第一章13『孤独な元服〜修羅の産声』
父・ガレオスを殺し、一族を灰にしてから二年。
十五歳という年齢は、夜国において「元服(成人)」を意味する。それは貴族の子女が社交界へデビューし、あるいは戦士として初陣を飾る、人生で最も華やかな一夜のはずだった。
しかし、シオン・ヴァン・バルザークにとっての十五歳の夜は、残された人間性のすべてを焼却炉へと投げ込む、孤独で静謐な儀式となった。
1. 灰の上の祝祭
雪が降りしきる夜だった。
シオンは、かつてバルザーク公爵邸があった場所――今は黒焦げた瓦礫の山となっている廃墟の中心に立っていた。
吹きすさぶ風が、彼女の鉄の仮面を冷たく撫でる。
「……神穿鴉様。お召し物を」
背後から恭しく声をかけたのは、かつてシオンを殺そうとし、今は忠実な傀儡と成り果てた副長、ゼッカだった。彼の瞳には生気がなく、ただ主の命令を待つ機械のような光だけが宿っている。
ゼッカが差し出したのは、闇御門ルナから下賜された、漆黒の軍礼服だった。それは「神穿鴉」としての正装であり、夜国の最高戦力を示す、死神の衣だ。
「……ありがとう、ゼッカ。下がっていなさい」
「御意」
ゼッカが闇に溶けるように消えると、シオンは足元の瓦礫に視線を落とした。そこは、かつて母エレインの寝室があった場所だ。
シオンは懐から、一着のドレスを取り出した。
それは、純白のシルクに銀の刺繍が施された、美しい夜会服だった。母が生前、シオンの十五歳の誕生日のために、闇御門の目を盗んで少しずつ縫い上げてくれていたものだ。
『シオン。いつかあなたが、鴉としてではなく、一人の美しい女性として踊る日を夢見ているわ』
母の優しい声が、雪の中に幻聴として蘇る。
このドレスには、母の祈りが込められていた。呪われた運命から逃れ、愛する人と結ばれ、幸せになってほしいという、叶わぬ願いが。
2. 過去の焼却
「……ごめんなさい、お母様」
シオンはドレスを雪の上に広げた。
その白さは、血と闇に塗れた今のシオンには、あまりに眩しすぎた。
「私はもう、誰の花嫁にもなれない。誰かに愛される資格も、愛する資格も、あの日、父を殺した剣と共に捨てたの」
シオンの指先に、紫色の炎が灯る。
それは熱を持たない、存在を消滅させる虚無の火だ。
彼女は躊躇なく、その炎を母の形見へと落とした。
ボッ……
音もなく燃え広がる紫の炎。銀の刺繍が焦げ、シルクが灰へと変わっていく。
それは単なる布切れを燃やす行為ではない。シオンの中に残っていた「少女としての未来」、「母への甘え」、そして「人間としての幸福への未練」を、物理的に切除する儀式だった。
煙と共に立ち上る母の面影を、シオンは鉄仮面の奥から、涙一つ流さずに見送った。
右目に宿る黄金の光が、チリチリと痛む。それは妹・リオナへの共鳴か、それとも最後の良心の悲鳴か。
「さようなら、シオン・ヴァン・バルザーク。……今日から私は、ただの『刃』になる」
灰になったドレスの上を、シオンは裸足で踏みしめた。
そして、ゼッカが持ってきた漆黒の軍服へと袖を通す。肌に吸い付くような冷たい生地。背中には、闇御門家の紋章と、鴉の翼が銀糸で刺繍されている。
鉄の仮面を被り直した瞬間、彼女の周囲の大気が凍りついた。
3. 魂の同化
「ハク。……出てらっしゃい」
シオンが呼ぶと、雪原の影が渦を巻き、巨大な精霊獣ハクが姿を現した。
三年の月日を経て、ハクは主の殺意と絶望を糧に、体長五メートルを超える巨獣へと成長していた。その背中からは、シオンの魔力と同じ紫金の雷が常に放電されている。
「お前も、飢えているのね」
ハクが低く唸り、シオンの顔に鼻先を寄せる。その瞳は、かつて「闇の森」で出会った時と同じ、世界への激しい憎悪で濁っていた。
シオンは手袋を外し、自身の左腕をハクの口元へと差し出した。
「いいわ。私の『光』を……命を、半分あげる。その代わり、お前の『獣性』を私に寄越しなさい」
禁術・魂魄融合。
それは、使い魔を使役する契約ではない。互いの魂を混ぜ合わせ、境界をなくす狂気の術式。
シオンの腕が黄金に輝き、ハクの牙が紫に発光する。
ガブッ!!
ハクがシオンの左腕を深々と噛んだ。
鮮血は噴き出さない。代わりに、ドス黒い影が傷口からシオンの体内へと侵入していく。
「ぐ、うぅぅぅぅ……ッ!!」
激痛がシオンの神経を焼き切る。血管の中を、獣の本能、殺戮への渇望、そして人外の魔力が駆け巡る。
シオンの左腕が変質していく。白い肌が黒い獣毛に覆われ、指先が鋭利な鉤爪へと変わり、肩口には呪いの紋様のような紫の刺青が浮かび上がった。
「ハァ……ハァ……ッ」
融合が終わった時、シオンの左目は、ハクと同じ「縦に裂けた獣の瞳」へと変貌していた。
人間と精霊獣のハイブリッド。
もはや彼女は、魔法使いという枠組みを超え、単体で軍隊を壊滅させうる生物兵器となっていた。
ハクが影の中に戻る。今や二人は、思考すらも共有する完全な「個」となったのだ。
4. 闇御門の祝福
「……美しい。実に美しいよ、シオン」
拍手の音と共に、空間が歪んだ。
廃墟の瓦礫の上に、夜国の王、闇御門ルナが立っていた。彼は空中に浮遊しながら、変貌を遂げたシオンを、最高傑作の芸術品を見るような目で見下ろしている。
「おめでとう、神穿鴉。これでお前は、人の脆さを捨て、神をも殺せる器となった」
「……陛下。これがお望みの『完成形』ですか」
シオンの声は、以前よりも低く、重低音のノイズが混じっていた。獣の喉が混ざった証拠だ。
「ああ。光の国の連中は『絆』だの『愛』だのを力に変えるという。だが、我ら夜国の理は違う。喪失こそが力。絶望こそが燃料。お前はその身一つで、夜国の真理を体現した」
ルナはシオンの前に降り立ち、その獣化した左腕を愛おしげに撫でた。
「準備は整った。……聞け、シオン。黄昏時の壁が、間もなく消える」
ルナの言葉に、シオンの右肩――黄金の傷跡が激しく脈打った。
「光の国の第一皇女、リオナ・エル・ディアル・ヒノクニ。奴が軍を率いて境界へ向かっている。奴の黄金の雷は、我が国の夜を焼き払う脅威だ」
「リオナ……」
その名前を聞いた瞬間、シオンの脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックする。
『お姉ちゃん、待って!』
泣き叫ぶ妹。離してしまった手。
かつては愛おしかったその記憶が、今のシオンには、焼けつくような嫉妬と殺意に変換される。
(あの子は、光の中にいる。愛され、温かいベッドで眠り、正義を信じて生きている。……許せない。私がこんなに寒い場所にいるのに。私がすべてを失ったのに!)
「殺します」
シオンは即答した。迷いなど微塵もない。
「私の闇で、あの子の光を塗り潰す。……それが、私に残された唯一の『救済』だから」
5. 修羅の夜明け
雪が止んだ。
東の空が白み始めるが、夜国に太陽は昇らない。永遠の薄暗がりが広がるだけだ。
だが、シオンの眼には、地平線の向こうで燃え上がる黄金のオーラが見えていた。
「行くぞ、ハク。ゼッカ、全軍に通達せよ」
シオンが漆黒のマントを翻すと、廃墟の影から数千羽の鴉たちが一斉に飛び立った。
それは冥雷鴉の総力を挙げた、死の行軍の始まりだった。
十五歳の元服。
ドレスを燃やし、獣と混じり、王に魂を売った少女は、ここに完全に死んだ。
そこにいるのは、世界への復讐を誓う、美しくも悲しい修羅――『神穿鴉』シオンだけであった。




