第一章12『称号『神穿鴉(かみうちのからす)』
バルザーク公爵邸が紫金の雷火によって地図から消滅した翌朝。
王都「月闇」の最深部、黒曜石で築かれた謁見の間には、重苦しい沈黙ではなく、不気味なほどの高揚感が漂っていた。
1. 月闇の玉座、狂喜する王
「……ほう。燃やしたか。父を、妾を、そして己の生家を」
玉座に頬杖をつき、愉悦に瞳を細めているのは、夜国の支配者・闇御門ルナである。
その足元には、鉄の仮面を被り、返り血で黒く染まったドレスを纏ったままのシオンが跪いていた。彼女の背後には、主の殺意を吸ってさらに巨大化した精霊獣ハクが、影のように揺らめいている。
「申し開きは致しません。……私の『私情』が、夜国の貴族をこの世から消しました。処罰を」
シオンの声は、硝子を擦り合わせたように冷たく、感情の欠片も感じられない。
だが、ルナは喉を鳴らして笑い出した。
「処罰? くくく、まさか。褒めているのだよ、シオン。ガレオスは古臭い男だった。血統だの、面子だの、つまらぬものに執着し、お前という『傑作』の扱いを誤った。親殺しとは、即ち『過去との決別』だ。お前は昨日、人としての殻を破り、真の魔物へと羽化したのだ」
ルナは玉座から立ち上がり、シオンの前に歩み寄ると、その鉄仮面に触れた。
「シオン。お前のその力、もはや一介の隠密部隊長の枠には収まらぬ。既存の『冥雷鴉』の指揮権を超越し、法すらも無視できる権限を与えよう」
ルナは懐から、一枚の漆黒の羽根を取り出した。それは、夜国の始祖鳥の遺物とされる、王権に匹敵するアーティファクトだ。
「授けよう。称号は**『神穿鴉』**。王以外の何者にも従わず、神であろうと親であろうと、夜国の障害となるものはすべてその雷で穿つ絶対捕食者。……どうだ、気に入ったか?」
シオンは仮面の下で、微かに目を伏せた。
神を穿つ。それはつまり、いつか光の国の象徴――さえも殺せという暗示だ。
だが、今の彼女に拒絶する理由はなかった。帰る家も、愛する母もいない今、彼女に残されたのは、この男に従い、世界を壊すことだけだったからだ。
「……御意。この身が朽ちるまで、陛下の影となりましょう」
2. 地下の嫉妬、毒使いゼッカ
シオンが『神穿鴉』に任じられたニュースは、瞬く間に冥雷鴉の地下組織を駆け巡った。それは、古参の幹部たちにとって、到底受け入れがたい屈辱であった。
「ふざけるな……! たかが十四歳の小娘が、我らの長だと?」
地下四層、薄暗い作戦会議室で机を叩き割ったのは、冥雷鴉の副長を務める男、ゼッカだった。
彼は全身に無数の毒蟲を飼う「蟲使い」であり、三十年のキャリアを持つ暗殺のエキスパートだ。本来であれば、次期総隊長の座は彼のものであるはずだった。
「ゼッカ様、落ち着いてください。しかし、あのアマの魔力は異常です。公爵邸を一撃で消し飛ばしたとか……」
「はんッ! 所詮は『光混じり』の雑種だ! 闇御門様は、あやつの派手な破壊力に目が眩んでいるだけだ。隠密の本質は『静寂』と『確実な死』……。あの小娘に、真の闇の作法を教えてやる必要があるな」
ゼッカの義眼が、不気味な緑色の光を放つ。
彼はシオンの「光」に対する生理的な嫌悪と、自身の地位を脅かされた嫉妬に狂っていた。
「今夜だ。奴が『神穿鴉』の就任式を終え、気が緩んだ瞬間を狙う。私の可愛い『屍食い甲虫』たちの餌にしてやる」
3. 粛清の嵐、ハクの晩餐
その夜。シオンに与えられた王都地下の私室は、静まり返っていた。
就任の儀礼を終えたシオンは、鉄の仮面を外し、鏡の前に座っていた。鏡に映る自分の顔は、母エレインに似ているようで、どこか決定的に違う。瞳から光が消え、そこには虚無だけが広がっている。
「……お母様。私は、正しかったのでしょうか」
問いかけても、答えはない。あるのは、影の中で蠢くハクの、飢えたような気配だけだ。
カサカサカサ……
微かな異音。通気口、扉の隙間、そして床板の継ぎ目から、無数の黒い甲虫が湧き出してきた。ゼッカの操る猛毒のスカラベだ。一匹でも触れれば、象すら即死させる毒を持つ。
「……愚かね」
シオンは動かなかった。仮面を被り直すことすらせず、ただ指先を軽く鳴らした。
バチッ。
部屋全体に、紫色の薄い膜――結界が展開される。
甲虫たちが結界に触れた瞬間、ジュッという音と共に蒸発した。毒煙すら上がらない。完全なる分子分解。
「出てきなさい、ゼッカ。その腐った虫の臭い、隠しきれていないわよ」
影が揺らぎ、部屋の隅からゼッカと、彼に従う反乱分子の鴉たち十数名が姿を現した。
「チッ……気づいていたか、雑種が。だが、囲まれて逃げ場はないぞ!」
ゼッカが両手を広げると、彼の体内から巨大なムカデのような魔獣が出現し、シオンに襲いかかった。
「死ね! お前のような光り物は、夜国には不要なんだよぉぉ!!」
シオンは立ち上がらなかった。
ただ、足元の影を指差しただけだ。
「ハク。……掃除して」
ガァァァァァン!!
シオンの影が、部屋の物理的な容積を無視して爆発的に膨れ上がった。
闇の中から現れたのは、もはや狛犬とは呼べない、三つの目と六本の脚を持つ異形の獣――成長したハクの姿だった。
ハクは、迫りくる毒蟲の群れを「咆哮」一つで吹き飛ばし、ゼッカの部下たちを次々と前足で踏み潰した。
「ぎゃあああ! な、なんだこの化け物は!?」
「魔力だ! 俺たちの魔力が吸われている!?」
ハクはただ物理的に攻撃しているのではない。シオンの「日蝕」の特性を受け継ぎ、敵の魔力を捕食し、自身の糧にしているのだ。
4. 黄金の烙印、組織の掌握
わずか数十秒。
部屋に残ったのは、腰を抜かして震えるゼッカただ一人だった。
シオンはゆっくりと椅子から立ち上がり、裸足のままゼッカの目の前まで歩み寄る。
「ひ、ひぃ……待て、シオン! いや、神穿鴉様! これはテストだ! 貴女の実力を試すための……!」
「見苦しいわ、ゼッカ。貴方が私を憎んでいたことは知っていた。……貴方のその『古き良き闇』への執着、嫌いではないわ」
シオンはゼッカの顎を掴み、無理やり上を向かせた。
「けれど、時代は変わったの。これからは、私の『紫金』が夜の理になる。従えないなら、消えなさい」
シオンの手のひらに、黄金と紫が混ざり合った球体が生まれる。
それは、かつて母を癒やした温かな光ではない。触れるものを内側から侵食し、強制的に従わせる「呪いの光」だ。
「や、やめろぉぉぉ!!」
シオンは無表情で、その光をゼッカの義眼にねじ込んだ。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」
断末魔の叫びが部屋に響くが、誰も助けには来ない。
数秒後。ゼッカの体から毒気が抜け、その瞳はシオンと同じ、虚ろな紫色に染まっていた。精神を完全に破壊され、シオンの忠実な傀儡へと書き換えられたのだ。
「……座りなさい、ハク。食事は終わりよ」
シオンが命じると、異形の獣は大人しく子犬のようなサイズに戻り、彼女の影へと潜り込んだ。
傀儡となったゼッカが、糸の切れた人形のように跪く。
「おはよう、ゼッカ副長。これからは、私の手足として働きなさい。……まずは、この汚れた部屋の掃除からね」
5. 神殺しの孤独
翌日。冥雷鴉の組織図は完全に書き換えられた。
古参の幹部たちは、ある者は謎の失踪を遂げ、ある者はゼッカのように「心を入れ替えて」シオンに絶対の忠誠を誓った。
誰もが悟ったのだ。十四歳の少女・シオンは、もはや人間ではない。触れれば死ぬ、歩く災害なのだと。
王宮のテラス。
シオンは一人、鉄の仮面越しに、遠く離れた国境の空を見つめていた。
『神穿鴉』。
その称号は、彼女に無限の権力を与えたが、同時に彼女を誰よりも孤独な場所へと追いやった。
「……リオナ」
風に乗って、微かな気配を感じる。
境界の向こう側。太陽の下で、誰かに愛され、誰かを守りながら輝いているであろう、かつての妹の気配。
その輝きを感じるたびに、シオンの胸の奥――父を殺した夜に空いた風穴が、キリキリと痛む。
「あなたは、いいわね。光の中で、正義の味方ができて」
嫉妬か、羨望か、それとも殺意か。
区別のつかないドロドロとした感情が、シオンの紫金の魔力を活性化させる。
彼女は自分の右肩、かつて妹を庇って傷ついた場所を強く握りしめた。
「待っていて。私が、その光を全部消してあげる。そうすれば、私たちはまた……真っ暗な闇の中で、二人きりになれるから」
歪んだ愛。
シオンは、世界を壊すことでしか、妹との再会を果たせないと信じ込んでいた。
母を失い、父を殺し、組織を恐怖で支配した十四歳の冬。
修羅は完成し、あとは運命の十五歳――元服と進軍の時を待つばかりとなった。




