第一章10『惨劇、最愛の母の死』
七歳での追放からシオンが歩んだのは、愛を奪われるたびに闇が深まり、その闇を燃料にして最強の「凶器」へと成り果てる、凄惨な修羅の道であった。
1. 泥濘の帰還と、不吉な静寂
十三歳の冬。夜国の北端、凍土に覆われた国境地帯での長期潜入任務を終え、シオンは三ヶ月ぶりに「月闇」の外れにあるバルザーク公爵領へと帰還した。
連日の雪行軍で、鉄の仮面の下の素顔は凍傷で焼けつき、精神は摩耗しきっていた。それでも、彼女の足取りが止まらなかったのは、懐に忍ばせた「母への土産」があったからだ。それは任務地で見つけた、母が好きな月見草の乾燥花だった。
「……ハク。屋敷の気配がおかしい」
公爵邸の巨大な鉄門を前にして、シオンの影に潜む精霊獣ハクが、喉の奥で低く、威嚇するような唸り声を上げた。
いつもなら門番が立ち、松明が焚かれているはずの正門は開け放たれ、邸内からは人の気配が完全に消えている。ただ、鼻を突くのは、雨の湿気と混ざり合った、鉄錆のような血の臭い。
シオンは影渡りの術で正門をすり抜け、庭園へと踏み込んだ。
そこで彼女が見たのは、無造作に転がる数名の古参使用人たちの遺体だった。その中には、幼い頃にシオンにスープを運んでくれた老女、マーサの姿もあった。彼女の手には、シオンの母・エレインの部屋へと続く鍵が握りしめられたままだった。
「マーサ……っ!」
シオンが駆け寄ると、マーサは虫の息で、シオンの袖を掴んだ。
「お、お嬢様……逃げ……て……。あの女が……メリサンド様が……旦那様を唆して……奥様を……『裏切り者』として……」
「お母様がどうしたの!? 答えて!」
「……魂縛の……儀式を……」
マーサの手が力なく落ちた。シオンの頭の中で、何かが弾ける音がした。
魂縛の儀式。それは夜国においても禁忌とされる、最も残酷な処刑法。対象を殺害した後、その魂を肉体に縫い付け、永遠に死の苦痛と腐敗の感覚を味わわせる呪いだ。
2. 偽りの証拠と、嘲笑う妾
シオンは風のように本館を駆け抜けた。廊下には、父ガレオスが新しく雇い入れた私兵たちが立っていたが、シオンは彼らを認識すらしなかった。彼女の放つ紫電が触れた瞬間、兵士たちは悲鳴を上げる間もなく炭化し、崩れ落ちた。
母の寝室の前。扉には、禍々しい封印の札が無数に貼られている。
その前に立っていたのは、父の寵愛を受ける妾、メリサンドだった。派手な着物を着崩し、扇子で口元を隠しながら、帰還したシオンを見て目を細める。
「あら、『不浄の鴉』が帰ってきたわね。残念だったわねぇ、お母上なら、つい先ほど、素晴らしい芸術作品になられたわよ」
「退け」
シオンの声は、地獄の底から響くように低く、冷たかった。
「生意気な口を。お前の母親はね、闇御門様の情報を光の国へ横流ししていた『大罪人』だったのよ。ほら、これが証拠」
メリサンドが放り投げたのは、偽造された手紙の束だった。そこには、母エレインの筆跡を真似て、夜国の軍事機密を記した文面が並んでいた。
「ガレオス様は激怒されたわ。『私の愛を裏切り、家を汚した売女には、死以上の罰が必要だ』ってね。ふふ、あの時のエレインの顔、見せたかったわぁ。鎖で繋がれて、泣き叫んで……」
「――消えろ」
シオンの姿が掻き消えた。
次の瞬間、メリサンドの結い上げた髪が衝撃波でほどけ、背後の重厚な扉が内側から爆発した。シオンはメリサンドを無視し、煙の向こう側――母の寝室へと踏み込んだ。
3. 永遠の地獄、凍りついた涙
部屋の中央。天蓋付きのベッドには、シオンがこの世で唯一愛した女性が横たわっていた。
だが、それはもはや「母」と呼べる状態ではなかった。
「あ……ぅ……あ、ぁ……」
エレインの体は、無数の黒い杭によってベッドに縫い止められていた。皮膚は青白く変色し、血管には呪いの紋様が浮き出ている。禁術を行ったのは、闇御門お抱えの呪術師ネクロンだろう。部屋の隅には、儀式に使われた血塗れの祭壇が残されていた。
母は死んでいた。心臓は止まっている。だが、呪いによって魂だけが肉体に留められ、神経が剥き出しになったような激痛が、死体に走り続けているのだ。
虚ろに開かれた瞳からは、血の涙が絶え間なく流れ落ち、止まった喉からは、魂の軋む音が漏れ続けている。
「お母様……? 私よ、シオンよ……」
シオンが震える手で母の頬に触れると、母の魂が微かに反応した。
『……シオン……逃げ……て……あな……ただけ……は……』
直接脳内に響く、母の断末魔の思念。それは、自分の苦しみよりも、娘の身を案じる愛そのものだった。
「嘘だ……嘘だと言ってよ……」
シオンは崩れ落ちた。懐から、土産の月見草の花がこぼれ落ち、母の流した血溜まりに濡れて黒く染まる。
自分が「鴉」として汚れ仕事を請け負ってきたのは、この母を守るためだった。父に疎まれ、世界に拒絶されても、この温もりがあるなら耐えられると思っていた。
それなのに。
父は、この母を信じず、あのような下劣な女の嘘を信じ、あろうことか、死してなお永遠に苦しむ呪いをかけたのだ。
4. 黄金の反転、修羅の覚醒
「……許さない」
シオンの影から、ハクが這い出してきた。ハクの巨体もまた、怒りで震え、毛並みが逆立っている。
シオンの内側にあった「黄金の光」――かつて妹を想い、母を愛した温かな輝きが、ドス黒い憎悪と混ざり合い、化学反応を起こした。
バチッ、バチチッ……ドォォォォン!!
屋敷の窓ガラスが一斉に砕け散る。
シオンから溢れ出したのは、黄金でも紫でもない、すべてを呑み込む**「日蝕の色」**の雷だった。
それは、光の属性である「浄化」と、闇の属性である「破壊」が悪魔合体した、存在そのものを消滅させる虚無の力。
「ガレオス……メリサンド……夜国のすべて……」
シオンは立ち上がった。その瞳からハイライトが消え、涙さえも蒸発していた。
彼女は母の遺体に手をかざし、優しく囁いた。
「お母様。今、楽にしてあげる。……そして、すぐに奴らを連れて行くから」
シオンが放った極大の雷が、母の肉体を、呪いごと原子レベルで分解し、光の粒子へと還した。
部屋には、もう母はいない。
残ったのは、人の心を捨て、ただ復讐のためだけに呼吸する「怪物」だけだった。
シオンは魔剣『雷月』を引き抜いた。
「さあ、始めましょう。私の、最後の家族の晩餐会を」




