天蘄召喚
「あー……死にたくない。……誰かいっそのこと楽にしてくれ。……嫌だ、死にたくない」
ここはヤルミオ大陸の東端に位置する天高く連なるオルグット山脈を越えた先に広がる、好夜の獣たちが跋扈する黒昏き樹海のさらに奥地へ外れた大陸を隔った世界の果てを跨いだところに存在する、“名も無き台地”の中心部に空いた深き深きホルドの地。世界四大奈落の一つに数えられる、一流の冒険家ですら足踏みするほどの別天地。
冥府に近く、太陽に遠く、うつし世を離れ、異界に寄っている。
天蘄召喚の儀式を行う上で、これ以上ないほど最適な条件と儀式的要件が育まれた自然の地である。高名なるかのアギエラ大師がこの地にて異界の高位格を呼び出したとも囁かれる由緒深い場所でもある。
そこにて一人の青年が佇んでいた。青年はともすれば気味の悪い黒源導師か、心身を衰弱した気の触れた精神病のようにぶつぶつと取り留めのない独り言を繰り返しながら、手を止めることなく、何かの作業を一定のペースでこなしている。
青年の名前はチク。術師の端くれを既に脱して、もはや一流の卵と呼ばれて差し支えない段階を自称できる、それなりに優れた術師だ。彼は術師として蓄えた知識と技術の最大限を駆使して、ある儀式の準備を進めていた。
いかなる故あって、このチクなる青年が地垠の彼方よりさらに奥まった陽の光すら一切届かぬ世界の穴の底までやって来たかというと、六日ほど前の日付にまで時は遡る。
チクという青年は日夜勉学に励み学生の身の上であった。彼が学び舎とするのは術師のための学府、ウェザリング術科大学。文字が示し表す通り術師の術師による術師のための高等専門教育機関。
術師とはこの世に有る有らざるを問わず、世界の内側に組み込まれたあらゆる理を読み解き、暴き、思うがままに統御して、奇跡を、願望を、真理を、実在する事象として、この世に反映する者たちのことだ。
チクも一人の術師として、専門の学び舎にて術師としての修練と研鑽に勤めていた。
そこで一つの問題、というよりトラブルが発生したのが、この青年にとっての幸か不幸か当てこともない出来事であった。
かくしてチクは巻き込まれた。術師達の闘争、すなわち《王源闘争》に。
由緒あり、名誉を守り、誉れ高さを競い合う。磨き上げた技と術の粋を披露する、術師たちの戦いの舞台。
実際のところは命の奪い合い。ただの殺し合いだ。参加者たちは文字通り、己が身を賭してこの戦いに臨み、其の存在根拠を証明しなければならない。
チクがこの《王源闘争》に参加する事態となったきっかけは至極単純で、彼が参加を表明したからだ。
本人にその気はなかった。《王源戦争》が開催されることは知っていて、気安い関係の友人に対して自分も参加するかもしれないと冗談交じりで言うことはあった。しかし、本気で参加するつもりはなかった。参加して勝ち残れば術師としての位階が上昇し、大学での進級条件を満たせること間違いなかったが、だとしても参加の気は起こらなかった。師から面白半分で参加を勧められたりもしたが、命令ではないならと断固として拒否した。とにかく、その気はなかった。だがある事件に首を突っ込み、そこで売り言葉に買い言葉を続けていたら、気づけば後戻りできないところまで進んでいた。
結果、参加は成った。今さら辞退は不可能だ。
契約は既にして魂にしっかりと刻み込まれている。これを反古にすることは並みの術師では決して叶わず、契約術の泰斗たるベッヘム家でも無理難題に等しく、あらゆる縁を破約すると言われる断截定理の神器だろうと困難だ。それほど《王源戦争》への強制力は強い。
指定された刻限までに指定された場にまで赴かなければ、その時点でチクの命脈は尽きる。
唯一あったなけなしの希望に縋って師へ取り成しを懇願したが、それも笑って断られた。もはやチクには参加して他の術師と殺し合う以外、選択肢は残されていなかった。
たとえ行く先が絶望で舗装された破滅への道筋だろうと、ただ座して運命を受け入れるほど、チクという人間は死に綺麗ではない。むしろ己が滅びる死の間際まで行き足掻き、最善の手を尽くす所存であり、一縷の希望に縋って本来なら決して寄り付かない深淵の彼方と呼ぶべき異境の果てまでやってくるほど、諦め悪い性分であった。
周囲に陽の光は差し込まない。地表から遥か下へ潜った地の底は光とは無縁の無明に満ちている。
そこでの作業となれば容易にとはいかず、暗中模索どころか自身の感覚の輪郭でさえ茫洋とする始末。闇に閉ざされた視界の中では、求める作業を進めるどころか、精神を暗闇に侵されて発狂してしまってもおかしくはない。
辺りには漏れなく死の気配が漂っている。もともと生物に適した環境とはほど遠く、空気の換気や循環という現象もこの地とは全く無縁で起こり得ない。加えて冥府や異界などと薄っすらと繋がるここの空気は、現世に寄る辺を宿す地上の命を絶えず脅かしている。仮にチク青年が師匠から授かった“生命持続の護符”を後生大事に身につけていなければ、今頃ではなく、この地へ足を踏み入れた途端に存在の全てを黒い闇の息吹に溶かされていたであろう。
辺りを死の空気に囲まれていながら、チクの精神は恐怖や錯乱とは程遠い状態で作業を続けている。呟いているのは心をやったからではなく、彼なりの処世術と現実逃避だ。今や彼の精神は低いところで安定していた。
周囲を黒い闇に閉ざされているが、チクの視界はその限りではない。彼にはこの暗黒の世界が白い霧のように見えている。
これは感系統に属する知覚術の一種による恩恵だ。知覚術は主に自身の各種感覚を鋭敏化させる。そこからさらに発展させて五感の外にさらに新しい外付けの感覚能力を増やすことができる。俗に第六感とも呼ばれるこれを視界にまで反映させることで、今やチクの視界は周囲の光景を濃い白い霧だと認識できていた。
作業にひと段落つき、チクが確認作業も兼ねて一旦手を止めていると、周囲に新たな気配が現れた。
「うむうむ、見事な召喚陣であるのだ。これならば儂がわざわざ手直しする必要もあるまい」
「オウロ翁。はい、お手数をおかけして申し訳ありません」
チクは声をかけてきた人物の方へ向き直る。そこにいたのは簡素な生成り色の衣を纏った一人の老爺だった。
「よいて。若いものを見守るのは先達の務めであるからしてなあ」
老人はまるで可愛い孫を見守るような優しげな面立ちで頷いてみせた。
彼の名はオウロ。このホルトの地の管理人にして、この地に住まう唯一の人間だ。
好々爺にしか見えないこの老人が、決して見た目通りの人間ではないことをチクは知っている。なぜなら彼はその昔、禁忌の術を誤って用いて、異界現象をこの世界へ呼び込み一つの国を半分と近隣の二国を滅亡させ、八桁に達しようかという数の人間を死に追いやった大罪人であるからだ。人類大逆の咎を受けた世界秩序に対する最悪レベルの侵犯者である。
その首に懸けられた賞金額は5億5000万ゴル。現在の世界でたった33人しか存在しない億超え大兇状の一人に数えられる賞金首。その叡智と深淵を狙って無数の賞金稼ぎが彼の命を狙い続けている。故に今は俗世を離れてこの深きホルトの虚底にて遁世している。
「儂のヘアスタイルの素晴らしさへの理解者が減ってしまうのは忍びないからの」
「自分などがオウロ翁のセンスを評価するのを烏滸がましいでしょうが、その上で言わせてもらうならば、オウロ翁のスタイルは常に抜群ですよ」
「ふほほ、チク少年は相変わらず褒めるのが上手だのう」
大罪人だと思わせることはなく、オウロは陽気で柔らかい物腰で微笑み、頭部の頭頂部にある頭皮を五指の腹で慈しむように撫でた。
オウロの髪型はまるで陽ノ和の国の尊き貴人のような濡れ羽色の美しい長髪を結い上げながら、頭頂部分のみが皿のように綺麗に禿げ上がった、特徴的なヘアスタイルを身嗜みとしている。陽光を鏡のように反射するピカピカにテカり輝く頭頂部は、彼の自尊と自慢の証なのだ。
その感覚は当然ながら一般的ではなく、外の世界でこのスタイルが受け入れられた時期もない。しかしオウロという人物はここへ落ち延びる前から、このヘアスタイルを至高にして至上だと疑っていなかった。
この独特で理解しがたい感性が、チクというを賛美するのは、彼に対するお世辞とご機嫌伺いという節が含まれ、言葉自体は割と本心からのもので、率直な感想に過ぎなかった。なぜなら理解するのはオウロの持つ美意識ではなく、オウロの髪型そのものを賛美の解釈を成している。さらに言えば今は心が死んでいて、俗世の価値観や常識より目の前にある現実を肯定する方が遥かに簡単だった。平静なら心にもないことを美麗字句に置き換えて、のべつ幕なしに延べられるほどであった。
「では召喚の儀が終わったら呼んでおくれよ」
機嫌の上ずった声音でそう言い残して、オウロは周囲を覆う白霧に紛れてその姿を晦ました。
これは移動を行う動術ではない。移相術だ。異能大全の金系統の第八導術に分類される。本来の使い方は物資や存在の相を別の相へ移し替える応術であるが、オウロ翁ほどの達人が使えば新たな概念を足し加え、存在自体の認識を空間からズラすことができる。追跡するのは《至高の一座》に席を置く術師かそれに匹敵する存在以外には不可能である。チクの目には彼が白い霧の中に消えてしまったようにしか映らなかった。
オウロという人物は与し易い一見すると気のいい好々爺に思えるが、露骨な持ち上げが通じるような手頃な性格をしていない。鋭い眼力と洞察力を持っている。もしもチクの発言が相手のご機嫌をとるためのただのおべっかやお世辞であったならば、態度に変化は現れずとも、儀式場の再整理は自身で行わなければならなかった。チクにとっては骨の折れる作業だ。
始まる前から終わった後のことを見据えるほど現在のチクには精神的余裕がある訳ではないので、儲けたと思う感情も湧かず、黙々と最後の調整に入っていく。
今からチクが行おうとしているのは召喚術の一つ、天蘄召喚である。
召喚術とは文字通り何かを呼び出すための儀式だ。それは人だったり物だったり あるいは概念そのものだったり、有形無形を問わず存在としての形を得たものであるなら、なんであろうと召喚の対象に指定される。
召喚術は属性としては“環”に該当する。外に在る世界の巡り環から、道をズラして此方側へと招き寄せる。そのため召喚の儀式陣には“円”を形成することが通例となっている。
天蘄召喚の儀式には主に三つの枢軸を要するのが一般的である。
儀式を成り立たせるのに不可欠な供物。召喚の陣を構築する筒。そして“召呼の石”だ。いずれの一つでも欠けていれば儀式は体を失くし、失敗に終わる。もっとも、これは新たな縁を結ぶための儀式であり、既に召喚側と被召喚側でパスが繋がっていればこの手順は省略できる。
召喚術は世界で最も旧い術の一つとされている。
元々の召喚術とは、ただ空間の位相を飛び越えるだけの術だった。出来ることといえば、せいぜいが同じ秩序体系から必要な事物を手元へ呼び寄せるか、召喚の理論を応用して長距離移動に利用するか。その程度の利便性に優れた術であり、異界から何かを呼び出すなんて強い力を持った術ではなかった。
それが正式に日の目を浴びたのは、歴史の転換点とも呼ぶべきあの瞬間からだ。
当時の召喚術の一流により、曠古の大業が試みられた。儀式の発動要件を能動から受動へと変調させ、異なる界から逆説的なアプローチを仕掛ける。すなわちこちら側が向こう側から相手を呼び出すのではなく、向こう側からこちら側へ来てもらう。
そうして呼び出されたモノが、かの有名な《扁平なる混沌の元渦》だ。あの極彩色でおどろおどろしく不気味で精神を吸われそうな忌々しい混沌の渦は、今も世界の律を攪拌し続けている。こうして次元の彼方からの継続的安定した呼びかけが可能なのも、混沌の渦による望まない祝福の一つであるのだ。
チクは敷き終えた召喚陣の円上に儀式の核となる要物を配していく。陣の形式を乱さぬよう動術、世間では念動力とも呼ばれる術にて、慎重に供物を配置していく。
これはいわば力の塊だ。異界から何かを呼び出すためには世界に穴を開ける必要がある。混沌の渦のおかげで異界と繋がりやすくなってなお、召喚の道を築き維持するには多大なエネルギーを要する。これには個人の保有する力だけではどうしようもなく、だからこうして代替となる捧げものに頼り、その力を借り受ける。力ある術師ならば、自力のみで強引に異界への扉をこじ開けることも不可能ではない。手間の込んだ儀式は弱者の証であり、同時に弱者の知恵でもある。
儀式に使用する供物はチクが自力で掻き集めたものとは別に、大半が師の蔵から勝手に持ち出したもので構成される。
平時であれば術師としての矜持と自尊心、それと師からの折檻を恐れて、このような大胆な持ち出しを己に許しはしなかった。理性と自制によるブレーキが暴挙に歯止めをかけていた。
だが今回のチクが目当てとする大儀式では、チクだけで用意した供物では格が全く足りない。だから師匠の家に保管された禁庫から保管物を勝手に持ち出した。勝手というが、これも弟子の持つ恩恵の一つだと、本人は解釈している。厳重という言葉すら生温く感じるほど封印が施された禁庫に入ることができたのは、チクが師匠から鍵を与えられているからに他ならない。鍵を与えられているとは、つまりは必要に際して自主裁量を行使せよ、という師からの有難い訓示も同然である。そういうことなのだと言い訳を用意して、己へと言い聞かせた。
発覚すれば、きっと師からのお叱りは免れられない。その考えは依然、思考の内側にこびり付いている。だがそれとて、今となっては気にしていない。現在のチクの精神は低いがゆえに、何ものをも恐れない無敵に等しい状態……、嘘である。心の片隅では師の打擲を恐ろしく恐れている。その恐れが感情の底に沈んだまま浮かび上がってこないほど、今のチクの状態は平時の平静とかけ離れてところにあるだけなのだ。あるいは単に、この程度では師からの激発を買うには至らないという、弟子としての冷静な読みでもあった。
反時計回りに供物を敷き終えたチクは、配置具合に乱れがないのを再三の確認を終えると、懐から虹色の塊を取り出した。
召呼の石。天蘄召喚で最も重要な位置付けを占める、儀式物。虹色に輝く混ぜ込まれた混沌の因子が、異界との繋がりを強く補強し、別々の界同士を結び合わせる。
これも師の禁庫から持ち出したもので、これが最も高い価値を孕んでいるかもしれない。師のお手製なのでプライスレスだ。
これを召喚陣へ投げ込むと召喚シークエンスが開始する。
天蘄召喚。それは遍く世界に広がる無数の星々と綿連に絡まった次元の彼方から、術者が求めるモノを呼び出すための招請の儀式。召喚の対象となる範囲に制限はあらず、生き物であれ無生物であれ、概念であれ法則であれ、なんなら世界そのものであれ。召喚の呼び声に応えたならば、召喚に応じたものが必然的に呼び出される。
起動した召喚陣が白い光を放ち始める。これは天蘄召喚が正常に機能している何よりの証だ。仮に儀式になんらかの不具合や異常が発生していれば、白い光は歪みの大きさに比例して赤々しい色合へと移り変わる。
儀式に不全がないことを確認したチクが、白い輝きを増していく陣内へ視線を釘付ける。
「なんか強いの来い。なんか強いの来い。なんか強いの来い」
神へ祈りを捧げるように両手の指を組み合わせながら、切実な感情を孕んだ祈念を発話に込めていく。
求めるのは力だ。今の彼はとにかく力が欲しかった。己に降りかかった因果の歪みとも言うべき悪辣なる不運を撥ね退け、邪悪なる運命を斬り伏せ、安寧と静穏が敷かれた道へと補導してくれる、心強い存在を求めていた。
祈りとは言うなれば世界への問いかけだ。祈りを代表した術に祈祷がある。これは祈りに力を乗せてより大きな力を使い寄せる代償顕現に等しい術であり、上位の力を借りる行為は召喚術に通じるものがある。
同様にして、召喚術の世界でも祈りは用いられる。言葉に切なる力を込めて、果てなる向こう側へ呼びかける。まさしく召喚とは召呼する行為なのだ。
召喚の儀式では古来よりやたら古風で格式張った荘厳美麗な呪いの言葉を唱える者が多い。これは伝承された仕来りと儀式の体面的威厳を重視した者が多いのととものに、実際のところそうした“強い”字句を訴えた方が効果は現れやすいと経験的に知られていたからである。現代の体系化された召喚術に対する標準的解釈と理解に基づけば、これは儀式の効果を最大限引き出すための合理的なプロセスだと判定されている。
しかしそれが通用するのは儀式が術者の能力に見合った場合の話。チクが行っている儀式はチクの力量を遥かに超えた高等儀式で、十全に及ぶところではない。さらにチクは力ある言葉を唱えるのがあまり得意ではないため、曖昧な字句でも効果は変わらないどころか、純粋で切実な願いを宿した言葉の方が望む結果に繋がりやすい。つまりこれが彼にとって最も有効な方式であるのだ。
一方で、最終的に天蘄召喚でナニが呼び出されるかは、結局のところ運となる。
必ずしも召喚者にとって友好的な意思を宿すわけではなく、必ずしも相互理解を解する知恵を持つわけではなく、必ずしも個としての体裁を整えた存在が呼び出されるわけでもなく、召喚の呼び声に応えたものが最優先として招かれる。これは順不同なれどやはり先着順の色合いが濃くなる。要した金と時間と物と能力。その全てが無駄になることも、召喚術の世界では珍しいことではなかったりする。
そういう意味では、今回は一発目から“当たり”であった。なぜなら。
「──我ガ名ハ《クゞルヂュユガオジュルグォガアッ》! 三千大世界ヲ支配シ併呑スル大魔王也!!」
眩い発行とともに現れたのは巨大な体躯。そこから発せられた音の暴力は、チクの周囲の大気を結界越しにビリビリと震わせた。
そこにいたのは10メートルを超える人型の化け物だ。蹄のある二本の太い脚を儀式陣の上に接地して立ち、青黒い肌色で織り成す肌色は黒々しい剛毛に覆われている。頭部の側頭部からは二本の捻れた黒い巻角を生やし、その眼光は血のように真っ赤な輝きを放つ。顔の形は草食動物のように細長いが、口の中にはチクなど簡単に引き裂けそうな鋭く大きい牙が並び、胴から伸び生やす四本の大腕の裏側には、巨大な体躯に匹敵するほど幅広な一対の翼を広げている。
教科書や聖典に描かれるまさしく悪魔の見た目。放つ気も明らかに“魔”に属するものだ。
「サア! 臓腑ヲ! 怨嗟ヲ! 絶望ヲ! コノ大魔王ヘ捧ゲヨ! 矮小ナル獣ヨ!!」
魔の化け物が太い声帯を震わすたびに、儀式陣に施された結界越しに強烈な衝撃がチクの全身を震わした。
大気を揺らすほどの音圧を受けたチクが、感情の死んだ表情を僅かに動かした。
「うん、無理」
その暴力的なまでの風貌と、凶悪なまでの気配を肌身で感じ取り、契約を結ぶのをすぐさま諦めた。見るからに、たとえ見なくても、召喚に応じた存在は友好という概念から大きく外れていた。というか明らかにチクに対してどぎついまでの殺意と障りの気を向けていて、害する意思を隠す気が全くなかった。
結果、下されたのが契約の拒否だ。こういう判断は直感である。それなりに長く術師としての役割を積んでいると、明らかにヤバイものはなんとなく判別がつくようになるものだ。そういう勘は師からの薫陶で十分に鍛え上げられた。
そのチクの直感では明らかにこの《クゞルヂュユガオジュルグォガアッ》なる怪物は、契約を結ぶ対象としての選考基準から甚だ外れていた。
「ごめんね。ばいばい」
チクは礼節的な断りを入れてからソレを実行する。
チクが軽く手を動かすと、白い輝きを発している召喚陣の中から、黒く禍々しい蔓のようなものが現れ始めた。陣から生え伸びてきた黒い蔓は、そのまま異界の魔王の身体に纏わり付いていく。
「ヌグォワァァアアア嗚呼! 何ダ此レハ! 何ガ起キテイル!?」
唐突に自身の身に起きた無理解の事象に、《クゞルヂュユガオジュルグォガアッ》の口から悲鳴に似た怒声が発せられる。
これは召喚の儀式陣に組み込まれている安全装置である。手に負えないような危険な存在が呼び出された場合に、必要な対処を行うための備えとして、あらかじめ呪印を込めておいた。
特別な呪物の一つだ。強力な呪いだ。存在の形を溶かす力を持っている。
召喚の主導権はこちらにある。
本来ならば忌避されるべき下法の技だ。もしもこれが表沙汰になれば間違いなく現在の召喚対象は叛旗を翻すほどの。
現在進行形で接続している異界も少なくない。下手すればそれらの異界と全面戦争になることもあり得る。だから下法の技を扱う召喚士は一般には存在しておらず、いたなら高額の賞金首として速やかに手配されこの世からの抹殺される。下法の術は扱い方だけでなく知識事態も禁忌指定を受けて封印されている。
チクがこの《焚べる淵源の縄》を使えるのは師に習ったからだ。正確には たまたま開かれていた魔書の類に記述があった。
わずかな情報から独自の発想を加えて成り立った。
これでもチクという青年はそれなりに優秀なのだ。
「オノレェ! 塵芥ノ如キ獣風情ガ! 此ノ偉大ナル大魔王タル我ヲ謀ッタ化アアアア! 絶対ニ、絶対ニ許サヌゾォオオオオオオオ!!」
大魔王《クゞルヂュユガオジュルグォガアッ》は呪詛の篭った言葉を撒き散らしながら、死をそのまま練り込ませて作り上げたような漆黒の殺意の腕から逃れようと、余裕のない必死の気を撒き散らして手負いの獣のような死にものぐるいさで脱出を試みている。しかし、残念ながらそれも無駄な努力だった。
この結界はチクの師匠が手ずから構築した無断という概念を定型化した帰納結界で、結界の内側は世界の腹に収まったままとなっている。まだこちら側の世界と正式に繋がってはおらず、世界の外郭の狭間の一部を成しているに過ぎない。例えるなら世界からはみ出た泡のようなものだ。泡といえど世界と世界の圧力に耐え得る強固な辺だ。破壊が出来るとしたら神格を得た一部の上位存在くらいであり、魔王を自称した下位存在程度に敗れるものではなかった。
やがて断末魔の響きが蝉の鳴き声のように衰えて、ついには完全に途絶える。後に残ったのは魔神のごとき兇悪な威容を誇った体躯ではなく、存在の源から溶かされ原型を完全に失った黒い液状の球体だけだった。これは呪札による副次的な産物でなかなかに価値がある。適切に処理すればいろんな儀式や術に流用できる。
呪殺が成功してもチクに感慨や達成感に浸る余裕はない。黙々と今しがた殺害した《クゞルヂュユガオジュルグォガアッ》の根源核を収納して、次の召喚の儀式の準備に取り掛かる。
「なんか強いの来い。なんか強いの来い。強くて言うこと聞く奴こい」




