第八話
都市第六層・旧式郵便集配センター跡地。
法制度の変化により、紙媒体の郵送はほぼ絶滅し、現在は完全電子データによる通知システムへ移行していた。
しかし――
その廃墟で、今もなお手書きの手紙が届き続けているという報告が入った。
しかも、その宛先はすべて、すでに死亡あるいは消失認定された市民たち。
封筒には差出人の記載はない。
本文には、ただ一言ずつ違う言葉が刻まれている。
> 「まだ間に合う」
> 「君が忘れても、私は覚えている」
> 「捨てられたものは、もう一度咲ける」
公安局はこれを「サイバー精神汚染の予兆」とみなし、
ジータセクターに調査を依頼した。
作戦室。
ノイズが端末を操作しながら説明する。
「デッドレター、本来届けられるべきだったが、届かなかった手紙の総称だ。本件では、死亡者データベースに照合しても、すべて実在した市民記録と一致している」
「問題は……」
カグヤが指を組みながら言う。
「その市民たちが死亡した経緯に、都市の意図的な関与が疑われるってこと」
「つまり、またか」
ガロウが苦々しく呟く。
「存在しなかったことにされた人間たちの話ってわけだな」
レンジは短くまとめた。
「目的は二つ。誰が手紙を送っているか。そして、何を訴えようとしているのか。それを掴み、必要なら封じる」
ユウがやや躊躇いながら訊く。
「……でも、もし本当に助けを求めてるんだったら?」
レンジは答えた。
「そのときは、俺たちが最後の宛先になってやる。」
夜。
ジータセクターは、廃墟と化した郵便センターに侵入した。
古びたベルトコンベア、錆びたロッカー、
埃を被った中で、無数の白い封筒だけが新しく、無傷だった。
ユウが封筒を拾い、ノイズが電磁干渉を走査する。
「……これ、データ通信じゃない。本当に、手で書かれて、運ばれている」
「誰が? どこから?」
カグヤが低く言う。
その答えは、まだ出なかった。
そのとき、廃墟の奥――朽ちた集配管理室の扉が、かすかに音を立てた。
「……いるな」
レンジが囁く。
全員、即座に構えた。
【接敵警戒モード】
【不明存在検出】
だが、現れたのは――
旧式の、人間型配送アンドロイドだった。
型番:MDS-001。
製造終了から七十年以上経つ配達専門機。
だが、そいつは確かにこちらを認識していた。
そして、震える手で、一通の封筒を差し出してきた。
朽ちた配送アンドロイドの手から、
レンジが無言で一通の封筒を受け取った。
手紙の紙は、まだ微かに温かかった。
ついさっき、誰かがここにいたかのように。
レンジは封を切る。
中には一枚のカード。
> 「まだ、聞こえるか。
> 私たちは消えなかった。
> ただ、名前を呼ばれなくなっただけだ。」
直筆。
電子インクではない。
確かに、手で書かれた筆跡だった。
ガロウが周囲を警戒しつつ低く言った。
「……これは、誰かじゃない。誰もが書いたんだ」
「集合意識?」
ユウが呟く。
「いいえ」
カグヤが即座に否定する。
「これは、都市そのものが押し殺した声が、いまになって滲み出してるのよ」
ノイズが手紙から微弱な電子信号を検出した。
> 【微細ナノ粒子組成:手作業による筆記検知】
> 【拡散信号:局所限界領域のみ送信可能】
> 【内容:言語データのみ。意図的な非電子化処理】
つまり、この手紙は絶対にデジタル記録に乗らないために作られている。
「……誰かが、本当に都市の記憶になりたくなかったってことだね」
ノイズの声には、珍しく――憂いの色があった。
さらに廃墟を進むと、そこには、無数の旧型配送アンドロイドたちが座り込んでいた。
全員、起動している。
だが、破損、腐食、電力切れ寸前。
それでも、手にはそれぞれ一通の封筒を持っている。
彼らはプログラムによって動いているのではなかった。
自律行動でもない。
彼らは、最期の命令だけを守っていた。
──「これを、必ず届けろ」
だが、届ける相手はもういない。
存在しない。
記録されていない。
だから彼らは、
この場所で誰かが来るのを待ち続けていた。
ユウは、廃墟の中央にあった旧郵便区画のマスターノードにアクセスを試みた。
> 【起動確認──MDS-001プロトコル】
> 【最終配達対象者リスト:全件データ削除】
> 【再起動エラー:配達対象不明】
> 【待機命令:継続中】
つまり、彼らはもう、誰に届けるかも知らないまま、配達を続けることだけを残された存在。
ユウは小さく呟いた。
「……ごめん。君たちの手紙、もう、届かないんだ」
その言葉に、アンドロイドたちは何の反応も示さない。
ただ、風が吹き、彼らが抱えていた手紙がひとつ、ふわりと舞い上がった。
その手紙には、こう書かれていた。
> 「もし、まだ誰かがいるなら。
> どうか、私たちが生きたことを忘れないで。」
ジータセクターの五人は、静かに隊内通信を繋ぐ。
無言のまま、合意ができていた。
「持ち帰るか?」
ガロウが言う。
「いや」レンジが首を振る。「ここに残す。俺たちがこの場所に来たってことだけ、都市のどこかに小さな歪みを残してやればいい。それが、ここにいたってことの、証だ」
ユウは、最後にひとつだけ、端末にメモを打ち込んだ。
> 「この区画には、配達人たちがいた」
> 「彼らは誰かに届かなくても、手紙を持ち続けた」
> 「それがどんな意味だったかは――誰も知らなくてもいい」
都市の記録には何も残らない。
公式には、郵便センターの瓦解と廃棄物処理のみ。
だが、ネオトーキョーの風の中にだけ、今もなお、誰にも届かなかった声が微かに揺れていた。
帰還後、レンジは一人、武器整備室にいた。
手には、古びたメンテナンスクロス。
銃の手入れなど、とっくに終わっている。
それでも、何かを拭うように手を動かしていた。
彼はふと思う。
この手で握った封筒の重みは、銃よりも重かった。
都市が殺したのは、
命ではなく、記憶だ。
名前を呼ばれることさえ許されなかった誰かたち。
レンジは、義眼のHUDをそっと落とし、暗闇に目を閉じた。
「忘れない。……それだけで、十分だろう」
彼にとって戦うとは、都市の見捨てたものに背を向けないための行為だった。
ユウは部屋の端末に向かい、何度も何度も未送信フォルダを開いては閉じていた。
誰にも届かない手紙たち。
手元に残された、誰にも読まれない言葉。
> 「君へ。」
> 「もし、まだ、そこにいるなら――」
未完成の文面。
それをどう終わらせたらいいのか、彼には分からなかった。
だからユウは、ただ一行だけを残して保存した。
> 「ここに、いたんだよね」
それでいい。
届かなくても。
誰にも気づかれなくても。
声を発すること、それ自体が生きた証だと知っているから。
カグヤは、ミラーガラスに映る自分を見つめていた。
都市に消された手紙たち。
声なき声。
その孤独を、彼女はよく知っていた。
なぜなら、彼女自身も、誰にも読まれない「手紙」を心に抱えて生きてきたから。
> 「信じてたの。
もし私が消えたとしても、
どこかで誰かが、覚えててくれるって」
鏡の向こうのカグヤは、微笑まなかった。
ただ、静かに瞬きだけをして、それでもなお、立ち続ける者の顔をしていた。
届かない想いもまた、生きた証なのだ。
夜。
ガロウは基地の片隅で、焚き火を囲んでいた。
合法燃料だが、こうして火を見ることは、彼にとって特別な意味を持っていた。
かつて、無名の仲間たちと囲んだ、誰にも記憶されない夜。
「……配達ってのは、受け取る奴がいなくても意味があるんだな」
呟くと、焚き火の中に小さな金属片を投げ込んだ。
それは、任務中に拾った一通の封筒の欠片。何も書かれていなかった、白紙の封筒。
でも、そこに込められた願いは知っている。
「どうか、まだ誰かがいると信じさせてくれ」
深夜。
ノイズは独自の仮想空間に漂っていた。
都市の裏層、記録にも載らない消えた存在たちの声が、
かすかな波紋のように、データの彼方で震えている。
ノイズは、誰にも知られないように、
ひとつ、ログファイルを立ち上げた。
> 【Untitled_000】
> 「届かなくてもいい。
書くことそれ自体が、命だった。」
送信先はない。
宛名もない。
ただ、そう書き残してファイルをそっと閉じた。
ノイズにとって、存在とは最初からそういうものだった。
届かなくても、存在は確かにあった。