第二章5 『焦土の挑発』
かつて引き裂かれた双子の姉妹。
光に愛され、絶望の淵で「救済」を決意した妹・リオナ。
闇に墜ち、世界のすべてを燃やし尽くすことで「罰」を求める姉・シオン。
交わるはずのない二つの魂が、焦土と化した最前線で再び引かれ合う
1. 灰に沈む開拓村、無慈悲なる行軍
境界線「黄昏時」からわずか数里。昼国の最前線に位置する開拓村『エルム』は、豊かな麦畑と、国境警備の兵士たちを癒やす小さな泉を持つ穏やかな村だった。
しかし、その平穏は、太陽を覆い隠す漆黒の「日蝕」によって唐突に終わりを告げた。
「ヒャハハハハ! 逃げろ逃げろォ! 豚ども、もっといい声で鳴いてみせろ!」
村の防壁を紙屑のように吹き飛ばしたのは、魔獣使いオーガが操る巨大な合成魔獣の群れだった。炎を吐く双頭の猟犬が麦畑を焼き払い、逃げ惑う村人たちの背中に爪を立てる。
「助けて、誰か! 光の騎士様ァッ!」
母親が子供を庇って叫ぶが、その声は不気味な紫色の煙に巻かれ、ゴホゴホと血を吐く咳へと変わった。
「あらあら、もったいない。恐怖で心臓が止まる前に、私の可愛い毒を味わってほしいのに」
屋根の上に座り込み、無邪気に足を揺らしているのは十三歳の毒娘ニムだ。彼女が小瓶から撒き散らす麻痺毒は、村人たちの体の自由を奪い、生きたままキメラの餌食となる恐怖を何倍にも増幅させていた。
「無駄口を叩くな、ニム。神穿鴉様の御命令だ。……一人の生存者も残すな」
無感情な声と共に、村の広場に降り立ったのは副長ゼッカだった。シオンに心を破壊され、完璧な傀儡となった彼は、機械のように正確に、逃げ遅れた村の自警団員たちの首を毒糸で刎ね飛ばしていく。
その足元の影からは、影潜りカエレンが這い出し、隠し通路へ逃げようとする子供たちの足を容赦なく引きずり込んでいった。
村は、ものの数十分で地獄と化した。
だが、真の絶望は、上空からゆっくりと舞い降りてきた。
漆黒の飛竜から降り立ったのは、顔の半分を鉄の仮面で覆った死神――シオンである。
彼女が地面に足をつけた瞬間、燃え盛っていた炎の色が、赤からドス黒い「紫」へと変色した。
「……神穿鴉様。制圧、完了いたしました。村人三百名、すべて処理済みです」
ゼッカが恭しく頭を下げる。
シオンは感情の読めない瞳で、炎に包まれる村を見渡した。
左半身の獣化した腕が、脈を打つように疼いている。影の中では、巨大な精霊獣ハクが、村人たちの最期の瞬間に放った『絶望』と『恐怖』を、掃除機のように吸い上げて満足げに喉を鳴らしていた。
「……足りないわね」
シオンは冷たく吐き捨てた。
「もっと燃やしなさい。光の国の連中が、何世代経ってもこの土地に住めなくなるくらい、細胞の隅々まで『虚無』の雷で分解するのよ」
シオンが右手を天に掲げると、上空を覆っていた『日蝕』の結界から、黒い雨のような雷が降り注いだ。
それは物理的な破壊ではない。家屋も、死体も、血痕すらも、すべてを原子レベルで分解し、灰色の塵へと変えていく「消滅の魔法」だった。
「残すのは、ただ一つだけでいいわ」
シオンは、村の中央にあった小さな花壇に歩み寄った。そこには、かつて母エレインが愛し、シオン自身も愛した花――『月見草』が咲いていた。
シオンはその花に、自らの紫金の魔力を一滴だけ垂らした。
純白だった月見草は、瞬く間にドス黒く変色し、禍々しい瘴気を放つ「呪いの花」へと姿を変えた。
「見なさい、リオナ。これが、お前が守れなかったものよ。……早く、私を殺しに来なさい」
シオンの鉄仮面の奥で、誰にも聞こえない悲鳴が、乾いた風に溶けていった。
2. 焦土の伝言、光の軍勢の慟哭
翌朝。
『暁の砦』から急行した昼国の軍勢がエルム村の跡地に到着した時、そこには言葉を失うほどの異常な光景が広がっていた。
「……なんだ、これは。村が……一つ丸ごと、地図から『消去』されているぞ……」
近衛騎士団長ジーグが、戦慄に顔を歪ませて馬から降りた。
黒こげの死体すら一つもない。家屋の残骸もない。
ただ、見渡す限りの大地が、生命力を完全に奪われた灰色の砂漠と化していた。そして、地面には、強烈な魔力の放射によって焼き付けられた「村人たちの最期の影」だけが、不気味な黒い染みとなって無数に残されていたのだ。
「うぅっ……! ひどい、こんなのひどすぎる……!」
治癒術師アリアが、地面に焼き付いた小さな子供の影を見て、両手で顔を覆い泣き崩れた。
大司祭エラーラも十字を切りながら膝をつく。
「神聖魔法が、大地の痛みに弾かれます……。ここはもう、百年は草木が生えない呪われた死地となってしまった……」
「クソッ! クソォォォッ!!」
前衛隊長レオンハルトが、残った左目で血の涙を流しながら、灰色の地面を剣で叩きつけた。
「夜国の悪魔どもめ! 丸腰の民を、子供を、こんな残酷な方法で……! 殿下! 我々に出撃許可を! 今すぐ奴らの本陣に突撃し、一人残らず浄化してやりましょう!!」
兵士たちの怒りは頂点に達していた。彼らの目には、恐怖を通り越した殺意が燃え盛っている。
しかし、その軍勢の中心に立つ第一皇女リオナは、抜刀することなく、ただ静かに灰色の荒野を歩いていた。
彼女の背後には、負傷した体を真っ白な包帯で固定したカイルが、片時も離れずに付き従っている。
「……リオナ様」
カイルが短く声をかけると、リオナは立ち止まった。
彼女の視線の先――灰色の砂漠の中央に、ぽつんと一つだけ、ドス黒く変色した『月見草』が咲いていたのだ。
周囲のすべてを原子レベルで消滅させた悪魔が、なぜこの一輪の花だけを残したのか。
兵士たちには、それが単なる気まぐれか、不気味な呪いの罠にしか見えなかった。
だが、亡命者トーマスからシオンの過去を聞き、母エレインの悲劇を知ったリオナには、その花が発している「悲鳴」が痛いほどに理解できた。
(……お母様の、好きだった花。お姉ちゃんは、これを私に見せるために……)
リオナは、呪いの月見草の前に膝をついた。
触れれば瘴気に当てられるとわかっていながら、彼女は躊躇なくその花を両手で包み込んだ。
「チッ……!」と指先が焼け焦げる音がする。だが、リオナは顔をしかめることなく、その花から流れ込んでくる『シオンの感情』にアクセスした。
『私を憎め』
『私がすべてを壊した』
『私は化け物だ。だから、お前の光で私を殺せ』
花から伝わってくるのは、圧倒的な憎悪と、それ以上に深い、子供のような「孤独」だった。シオンは、これほど残酷な行為を繰り返しながら、心の奥底で泣き叫んでいたのだ。「罰を与えてくれ」と。「これ以上、私に罪を重ねさせないでくれ」と。
「……ごめんね、お姉ちゃん。苦しかったね」
リオナの瞳から零れ落ちた涙が、月見草に触れた。
その瞬間、リオナの黄金の魔力が温かな波となって広がり、黒く変色していた月見草が、一瞬だけ本来の純白の輝きを取り戻し――そして、サラサラと光の粒子となって消えていった。
「殿下! 何をされているのです! そのような呪物に触れては危険です!」
ジーグ将軍が駆け寄るが、リオナは静かに立ち上がり、彼を振り返った。
「ジーグ将軍。兵を退いてください。砦の防衛に専念するのです」
「なっ!? 何を仰るのです! 敵は我が国の民を虐殺したのですよ! 光帝陛下からも『国賊を討て』と勅命が下っているではありませんか!」
「討ちません」
リオナの声は、嵐の前の静けさのように、どこまでも澄み切っていた。
「私たちが憎悪で剣を振るえば、あの子の思う壺です。これ以上の犠牲は出さない。……この戦争は、私が終わらせます」
「終わらせるだと? 一体どうやって!?」
激昂するジーグと兵士たちに背を向け、リオナはカイルを見た。
カイルは何も聞かず、ただ深く頷き、自身の聖剣の柄を叩いた。
「我が剣は、殿下の意志と共に」
リオナの決意は固まっていた。
父の命令である「殺害」でもなく、姉の望みである「心中」でもない。
姉を縛り付ける呪いだけを焼き払う、救済の『第三の道』。
そのために、彼女は軍隊という力(暴力)を捨てる覚悟を決めたのである。
3. 満たされぬ修羅の渇き
同じ頃、境界線の西側、夜国軍の本陣。
分厚い暗雲の下に設営された漆黒の天幕の中で、シオンは激しい動悸と痛みに苛まれていた。
「ハァ……ッ、はぁ……ッ」
玉座に体を預けたシオンは、鉄仮面を外し、獣化した腕を強く押さえ込んでいた。
ドクン、ドクンと、血管が異常な脈動を打っている。
ハクとの『魂魄融合』は、彼女に神をも穿つ強大な力を与えたが、その代償として、彼女の人間としての肉体と精神を急速に侵食し始めていたのだ。
「ギャルルル……」
影の中から、ハクが心配そうに顔を出し、シオンのブーツを舐める。
「……大丈夫よ、ハク。少し、魔力を使いすぎただけ」
天幕の隅から、無表情な死霊人形アニスが音もなく歩み寄り、冷たい濡れタオルでシオンの額の汗を拭った。天幕の入り口では、絶対防衛の鉄鬼ドレッドが、外部の音を完全に遮断している。
ここには、シオンに逆らう者も、彼女を脅かす者もいない。
夜国の頂点に立ち、数万の命を意のままに奪える絶対的な力を手に入れた。
それなのに。
シオンの心の中にある「空洞」は、どれほど光の民を虐殺し、どれほどの血を流しても、一向に満たされる気配がなかった。
(なぜ……なぜ、あの子は来ないの)
シオンは血の滲む唇を噛み締めた。
エルム村を消し飛ばし、これ以上ないほどの残酷な挑発を残した。普通であれば、正義感に燃える光の騎士たちが、血眼になって報復の軍を差し向けてくるはずだ。
そして、妹リオナは、自分という「絶対悪」を憎み、その美しい顔を怒りに歪ませて、全力で殺しに来てくれるはずだった。
『私を軽蔑しなさい。私を憎みなさい。お前が信じた光の剣で、私のこの汚れた心臓を貫いてよ……!』
シオンが欲していたのは、勝利ではない。
完璧な光である妹から下される、絶対的な「罰」だった。
父を殺し、母を救えなかった自分は、幸せになる資格などない。誰からも愛されず、誰からも憎まれて死ぬべき怪物なのだと、彼女は自分自身に強烈な呪いをかけていた。
だからこそ、妹の放つ「光」で焼き尽くされることだけが、彼女にとって唯一の贖罪であり、魂の救済だったのだ。
「……神穿鴉様」
天幕の外から、副長ゼッカの無機質な声が響いた。
「偵察部隊のヴァニールより報告です。光の軍勢は、エルム村の跡地から全軍撤退し、『暁の砦』に籠城する構えを見せているとのこと」
「……撤退?」
シオンの右目が見開かれる。
「嘘よ。あの子が、民の死を見捨てて逃げるはずがない。ジーグ将軍も、光帝ソルも、それを許すはずがないわ」
「事実です。……しかし、奇妙な報告が一つ。第一皇女リオナと、その護衛である聖騎士カイルの二名が、本隊から離脱。現在、単騎にて、黄昏時の『緩衝地帯』へと向かっている模様です」
シオンの呼吸が止まった。
軍隊を連れず、たった二人で、魔獣が跋扈する死地へ向かっている?
「……馬鹿な。何を考えているの、あの子は」
シオンの左腕が、さらに激しく疼き始めた。
怒りか、焦燥か、それとも、自分でも理解しきれていない「期待」か。
「ゼッカ。全軍に待機命令。陣から一歩も動くことを禁ずる」
シオンは立ち上がり、床に落ちていた鉄の仮面を拾い上げた。
「……私が出る」
「護衛はいかがなさいますか。オーガやガルムを連れて――」
「不要よ。……これは、私とあの子の、最後のお遊びだから」
シオンは仮面を顔に押し当てた。
ガシャリ、と冷たい鉄の音が鳴り響き、彼女の「人間」としての表情を再び完全な虚無へと封じ込める。
漆黒のマントを翻し、シオンは単身、天幕を後にした。
影の中で、ハクが獲物を見つけた猛禽のように、嬉々として身をくねらせていた。
4. 月下の密会へ
同じ夜。
黄昏時の荒野は、奇跡的に嵐が止み、雲の切れ間から、この地には珍しい「蒼い月」の光が差し込んでいた。
灰色の荒野を、二頭の馬が静かに進んでいた。
黄金の鎧の上に目立たない灰色の外套を羽織ったリオナと、重傷の体を無理やり動かしているカイルである。
「……カイル。本当に良かったの? ジーグ将軍は、完全に激怒していたわ。私たちが戻れば、あなたは間違いなく軍法会議にかけられる」
リオナは、馬を並べて走るカイルに、心配そうに声をかけた。
「構いませんよ。軍法会議で首が飛ぶより、貴女を一人で行かせて後悔する方が、僕にとってはよほど恐ろしい」
カイルは、火傷で引きつった顔に、いつものような優しい微笑みを浮かべた。
二人が向かっているのは、昼国と夜国の陣営のちょうど中間地点。
かつて両国が和平交渉を行ったとされる、朽ちた古代の円形闘技場の遺跡だった。
「お姉ちゃんは、必ず来るわ。あの子は、私を待っているから」
リオナは、胸元のペンダント――幼いシオンの似顔絵が入ったロケットを固く握りしめた。
軍隊同士がぶつかれば、必ずどちらかが死ぬ。血が血を呼び、憎悪は拡大するだけだ。
だからリオナは、すべてを捨てて、たった一人(カイルという盾だけを連れて)姉に会いに行くことを選んだ。
「皇女」としてではなく、「妹」として姉の絶望と向き合うために。
遺跡の巨大な石柱が見えてきた時、カイルが馬の手綱を引き絞り、鋭い声を出した。
「……来ました。リオナ様、僕の背後から絶対に離れないでください」
蒼い月明かりに照らされた遺跡の中央。
そこには、周囲の月光すらも吸い込むような、底なしの漆黒の影が立っていた。
鉄の仮面。獣の左腕。そして、背後で蠢く巨大な精霊獣ハク。
『神穿鴉』シオンが、たった一人で、腕を組んで彼らを待ち構えていた。
「……随分と舐められたものね、リオナ」
仮面の奥から響く声は、物理的な冷気となって闘技場を凍らせた。
「軍を捨てて、のこのこと首を差し出しに来るとは。お前のその愚かな傲慢さ……吐き気がするわ」
リオナは馬を降り、カイルの制止を振り切って、一歩前へ出た。
外套を脱ぎ捨て、黄金の鎧を月光に晒す。
彼女の手には、剣は握られていなかった。
「お姉ちゃん。……話しに来たの」
リオナの声は震えていなかった。
「私はもう、お姉ちゃんを化け物だなんて呼ばない。お姉ちゃんが殺した人たちの命を、許すこともできない。……でも、私は、あなたのお腹の中にある『泣き声』を、もう無視しない」
シオンの肩が、微かに、本当に微かにピクリと動いた。
「帰ろう、お姉ちゃん。……一緒に、泥だらけになって、罪を償おう。私が、ずっとずっと、あなたの傍にいるから」
静寂。
風の音すら消えた遺跡の中で、姉妹は十五年ぶりの「対話」を始めようとしていた。
だが、愛で包み込もうとするリオナの切実な願いは、あまりにも深く絶望に染まりきった修羅の心には、届く前に焼き切れてしまうほど、残酷な温度差を持っていたのである。
「……くだらない」
シオンの獣の左腕から、紫金の雷がバリバリと音を立てて爆ぜ始めた。
救済の言葉は、対話を拒絶する激しい殺意の咆哮によって、無残に掻き消されようとしていた。
下の遺跡で、ついに二人きり(+カイル)で対峙した姉妹。
しかし、言葉は届かず、シオンの凄まじい殺意がリオナとカイルを襲う




