第一章8『感情の埋葬』
十歳。バルザーク公爵邸の庭園に、音もなく「死」が舞い降りた。 夜国の支配者・闇御門ルナの直属特務部隊**『冥雷鴉』**。その筆頭を務める影導師たちが、シオンを連れ去るために現れたのだ。
父ガレオスによる数年間の凄惨な「漂白」を経て、シオンの魔力は異質極まる進化を遂げていた。黄金の光は闇に染まりきらず、かといって闇に反発もしない。それは、夜を内側から切り裂く**「紫金の雷」**となってシオンの体内に定着していた。
「この娘の力、我が『鴉』の翼とするに相応しい」
闇御門の使者の言葉に、父ガレオスは冷淡に頷いた。傍らに控える妾は、忌々しい「光の種」が家から消えることを確信し、満足げに喉を鳴らす。 一方で、物陰で震える実母エレインだけが、愛娘を地獄へ送る苦渋に顔を歪めていた。彼女は闇御門の側近に多額の私財を献上し、「娘をバルザークの暴力から救い出してほしい」と懇願していたのだ。だが、その対価が「暗殺者としての永劫の闇」であることを、母は知る由もなかった。
「今日から、お前に名はない。ただの『鴉』となれ」
王都「月闇」の地下、光を一切排除した無響室。シオンに与えられたのは、冷たい鉄の仮面と、感情を殺すための厳しい「戒律」だった。
十歳から十一歳にかけての二年。シオンに課せられたのは、人間としての機能を一度破壊し、再構築する過酷なプロセスだった。
目隠しをされた状態で、千本の矢を紫電で叩き落とす。心拍数を一定以下に保ちながら、死臭漂う迷宮を数日間徘徊する。最も効率的に「急所」を貫くための解剖学が、眠る間も耳元で囁かれ続けた。 闇御門ルナは、時折地下へ降りてきては、シオンの首筋に冷たい指を這わせる。
「シオン、お前の黄金は『誘蛾灯』だ。敵を惹きつけ、絶望の中でその視神経を焼き切れ。お前は光であってはならない。光を餌にする『闇』であれ」
シオンの心から、かつての温かな記憶が少しずつ削り取られていく。妹リオナと笑い合った気がする前世の景色も、今や霧の向こう側だ。彼女は、痛みを痛みと感じないように、悲しみを悲しみと認識しないように、自分の心に分厚い氷の膜を張る術を覚えた。
十一歳になる頃、シオンは冥雷鴉の中でも突出した「冷徹な完成品」と目されるようになった。 彼女の放つ雷は、もはや轟音を立てない。無音のまま対象の心臓を停止させ、跡形もなく蒸発させる。感情の起伏が消えた彼女の瞳は、凪いだ深夜の海のように暗く、静まり返っていた。
しかし、その完全な無感情を阻むものが、唯一存在した。 闇御門の目を盗み、定期的に届けられる「母エレインからの小包」だ。
厳しい検閲を潜り抜けるため、それは一見、無機質な軍需物資を装っていた。だが、配給される粗末な乾パンの底には、バルザークの領地にしか咲かない花の香りが付いた端切れが忍ばされていた。また、シオンが愛用する魔剣『雷月』の鞘には、母が密かに用意した、波形を安定させ精神の崩壊を防ぐ最高級の魔石が、装飾を装って埋め込まれていた。
「……お母様。私はもう、あの頃の娘ではありません」
独り、暗い自室でその端切れを握りしめる時だけ、シオンの氷の膜に微かな亀裂が入る。 母が自分を助けるために、父や闇御門に対してどれほど危険な橋を渡っているか、シオンは察していた。母の愛は、シオンにとって救いであると同時に、自分が「完璧な暗殺者(鴉)」になりきれない原因でもあった。
感情を埋葬したはずの少女の中に、消え残る一抹の熱。 その「愛」という名の残り火が、皮肉にも次の年に出会う精霊獣ハク、そして訪れる惨劇へと彼女を導いていくことになる。
「私は鴉。主の敵を討つ、影に過ぎない……」
そう自分に言い聞かせながら、シオンは再び鉄の仮面を被る。 その瞳の奥に、復讐の炎が宿るまで、あと二年。




