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境界の双子〜二つの雷鳴が響くとき〜  作者: ユーディ
第三章 暁と黄昏の微睡み、新しき世界
34/53

第三章5 『姉妹の休日、お姫様のドレス選び』

光帝ソルと闇御門ルナによる理不尽な魔導要塞の脅威を退けた『暁の自由都市』。昼国と夜国、かつて殺し合っていた二つの国の民は、共に脅威を乗り越えたことで、確かな絆を育み始めていました。

泥だらけの防衛戦から一夜明け、復興の槌音が響く中、シオンとリオナの姉妹に、思いがけない「休日」の提案が舞い込みます。戦場しか知らない元・死神の少女が、初めて直面する「可愛いドレス」という未知の強敵。そして、それを待つ二人の騎士たちの不器用なやり取り。

激動の運命の合間に差し込んだ、暖かく穏やかな木漏れ日のような一日です。

1. 平和な朝の強襲者と、脱ぎ捨てられた軍服

「暁の自由都市」が、二つの太陽――狂王たちが放った巨大魔導要塞の脅威を退けてから、三日が経過していた。

空を覆っていた分厚い暗雲はすっかり晴れ渡り、かつての黄昏時の荒野には、毎日決まった時間に本物の朝日が昇るようになっていた。


奇跡的な防衛戦の勝利は、昼国と夜国という二つの異なる文化圏の人々を、急速に結びつけていた。共に肩を並べて戦い、泥に塗れ、共に空を見上げて歓喜の声を上げたという事実が、十五年に及ぶ憎しみの壁をいとも簡単に打ち崩してしまったのだ。


急造の野営地から、本格的な街の建設へと移行しつつある自由都市の片隅。

シオンは、自身に割り当てられた白いテントの中で、大きく、そして深いため息をついた。


「……平和ね。平和すぎるわ」


シオンは、野営用のごつごつとした簡易ベッドに寝転がりながら、テントの天井を見上げた。

彼女の傍らには、十五年間、彼女の命と魂を文字通り守り続けてきた紫金の魔剣『雷月』が、鞘に収められたまま静かに立てかけられている。

ここ数日、シオンがこの剣を抜く機会は一度もなかった。


防壁の修繕も、食料の配給も、水路の確保も、昼国のジーグ将軍やレオンハルト、それに地下で暗躍する夜国の元副長ゼッカたちが、驚くべき手際で進めている。シオンやリオナ、カイル、ハクといった「規格外の戦闘力」を持つ者たちは、むしろ「ゆっくり休んでいてください」と、復興の現場から丁重に追い出されてしまっていたのだ。


「戦いがないと、本当にやることがないのね。人間って、こんなに暇な生き物だったかしら」

シオンは、自分の細い指先を目の前にかざした。

修羅として、常に誰かの命を奪う算段を立て、己の死の恐怖を押し殺していた日々。それが唐突に終わりを告げ、彼女の時間はパタリと止まってしまったかのようだった。


その時である。


「おっねえええちゃあぁぁぁん!!!」


「きゃっ!?」

シオンのテントの入り口が、凄まじい勢いでバァン! と開け放たれた。

飛び込んできたのは、満面の笑みを浮かべた第一皇女・リオナである。彼女は、手になぜか大量のカラフルな布の束を抱えていた。


「な、なによリオナ。敵襲!? 狂った神様たちがまた要塞を落としてきたの!?」

シオンが反射的にベッドから跳ね起き、魔剣『雷月』の柄に手をかける。


「違う違う! 敵襲じゃなくて、お誘いよ!」

リオナは、シオンの魔剣をひょいっと取り上げると、それをテントの隅へ追いやり、代わりに自分が持ってきた布の束をシオンのベッドの上にドサドサと広げた。


「お誘い……? なにこれ。布の切れ端?」

シオンが怪訝な顔でその布の山を見る。赤、青、純白、そして淡いピンク色。どれも上質な絹や綿で織られているようだが、シオンにとっては無縁の代物だ。


「あのね、今日はお姉ちゃんの『休日』よ! ジーグ将軍たちも、今日は私たちに街の視察がてら、ゆっくり遊んできてくださいって言ってくれたの!」

リオナが、目をキラキラと輝かせながらシオンの両手を握りしめる。


「遊ぶって……私たちが? こんな泥だらけの建設現場で?」

「ふふっ、甘いわねお姉ちゃん。自由都市の復興スピードを甘く見ちゃダメよ。もう中央の広場には、立派なバザールが建ち並んでるんだから!」


そこへ、もう一人、テントの入り口から上品に咳払いをして入ってくる人物がいた。

昼国の結界魔術師長、ルミスである。彼女は分厚い魔術書ではなく、なぜか仕立て屋が使うようなメジャーを首から提げていた。


「失礼いたします、シオン様。……リオナ殿下の仰る通りです。我々が必死に築いているこの平和な街を、まずは貴女方お二人に、普通の女の子として楽しんでいただきたいのです」

ルミスは、穏やかな微笑みを浮かべて一礼した。


「普通の女の子って……」

シオンは、自分の格好を見下ろした。

彼女が着ているのは、夜国で支給された漆黒の軍服だ。あちこちが破れ、血と泥の染みがこびりつき、何度洗っても落ちない死臭のようなものが染み付いている。十五年間、彼女はこの服以外を着たことがなかった。


「ルミスがね、結界班の女の子たちと一緒に、お姉ちゃんに新しい服を作ってくれるって言うの! 地下のゼッカさんたちが、どこからか上質な布地をたくさん仕入れてきてくれたんだって!」

リオナが、淡いピンク色の布をシオンの顔の横に当ててみる。

「うん! やっぱりお姉ちゃんは、肌が真っ白で綺麗だから、こういう淡い色も絶対に似合うわ!」


「ピ、ピンク!? 冗談じゃないわよ! 私がそんなフリフリの布切れを着て外を歩いたら、夜国の連中がショックで気絶するわ!」

シオンは顔を真っ赤にして、布をバシッと払い除けた。


「あら、シオン様。気絶するならさせておけばよろしいではありませんか。貴女はもう『神穿鴉』という恐ろしい死神ではなく、一人の美しい女性なのですから」

ルミスが、クスクスと笑いながらメジャーを手にシオンへ近づいてくる。

「さあさあ、観念してください。まずは採寸からですよ。……リオナ殿下、シオン様を押さえていてくださいませ」

「ラジャ!」


「ちょ、ちょっと! やめなさい! 私はこの軍服で十分――ひゃっ! そこくすぐったい!」

テントの中に、シオンの悲鳴と、リオナとルミスの楽しげな笑い声が響き渡る。

戦場では無敵を誇った紫金の修羅も、二人の女の子の『可愛くしてあげたい』という強烈な善意の前では、為す術もなく組み伏せられるしかなかった。


2. 地下バザールの仕立て屋、毒娘の裏の顔

シオンの採寸が終わり、三人が向かったのは、先日ゼッカたち『泥ネズミ』が設営した地下遺跡のバザールだった。

太陽の光を嫌う夜国の民や、暑さを避けて休む昼国の兵士たちで、地下広場は地上以上の活気に満ちていた。


「いらっしゃいませー! 美容液にもなる特製スライムジェルはいかが!? 塗るだけでお肌ツルツルよ!」

元気な声を張り上げているのは、毒娘のニムである。彼女の露店には、怪しげな色の小瓶だけでなく、布や宝石、果ては香水まで、多種多様な品物が並べられていた。


「あ、シオン様にリオナ様! いらっしゃい! お待ちしてましたよ!」

ニムが、二人を見つけるなり満面の笑みで駆け寄ってくる。


「ニム。あなた、毒の調合だけじゃなくて、こんな雑貨屋みたいなことまでやってるの?」

シオンが、露店に並ぶきらびやかな装飾品を見ながら尋ねる。


「えへへ。毒の調合って、要するに化学反応の究極系じゃないですか。だから、成分を少し変えれば、お化粧品や染料なんて簡単に作れちゃうんですよ!」

ニムは得意げに胸を張った。

「ゼッカ先生が、『これからは殺しの道具より、女を美しくする道具の方が金になる』って言って、色んな国から材料を仕入れてくれたんです」


「ゼッカのやつ、本当に商魂たくましいわね……」

シオンが呆れたようにため息をつく。


「さあニム、お願いしていた型紙と布地は揃っているかしら?」

ルミスが、ニムの店の奥へ進みながら声をかけると、ニムは「はいはい! こちらです!」と、店の裏に作られた即席の『試着室』へと三人を案内した。


そこには、昼国の優雅なドレスの意匠と、夜国の機能的な軍服の意匠を混ぜ合わせたような、数着の美しい衣服が並べられていた。


「すっごーい! これ、全部ニムとルミスで作ったの!?」

リオナが、目を輝かせてドレスの裾を撫でる。

純白のシフォン生地に、白銀の糸で星の刺繍が施されたドレス。それは間違いなく、リオナのために仕立てられたものだ。


「リオナ殿下のドレスは、私の結界魔術を編み込んであります。ただ美しいだけでなく、軽い防刃性能と防汚機能も備えている優れものですよ」

ルミスが誇らしげに説明する。


「私、さっそく着てみる! アリアにも手伝ってもらうね!」

リオナは、自分のドレスを抱えて、キャッキャと隣の試着スペースへと飛び込んでいった。


取り残されたシオンは、目の前に並べられた数着の服を前に、完全に硬直していた。


「……で。私のはどれなの」

シオンが、地の底から響くような低い声で尋ねる。


ニムが、悪びれもせず、真っ赤なフリルのついたゴージャスなドレスを引っ張り出してきた。

「じゃじゃーん! シオン様にはこれ! 『情熱のブラッド・ローズ・ドレス』です! 背中がガッツリ開いてて、大人の色気ムンムンですよ!」


「……燃やすわよ」

シオンの右手に、紫金の雷がチロチロと発生する。


「ひぃぃっ!? ご冗談です、冗談ですシオン様!」

ニムが慌てて真っ赤なドレスを引っ込め、次に淡い水色の、おとなしいワンピースを取り出した。

「こ、これなんかどうですか! 清楚で可憐な、村娘風ワンピース! シオン様のダークなイメージを百八十度変える、ギャップ萌えを狙った一着です!」


「私は村娘じゃないわ。それに、いざという時に剣が振れなきゃ意味がないでしょ」

シオンは冷たく却下する。


「もう、シオン様は注文が多いですねぇ」

ニムが口を尖らせる中、ルミスが静かに一着の服をシオンの前に差し出した。


それは、深いミッドナイトブルー(夜空色)の生地で作られた、Aラインのドレスコートだった。

上質な夜の絹が使われており、動くたびに星空のように微かな光沢を放つ。首元には昼国の意匠である白金プラチナの細いチェーンがあしらわれ、スカート部分は戦闘の邪魔にならないようにスリットが深く入り、下には黒いスレンダーなパンツを合わせるデザインになっていた。


「これは……」

シオンの紫の瞳が、僅かに見開かれた。


「昼国の気品と、夜国の機能性を融合させたものです。……シオン様、貴女が十五年間背負ってきた闇の色は、決して呪いなどではありません。それは、貴女という人間を形作る、美しく深い夜空の色なのです」

ルミスが、シオンの目を見つめて優しく微笑む。


「ですから、無理に真っ白な服を着る必要はない。貴女のその夜空の色に、少しだけ星の光をちりばめれば、それは世界で一番美しいドレスになります」


シオンは、震える手でそのミッドナイトブルーの生地に触れた。

滑らかで、驚くほど軽い。

自分が着ていた、重くて血生臭い漆黒の軍服とは全く違う。


「……私に、似合うかしら」

シオンが、消え入るような声で呟いた。


「似合わないはずがありません。さあ、シオン様。過去の抜け殻は脱ぎ捨てて、新しい貴女に着替えてください」

ルミスとニムが、シオンの背中を優しく押して、試着室の中へと押し込んだ。


3. 外で待つ男たち、犬と幽霊の憂鬱

シオンとリオナが地下バザールの試着室で悪戦苦闘している頃。

バザールの入り口付近に設けられた、小さな木樽のテーブル席で、二人の男が手持ち無沙汰に時間を潰していた。


「……おせぇ。女の買い物ってのは、どうしてこうも無駄に時間がかかるんだ。世界が滅びかけてるってのに、呑気なモンだぜ」


人化した精霊獣、ハクである。

彼は、腕の呪いの刺青を苛立たしげに掻きながら、テーブルに置かれた冷めたハーブティーを一気飲みした。


「そう言わないでください、ハク殿。彼女たちは、十五年間ずっと戦場にいたんです。……普通の女の子としての時間を過ごすのは、これが初めてなんですよ。いくらでも待って差し上げましょう」


向かいの席に座る、半霊体の聖騎士カイルが、生身の左手で器用にティーカップを持ち上げながら、静かに微笑んだ。

彼の右半身は相変わらず白銀の光で構成されており、地下の薄暗いバザールの中では、彼自身が静かなランプのように周囲を照らしていた。


「ケッ。てめぇは気が長くていいな。半分死んでるから時間の間隔がズレてんじゃねぇのか」

ハクが悪態をつくが、カイルは全く怒る様子もなく、むしろ楽しそうに目を細めた。


「ふふっ。そうかもしれませんね。……でも、ハク殿。貴方も本当は、今のこの時間が嫌いではないのでしょう?」


「あァ?」

ハクが鋭い犬歯を見せてカイルを睨む。


「だって、貴方のその尻尾……いえ、背中の影。先ほどから、期待でパタパタと揺れていますよ」

カイルが、ハクの後ろの地面を指差した。


ハクがハッとして振り向くと、彼自身の影が、まるで犬の尻尾のように、左右に千切れんばかりの勢いでブンブンと揺れ動いていたのだ。


「なっ……!? ち、違ぇ! これは地下の風で影が揺れてるだけで……!」

ハクは慌てて自分の影を足で踏んづけ、顔を真っ赤にして否定した。


「隠さなくてもいいじゃありませんか。僕だって、リオナ様がどんなに美しい姿で出てきてくださるか、想像しただけで心臓が……いえ、光の鼓動が早くなってしまうのを感じていますから」

カイルは、自分の光の右胸をそっと押さえ、照れくさそうに笑った。


ハクは、ため息をついてテーブルに肘をつき、頬杖をついた。

「……分かんねぇんだよ」

ハクが、ぽつりとこぼす。


「何がですか?」


「俺は、シオンの絶望を喰って、この人間の体を手に入れた。俺にとってのシオンは、血に塗れて、泣きながら剣を振るう、痛ましくて放っておけねぇ『あるじ』だった。……でもよ」

ハクは、自分の大きな両手を見つめた。

「あいつが仮面を外して、普通の女の子みたいに笑ったり、照れたりするのを見てると……なんだか、俺の胸の中がソワソワして、妙な気分になるんだ。……主を守るっていう忠誠心とは違う、もっと泥臭くて、熱いモンが胃袋の奥で暴れてる気がする」


精霊獣として生きてきたハクには、『恋』や『愛』といった人間の複雑な感情の機微を、まだ正確に言語化することができなかった。ただ、シオンの笑顔を見るたびに、自分の存在意義が揺さぶられるような、未知の感覚に戸惑っていたのだ。


カイルは、そんなハクの不器用な告白を聞いて、とても穏やかな、そしてどこか羨ましそうな顔をした。


「それは、とても尊い感情ですよ、ハク殿」

カイルが、静かに語りかける。

「貴方は、シオン様を『主』としてだけでなく、一人の『女性』として見つめ始めているんです。……それは、幽霊になってしまった僕からすれば、とても眩しくて、羨ましい変化です」


カイルは、自分の透過する光の右手を見つめた。

「貴方のその手には、確かな温度がある。シオン様が躓いた時、しっかりと抱き止めて、その温もりを伝えることができる。……どうか、そのソワソワする感情から逃げないでください。それが、貴方が人間として生きるための、一番の証なのですから」


カイルの真っ直ぐな言葉に、ハクは少しだけ目を見開き、そして、フッと自嘲気味に笑った。

「……チッ。半分幽霊のくせに、説教臭い野郎だぜ」


ハクがカイルに悪態をつこうとした、その時だった。


「お待たせー!! カイル! ハク!」


地下バザールの奥から、花が咲いたような明るい声が響き渡った。


4. 息を呑む瞬間、光と夜空の姉妹

ハクとカイルが立ち上がり、声のした方へ振り向いた瞬間。

二人の男は、完全に言葉を失い、石像のように固まってしまった。


「……どうかな? おかしくない?」


少し照れくさそうに、スカートの裾を摘んでクルリと回ってみせたのは、第一皇女リオナだった。

彼女が身に纏っているのは、ルミスが仕立てた純白のシフォンドレス。白銀の糸で星の刺繍が施されたそのドレスは、リオナの美しい金髪と、透き通るような白い肌を、これ以上ないほどに引き立てていた。

戦場での凛々しい鎧姿とは全く違う、まさに絵本の中から飛び出してきたような『光のお姫様』がそこにいた。


「あ……」

カイルの口から、無意識のうちに感嘆の吐息が漏れる。


「リオナ様……。言葉もありません。貴女は、この世のどんな光よりも美しい。……僕が幽霊でなければ、今すぐ膝をついて、その手に口づけをしたいほどです」

カイルの青い瞳が、感動で潤んでいた。


「もう、カイルったら。大げさなんだから」

リオナは顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべたが、その瞳にも嬉し涙が浮かんでいた。


そして。

リオナの少し後ろから、もじもじとためらいがちに歩み出てきたもう一つの影があった。


「……見ないでよ。絶対に似合ってないんだから」


消え入るような声と共に現れたのは、シオンだった。


ハクの紫の瞳が、限界まで見開かれた。

彼が先ほどまで感じていた「ソワソワする感情」が、一瞬にして爆発し、頭の中が真っ白になるほどの衝撃を受けた。


シオンが身に纏っていたのは、深いミッドナイトブルー(夜空色)のドレスコートだった。

首元には白金プラチナのチェーンが上品に輝き、深く入ったスリットからは、黒いスレンダーなパンツに包まれた彼女のしなやかな脚が覗いている。

常に乱雑に束ねられていた黒髪は、ルミスとニムの手によって美しく編み込まれ、左側で一つにまとめられていた。

鉄の仮面で隠されていた素顔には、薄く、本当に薄くだが、血色を良くするための紅が引かれていた。


それは、可憐なだけのお姫様ではない。

十五年間の闇を生き抜き、決して折れることのなかった彼女の『強さ』と、その奥に隠された一人の少女としての『儚さ』が、完璧に調和した姿だった。


夜空に瞬く、一番星のような美しさ。


「……おい、ハク。なんか言いなさいよ。似合ってないなら、すぐに脱いで元の軍服に……」

シオンが、ハクの無反応に耐えきれず、顔を真っ赤にして俯き、踵を返そうとした。


ガシッ!


ハクが、無意識のうちに手を伸ばし、シオンの細い腕を掴んで引き止めた。


「あっ……」

シオンが驚いてハクを見上げる。


ハクは、顔をこれ以上ないほど真っ赤に茹で上げ、口をパクパクと金魚のように動かしていたが、やがて、絞り出すように低い声で言った。


「……脱ぐな」


「え?」


「脱ぐなっつってんだよ。……その服、てめぇに、死ぬほど似合ってやがる……」

ハクは、シオンの顔を直視できず、そっぽを向きながら、呪いの刺青が刻まれた手で顔を覆い隠した。

「クソッ……なんだこれ。心臓がうるさくて、敵の気配が全然探れねぇ……。ニムの毒よりタチが悪りぃぜ……」


ハクのあまりにも不器用で、しかし誤魔化しようのない本音の賞賛に、シオンの顔も、ついに限界まで朱に染まった。


「ば、馬鹿犬……っ! いきなり腕を掴むんじゃないわよ!」

シオンは、振り払うふりをしながらも、ハクの手を優しく握り返した。

「……ありがとう。少しだけ、自信が持てたわ」


かつて、血の匂いと死の恐怖の中でしか繋がれなかった二人の手が。

今、温かい感情と、照れくさい喜びの中で、しっかりと繋がれていた。


「ふふっ。大成功ですね、ルミス」

ニムが、試着室の陰から顔を出してガッツポーズをする。

「ええ。やはり、女の子は美しい服を着るだけで、心まで生まれ変わることができるのです」

ルミスも、満足げに頷いた。


「さあさあ、お二人とも! せっかく綺麗に着飾ったんですから、このまま地下にいるのはもったいないですよ! 街の地上部分を、四人で散歩してきてください!」

ニムが、シオンとリオナの背中を押して、地下バザールの出口へと促した。


「えっ、ちょ、ちょっと待って! この格好で外を歩くの!?」

シオンが慌てるが、リオナは満面の笑みでカイルの腕(生身の左腕)に自分の腕を絡ませた。


「行くわよ、お姉ちゃん! デート、デート!」

「デートって……! ハク! あんたもニヤニヤしてないで止めなさいよ!」

「俺は止める理由がねぇな。てめぇの護衛として、その姿を特等席で監視してやるぜ」

「バカッ!」


賑やかな悲鳴と笑い声が交差する中、四人は光の差す地上の自由都市へと、足を踏み出していった。


5. 平和な街の散歩道、人々の眼差し

『暁の自由都市』の地上は、数日前の殺伐とした防衛戦の空気が嘘のように、穏やかな活気に満ちていた。

崩れた石畳は綺麗に均され、色とりどりのテントが立ち並ぶメインストリートには、昼国と夜国、双方の民が入り混じって復興作業を進めている。


そこに、ドレスアップしたシオンとリオナ、そして護衛のカイルとハクが姿を現した瞬間。

街の通りは、まるで魔法にかけられたように、シンッと静まり返った。


「……おい、見ろよ。あの方たち……」

「リオナ殿下だ。まるで、太陽の女神様が降りてきたみたいだ……」

昼国の兵士たちが、ハンマーを置いて感嘆の声を漏らす。


「待て、殿下の隣にいるの……あの綺麗な人、誰だ? 見たことないぞ」

「漆黒の髪に、紫の瞳……まさか、あの『神穿鴉』様か!? いや、しかしあの鉄仮面も殺気もないぞ! ただの、とびきり綺麗な姉ちゃんじゃないか!」

夜国の残党たちが、目を丸くしてシオンを凝視している。


十五年間、兵士たちにとってシオンは「恐怖の象徴」であり、リオナは「遠く手の届かない聖女」だった。

しかし今、彼らの目の前を歩いているのは、年相応に顔を赤らめ、隣を歩く青年に文句を言いながらも楽しそうに笑う、二人の美しい「女の子」だったのだ。


「……見られてるわ。すごく見られてる。やっぱり着替えてくるわ」

シオンが、人々の視線に耐えきれず、ハクの背中に隠れようとする。

今まで、殺意や恐怖の視線には慣れきっていた彼女だが、純粋な「好意」と「憧れ」の視線を向けられるのは、これが生まれて初めての経験だったのだ。


「隠れんじゃねぇよ、シオン。てめぇはもう、誰かに顔を隠す必要なんてねぇんだ」

ハクは、シオンの背中をポンと押し、自分の隣に並ばせた。

「胸張って歩け。てめぇは、この世界で一番綺麗なんだからよ」


「っ……! あんた、そういうこと平気な顔で言うのやめなさいよね……!」

シオンは顔から火が出そうになりながらも、ハクの言葉に背中を押され、恐る恐る顔を上げた。


「シオン様!」

通り沿いで瓦礫を運んでいた、元・昼国の重盾兵ゴランが、元気よく手を振った。

「その服、すげぇ似合ってますよ! 俺たちを助けてくれた時もカッコよかったですけど、今日は最高に綺麗です!」


「……え」


「神穿鴉様ー! 今度、俺のテントにもお茶飲みに来てくださいよー!」

夜国の元・魔獣使い助手ルックが、屈託のない笑顔で声をかける。


次々と、街の人々から、シオンとリオナに向けて温かい声援と笑顔が向けられていく。

誰も、彼女たちをバケモノとは呼ばない。裏切り者とも呼ばない。

彼女たちは、この街の恩人であり、そして、同じ明日を生きる大切な『仲間』として受け入れられていたのだ。


「……ふふっ」


シオンの唇から、自然と笑みがこぼれた。

それは、自嘲するような冷たい笑みではなく、心の底からの、柔らかく、温かい笑顔だった。


「お姉ちゃん。笑ったね」

リオナが、嬉しそうにシオンの顔を覗き込む。

「……ええ。なんだか、憑き物が落ちたみたい」


シオンは、青空を見上げた。

(お母様。お父様。……私は、自分の居場所を、見つけられたみたいです)

十五年間の呪縛が、完全に解け去り、彼女の魂が本当の意味で救済された瞬間だった。


四人は、人々の笑顔に囲まれながら、平和な街の散歩を心ゆくまで楽しんだ。

露店で焼きたての串焼きを買ってハクが火傷しそうになったり、カイルが半霊体の手で落としてしまった花飾りをリオナが拾ってカイルの胸に飾ってあげたりと、他愛のない、しかし何よりも尊い時間が流れていった。


6. 夕暮れの丘、迫り来る空の瞳の瞬き

楽しい時間はあっという間に過ぎ、自由都市の空が、美しい茜色あかねいろに染まり始めた頃。


四人は、街の喧騒から少し離れた、星降る丘の頂上に座って、沈みゆく夕日を眺めていた。

「……綺麗な夕焼けね」

リオナが、カイルの肩に頭を預けながら呟く。

「ええ。光帝陛下の支配していた永遠の昼でもなく、ルナ陛下の支配していた永遠の夜でもない。……光と闇が混ざり合う、この『黄昏時』こそが、この世界本来の美しい姿だったのですね」

カイルが、リオナの髪を優しく撫でる。


シオンは、少し離れた岩の上で、ハクの隣に座ってその夕焼けを見ていた。

新しいミッドナイトブルーのドレスが、夕日の赤い光を浴びて、幻想的な輝きを放っている。


「……ハク。今日、ドレスを着るように言ってくれて、ありがとう」

シオンが、膝を抱えながら、ぽつりと感謝の言葉を口にした。


「あァ? 俺は別に何も言ってねぇよ。お姫さんと結界女が勝手にやったことだ」

ハクはそっぽを向きながら、不器用に答える。


「ふふっ。素直じゃないわね」

シオンは、ハクの肩にコテンと頭を乗せた。

「……私、決めたわ。もう、昔の自分には縛られない。私は、シオンとして……一人の人間として、あんたやリオナたちと一緒に、この世界で生きていく」


ハクは、肩に乗るシオンの温もりに少しだけ体を強張らせたが、やがて、大きく息を吐き出し、自分の大きな手でシオンの頭をポンと撫でた。


「……ああ。てめぇは俺が、最後まで人間として生かしてやる。安心しろ」


沈みゆく夕日の中で、二組の男女のシルエットが、美しく重なり合っていた。

誰もが、この平和な日常が明日も、明後日も続くと信じていた。

十五年間の過酷な運命を乗り越えた彼らには、その権利があると。


しかし。

世界を創り替えるほどの力を持った特異点である彼女たちを、宇宙のシステムがそのまま放置するはずがなかったのだ。


「……ん?」


カイルが、ふと空を見上げた。


「どうしたの、カイル?」

リオナが尋ねる。


「いえ……今、夕焼けの空の向こう側に、何か……巨大な『亀裂』のようなものが見えた気がして」


カイルの視線の先。

茜色に染まる空の、さらに奥深く、次元の壁の向こう側で。


無機質な歯車が噛み合う機械仕掛けの宇宙空間の中心に浮かぶ、巨大な『創造神の眼』が。

まるで、地上の四人の微睡みを冷酷に観察するかのように、一瞬だけ、ギョロリとその瞳を動かしたのだ。


ゾクッ……。


シオンの背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。

それは、光帝ソルや闇御門ルナから感じた殺気とは全く違う。

感情のない、純粋な『排除デリート』の意志。


(……見られている。私たちの平和が、ただの砂上の楼閣に過ぎないってことを、あの神は……)


シオンは、ハクの服の袖を無意識に強く握りしめた。


「お姉ちゃん? 寒い?」

「……ううん。なんでもないわ。……さあ、少し冷えてきたし、街に戻りましょう。ニムが夕食に新作の薬膳鍋を振る舞うって張り切ってたから」


シオンは、自分の心の中に生まれた不安を押し殺し、作り笑いを浮かべて立ち上がった。

不安を煽る必要はない。今夜だけは、この平和な休日を、最後まで守り抜きたかった。


だが、運命の歯車はすでに、狂い始めていた。

夕日が完全に沈み、夜のとばりが下りた時。

『暁の自由都市』に、彼らの想像を絶する、本当の絶望が空から降り注ぐことになる。


姉妹の休日は終わりを告げ、血塗られた前世の因縁を清算するための、第三章・最大の死闘が、静かにその幕を開けようとしていた。

お疲れ様です。第三章の第五部として、激闘の合間に挟まれる「姉妹の休日」と「ドレス選び」のエピソードをお届けいたしました。


戦場しか知らなかったシオンが、ルミスやニムたちに背中を押され、ハクの不器用な言葉によって「女の子としての自分」を受け入れる過程を、丁寧に、そしてコミカルに描きました。また、カイルの半霊体としての悩みとリオナとの絆の深まります。

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