ」と口にするようになった裏には、夫自身さえ気付いていない無意識の後ろめたさがあるに違いない。そう考えるのが普通です。
夫が仕事に出ている夜中、一晩かかってここまで考えを進め、私は本気で夫の浮気を疑うようになりました。それまでは夫が浮気をするなんて何かの間違いだ、嘘に決まってると、夫の冤罪を信じる気持ちが半分。いや、事実かもしれないと疑う気持ちでもう半分。どっち付かずの状態で揺れていましたが、細々とした記憶を整理し、時系列順に並べていくと、確かにその終端には夫の浮気が浮かんできてしまうのです。
これは、黒かもしれない。
覚悟を決める必要があるんだと、その時私は思いました。