第三章3 『消えた仮面と、見つからない自分』
翌朝。
『暁の自由都市』の野営地に、活気に満ちた喧騒が戻ってきた。
昨晩、東の空に浮かび上がりかけた『二つの太陽』の予兆――光帝ソルと闇御門ルナによる超巨大魔導要塞の起動――という絶望的な情報を得たシオンだったが、彼女はそれをあえて全軍には知らせなかった。
1. 鉄の冷たさと、朝の戸惑い
今、彼らに必要なのは「休むこと」だ。
十五年間、常に死の恐怖と隣り合わせで戦い続けてきた兵士たちにとって、この数日間の休息と「自分たちの手で街を創る」という希望は、擦り切れた魂を回復させるための絶対条件だった。絶望を急いで配る必要はない。
シオンは、テントの中で目を覚まし、無意識に自分の顔の左半分へと手を伸ばした。
「……あ」
指先が触れたのは、冷たい鉄の感触ではなく、自分の柔らかな素肌だった。
その瞬間、シオンの心臓がヒュッと小さく縮み上がった。
(ない。……私の、顔が)
十五年間、彼女は『神穿鴉』という修羅であるために、鉄の仮面で素顔を隠し続けてきた。仮面は、彼女の弱さを隠す盾であり、敵に恐怖を植え付けるための武器であり、何より「自分は人間ではないのだ」と言い聞かせるための拘束具だった。
それが今、跡形もなく消え去っている。
シオンは、寝袋から身を起こし、自身の両手を見つめた。
白く、細い少女の手。
だが、この手は数え切れないほどの命を奪ってきた。父ガレオスを殺し、昼国の兵士を灰にし、夜国の裏切り者を虚無の雷で焼き尽くした。
(仮面がない私は……一体、誰なの?)
修羅としての役割を終えた今。
復讐の対象であった狂神たちは退き、最愛の妹リオナとは和解した。
だが、それは同時に「生きる目的」と「自分を定義する境界線」を失ったことを意味していた。
平和な日差しの下で、泥だらけになって笑い合う兵士たちの中に、血塗られた殺人鬼である自分が混ざっていいはずがない。
シオンは、無意識のうちに自分の両腕をきつく抱きしめ、小さく震えた。
世界が平和に近づくほど、彼女は自分の居場所が薄れていくような、透明になって消えてしまいそうな不安に駆られていたのだ。
「……シオン。起きてるか」
テントの外から、ハクのしゃがれた声がした。
「え、ええ。起きてるわよ。入ってこないでね、今着替えてるから」
シオンは慌てて声のトーンを取り繕い、いつもの「不遜な姉」の仮面を声だけで被った。
「ケッ、誰がてめぇの着替えなんか覗くかよ。色気もクソもねぇくせに」
「……あとでその口、紫の雷で縫い合わせてあげるわ」
「上等だ。……それより、リオナのやつがアリアのテントでまた料理の特訓してやがる。俺は昨日ので完全に胃の防壁がぶっ壊れたから、味見役はてめぇに譲るぜ。じゃあな」
足音が遠ざかっていく。
シオンは小さく息を吐き出し、ベッドの傍らに立てかけてあった魔剣『雷月』を手に取った。
剣の重みだけが、今の彼女を現世に繋ぎ止める唯一の錨のように感じられた。
2. 幽霊騎士と、不器用なお茶会
野営地の喧騒から少し離れた、崩れかけの石柱が並ぶ闘技場の回廊跡。
シオンが一人で歩いていると、ふと、石柱の陰に奇妙な人影を見つけた。
半霊体となった聖騎士、カイル・ヴァン・アストラルである。
彼は、切り株の上に置かれた簡素なティーカップを前に、一人で悪戦苦闘していた。
「……ふぅ。やはり、この形は難しいですね」
カイルが、光で構成された右手をティーカップの取っ手に伸ばす。
しかし、指先がカップに触れた瞬間、スッとホログラムのように透過してしまった。何度やっても、カップを持ち上げることができない。
「何やってるのよ、カイル」
シオンが声をかけると、カイルは少し驚いたように肩を揺らし、振り返った。
「あ……お姉様。おはようございます」
「だから、お姉様って呼ぶのはやめなさいって言ってるでしょ。身の毛がよだつわ。……で、幽霊の朝食の練習?」
シオンが切り株に近づき、カイルが落としそうになっていたティーカップをヒョイと持ち上げた。中には、野営地で配給されている温かいハーブティーが入っている。
「お恥ずかしい。……リオナ様が、僕のために淹れてくださったお茶なのですが。どうにも、魔力で物理的な『面』を作るのが苦手なようでして」
カイルは、透き通るような白銀の右手を申し訳なさそうに見つめた。
シオンは、無言で切り株の反対側に腰を下ろし、自分の分のカップ(通りすがりに配給所で貰ってきたものだ)を置いた。
「……飲むなら、手伝ってあげましょうか。左手は生身なんでしょ?」
「ええ。ですが、左手だけで熱いお茶を啜るのも、騎士の作法としていささか見苦しいかと思いまして」
「バカね。この泥だらけの野営地で、作法もクソもあるもんですか」
シオンは、カイルのカップを左手側に寄せてやり、自分もハーブティーを一口飲んだ。
安物の茶葉の、少しだけ青臭い香りが鼻を抜ける。十五年間、夜国で血の匂いと泥水のような酒しか口にしてこなかったシオンにとって、それはひどく新鮮で、平和な味がした。
カイルも、生身の左手で慎重にカップを持ち上げ、静かに口をつけた。
「……シオン様。貴女は、少し無理をされていませんか?」
カイルが、ティーカップを置きながら、青い瞳で真っ直ぐにシオンを見据えた。
「無理? 何のことよ」
「今朝の貴女の足音です。……以前の貴女は、もっと音もなく、迷いのない歩き方をしていました。今の貴女は、まるで氷の上を歩くように、自分がどこに足を下ろしていいか分からないような……そんな戸惑いを感じます」
カイルの鋭い指摘に、シオンはカップを持った手をピクリと止めた。
「……嫌な騎士ね。幽霊になったくせに、目は節穴じゃないってわけ?」
シオンは自嘲気味に笑い、視線をカップの底に落とした。
「……仮面がなくなって、復讐する相手がいなくなって。私は、ただの人殺しの小娘になっちゃったのよ」
シオンの口から、無意識のうちに本音が漏れ出していた。
「リオナは、みんなをまとめる光がある。ハクには、私を守るっていう目的がある。……でも、私は? 今まで積み上げてきた死体の山の上に立って、これからのうのうと、普通の女の子みたいに笑って生きていけっていうの? ……そんな資格、私にあるはずないじゃない」
シオンの声は震えていた。
強すぎる魔力と、背負いすぎた罪。彼女の魂は、平和な世界には大きすぎて、そして暗すぎたのだ。
その言葉を静かに聞いていたカイルは、自身の光の右手を、そっとシオンの前に差し出した。
「シオン様。僕のこの右手を見て、貴女はどう思いますか?」
「どうって……ただの光の塊でしょ。私とリオナの魔力でできた、幽霊の腕よ」
シオンが眉をひそめる。
「ええ。僕は、人間としての体を半分失いました。……光帝ソル陛下の剣として、完璧な人間を目指して鍛え上げてきた肉体も、誇りも、全て手放したんです」
カイルは、光の指先をギュッと握りしめた。
「正直に言えば、僕も怖いんです。……リオナ様の温もりに触れることすら満足にできないこの体で、僕は本当に彼女の隣に立つ資格があるのか。僕はもう、ただの魔力の残滓、便利な『盾』というだけの道具なのではないかと」
「カイル……」
シオンは、彼が自分と同じように、アイデンティティの喪失に苦しんでいることを初めて知った。
「でもね、シオン様」
カイルは、ふっと優しく微笑んだ。
「昨日、リオナ様が言ってくれたんです。物理的に触れられなくても、温もりは伝わる。僕の光は温かいと。……それを聞いて、僕は決めたんです。自分が何者であるか、過去にどうだったかなんて、どうでもいい。ただ、彼女が笑ってくれるなら、僕は幽霊でも、道具でも、悪魔でもいいと」
カイルは、シオンの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「貴女は、人殺しの小娘なんかじゃありません。……暗く冷たい地獄の中で、たった一人でリオナ様への愛を守り抜いた、誰よりも強くて、誰よりも優しい『お姉様』です」
「……っ」
カイルの言葉が、シオンの心の最も柔らかい部分に、温かい光として染み込んでいく。
「仮面なんてもう必要ありません。罪の意識が消えないなら、その罪ごと、リオナ様と一緒に背負って生きていけばいいんです。……貴女がこれまでに奪った命の分まで、これからは誰かを守るために、その剣を振るえばいい」
カイルは、生身の左手で、シオンの頭をポンと優しく叩いた。
「生意気言うんじゃないわよ……。あんた、妹の彼氏のくせに、姉に説教する気……?」
シオンの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
十五年間、ずっと誰かに言ってほしかった言葉。
『生きていていい』『お前は間違っていなかった』という肯定。それを、かつて殺しかけた昼国の騎士から与えられるとは、なんという運命の皮肉だろうか。
「……ありがとう、カイル」
シオンは、涙を袖で乱暴に拭い、少しだけスッキリした顔で笑った。
「あなたがリオナの隣にいる男で、本当に良かったわ。……でも、少しでもあの子を泣かせたら、今度は本当に三枚に下ろして火あぶりにするからね」
「ははっ。肝に銘じておきます、お姉様」
かつての死神と、光の騎士。
彼らは、互いの失われた人間性と、新たに得た魂の形を認め合い、平和な朝の光の中で、静かにハーブティーの乾杯を交わした。
3. 泥ネズミたちの防衛線、暗躍する影
一方、地上で美しいドラマが展開されている頃。
『暁の自由都市』の地下――太古の地下遺跡へと続く『奈落の口』の浅層部では、全く別の、しかし極めて現実的な戦いの準備が進められていた。
「カエレン! もっと罠のワイヤーを低く張れ! 敵は空から来る可能性が高いが、歩兵の侵入ルートも確実に潰しておけ!」
元・副長のゼッカが、義眼をギラギラと光らせながら、図面を片手に指示を飛ばしていた。
「へいへい、分かってますよゼッカ先生。……でも、シオン様の話じゃ、今度来る敵は光帝だけじゃなく、あの『創造神の天使』とかいうヤバいバケモノなんでしょう?」
影潜りカエレンが、通路の壁に爆薬を仕掛けながらぼやく。
「あんな光るバケモノ相手に、俺たち泥ネズミの物理的な罠が通用するんですかね?」
「物理が通じないなら、概念ごと腐らせればいいのよ!」
奥の部屋から、毒娘ニムが元気よく飛び出してきた。彼女の顔には防毒マスクが装着され、両手には不気味な緑色に発光する巨大なフラスコが抱えられている。
「シオン様が言ってたわ。『天使の光は、存在そのものを消去する概念兵器だ』って。だから私、考えたの!」
ニムは、フラスコの中身を誇らしげに掲げた。
「ただの毒じゃダメ。これはね、ルナ様の『深淵の根絶』の瘴気の残滓と、キメラの胃酸、それから昨日ハクさんが持ってきた謎の獣の血をブレンドした、特製の『魔力崩壊液』よ! 相手が神の概念だろうがなんだろうが、魔力で構成されてるなら、強制的にショートさせて泥に変えてやるんだから!」
「……お前、本当に恐ろしい女だな。味方にいてくれて心底助かるよ」
カエレンがドン引きしながら一歩後ずさる。
「よくやった、ニム」
ゼッカは、フラスコを受け取り、薄く笑った。
「光帝の二つの太陽が落ちてくるまで、あと数日、いや数時間かもしれない。……ジーグ将軍たちの表の軍隊は、正面からの防衛で手一杯になるだろう。我々泥ネズミは、この地下迷宮を要塞化し、敵の奇襲部隊を地の底へ引きずり込む」
ゼッカは、壁に掛けられたシオンの『神穿鴉』時代の古い仮面の欠片を見つめた。
「シオン様は、俺たちに『自由にしていい』と仰った。……ならば、俺たちの自由な意志で、俺たちの縄張りを荒らす神様どもに、泥の味を教えてやるまでだ」
彼らは、光の当たらない地下の闇の中で、愛する主と自分たちの新しい居場所を守るため、着々と最悪の罠を張り巡らせていた。
4. 姉妹の温もりと、迫り来る黄昏の足音
シオンがカイルとのお茶会を終え、野営地の中央に戻ってくると、遠くからリオナの明るい声が聞こえてきた。
「お姉ちゃーん! ハクー! どこ行ってたの!」
リオナが、大きなお盆を抱えて満面の笑みで走ってくる。その後ろには、まだ胃を押さえてフラフラしているハクの姿があった。
「あ、リオナ。……また何か、恐ろしい料理を錬成したの?」
シオンが警戒して一歩下がる。
「もう、失礼ね! 今度はアリアにしっかり味見してもらったから、絶対に美味しいわよ!」
リオナがお盆の上の布を取ると、そこには、少し不格好だが、こんがりと焼き色のついた手作りのパンと、澄んだ琥珀色のコンソメスープが並んでいた。
「……へえ。見た目はまともね」
「見た目だけじゃなくて味もよ! ほら、お姉ちゃんもハクも、座って座って!」
リオナは、木箱の上に食事を並べ、二人を無理やり座らせた。
カイルも歩み寄り、静かに三人の輪に加わる。
「リオナ様、とても良い香りですね。……僕は食べられませんが、見ているだけで幸せな気持ちになります」
「ふふっ、ありがとうカイル。次はカイルの魔力でも味わえるような、光の料理を考えてみるわ!」
ハクが、恐る恐るパンをちぎって口に運ぶ。
「……ンッ。……まあ、食えなくはねぇな。さっきの毒汁に比べりゃ、百倍マシだ」
ハクの不器用な褒め言葉(?)に、リオナは「やったぁ!」とガッツポーズをした。
シオンも、温かいスープを一口飲んだ。
優しい野菜の甘みが、冷え切っていた胃の腑に染み渡っていく。
それは、高級な王宮の料理でもなく、夜国の血生臭い保存食でもない。ただの、普通の女の子が一生懸命作った、温かい家庭の味だった。
「……美味しいわ、リオナ」
シオンが素直に微笑むと、リオナはパァッと顔を輝かせた。
「えへへ、よかった! お姉ちゃん、いっぱい食べてね。……お姉ちゃん、なんだか少し、顔が優しくなった気がする」
「……そう? 気のせいよ。まだ寝ぼけてるだけ」
シオンは照れ隠しにそっぽを向いたが、その唇には、確かな笑みが刻まれていた。
(……これでいいんだ)
シオンは、パンを齧るハクと、嬉しそうに笑うリオナ、そしてそれを見守るカイルの姿を眺めながら、心の中で静かに頷いた。
仮面がなくても、私が誰であったとしても。
この温かい場所を守るための剣に、私がなれるのなら。
もう、迷うことは何もない。
しかし。
彼らの穏やかな朝食の時間は、突然の異変によって断ち切られた。
「……シオン。空が」
ハクが、パンを口に咥えたまま、スッと目を細めて東の空を見上げた。
「え……?」
リオナも、カイルも、そして野営地にいた全ての兵士たちが、一斉に東の空を振り返った。
昼間であるにもかかわらず、東の空が、不自然なほど赤黒く染まっていた。
そして、地平線の彼方から、圧倒的な熱量と魔力を伴った『二つの巨大な光の球体』が、まるで空を焼き尽くすように、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かって移動し始めていたのだ。
「……来たわね。光帝ソルと、闇御門ルナ」
シオンが、飲みかけのスープを置き、立ち上がった。
彼女の紫の瞳から、穏やかな光が消え、再び氷のような鋭い戦士の光が宿る。
「カエレンの報告よりずっと早いわ。……あいつら、完全に命を削って要塞を動かしているのね」
「チッ。せっかくの食後のデザートもお預けかよ。しょうがねぇ、準備運動の時間だ」
ハクが首を鳴らし、背中の影を大きく広げる。
「カイル、リオナ。防衛戦の準備よ。……ジーグ将軍たちに伝令を!」
「はい、お姉ちゃん!」
「承知しました!」
十五年ぶりの平和な微睡みは、わずか一日の短い夢として終わりを告げた。
狂った王たちの執念と、宇宙の理を司る創造神の足音が、すぐそこまで迫っている。
だが、シオンの心にはもう、焦りも恐怖もなかった。
彼女の右手には紫金の魔剣が、そして彼女の背中には、決して折れることのない強固な絆が、確かに存在しているのだから。
「さあ、始めましょう。私たちの世界を護るための、本当の神殺しを」
シオンの凛とした声が、自由都市の空に響き渡り、四人は新たなる絶望が迫る戦場へと、力強く歩み出した。




